ここではないどこかへ -Anywhere But Here-

音楽・本・映画・サッカーなど興味の趣くままに書いていきます。

Denim/竹内まりや

2008-01-17 06:28:30 | 音楽
このアルバムがリリースされたのは昨年の5月だった。
週末にでも聴こうと思っていたら、思いもかけず父が急逝してしまった。
それから聴く機会を完全に逸してしまった。
竹内まりやという佇まいは、肉親を亡くしたばかりの私にとってまぶしすぎる存在だった。
正直なところ、夫唱婦随で穏やかな生活をおくりながら時折リリースされるポジティブな彼女の歌は当時は却って聴くのが辛い心境だった。
聴きたくなったらそのうち封を切るだろう。そのときが来るまで無理をせずにそのまま置いておこうと思った。

音楽というのは精神的にしんどいときに聴けるものではない。そのことを分かってはいたつもりだったが、実感した半年間だった。
音楽にはそんなに大きな力があるわけではない。本当に辛いときに人は音楽によって救われる訳ではない。
音楽によって救われていると思うのは、音楽がカタルシスになっているに過ぎないということなのだと思う。

機会を逸したままずっとラックに置かれていたこのアルバムを、もうそろそろいいかな、
ここを通り過ぎないと今年は新しい音楽を聴けないなあ、と思ってようやく開封した。半年以上遅れての新譜である。

結論から言うと音楽を聴けるような心境になるまで待っていたことは正解だったような気がする。
あのときならば受け止めきれなかったであろう言葉の一つひとつ、楽曲の一つひとつがすっと染み込んでくる。
少しずつ気持ちに整理がついて、前向きな気持ちが持てるようになってきて初めて彼女の歌は腑に落ちるのだと思う。

二度度会えない人への読まれない手紙について歌った「返信」などは今だから聴ける。
竹内まりやの旧友、杉真理のペンになる「Never Cry Butterfly」は杉真理らしいブリティッシュ・テイストあふれるゴスペル。
これには勇気付けられた。
この曲は伊豆田洋之が作曲に加わっており、バックのメンバーも彼女とは旧知のPicadilly Circusが務めている。

このアルバムではこのほかにも、同じく昔から彼女と一緒にやってきたセンチメンタル・シティ・ロマンスとのコラボレーションなど
彼女のこれまでのキャリアを彩るように山下達郎セッション以外のメンバーとも一緒にやっている。
個人的には、今までの彼女の作品は達郎の色が強くて若干オーバープロデュース気味な気がしないでもなかったので、
センチとやったり杉真理に任せたりというのは、彼女の「歌」を生かすという意味ではいいプロダクションだと思う。

そして、「人生の扉」。アルバムが出た前後でラジオのプロモーションに相当数出ていた彼女だが、
そうした番組も全く聴いていない私としてはこの曲を今回初めて聴いた。
まさか今この局面でこの曲に出会うとは思わなかった。
五十代を迎えた彼女がこれまでの来し方を慈しみながら、これからに向ける柔らかなまなざし。
声高に主張するのではなく静かに勇気付けてくれる、彼女らしい人生賛歌だと思う。
そしてこれは演歌ではなくてロックで育った私たちの世代以上の人に向けられた応援歌のようでもある。
ああ、ここでこの曲に出会えたかと、本当に思う。静かな感慨がある。

彼女は歌う。
デニムの色が色褪せていくように、人生は風合いを増しながらその味わいを生んでいくのだと。

思い返せば70年代末、彼女がアイドルの代わりをさせられていた頃からするともう30年近く彼女の歌を聴いていると思うが
このアルバムは、まぎれもなく今の時点での竹内まりやのマスターピースだと思う。

竹内まりやの歌は自らの生を選び取っていく人の背中をほんの少し押してくれる。
歌とは音楽とはそうしたものである。

『I say it's sad to get weak
You say it's hard to get older
And they say that life has no meaning
But I still believe it's worth living』




