一昨日の続きですが、大谷克巳氏は「千葉の牛頭天王」の中で、千葉大構内の塚について
・明治34年(1901年)第一高等学校医学部が千葉医科専門学校に改められた時
・昭和8年(1933年)現医学部本館(旧大学病院)が建設された時
の2度、塚の周囲が 多少埋められた形跡がある。
と述べておられます。
加えて、私は
・現在 現医学部本館と現大学病院をつないている「尾根上の道路」と、その両側の
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今、大谷克巳氏が書かれた「千葉の牛頭天王」と題する冊子を読んでいます。
数々のデータを基に 分析・調査しておられ、
・七天王塚は 千葉氏と直接の関係はない。
・安永二年(1773年)に、小古墳および千葉城土塁跡に石碑を置いて、造営された。
と、むすんでおられます。
だけど これって、「安永二年に、誰かが 言い伝えを基に「牛頭天皇」を復活させた!」
とは言えないでしょうか?
ただ 悪乗りしす . . . 本文を読む
ここのところ 何度が 亥鼻の七天王塚の周りをうろうろしています。
上図は 現在 塚がある位置を示しているのですが、実は 子供の頃 1号塚の すぐ近くに
住んでいまして、当時は 囲いも 由緒の掲示も なにもありませんでしたので、塚の木の
根っこの間を登ったり降りたりして、走り回っていました。
2号塚は 良く覚えているのですが、医学部構内のものは「あったかも知れない!」程度の
記憶しかありませ . . . 本文を読む
大治元年(1126年) 千葉氏は 土気の大椎城を出て、千葉に移って来たことになっています。
千葉に移って来て 最初に作った館は 何処にあったのでしょうねぇ!
現存の大椎城の遺構は、戦国時代に 土気城に居た酒井氏が支城として整備したもの とのこと
ですが、場所的には 亥鼻山と同様 台地の上に作られています。
そうすると、千葉氏は 長年 台地の上に居を構えて来た訳ですから、いくら将来性を考えて
千 . . . 本文を読む
先ず 下の図ですが、亥鼻山のすぐ下を 「結城浦に届く程度に 東西に開削した!」とすると、
意外に その距離は短いことが判ります。
又、地図上の都川は蛇行していますが、これは後世の「水流による侵食作用」に依るものと
考えて良いのでは?思っています。
それから、都川開削の主目的は 「庄園の開発」であった訳ですから、千葉氏は 「湿地帯が
水田化されて行く様子が 一番良く見える場所に 自分の『館』を . . . 本文を読む
本町二丁目交差点の辺りは微高地になっています。
それなのに 何故、すぐ近くの大和橋の処を 都川は流れているのでしょうねぇ?
今、齋藤正一郎氏が書かれた「改稿 都川物語」と題する小冊子を読んでいるのですが、
同氏は その中で 「都川は千葉氏が開削した!」との考察をしておられます。
齋藤正一郎氏は 高校教師をされる傍ら、湧水・谷津田・等々、千葉の自然環境を調査
研究された方で、小冊子の行間行間 . . . 本文を読む