あやし小児科医院 第2ホームページ

あやし小児科医院第1ホームページに載せきれなかった情報、横道にそれた話題をランダムに掲載します。

ジャパニーズ・ドリーム ~少年と力道山~  あやし小児科医院 宮地辰雄 

2007-04-22 17:51:47 | 力道山物語

力道山が赤坂のクラブ「ニュー・ラテンクォーター」で暴力団員M に腹を刺されたのは1963年12月8日の夜であった。S 病院での緊急手術で一旦は救命されたと伝えられたが、1週間後の12月15日深夜急逝した。力道山は当時の日本で唯一最大の英雄であった。
翌朝のニュースで訃報を聞いた少年は自分の父親が死んだかのように悲しんだ。その日小学校の校庭には未明に大雪が降った。放課後三々五々集まった級友達は、国旗掲揚台の隣に雪で「力道山の墓」を作って手を合わせた。

次から次に来襲する凶悪な外人レスラー達・・・シャープ兄弟、メキシコの巨象ジェス・オルテガ、グレート・アントニオ、殺人狂キラー・コワルスキー、ミスター・アトミック、禿頭スカル・マーフィー、パット・オコーナー、ゼブラ・キッド、バックドロップの鉄人ルー・テーズ。

体重237キロのお化け南瓜ヘイスタック・カルホーンは転がされたら最後、自分では起きられなかった。銀髪の噛みつき魔フレッド・ブラッシーの試合は毎回流血となり、9人の老人をショック死させた。その視聴率は70%を越えた。
魔王デストロイヤーのフィギュア・フォー・レッグロックは初めてリング真上に据えられたカメラが中継した。黒い魔神ボボ・ブラジルは来日時24 歳と自称していたが、実は34 歳だったという。そのアイアン・ヘッドバットはなぜか日本だけで異常な人気があった。

当時はまだ戦後であった。「リングの上なら小さい日本人でもアメリカを倒せるんだ!」血だらけになって巨人達を叩きのめす力道山の勇姿に少年の血潮はいやでも熱く滾(たぎ)るのだった。撃退しても撃退しても凶悪な外人達は次々にやって来る。少年は力道山がかわいそうだと思った。しかし何のことはない、凶悪なレスラーは力道山が自ら大金を積んで連れて来るのだった。

野球と相撲の結果は翌日の新聞に載るのに、なぜかプロレスの結果は一行も出なかった。放送時間内に終わらなかった試合はどうなった? 力道山の流血は止まったのか? 当時日本テレビ系の金曜8時はディズニーランドとプロレスの隔週放送だった。少年は、毎週プロレスにして放送時間を延長しろ、とスポンサー(三菱電機)に再三手紙を書いたが梨の礫であった。

暴漢に刺された力道山が手術で一命をとりとめたのは、やっぱり正義の味方だからだ、と少年は喜んだのに、1週間後病状は俄かに改まった。手術はうまく行き、流動食も摂れるようになったと聞いたのに何故?という疑問は澱のように心に残った。

新聞は、「力道山が病院に運ばれたとき、小腸が2箇所損傷しており、1ヶ月の重傷」と伝えた。その後一般紙は経過について沈黙する。東京スポーツのみが、「手術はうまく行って、流動食を摂れるまでに回復した。日本プロレス興業の幹部を招集して、事業の経過報告まで受けた」と書いた。ところが12月15日の午後になって容態は急変、不帰の転帰をとったのである。

その死があまりにあっけなかったので、死因について当時いろいろな説が出た。・・・力道山は腸閉塞を起こして再手術になった、絶食を無視して焼肉を食べたので再手術の際に嘔吐して窒息した、いや食べたのは寿司だった、病室に付き添っていたアントニオ猪木がサイダーを飲ませたのが悪かった、ブランデーを一本空けた、周りが食い物を隠したので花瓶の水飲んだらしい、暴力団員がまた病室を襲った・・・結局真相は明らかにならず、力道山の死因は迷宮入りとなった。

力道山の死後、マスコミは掌を返したようにプロレスを叩き始める・・・キャデラックに乗って、毎日ステーキをたいらげる力道山のアメリカン・スタイルは表向きで、本当はキムチと焼肉ともやしが好物だった。黒タイツを穿くのは足を長く見せるためではなく、大相撲時代、しごきに耐えかねた弟弟子(初代若乃花)に噛み付かれた歯形を隠すためだった。下駄履きで「脇の下かっぽん」がトレードマークの豊登は博打狂で、年中借金取りに追われていた。原爆頭突きの大木金太郎は日本語も喋れない密入国者だ。力道山は構成員相手にも空手チョップを炸裂させていた。刺された夜も黒人ジャズ奏者に暴言を吐き、テーブルを手あたりしだいにひっくり返した。・・・などということがプロレス新聞に載るようになった。死に方は唐突だったが、トラブルの種をせっせと蒔いてもいたのである。