2008年のFC東京は

2008-01-16 05:50:06 | サッカー
ストーブリーグたけなわである。
今年のJリーグの移籍市場はいつになく大きなうねりがある。
我らがFC東京も今年は大きく変わりそうだ。それは後述するして・・・。

本来であれば、2007年を総括した上で2008年の展望といきたいところだったが
年末年始のドサクサで書けなかったので、去年と今年を乱暴にサマリーしてしまう。

2007年東京は原博実監督をわずか一年で呼び戻した。
原さんは常々東京のサッカーを「東京は娯楽の多い世界有数の都会である。
その都会でわざわざお金を払ってまでサッカーを見に来てもらおうと思ったら
エンターテイメント性に優れたスペクタクルなサッカーを展開しなければならない。
1点を守りきるサッカーではなくて、2点取られたら3点を取って勝つような攻撃的なサッカーでなければならない。」と発言している。
大いに共感できるし、FC東京のサッカーが向かおうとする方向としてそれは間違っていないと思う。
原さんは好きな監督だ。しかし昨年原さんが復帰するというニュースを聞いたときには大きな違和感を抱いた。
原さんはFC東京をJ1において躍進させた中興の祖と言ってもいいだろう。
2003年シーズンには現在までの最高であるリーグ年間4位に導き、2004年にはナビスコカップで初タイトルをもたらした。
その功績は大きい。しかしナビスコカップを制した04年もリーグ戦の方は冴えなかったし、05年は10位に終わっている。
原さんのスタイルが相手チームに研究されて思うように成績が伸びなかったし、戦術的な行き詰まりもあった。
だから06年は原体制から脱却して新しいサッカーを模索しようとしたのではなかったか。

カウンター主体のサッカーからポゼッションを高めパスを繋いで崩していくサッカー。
それを実現するために招いたのはクラブ史上初の外国人監督ガーロだった。
これまでとは180度違うサッカーを初めての外国人監督でやろうというのだから
これは果敢な挑戦だったし、大きな期待を抱かせる挑戦でもあった。
しかし、こうしたサッカースタイルの大きな転換はそう簡単に実を結ぶものではない。
ましてや指導者はコミュニケーションに難のある外国人である。
それなのにフロントは拙速だった。結果が出ないと見るや早々にガーロ監督を更迭。
原監督のときのヘッドコーチだった倉又氏が後を引き継いで緊急事態を何とか乗り切ったのだった。

2007年は前の年にできなかったことをクラブとして再構築するべきであったと私は思う。
しかし、あろうことかフロントは原さんを呼び戻してしまった。この時点で私は相当に厳しいシーズンが始まると覚悟せざるを得なかった。
原スタイルからの脱却が06年だったはずである。それをわずか一年でいとも簡単に覆してしまった。
フロントのこの一貫性のなさ、堪え情のなさが不安だったのだ。
そして、このクラブがどこに行こうとしているのかが全く見えない中での船出となってしまったのが07年シーズンだった。

1年で原さんを戻すというのは危険な賭けでもあったと思う。
原さんはサポーターからも絶大な人気を持ったある種のカリスマである。
それだけにこんなに早く呼び戻して、もし失敗してしまったらもう東京には戻れなくなってしまう。
そのことをフロントがどこまで認識していたのか・・・。
だから原さんにとっては失敗の許されないシーズンになってしまった。そのことを原さんはよく理解していたと思う。
だからこそ、原さんの采配は至極保守的なものになってしまったのだと思う。
今野をストッパーで使ったり、結果の出ないワンチョペを見限らざるを得なかったのはその現われだったと思う。
その結果つまらないシーズンになってしまったのだ。冒険をしなくなった原東京は魅力に乏しかった。
かつてサイド攻撃を完遂するためにマリノスで干されていた石川を使ったり、
非難されながらも根気強く梶山を使い続けたりという、果敢な冒険がなくなったのだ。
負けの許されないサッカーをしなければならなかった原さんが気の毒だった。
興行的に計算のできる監督という目的も含めての原さんの復帰だったとするならば
あまりにも大きなミッションを原博実ひとりに背負わせてしまったと言えなくもない。
2007年は原さんと見果てぬ夢の続きを見ようとして、虚しく空回りし続けたシーズンだった。

