東京国立博物館にて、本阿弥光悦の大宇宙を鑑賞。
本阿弥光悦(1558-1637)は戦国時代から江戸時代初期に活躍した、美の総合プロデューサーのような人だ。
本職は、先祖代々の刀剣の鑑定だが、書や陶芸を自ら手掛け、漆芸にも関与していたようである。
過去の芸術作品や文学作品への深い理解と、職人の技術を引き出し、作品として仕上げる能力の高さが真骨頂と言えるだろう。
作品を通して感じるのが、オリジナリティへのこだわりというか、自らの審美眼への自信だ。
千利休の侘び寂びの世界とは違って、じわりと観る者に訴えかけてくるような圧が作品にこもっている感じがする。
面白いのは、二次元の書の世界と、三次元の陶芸や漆芸の両方を行き来していることだ。
頭の中のイメージを作品としてアウトプットするにあたり、手段に囚われない柔軟さがある。
また、日蓮法華宗への信仰心も、形式に囚われない心の源になっていたのかもしれない。
この時代、自らの美意識を貫いて、権力者と対立せず、生き延びることは並大抵のことではなかっただろう。
どういう生き方をした人だったのかにも興味が湧いた。
本阿弥光悦(1558-1637)は戦国時代から江戸時代初期に活躍した、美の総合プロデューサーのような人だ。
本職は、先祖代々の刀剣の鑑定だが、書や陶芸を自ら手掛け、漆芸にも関与していたようである。
過去の芸術作品や文学作品への深い理解と、職人の技術を引き出し、作品として仕上げる能力の高さが真骨頂と言えるだろう。
作品を通して感じるのが、オリジナリティへのこだわりというか、自らの審美眼への自信だ。
千利休の侘び寂びの世界とは違って、じわりと観る者に訴えかけてくるような圧が作品にこもっている感じがする。
面白いのは、二次元の書の世界と、三次元の陶芸や漆芸の両方を行き来していることだ。
頭の中のイメージを作品としてアウトプットするにあたり、手段に囚われない柔軟さがある。
また、日蓮法華宗への信仰心も、形式に囚われない心の源になっていたのかもしれない。
この時代、自らの美意識を貫いて、権力者と対立せず、生き延びることは並大抵のことではなかっただろう。
どういう生き方をした人だったのかにも興味が湧いた。
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