力道山を失ったプロレス団体は、その後離合集散を繰返す。馬場、猪木を二巨頭としてしばらく安定したが、やがて人気は衰退に向かう。1967 年発刊のプロレス紙「週刊ファイト」は2006年9月に、1968年発刊の「週刊ゴング」も2007年3月に廃刊となった。

「時代の謎」は何年か、何十年かたって、突然解けることがある。事件から30年後の1993年に岐阜大学医学部土肥修司教授の著書『麻酔と蘇生』が出版され、この本に力道山の死因に関する文章が載った。その53頁を引用する。
・・・「力道山の死は、出血でも、ショックでも何でもなく、単に、運び込まれた病院で麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことであった。もちろん気管内挿管ができなかったことが、力道山が死ぬ必要条件でも十分条件でもない。問題は、筋弛緩薬を使用したために、外科医が気管内挿管の失敗を繰り返していた間、呼吸ができなかった(人工呼吸をしなかった)ことによる無酸素状態が死亡の原因であった。この事実をアメリカで、医学生として現場にいた人から聞いたとき、マイアミ大学病院で、力道山の二倍はある大男に麻酔をかけ、気道確保をはじめいろいろな面で大変に苦労していた。(中略)三十年前の力道山の悲劇のような事件は、麻酔科専門医が増加してきたためきわめて少なくなった。」・・・

土肥教授は力道山の死亡時18 歳であった。医学部入学直前のことで、その死因に強い疑問を抱いた。その後麻酔の道に進んだ教授は、病院関係者や執刀医の弟子達に当時の様子を丹念に取材してこの結論に達した。当時の担当医、病院長らは全員他界、カルテも紛失しており、調査は困難を極めたという。

麻酔導入時の事故は昨今でも見聞される。今から44年前、血中酸素濃度のモニターもなかった頃の医療水準であれば十分に起こりえたと思えるのである。12月8日に医療事故があったとすると、力道山は1 週間植物状態にあったことになる。「小腸の手術」はうまく行ったとしても、意識は一度も戻らなかったであろう。
「流動食を摂れるまで回復した」、「幹部を招集して・・・」という記事は、緘口令が敷かれた中でのスポーツ紙の虚報だったのだろうか。

少年も後を追うように医学の道に進み、一時麻酔医をしていたことがある。挿菅困難なTreacher-Collins も、喉頭痙攣も経験した。筋弛緩剤を静注してから挿菅に成功するまでの時間ほど怖いものはないと知っていた。少年はこの頁を読み、何年も霧の中だった謎の輪郭がようやく少し見えてきたと感じた。

力道山は、1962年に故国北朝鮮に大金と高級車を贈り、1963年には韓国に凱旋帰国もしている。しかし日本の新聞は一言も書かなかった。というより、「日本の英雄」と持ち上げて来た手前、書く方法を知らなかったのである。新聞が世の中の出来事全てを伝えるとは限らない。

週刊プレイボーイが、タブー視されていた力道山の国籍問題を「もうひとつの力道山物語」として報じたのはようやく1984年のことである。力道山は17歳で来日する時、既に結婚し子供もいた。2002年の釜山アジア大会で、力道山の孫娘が北朝鮮の重量挙げ監督としてエントリーして話題になった。北朝鮮では、「力道山は日本の憲兵に拉致されて日本の相撲界に入門、独力で逆境を乗り越えた民族の英雄」と伝えられているという。ちなみに力道山刺殺犯Mの娘は、現在女子格闘技(ジョシカク)のスターになっている。

力道山は生前、プロレスラー以外に日本プロレス興行、リキ・スポーツパレスなど6社の代表取締役社長を兼務していた。破天荒な性格ではあったが、その圧倒的な存在感は少年を魅了して已まなかった。常人を越えたヴァイタリティーは、裸一貫で異国に渡り、人間ダイナモと呼ばれた野口英世をさえ彷彿させるのである。

クラブ「ニュー・ラテンクォーター」はホテル・ニュージャパンの地下にあった。少年は長じてこのホテルで結婚式を挙げた。式の8ヵ月後の1982年2月8日、ニュージャパンは火災で焼失した。死者33名・重軽傷者34名(うち消防隊員7名)の大惨事であった。ホテルはスプリンクラーが設置されず、防火扉はヒューズが切れて不作動、自動火災報知器はスイッチが切られていて、非常放送設備は故障・・・。消防署の再三の指導にもかかわらず改善されなかった。社長Yの開き直った会見は国民の怒りを呼んだ。少年はその火事の夜、たまたま学会で上京していたが、別のホテルに泊まっていたのは幸運であった。思い出のホテルを選んでいたら、寝巻きで窓から飛び降りる羽目になっていた。

