空(くう)という言葉をはじめて聞いたのは、たしか高校の倫理社会の授業だったと思う。仏教の説明の中で「色即是空、空即是色」というのが出てきて、興味をひかれたものの、どういう意味だかさっぱりわからなかった。仏教の説明も、「欲求があるから悩み=煩悩が生じる。欲求を抑えれば悩みもなくなる」というような説明で、悟りを開くとはというのはいわゆる世捨人になることかという印象を持った。世の中にないがしろにされ、後ろ向きに閉じこもるようなイメージである。
昨日、足助千年ゼミで、一つのグループは「自由と自在」というテーマで語り合った。「自由」と「自在」は違う。都市でお金さえあればなんでもできる、というのが「自由」。いなかで自然と人の結びつきの中で楽しく暮らすのは、不自由ではあるが、「自在」の感覚がある、というようなことが話し合われていた。
それを聞きながら私は、内山節氏の『共同体の基礎理論』(農文協2010年)にでてくる自然(ジネン)の話を思い出した。自然(しぜん)という言葉は明治になってnatureの訳語として登場したもので、もともとジネン、すなわち、自ずから然るべきことになる、という意味から来ているという。もともとは、natureだけでなく人間の営みも含まれていただろう。そもそも日本にはnatureを人間社会から切り離して独立のものととらえるような認識はなかったものと思う。
そうこうしていたら、忽然と、空(くう)とはそういうことか、と合点した。自分が自分がと、自分に執着していたり、自分の好きなものやことに執着していたりすると、自分の思い通りになるようにしようとして、ものごとを無理に動かそうとすることになる。それで一時はうまくいくように見えるかもしれないが、そのうちほころびが出てうまくいかなくなる。ものごとは自然(ジネン)に、すなわち自ずから然るべきように進んでいくのがもっともうまくいく。そのためには、自分や自分が好きなものへの執着をとりさらなければならない。空とはその境地のことなのだろう。
それは、世を捨てる姿ではなく、逆に、世の中に参画し貢献しそのことによって「自在」に生きる、つまり自分の思い通りに生きるということだと思う。自分の思いそのものが自然(ジネン)ならば、そうなるだろう。
このような考え方は、一方で、世の中の流れに迎合することを勧めてしまうことになるかもしれない。誰かの執着のために自分が動かされることになるかもしれない。その力が巨大であれば、それがジネンだと誤解してしまう危険性はある。それを防ぐためには、自然(しぜん)と人間社会が一体になったものとして自然(ジネン)をとらえ、人間の世間だけでなく、自然(しぜん)の中で、その声を聞きながら暮らすということが不可欠だろう。例えば自然農というのはまさにそういう暮らし方である。本当はジネン農と呼ぶべきだろう。
足助千年ゼミはまさに自然(ジネン)に対話が続いていく。一応テーマを決めて話し始めるが、すぐに脱線する。それを誰もとがめないし、誰かがどこかに話を導こうとすることはない。そもそもどんな結果も結論も要求されないのが唯一のルールである。
しかし、最後の振り返りの時間に、それぞれのグループで話し合われたことを発表してもらうのを聞いていると、何らかの「結論」に達していることがわかる。最近はそのとおりいっぺんでない深さに驚くことばかりである。わずか1時間か 1時間半の対話で、そんなところまで行くことができるのか。無理にもっていこうとしたら決して到達できないだろう。自然(ジネン)で自在な対話だけが到達できる境地である。
好きなことだけやって食っていけたらどんなにいいだろう、と思う人は多いだろう。私もかつてそうだった。かつて、というのは、今はほぼその境地に達していると思うからである。
毎月1回の足助千年ゼミはスケジュール的にはきついものがあるが、私としてはまったく負担感はない。自然と会場に体が向かうような感覚がある。仕事の面でもプライベートでも(もはやあまり区別がないが)、ほぼ好きなことだけやっている。
それは自分への執着を捨てる空(くう)の境地にかなり近づいたからだと思う。空とはすなわち自然(ジネン)に自在に、つまり思い通りに生きるということだ。無理に動く必要はない。当面自分に求められていることを一所懸命にやって、時機がくるのを楽しみに待っていればよい。
