おさむのブログ

日常考えていることや、感じた事を書いています!!

東京思風塾 12月例会

2013年12月07日 18時34分32秒 | 自分のこと
いつも深く学び、それを実践させていただいている感性論哲学の東京思風塾12月例会が本日開催されました。

今年最後ということで最初から参加したかったのですが、年末ということもあり大遅刻・・・・。ということでわずかなレポートですが、非常に濃い内容でもありますので、よろしかったらご覧ください。また、毎度ながらこのレポートは、私の主観が多々入っておりますので、思風先生のおっしゃっているものと異なる面があることをご了承ください。

東京思風塾12月例会

≪人間の深さをつくる≫
問題には意味と価値がある。
いのちの痛みを伴うような問題や苦しみ悩みという体験が、人間的な深さをつくる。
問題から逃げたらいかん。
逃げたらいかん、というが、なぜか。
問題に直面して逃げようとする気持ちが湧くと、その問題の本質が歪んで見えてしまう。問題には必ず意味と価値があるのに、その本質が歪んで見えてしまう。

問題には必ず『答え』がある。だから答えが出るまで、納得がいくまで、逃げたらいかん。どんな悩みでも苦しみでも、答えがあり出口がある。

成功者と言われる人は、答えが出るまで逃げなかった人だ。あきらめなかった人だ。

いま自分が持っている力では解決できないから問題なのだ。その問題は、自分が意図せずして起こるのであって、宇宙の摂理による、自分の成長のための必然として起こらしめるのだ。だから宇宙からすれば、問題を起こす以上、その答えが必ずあるといえる。

いのちを進化させるために問題が起こる。

いのちの進化とは、いのちの限界への挑戦によってなされてきたということを歴史が証明している。

いのちの進化(問題の解決)とは、いのちの潜在能力の顕現。『遺伝子とは、能力が物質化したもの』→⇒これはおもしろい!!!

『問題には必ず答えがある』ということを、自分の『信念』として持ち得るかどうかが、人生を大きく左右する。

あらゆる体験は、『真実を語る力』となる。成功も、失敗も、犯罪も、被害も、あらゆる体験には捨てるモノがない。あらゆる体験には意味と価値がある。体験をした者だけが、真実を語る力を得る。

人間はどこまで深くなれるか
人間一人一人が宇宙の一端を構成しているのであって、われわれそのものが宇宙なのだ。人間は、目覚めたる宇宙として生きることができる。どうしたら宇宙とつながり、目覚めたる存在たりえるか。これが最高の境涯。

宇宙とつながる実感を持って生きる生き方とは。(もともとつながっている)
いのちには、いのちを生かす力が働いている。その力とは、『愛』である。苦しめば苦しむほど、いのちを生かそうとする愛の力が湧いてくる。とことん苦しんだ果てに、宇宙の力である愛の力で答えが引っ張り出される。多くの大人物が『これはおれの力ではない』というようなことを言うのは、このためだ。ほんものは謙虚にならざるを得ない。

≪人間の大きさをつくる≫
器・度量・包容力・統率力。
大きさとは、人間界における対立を乗り越えるという体験を通してしか身につけることができない。
『対立とは何か』
対立とは、自分にないものを相手が持っているから対立するのだ。対立を乗り越えようとしたら、自分にないものを持っている相手から学ぶんだ。
人間関係は『目』できまる。
敵と思えば『敵の目』になり、学びの対象としてみれば『愛の目』となる。
『目は口ほどにものをいう』のではなく、『目は口以上に真実を語る』
人間は長所半分短所半分であるから、敵である相手にも長所が半分は必ずある。
⇒⇒どっちかが先に橋を架けなきゃ、対立は解決しない。自分が気づいたら、自分が相手に橋を架けるんだ。眼差しで、架けるんだ。これは実践してほんとうによくわかった。

いつも目に愛の光りを。

人間的な器。相手の長所が見えないということは、相手に問題があるのではなく、相手の長所を見つけることができない自分の能力が問題なんだ。相手に変化を求めるのではなく、自分の器を成長させなければならないんだ。

度量とは、相手を受け入れるだけではなく、自分のことを相手に誤解されることなく異なる考えを受け入れることができる。

包容力とは、あらゆる意見考えを受け入れるけれども、自分は微塵もぐらつかない。変わらない。変えようとしない。成長するだけ。

統率力。地位があっても人がついてこない。人がついてこないのは人間力がないからだ。人間力とは、外的人間力と内的人間力がある。外的人間力とは社会の中で人間が作り出したもの。政治力・文化力・経済力・教育力・軍事力(危機対応能力)。内的人間力とは、、、、、、、、あああああ、書ききれない~!!時間切れです。

座禅瞑想は意識を成長させる機会としては素晴らしいけれど、それはいのちの痛みを伴う実体験ではなく、観念の世界である。人間がほんものの人間としていのちを輝かせて生きていくためには、人間社会の実態に触れなければならない。この娑婆世界で、人間のほんとの恐ろしさ、ほんとの美しさ、ほんとの醜さを体験してしか、いのちは磨かれていかない。娑婆こそ瞑想、娑婆こそ修行。

感性論哲学は、実践したらすぐにわかる。(笑)


ということで報告させていただきます。

ではまた。

おさむ




コメント
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