そのYも1998年に死去。ニュージャパンの跡地は買い手がつかないまま廃墟の状態で14年間も放置され、都心の心霊スポットになった。Yに巨額の融資をしていた千代田生命が競売で自己落札、1996年に取り壊して高層ビルを建てようと目論んだが、今度は千代田生命自身が経営難に陥り、計画は頓挫。今では彼の地にプルデンシャル生命のビルが建っている。Y は湯ヶ島にもホテルを経営していたが、これもニュージャパンの火事の翌年火災を出して廃業した。閉鎖後、大浴場から22金製、時価1 億円の鳳凰型純金風呂が盗まれてワイドショーを賑わした。またYの田園調布の居宅は、美白の女王と呼ばれたS が買い取って自宅を新築していたが、完成直前にS は急死した。

ホテル・ニュージャパンが営業終了した6ヵ月後、少年の家に小包が届いた。それは結婚式の写真のネガであった。そこで挙式した全員に送っているとのことであった。本来ネガには著作権があり客には渡さない性質のものだが、それはホテルの写真館の最後の良心であった。

2007年、少年は池上本門寺にある力道山の墓を訪れる。梅の季節であった。(雪で作った墓ではなく)本物の墓に花を手向けることは、あの雪の日以来の宿願だったのである。墓の左には巨大な石碑、右には青銅の胸像が建っていた。石碑の文字は児玉誉士夫の筆になる。この寺には、幸田露伴、溝口健二、代々松本幸四郎などの墓も並ぶ。力道山の胸像は西方を向いて立つ。視線の先にあるのは日本を目指した釜山港であったろうか、生前故郷と称した長崎の大村であったろうか。

力道山という存在は、戦後の日本の光と闇そのものであった。昭和29年にシャープ兄弟との対戦がテレビに初登場してから凶刃に倒れるまで、僅か9 年と9 ヶ月。
振り返れば一炊の夢、ジャパニーズ・ドリーム。




力道山光浩(戸籍名 百田光浩)

北朝鮮咸鏡南道出身の「日本の英雄」
本名 金信洛
性格 粗暴
戒名 大光院力道日源居士
享年 39 歳(!)

この文章は「2006 年10 月26 日、大木金太郎(金一=キム・イル)氏がソウルで死去、享年77 歳。」というニュースに触発されて書き始めた。力道山が生きていれば今年83 歳である。

参考図書
土肥修司:麻酔と蘇生,中公新書,東京,1993年
村松友視:力道山がいた,朝日新聞社,東京,2000年
田中和章、流智美、佐々木徹:写真集・門外不出!力道山,集英社,東京,2001年

(仙台市医師会報 2007年4月号 No.514に掲載された記事です。)


池上線の電車


池上駅


池上本門寺正門


境内の紅白の梅


力道山の墓の案内板


児玉誉士夫の筆になる石碑


墓には献花が絶えない


死後43年が経つが、今でも訪れる人は多い。
 

じっと西方を見る胸像


12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
宮地凄い! (Qちゃん)
2007-06-03 22:25:37
いやー宮地がこんなにプロレス好きだとは知らなかった。実は学生時代、プロレス同好会を創ろうとして、
結局実現しなかった。、Qちゃんです。確かに戦後の娯楽の少ない時代、プロレスは日本国民に夢と希望を与えました。家に初めてテレビが来た小学校1年の時、何が嬉しかったといって、隣の酒屋に行かなくてもプロレスが観れること程幸福を感じたことはありません。金曜夜、提供は三菱電機、何故かディズニーワールドと交互の放映でした。当時から捻くれたガキだった僕は、周りの子供が野球に熱中していても、ただ一人プロレスの怪しさ、不透明さ、胡散臭さに惹かれていました。身長・体重・年齢・国籍・得意技・勝敗・すべてファジーなまま試合終了のゴングが喧しく打ち鳴らされるプロレスに取り付かれて約30年、力道山・金田正一・美空ひばりの日本(?)を代表するビッグ3を繋いでいた絆が何だったかを理解したのは大人になってからでしたけど。今度、あれですね、同級生でプロレスについて語り、それを出版するとかいうことは出来ませんかね?打倒!川島隆太です。では又。Q
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あのQちゃん (辰つぁん)
2007-06-04 08:16:43
プロレスファンのQちゃんに読んでもらえてよかったです。
「金曜夜はディズニーワールドと交互の放映だった、提供は三菱電機だった」を覚えている人がなかなかいないので嬉しいです。あの頃のテレビは山形も北海道も同じだったのね。
今は消滅したミゼットプロレスについてもどこかに書いた記憶があります。これも探してみます。こういうの好きでしょ?
ところで教授昇進おめでとう。「あのQちゃんがね・・・」と仙台では話題になっています。「あの」とはどういう意味なんでしょうね。分かるような気もしますが・・・
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まさかTBするとは (あのQちゃん)
2007-06-10 13:13:43
思ってなかったんで、忙しいのに有難う。
翌日朝8:16分って凄いスピード返信ですね。

