昨日、日本ISは困ったもんだという話を書いたけど、いやほんとに、これって結局内部破壊のために役立ったよなぁとか思わずにはいられない。
様々な点で見解を同じにはしないけど、でもきっこさんのこの観察に私も同意します。ただ、安倍政権からとは思わないですけどね。もっとずっと存在し続けてるから。
■ 自己責任論と損得「感情」
過去20年ぐらい、自己責任論というのが日本社会の中で猛威を振るってるわけだけど、これって、新自由主義者的世界解釈の一端には違いない。
選択の自由こそ自由だ、自分で取った行動に責任を持てというのは基本的には正しいでしょう。しかし、結局のところ程度問題だし、その帰結をあなたはどう思うね、という話を伴う。
例えば、職業選択の自由を謳歌し、企業経営者はコストとしての労働力をどう使おうと勝手だ、騙されたらそれは騙された方が悪い、といったケースが重なったら、あなたが住まいする社会は荒れます。人々は不信感と恐怖の中に住まわないとならないから、これはまわりまわって不効率。
そして、歩く道すがら人が倒れ、自殺者が後を絶たず、孤児が奴隷のように売買されるのも「仕方がない」と言い出したら、その社会をあなたはいいと言えますか、気持ちよく暮らせますかという問題をもたらす。
昔から思っているのだが、社会というのは、損得+感情がうまくあっている時だいたいいい、って感じなんじゃなかろうか。
損得はお金の帳尻。感情の方は、目の前の不正義(孤児とか不運な巡り合わせの自殺者等々)を見過ごしにすることに対する罪悪感、逆に、誰かが助かってよかったよかったと思える幸福感といった感情のこと。
感情というのは規範の強い現れを意味することもあるわけで、これをゼロに勘定しては、社会政策というのは成り立たないだろうと思うわけですよ。
とかとか考えると、自己責任論というのは、ケースバイケースではあるけど、この「感情」勘定をゼロにしろといったも同然だな、と思えるわけ。これをみんなが「乗り切れる」と、それはつまり全員ロボットとか奴隷とかになるという話なわけで、そんなの長期的に出来るものなのだろうかと疑問にも思うし、出来ていいのだろうか?とも思う。
別の側面から考えると、この感情というのがヒューマニティーを支える柱で、19世紀にあった社会主義は原初的にはここに依拠していたといっていい。
ところが、ガッツ出して世界制覇しようとかいうおバカな集団ができ、いろんな経緯の果てにソ連ができたことから、「社会主義」というアイデアが地政学的問題になってしまって、以降、素直な社会問題として、資本主義を修正的に使うにはどうしたらいいんだ問題が忘れられたというのが、過去100年の歴史なんじゃなかろうか。
マルクスというとすぐにソ連だのユダヤだのという話になるけど、そもそも彼が見てたのはイギリスの社会の悍ましいまでの不公平、不潔感といったものでしょう。で、これは別にマルクス一人のものではなくて、様々な作家やら社会思想家がこうなったらやっぱあかんよなと考えたり運動していた。
産業資本家の台頭と社会的正義、不正義の問題としてはこのへんの小説なんかとっても良く出来てて、イギリス社会の中ではクラッシックとして今も読み継がれてると言っていいんじゃなかろうか。あと、この本の表紙が今っぽいのは十数年前にBBCのドラマになってたから。リアルタイムではないけど、私はそれを見て、本に逆戻りした。いいですよ、これ。
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North And South |
Daniela Denby-Ashe,Richard Armitage,Sinead Cusack | |
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■ ともあれ変化する・進歩する
でね、日本がトリッキーな状況にあるのは、妙に「保守」という語に拘った結果という気もしてる。
このへんで書いた通り。
リベラル vs パターナリスティックと社会権
何度も書いてますが、2年前、アメリカのバーニー・サンダースが、ルーズベルトを引き合いに出して、こんなことを言っていた。
社会主義的だというと悪口になってなんでも拒否反応をする人がいるが、私たちが住む社会、わけてもアメリカ以外の先進国の多くが採用している社会政策は1930年だったらみんな社会主義政策だ。最低賃金を言うことも、最低労働時間を訴えることもかつてはみんな社会主義者だと言われていたものだ。しかし私たちは少しづつ達成してきたのだ、云々とやっていた。(サンダースに盛り上がりはない by NHK)
これってホントに正しい見取りだと思います。そしてそれを別の言葉でいうのなら、社会は進歩している、控えめに言っても、社会のルールは変化している、なぜならその方がより多くの人(いわゆる99%)にとって良いから。で、それはつまり社会を保守している、とだって言えそうね。
ところがそこに、別種の「保守」問題が来る。多分、社会主義圏を革新勢力ととらえて、それに抵抗していたということなんでしょう。地政学的意味合いとしての保守と革新とでもいうべきか。
結果的に、日本は、社会の問題に関して、進歩とか革新という語を異常に毛嫌いする人々を大量に作ってしまった。
(米の場合は、民主党などのprogressive(進歩派)に抗する側が、conservative(保守)とか言ってみたりもするけど、でも両方にまたがる岩盤がrepublican(共和)なので、結局、保守か革新か、みたいな対立は本質的でなく、むしろ取って付けた冷戦仕様だったみたいなものだと思う。移民の集合体に保守ってなんだよというのもあるし。)
右派の鈴木邦夫さんが、昔右派の運動をやっている頃、誰も「保守」なんて言ってなかった。お前は保守的な奴だというのはネガティブな意味しかなかったと言っていたことが思い起こされる。
実際問題、1945年までのカルト的体制を脱した60年代、70年代は、すべてが改革と進歩の時代なわけで、そんな時に「保守」とか言っても大して実体的な意味はなかったとも言えるかな。
ということは、バブルあたりにやたらにお金持ちになった日本が、俺たちはこれでいい、これでいいはずだとその状態を「保守」したがってこの語が受け入れられるようになった、などとも言えそう。
結果的に、この「保守」なる態度は、上の方で自分たちを保身したい人たちに貢献したというのがもう、まったく笑えないところでしょう。
これとか呆気にとられるほどスゴイ。
いじめ調査委、資料は「黒塗り60ページ」、遺族を裁判に駆り立てた「都の不誠実対応」
https://www.bengo4.com/gyosei/n_8732/
これを開けるために、一体何ができるんだろうとしみじみ悲しい気持ちになりますね。損得「感情」的にマイナス。
弁護士さんの集団にはこの事態を「不誠実対応」などといわず、「不正義」と呼んでもらいたいですね。UNJUST!!
