なんだか最近はやりの新書のタイトルのようであるが、問題は解決しようと何らかのアクションをすればするほど、ややこしくなって解決が遠のく。あるいは絨毯のしわを伸ばしている時のように、他の場所に問題がでてくる。地球温暖化問題を解決しようとして原子力発電を推進することを受け入れるなど、その典型であろう。なにがなんでも問題を解決する、という姿勢は、「なにがなんでも経済成長させる」という成長型社会の「型」に通じるものがある。そういう姿勢自体が問題を引き起こしているのではないか。
ではどうすればよいか。問題は消滅させるか、問題を資源に変えるか、であろう。例えば、岐阜県旧加子母(かしも)村は、村役場の危機的な財政問題を、中津川市との合併という形で消滅させた。役場自体が消滅したのである。けっして問題を解決したわけではない。一方旧加子母村は合併を期に、住民による加子母地域審議会を立ち上げ、中津川市長に政策提案をはじめる。この地域審議会は非常に強力で、林業分科会などは政策を議論するだけでなく直接下流の名古屋市との交流・連携事業を活発に行い、その成果によって確実に中津川市の政策をひっぱりつつある。問題を資源に変えた例である。
例えば、がんという病気は、なにがなんでもやっつけようとする西洋医学的な治療で一見完治したかにみえて、再発や転移が起きてしまうことがある。一方、西洋医学的な治療をやめた人でがんが自然に消滅するという人もいる(がんの患者学研究所)。がんが消滅した人に共通している特徴は、がんになったことで最初はとまどい悲観的になるけれども、どこかで考え方が変わっていることだ。がんになったことで、これまでの生活習慣や性格や人生のあり方を反省することができ、そのことにおいてがんになったことを「感謝」するようになる。問題を資源に変えるということだ。そうすると不思議なことに、がんという問題は消滅する。
また、最近気がついたのは、問題は受け継ぐものだということだ。私たちが地域のさまざまな問題に取り組んでいるのは、特に解決できる展望があって取り組んでいるわけではない。そこに問題があるから何かやっているのである。それはむしろ、その問題への取り組みを次の世代に引き継ぐためにやっているのではないか、という気がしてきた。
その時代時代に取り組むべき問題がある。それは形を変えていく。私たちの世代として取り組むべき問題に取り組み、それを次の世代にバトンタッチする。次の世代はそれを自分たちの問題として定義しなおした上で取り組みはじめる。人間はそうやって歴史を築いてきたのではないだろうか。ようは自分も人間の歴史に参画したい、という気持ちである。
最近、ある人がルイ・アラゴンの言葉をリマインドしてくれた。
「学ぶとは心に誠実を刻むこと。
教えるとはともに希望を語ること。」
この言葉を学生の頃知ったときは、感銘を受けつつも、どういうことかぴったりとは分からなかった。今ではかなり分かる。問題を語るということは希望を語るということである。自分が語った問題を若い世代が理解してくれると、それだけで希望を感じる。
問題を解決してはいけない。もっと正確に言うと、簡単に解決できるような問題に取り組んでも得るところはない。より本質的でより困難な問題への取り組みを通して、希望を次世代に引き継ぐこと。私たちがやろうとしていること、本当にやりたいことは、こういうことではないだろうか。
「問題は解決するな」
ご存知のとおり瀬戸市内にけい砂の採掘跡があり、グランドキャニオンと呼ばれています。
さきごろ、この採掘跡をどうするかという建築関係のコンペが発表され、地元の私たちを驚かせました。
採掘跡の埋め戻しは事実上解決の不可能な問題。これを無理に解決すれば、別の場所でまた採掘跡ができるだけ。
問題は問題として残し、解決を急がないこと。絨毯のしわ伸ばしの比ゆに共感しました。
私も個人的なところでは、今まで問題を解決しようと焦って常識的にものごとをすすめた結果、ますます問題を深刻にしていたような気がします。
急がず、焦らず、非常識に。(合い言葉としてはやらせましょう!)
今回の記事の加子母地域審議会のリンクが私のブログに貼られていて、ちょっとびっくり!ありがとうございます。
「問題を資源に変えた例」
なるほど。そういう捕らえ方ができるんですね。それはとても加子母らしい在り方なような気がします。
「問題を解決しない」
「問題は受け継ぐもの」
・・・
どれもストンと胸に収まり、そんな風に取り組んでいきたいと思いました。
「学ぶとは心に誠実を刻むこと。
教えるとはともに希望を語ること。」
良い言葉ですね。
「問題は受け継ぐものだということ」・・・なるほど~と思いました。
「より本質的でより困難な問題への取り組みを通して、希望を次世代に引き継ぐこと。」・・・希望を語ることが問題に取り組むこと、ともいえるような気もします。非常に多くの困難な問題が目の前に山積しているにもかかわらず、現在の経済システムの一歯車として抗議もせず希望も語らず、なんとなく憂鬱な日を送るうちに、ますますシステムに取り込まれてしまっているのではないかと思います。問題に深く取り組める人の少なさよりも、情報処理ばかりで意思表示しない人の多さに閉塞感を感じます。
ある人は拒絶反応を起こすし、ある人は答えのある世界に快感を覚えるし、またある人は両方を感じてたりするみたいです。
私は、ぶっちゃけ最後のタイプですが。
分かることがあったり、知ってることに出会うとそれを口にしてしまいたくなるけど、
ある子にとっての不思議との出会いを、
私のたった一言が、
「自分から知る、向き合う」ことを妨げてしまう事になりかねないとようやく実感し始めました。
でも、それってまだ未熟者の私にはとてもむずむずしてしまうこと。。。
自分自身は、自分で考えたかった答えをいきなり教えられると「言うなーーー!!」とか思うくせに、勝手極まりないですね(苦笑
日々精進です。