それは欲求を抑えることではなく、逆に、自然(ジネン)のままに欲求が実現できてしまうということである。自分を捨てるからこそ「自分」の思いが実現できる。この逆説がすなわち、色即是空・空即是色ということのようである。
昨日、足助千年ゼミで、一つのグループは「自由と自在」というテーマで語り合った。「自由」と「自在」は違う。都市でお金さえあればなんでもできる、というのが「自由」。いなかで自然と人の結びつきの中で楽しく暮らすのは、不自由ではあるが、「自在」の感覚がある、というようなことが話し合われていた。
それを聞きながら私は、内山節氏の『共同体の基礎理論』(農文協2010年)にでてくる自然(ジネン)の話を思い出した。自然(しぜん)という言葉は明治になってnatureの訳語として登場したもので、もともとジネン、すなわち、自ずから然るべきことになる、という意味から来ているという。もともとは、natureだけでなく人間の営みも含まれていただろう。そもそも日本にはnatureを人間社会から切り離して独立のものととらえるような認識はなかったものと思う。
そうこうしていたら、忽然と、空(くう)とはそういうことか、と合点した。自分が自分がと、自分に執着していたり、自分の好きなものやことに執着していたりすると、自分の思い通りになるようにしようとして、ものごとを無理に動かそうとすることになる。それで一時はうまくいくように見えるかもしれないが、そのうちほころびが出てうまくいかなくなる。ものごとは自然(ジネン)に、すなわち自ずから然るべきように進んでいくのがもっともうまくいく。そのためには、自分や自分が好きなものへの執着をとりさらなければならない。空とはその境地のことなのだろう。
それは、世を捨てる姿ではなく、逆に、世の中に参画し貢献しそのことによって「自在」に生きる、つまり自分の思い通りに生きるということだと思う。自分の思いそのものが自然(ジネン)ならば、そうなるだろう。
このような考え方は、一方で、世の中の流れに迎合することを勧めてしまうことになるかもしれない。誰かの執着のために自分が動かされることになるかもしれない。その力が巨大であれば、それがジネンだと誤解してしまう危険性はある。それを防ぐためには、自然(しぜん)と人間社会が一体になったものとして自然(ジネン)をとらえ、人間の世間だけでなく、自然(しぜん)の中で、その声を聞きながら暮らすということが不可欠だろう。例えば自然農というのはまさにそういう暮らし方である。本当はジネン農と呼ぶべきだろう。
足助千年ゼミはまさに自然(ジネン)に対話が続いていく。一応テーマを決めて話し始めるが、すぐに脱線する。それを誰もとがめないし、誰かがどこかに話を導こうとすることはない。そもそもどんな結果も結論も要求されないのが唯一のルールである。
しかし、最後の振り返りの時間に、それぞれのグループで話し合われたことを発表してもらうのを聞いていると、何らかの「結論」に達していることがわかる。最近はそのとおりいっぺんでない深さに驚くことばかりである。わずか1時間か 1時間半の対話で、そんなところまで行くことができるのか。無理にもっていこうとしたら決して到達できないだろう。自然(ジネン)で自在な対話だけが到達できる境地である。
好きなことだけやって食っていけたらどんなにいいだろう、と思う人は多いだろう。私もかつてそうだった。かつて、というのは、今はほぼその境地に達していると思うからである。
毎月1回の足助千年ゼミはスケジュール的にはきついものがあるが、私としてはまったく負担感はない。自然と会場に体が向かうような感覚がある。仕事の面でもプライベートでも(もはやあまり区別がないが)、ほぼ好きなことだけやっている。
それは自分への執着を捨てる空(くう)の境地にかなり近づいたからだと思う。空とはすなわち自然(ジネン)に自在に、つまり思い通りに生きるということだ。無理に動く必要はない。当面自分に求められていることを一所懸命にやって、時機がくるのを楽しみに待っていればよい。
それは欲求を抑えることではなく、逆に、自然(ジネン)のままに欲求が実現できてしまうということである。自分を捨てるからこそ「自分」の思いが実現できる。この逆説がすなわち、色即是空・空即是色ということのようである。
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