DALAB情報発信用ブログ:OpenCAE+GPGPU+Peridynamics編

DALABで行っている研究活動の中で、OpenCAEやGPGPUや破壊解析の取り組みについてまとめてゆきます。

ものづくり教育について

2005年10月17日 10時16分30秒 | Weblog
いま、至る所でものづくり教室が行われている。「環境」につづく時代のキーワードみたいになっている。柴田はへそ曲がりだから、現状を否定はしないけど、大賛成というわけでもない。
実は、昨日名古屋市科学館へ子供と出かけてきた。自分が小学校のころにも行ったから、もう30年は経っていることになる。半日居たけど、半分しか見て回れず、その規模の大きさに感動していた。昔と変わらない「人工のにおい」とか「歯車の模型」は、非常に懐かしく思え、大事にしているなと感心した。一方、当時、ガラスの部屋の中にあった冷蔵庫ぐらい大きいコンピューターは姿を消している。
あのころは、歯車1つでも感心して、くるくる回していたが、今は人気がなくて、別の部屋では子供たちがロボット作りに励みパソコンを器用に使いこなしている。自分の小学生のころとは大違いであると思ってみたりする。当時は、見物するだけでも感激していたコンピュータが、パソコンになっているんだから、世の中は変わるものだ。
多分、柴田が小学生のころからバスや電車で遠くからも、この科学館へ来ているから、愛知県のものづくりを支えてきた人材の根本は、この科学館にあると言っても過言ではないと思う。幼いころに、先端を見たり知ったりすることは重要だからね。先見の明があったね。これからも充実させていって欲しいと思う。そのためには、何とかランドとか何とかパークに行く前に、まず、科学館に行かないとね。
で、へそ曲がりの柴田が思うに、当時、コンピュータを眺めて感心するしかない子供らだったからこそ、憧れを形にするためにパソコンを生み出したと思う。始めからパソコンが目の前にあれば、それで満足してしまうのだから、もう発展はないのではと思う。器用にロボットを作っているけど、どれもキットばかりで、組み立てれば出来るのは当たり前で、そりゃ子供でも出来るわな。しかし、ものづくりって言うのは、キットを作ることとは、本質的に違うと思う。これまでにない、新しいものを創造して作ることが大切でしょ。だから、キットを与えて、ものづくりしてますというのは、本質的に創造の種を潰し兼ねないと言うことも考慮しないといけない。何も無いところから、作りたいという思いに突き動かされて、材料集めから苦労するのが、ものづくりだと思う。
自分も子供のころ、夏休みの工作で、ホバークラフトを作った。空気を水面に送って、浮きながら海面を走る乗り物だね。板を切って、重ねて形を作ったが、ゴムの膨らんだ部分、スカートと言うが、これをどうするか迷った。木で作っても変な感じだし、それで色々考えて、子供自転車のチューブがゴム製でちょうど良いし、空気を入れれば本当に浮かんでくれる。で、母親に無理を言って、自転車屋でチューブを買ってもらった。これは、すごく良くて、我ながら自信作だと思っている。こう言う経験がものづくりなのであって、与えられたキットでロボット作ったって、あんまりね、と言う感じだよね。
本田がオートバイを作り、ソニーがトランジスタラジオを作り、皆でインターネットを作った、これらは無いから作ったのであって、あったら多分、創造なんてしないと思うな。だから、ロボットキットで楽しんだ子供たちは、将来、それが当たり前なんだから新しいロボットを創造することはしないと思うな。それより、子供のころは憧れを強く持つことが大事だと思う。ロボットキットの小手先の技術よりも、今は何が無くて、何を創造したいのか!それを強く思う、志を育てることが中心に無くてはいけない。どうだろうか?

研究日誌H171016

2005年10月17日 09時37分17秒 | 研究室情報
=ずっと家庭の都合で時間が取られ、結局、夜遅く帰ってきたので、バタンキュー!
 以前のように徹夜が出来る若さではないのだから、良く考えないと
 仕事に必要な時間は、昼間や朝方にきちんと確保してから出ないと、出来ないぞ!
=道具は使い慣れてないと、いくら性能が良くてもダメで、スキルが必要だね。
 と言うことで、自宅の研究環境も、少しづつ良くなって来た。
>科研費の書類を1つは必ず作ろうと思っている。しかし、やる気はない!
 一応、義理は通したよと言う意味しかない申請書類なんて、無意味だよね。
>明日からの出張旅行のための、資料を確認しないといけない。
 まあ、何とかなるとは思うのだけれども。長旅は不安だよーーー!

本当は全然違うのに!

2005年10月17日 09時30分16秒 | Weblog
一応、教員という職業だが、常日頃行う活動において、それは本当は全然違うのに、混同していて、まずいんじゃないのと思うことが、しばしばあるので、それをまとめておく。
「教育と研究」
自分の職業の種類を説明するとき、教育研究職と言うことがある。また、組織の使命にしても、教育および研究とあるが、これらは全く異なる方向性を持つ活動であって、一人の人間がどちらもこなすことは、本質的に無理だと思う。まあ、どちらも適当に中途半端に行うのなら良いが、どちらも一人前にやろうとするのは諦めたほうが良い。
まず、教育のプロは教師であって、教育方法の研鑽はするが、それはあくまで教育の対象である生徒らの成長を願ってのことであり、結果的に本人のスキルが上がるのは副産物だと思う。それに対して研究者のプロは、あくまで自分自身の興味を実現することのみを考えており、結果的にスタッフのスキルが上がるのは副産物に過ぎない。つまり、主体と対象を考えると、教育は対象を中心とした活動で、研究は主体を中心とした活動だから、これらの特性は全く異なり、これら両方を一人前に出来る人間などいないと思う。このごろ、高等教育機関で、これら両方の使命を適当に混同していたのが、区別する方向にある。高専はどちらかと言うと教育機関なので、研究は2次的な目標なのだが、そこが矛盾してしまっている。
「研究と開発」
一応、研究者を目指してきた柴田だが、最近の活動はもっぱら開発に集中している。これまで、この2つを区別せずに行ってきたが、これらもはっきりと異なる活動だと分かってきた。まあ、関連はあって連続しているものだが、フェーズはや意識は完全に異なっている。ここのところを意識して区別していないと、自分の活動が冷静に判断できなくなる。
まず、研究と言うのは狭い意味では真理の探究であって、対象についての知見を増やすことを目的としており、対象自体に手を加えてはいけない、基本は観察なのである。一方、開発と言うのは未知の創造であって、これまでにない対象を作り出すことを目的としており、対象自体を変えてゆくことが本質で、基本は創造なのである。柴田の興味はもっぱら開発にあって、世の中を変える研究のためには、これまでにない新しいものを創造することが不可欠であって、そのための調査や設計などは必要だと思うし、創造したシステムが社会的にどのような効果があるかを評価することまでは興味の範囲である。しかし、他人が作ったものを調査分析するだけ、気まぐれな人間の指向をアンケートするだけ、なんて全く興味がないし、意味もないと思う。
しかし現実の場合、これらが厳密に区別されるかと言うと、お互いが連携する部分もあるとは思う。しかし、それを実現するためには、両方をこなす高度な能力が必要であって、余程の人物でないと難しいと思う。これを実現できる人物が、俗に言う「スゴイ人」なんだろうな。