そして2008年。城福浩新監督を迎えて再スタートを切る東京。
選手の出入りについては功労者の土肥や鳴り物入りで入団した福西をわずか一年で戦力外とするなど
転出が先行していたが今野の残留を皮切りに堅実な補強が進みつつある。
選手の放出には戦略的な意図を感じるし、去年の大物捕りに比べれば
ブルーノや羽生などウィークポイントと思われるところに、戦力として計算できる選手を着実に埋めてきている感がある。
しかも、監督の戦力的構想にかなった選手の獲得がある程度行われている様子も伺える。
その点で昨年よりも堅実で昨年の失敗を踏まえた補強が進んでいると思う。

「人もボールも動くサッカー」。ちょっと日本サッカー界でブームになっている感もあるスローガンだが、
城福さんの目指すサッカーはダイナミックなムービングサッカーのようである。
まだ具体的な姿は見えていないが、昨年までのサッカーとは大きく変わりそうでその意味では昨年よりも期待感の方が大きい。
新体制の船出はこの週末だそうだが、まずは怪我なくキャンプを乗り切って欲しい。

今年もまた震えるような興奮を求めてスタジアムという緑の海に乗り出していくことだろう。
開幕が待ち遠しい。

1/14のランニング

2008-01-15 12:58:25 | ジョギング
今年一番の冷え込みとなった成人の日。
高校サッカーの決勝をテレビで見ながら時間をかけてストレッチ。
流済大柏が快勝したのを見届けてから外に出る。前日に引き続いてウォーキング。
今日は前日とは違って30分歩いてから1キロのジョグを入れてみる。
左膝の違和感はまだ取れないが、どうしても左をかばって走るために右の大腿四頭筋が痛む。
それとともに古傷の右の内側靭帯にも違和感を感じる。どうにもうまくいかないものだ。

それでも昨日よりはしっかりと走れたような気がする。
昨日はまず走れるかどうかが不安だったが、今日は感覚を思い出しながら、確かめながら走れたと思う。
タイムこそ昨日よりも30秒ほど遅かったがきちんと走りきったという意味では今日のほうがしっかりと走れた。
問題はこれから2、3日のうちに痛みが出てこないかだと思う。

今日の距離:1キロ
ウォーキング1時間

1/13のランニング

2008-01-14 08:43:25 | ジョギング
1月2日に走り初めをして以降、復帰の時期を探っている。
膝の水は完全に引いたとの診断で、完全な正座はできないが、かなりの体重をかけて膝を曲げられるようにもなった。
2日はまだ満足に走れなかったがそれ以降の回復がどの程度のものかを確認したいという目的もあってともかくいつもの河川敷に出てみた。
ゆっくりとストレッチをした後にウォーキングを開始。
i-Podに音楽をつめて一時間をかけて早足で歩いたが、痛み出すこともなく快調に歩けた。
ようやく1月らしい寒い日が到来したという感じだったが、久しぶりに体を動かしたので気持ちがいい。
しばらくはとにかくきっちり歩くこと。歩いて対幹を整えてそれから走れればいい。

そして1時間歩いたあとで、恐る恐るジョギングをしてみた。
膝の調子は2日よりはるかにいい。500メートルまでは何とかフォームを崩さずに走れた。
500メートルを過ぎてさすがに膝の上のほうに痛みが出てしまい、最後はびっこを引いてしまったが、曲がりなりにも1キロを走りきることができた。
タイムは6分25秒。今のところこれが精一杯である。

10日ぶりに走ってみて目に見えて回復しているのが嬉しいが、このまま本格的に復帰していくかどうかはまだ見極めが必要だ。
しばらくはストレッチとウォーキングで様子を見ながら痛みとも相談していくことになるだろう。