しかし多分、正義、不正義を言うと、お前は左翼か~とか言われそうで、避けちゃうんだろうな多分。しかし、法曹関係者がそれじゃ、もうとっても大変。
前から書いてるけど、「人権など左翼の戯言」的な理解がマジでまかり通っている日本社会はなんとかせんとならんのです、もしこの社会を存続させたいと願うのなら(この体制、ではなくて)。
■ 参考記事
「対話呼び掛けは無駄骨」とナチ残響
上がいやしいと、下も卑しくなる。
明治維新から、卑しい性根の人が為政者・指導層に居座る。
で、みんな「人でなし」になりました・・・
まあ、人間の居ない「美しい国」ですね。
ではまた。
民主主義や社会主義は親の仇扱いされる。
一人ひとりの私やあなたが人でなしになる必要はないです。総称(一般性)と個別は分けて考えたいです。そうでないと、下は上を変えられない。
ただ、おっしゃりたいお気持ちはわかります。またよろしく。
ローレライさん、
そうそう、武家の御恩と奉公の関係性ってのが実は長い日本の社会において主流だった。
武家同士じゃなくても、現実は、上様だって殿様だって庄屋だって、農民の面倒をみる責任者という自覚はあるから、社会には、リーダーと一般人の関係性があった。(いろいろ稚拙、不足はあるにせよ)
明治朝日本は、勝手に作った神話を基礎にしてるから、現実に日本人を律して来た規範や上下関係との適合性は薄い。
しかしこの神話を長くひっぱってるために、日本の社会とはこのようなものだ、という偽の主張が既に疑似的な事実となり、主従関係を一端とした、リーダーと一般人の双方向的な関係を回復できなくなってる。共同体をケアするのが上の人の上の人たる所以だろ、みたいなパターンが失われてる。
上の人のモデリングが妙に公家的になってしまってる。こんなの日本史の優勢的な秩序じゃないっしょ。
ということではなかろうか。そうだ、京都に行こうじゃなくて、そうだ、鎌倉に行こう!(笑)
>上の人のモデリングが妙に公家的になってしまってる。
公家ですよね・・・・公家は、統治責任って無い感じてないですよね・・・
藤原頼長だったか、統治制度を真っ当にしようとしたら、結局殺された・ようにも思えます。
慣習や空気では、法治や現実の民間の労苦を除く対応はできない。
無責任なのに、文化と知識と権威を蓄えて、庶民を喰らっていたから、結局武家に負けた。
そもそも天皇が「日本の万民の生活・イノチ」に責任があるか、不明な感じ。
なので、いくら悪政をしても「涙流して」御仕舞・・・・
民生を守るのに必死だった公家って聞かないです・・て寡聞だからでしょうかね。
この天皇制と公家ってのが、日本で、「政治」とか「最低限の文化的な生活」の一番の障碍になんとなく思ってます。
仮説なりボヤキなり書き散らしましてすいません。
失礼しました。。
「天皇・公家の統治責任意識の薄さ・無さ」
は、まだ検証しきれてないので、その辺の過ちがあれば、謝ります。
ではまた。
コメントどうも。
平安時代はともかくそれ以降の公家というのはどんな存在なんだろうってのは、朝廷はどこまで有効だったのかと同じ問題で、非常にあいまいに放置されているのではないでしょうか。いや、プライベートには、皆さん平安時代以降の朝廷に実質的な権力機構はない、とは言いますが。
いずれにしても、明治以降にいい加減に作った日本史像とでもいうべきものを根本的に見直す必要がある、と70年代にさえ言われていたのに、今まで適当にしたことが、最近の意味不明な「八紘一宇」的日本の流布に繋がったと思います。