朝のウォーキングですが、最近は 結構 遠くまで 足を延ばしています。
その途中で 下の標識を見付けました。
かつては この道も 「通学路」として使われていたのですが、区画整理によって すぐ向うに
舗装道路が出来てしまい、今は 通行止めになっていて 標識だけが取り残されています。
この道は、所謂 古道で、明治以前からあった!と聞いていますが、この辺一帯は 区画整理
対象地域になっていて、近い将 . . . 本文を読む
JR新検見川駅近くに 「検見川無線送信所跡」が残っています。
「中秋の名月」と云うことで、カメラを持って行ってきました。
一時 取壊しの話があったりして、今は すっかり廃墟になっているのですが、40年位前には
100m近い鉄塔が 何本も残っていました。
又、歴史は古く、昭和五年に松井天山が描いた「検見川町鳥瞰図」にも載っています。
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先日の記事で、「『千葉』の呼び方 そのものは、古く 8世紀代からあった!とされている」
と書きました。
それなら、「一番古い記録は?」と云うことで 調べて見ました。
万葉集に、755年2月 防人として筑紫に派遣された「大田部足人」と云う人の句
(巻20-4387)があるそうです。
従って、万葉仮名でーす!
知波乃奴乃 古乃弖加之波能 保々麻例等 阿夜尓加奈之美 於枳弖他加枳奴
(千葉の . . . 本文を読む
千葉のことを 色々調べているうちに、面白いことを見付けました。
歴史の歯車が 一つ狂っていたら、タイトルの様なことになっていた!かも知れません。
今の千葉県の形になったのは、意外ですが 明治8年になってからの様です。
そして、それまでには 下表の通り、随分 紆余曲折があった様です。
(千葉県文書館 企画展「房総の戸長」のリーフレットより)
又、上表の「千葉県が発足して、県庁が千葉町に置か . . . 本文を読む
「丹後堰用水を歩く その5」で書いた通り、現在は 丹後堰用水は 「神社会館」の前で
終わっています。
次の図は、1677年(延宝5年)に作られた「丹後堰用水の絵図」の一部なのですが、これで
見ると、用水は 千葉寺村の端(隣りの今井村との境)で 海に落ちています。
又 次の図は、1859年(安政6年)に作られた「千葉寺村五田保の絵図」です。
海に流れ込んでいる川は、寒川と五田保の境の「不 . . . 本文を読む
それでは、大網街道の「弁天社」からです。今回で、不取敢 最後となります。
(1)上流方向を見ています。奥の 若干 明るく、小さな窓の様に見える処が 大網街道です。
水路が 埋められているのは、ここ迄です。
(2)この辺からは ずっと 用水路になっています。
個人宅も、お店も、入口は こんな感じで 用水路を跨いで作られています。
(3)左手が 神社会館ですが、ブルーシートが掛か . . . 本文を読む
それでは、大学病院(現医学部)の裏坂からです。
(1)良く覚えていないのですが、歩道左の石壁の中に水路があった様です。
崖の上に 「医学部の講堂」が出来た時に、埋められてしまったと思われます。
(2)「病院坂」です。 子供の頃は、坂の根元 両脇に水路(ドブ川)がありました。
旧市街に出る為には 必ず ここを通ることになるので、良く覚えています。
右手に果物屋があって、背中の . . . 本文を読む
前回、「『用水』は 水道塔が出来た際に 地下に移された!と思われます。」と書いたの
ですが、早速 訂正です。
ちょっと気になったので、市の図書館へ行って 昭和36年の地図を見て来ましたら、
(県の図書館の方が、地図は充実しているのですが、地震以来 ずっと休館なので・・・・・)
水路と思われるものが、水道塔石段の両脇にありました。
又、この地図を見ると 矢作のバス停付近にも 水路が残っていた様に見 . . . 本文を読む
江戸時代(慶長18年, 1613)に、今の「千葉東JCT」北側、都川と支川都川の合流点付近を
遊水地にして(川崎溜池と称した)、「丹後堰」と云うものが作られていたそうです。
その跡地に「丹後堰公園」が作られていると聞いていて、前から気になっていたのですが、
先日 思い切って行ってきました。
千葉市のやることは こんな程度か?と言う典型みたいなもので、入口 及び 中の木道は
なかなかのもの . . . 本文を読む
以前から 千葉県庁のロビーに、旧庁舎の復元模型があると聞いていたのですが、先日 漸く
見に行って来ました。
そうです。私が子供の頃 見た県庁でした。なつかしいですねぇ!!!
昔は 道路の反対側に 千葉市役所がありました。そして 千葉日報社も!
国会議事堂の建築者「矢橋賢吉氏」の作で、明治44年に建設されたとのこと。
説明文には 「煉瓦造り」と書いてありましたが、少なくとも 正面玄関は「石 . . . 本文を読む