今日の距離:1キロ
ウォーキング1時間

中屋久兵衛

2008-01-13 11:18:33 | 
今年の正月は喪中だったのでおせち料理も大したことはしなかったし酒もあれこれ準備はしなかった。
知人にいただいた「越乃寒梅」をちびちびとやっていたのだが、三が日を過ぎた頃それもなくなったので去年と同様地酒を買い求めに出かけた。
「国府鶴」で知られる府中は野口酒造の純米酒「中屋久兵衛」。
純米酒なので余計な味付けはないのだが、それだけではなく素朴で素直。どちらかというと朴訥としていて好感が持てる。
地元にこういうお酒をこつこつと作ってくれる酒屋があるのは実に嬉しい。

ローマ人の物語Ⅴ-ユリウス・カエサル ルビコン以後-/塩野七生

2008-01-11 05:51:00 | 
ガリアを制圧しローマの覇権下に収めたカエサルは、いよいよ共和制を打ち破るべくルビコン川を渡る。
旧体制の権化である元老院派のトップはポンペイウスその人。
カエサルはギリシアの地においてポンペイウスと相まみえ、これに勝利するとついにローマの最高権力者となる。
ポンペイウスは敗走したアレクサンドリアでローマ兵に殺され、これを追ってアレクサンドリアに上陸したカエサルはクレオパトラと運命の出会いを果たす。
このあたりの歴史の大きなうねりは興奮なしには読み進められない。

カエサルは新秩序を樹立するべく政治改革に着手する。
事実上元老院が牛耳る寡頭制の共和制はローマに内政の混迷をきたしていた。
カエサルは事実上機能不全を起こしていた共和制の改革を断行するのである。
つまり帝政への移行である。
カエサルは「寛容(クレメンティア)」の精神を旗印に他民族や思想信条の異なる人たちであってもローマに取り込んでいく。
そして複合的な他民族国家の統治はひとりの為政者が行うほうがよいと考えたのだった。
独裁というのは現代においてはネガティブなイメージでしかないが、カエサルの独裁は自らを利する権力を手中に収めることが目的ではない。
後世の独裁者と大きく違うのはその部分ではないかと思う。

終身独裁官として最高権力者になったカエサルにキケロをはじめとする元老院派の知識人たちは不快感を感じるようになる。
歴史的にローマの人たちは王制に強いアレルギーがある。
カエサルが王になろうとしているのではないかという疑念である。その怨念がカエサル暗殺という負のパワーを生み出していく。

カエサルが暗殺されたとき政治改革はほぼその形をなし、ローマは再び強固な国として地中海世界を治めていくはずだった。
そのグランド・デザインはほぼ描けていたはずなのに歴史は皮肉な作用を及ぼしてしまう。
カエサル暗殺を契機にローマは再び混迷していくのだ。
カエサルが後継者に指名していたオクタヴィアヌス(カエサルの妹の孫)はこのときまだ18才の若者に過ぎなかった。

オクタヴィアヌスとカエサルの片腕だったアントニウスはカエサル暗殺の首謀者であるカシウスやマルクス・ブルータスらを打ち破る。
反カエサル派を一掃した若いオクタヴィアヌスはアントニウスと今度は権力の座を巡って鋭く対立していくのだ。

ローマが再び内戦の混乱へと向かう中でカエサルの愛人としてカエサルの子どもまでもうけていたクレオパトラは
アントニウスに巧みに接近して愛人となり、アントニウスとともにオクタヴィアヌスと剣を交えることになる。
オクタヴィアヌスはアグリッパとマエケナスという同年代のブレーンとともにアントニウスを退け、クレオパトラを自死に追い込んだ。
そしてここにようやくカエサルの描いた帝政ローマが始まることになっていく。

イタリアの高校の教科書には「指導者に求められる資質は、次の五つである。知性。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。
カエサルだけが、この全てを持っていた。」
と書かれているそうだが、類まれなるリーダーシップと卓越した先見性をもって今につながるヨーロッパ世界の礎を築いた彼の功績は大きい。
現代においても使われているカレンダーの基本形であるユリウス暦をはじめ、
ガリア征服の過程で生まれたヨーロッパの諸都市などはカエサルなしにはありえなかった。

今から2000年も前にここまで成熟した考え方を持つ為政者がいたということに感嘆する現代の私たちは、
逆に感嘆するほど精神性においてさほどの進歩がないということを物語ってはいないか。
歴史から多くのことを学びながら、しかも文明や科学が比べようもないぐらい発達した現代においてなお
人間心理に懊悩するとは、人間とはかくもままならない存在なのだと。

大滝詠一の美空ひばり

2008-01-04 14:54:30 | Weblog
NHK-FMで大滝さんが美空ひばりの特集をやっている。
大滝さんらしい音楽的視点から選曲された曲は普段なかなか聞けない曲ばかり。
ブギ、ルンバ、ジャズ変幻自在。大滝さんも言うように何を歌わせてもうまい。
去年の年末ぐらいから生誕70年ということで美空ひばりをよくテレビで見る。
大滝さんのこの番組もたまたまつけたラジオでやっていたもので、これも何かの縁。
今年は美空ひばりを聴いてみようかな。

2008年走り初め

2008-01-02 23:59:08 | ジョギング
左膝の半月板を損傷してからやがて3ヶ月になる。
正月の始動を目指して一生懸命治療に専念してきた。具合はだいぶ良くなってきた。
患部の痛みもだいぶ引いてきて膝もだいぶ曲がるようになってきたし、日常の生活にはほぼ支障のないところまで回復してきた。
ただあともう一歩、違和感が取れないし横方向の動きやひねりには痛みを感じることもある。
結局、正月には間に合わなかったが、それでも2日の日には何としても走ってみたかった。
走り初めだけはやっておきたいと思ったので、かなりの不安を抱えながらも陸上部の娘といつもの多摩川の堤防に出た。

結果から言うとまだ走れる状態ではなかった。100メートルも走らないうちから膝の皿の上のほうに痛みが出てきた。
傷めた患部に痛みが出ると思っていたので全く違う部位が痛み出したのは意外だったが、走る前に予想した通り時期尚早だった。
500メートルを痛みをこらえながら4分かけて何とかジョグしたが、わずか数百メートルでも引きずってしかまだ走れない。
それでも10月ごろは歩くのもままならなかったことを考えると、わずかとはいえ走れるようになったことは嬉しい。
娘は「先に行くね」と言ってあっという間に姿が見えなくなってしまった。
健康に走れる娘がうらやましい。

今日はとにかく走り初めをしたかったというのと、今の状態がどのくらいのものなのかを確かめたかった。
実際に走ってみて回復の度合いがどの程度か分かったので、それはそれで有意義だったと思う。
今後の治療をより前向きに頑張っていきたいと思う。

新年にあたり

2008-01-01 23:48:47 | Weblog
年が明けて2008年、平成20年を迎えた。
平成がもう成人を迎える。感慨無量である。
思い起こすこと20年前、某放送局の報道局でアルバイトをしていた私は
昭和が平成になったその日、たまたま泊りで局にいて時代の変わり目をテレビの内側から見ていた。
局から首相官邸へと移動し、元号が「平成」に決まったという原稿を官邸から局へと出稿した。
夕方まで仕事をし泊り明けでクタクタの体をタクシーに沈め、小雨の首都高を帰るとき、
街のあちらこちらに半旗が掲げられているのが見えて「ああ、昭和が終わったんだなあ」、としみじみと思ったのをついこの間のように思い出す。
あれからもう20年が経ったのだ。

去年は父親を看取るという節目の年となった。
なんとなく重苦しい半年間を過ごしてきたが、年も改まったことだし
心に新しい風を入れて、気持ちを入れ替えて新しい年に臨みたい。
一日一日を大事に過ごして行きたいと思う。そして新しいことを何かひとつ始めたいと思う。
何かに向かっていくことが若くいられる秘訣だと思う。気持ちを切らさないこと。
気力さえ充実していれば何でもできるような気がする。
ゆっくりと深呼吸をして新年のスタートを切ろう。