いや、この「力道山物語」(だったっけ?)を読んでつくづく辰っつあんの力量を感じました。
力道山の悲運にして不可解な死を縦糸に、自身の医師としての成長を横糸に物語が展開し、それが実は搬送された病院の麻酔科医による医療過誤だった部分、現場のホテルNJで結婚式を挙げたくだりで微妙に交錯し、そして学会で上京した時のホテルNJの火災の場面でクライマックスを迎えるという見事な展開でした。僕だったら、その時ホテルNJに宿泊していて、
火炎の中6階の部屋から全裸で飛び降りて九死に一生を得た、とか物語を造っちゃうんだけど、宮地正直だから。相当緻密にストーリーを組み立てた印象を受けるけど、もし何も考えないでさらっとこれだけのものが書けたのなら、転職を考えた方が良いかもしれませんね。

あの頃のプロレス、面白かったですね。隣の酒屋にTVが入るまでは、向えの電気屋の街頭テレビを食い入るように観てました。幼稚園の頃「プロレスかるた」というのを買って貰って、「沖識名かならずシャツをやぶられる。」とか「眼に指をいれる反則きたないぞ。」とかいうシュールな文面を友人に自慢していました。それにしてもあの頃のプロレスって、力道山本人を始め、沖識名とかハロルド・坂田とかグレート東郷とかユセフ・トルコとか国籍不明の怪しげな人間の吹き溜まりのような業界でしたね。(それは今でもあんまし変わってないかもしれませんが)

小人プロレスのことはあまり良く判りません。せいぜいプリティ・アトムとかスカイ・ロー・ローとか有名選手の名を記憶している程度です。元々見世物であるプロレスの更に見世物色を濃く打ち出したものが「小人プロレス」であり「女子プロレス」である、と解釈してます。サーカス小屋のテントの隙間を垣間見るような感じが何だか痛いたしくって、ちょって苦手でした。でも、期待してますよ、是非書いて下さい。

僕はプロレスの魅力に獲り付かれるまでは、「相撲」に熱中してました。十両以上の全ての相撲取りの身長・体重・本名・出身地・趣味など全て諳んじてました。中でも興味を惹かれたのは「異型の力士」ですね。大内山(2m以上あった身長逆サバ読み)とか大起(ただでかかっただけ)とか、身長が確か160cm位しかなかった「潜航艇・岩風」とか。相撲の夏巡業の時無理矢理父に頼んで家に泊めさせてもらった、当時の「先代・大関朝汐」は怪獣の様にでかく、家の鴨居に頭をぶつけて、トイレにはケツ幅が広すぎて入れませんでした(実話です)。風呂とトイレは隣の洋品店のを借りて貰いましたけど。

あとね、あんまし個人情報に関することは漏らさないでね。教授とか北海道とか。ま、このHPの読者層がどんだけのものか判らないけど。

「あのQちゃん」て、そんなに意外だったかなぁ?僕としてはあのK子が教授になった時の方がよっぽど衝撃を受けたけど。まぁ、基本的に学生の頃からそれ程進化していないし、見た目もそれ程変わっていないらしから、無理も無いといえば無理もないかもしれないけど。

そういえば辰っちゃん去年暫く振りに会った時、目の周りが窪んで顔の彫りが深くなったような感じがして
思わず「整形した?」と聞こうかと思った位だったんだけど、あれは単なる加齢による変化だったのかな?

いずれにしても又今秋仙台に行きますんで、再会を楽しみにしてます。  
           あのQちゃん、でした。
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力道山物語読みました! (YO)
2007-07-01 12:10:21

宮地さんへ

あの~、Qちゃんとやらに教えてもらって力道山物語読みました。面白かった!

昔、本人が主演した映画(モノクロ)があったはずで、子供の頃の暮らしぶりも描かれていたような気がします。
金曜8時からデズニーランドとの隔週だったのはそうなんですが、たしかプロレスは8時からでない週は9時か10時からやってたんじゃなかったでしたか?
こっちの方は、寝る時間なので見せてもらえなかった。

小生、力道山が他界して暫くの間、プロレスから離れていましたが、猪木が日本プロレスに復帰したあたりからみるようになり、猪木のファンになって、以来現在までプロレス好きです。去年かなあ、金沢に学会でいったら、ホテルが蝶野・天山といっしょ。大浴場で蝶野さんの全裸もみてしまいました。

さいたまのYO


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YO君、コメントありがとう (辰つぁん)
2007-07-03 23:55:58
テレビでときどきお見かけしています。お互いにプロレス好きだとは知りませんでしたね。持つべきものは共通の友人。Qちゃんはあれでなかなか顔が広いですね~。
YO君は学生時代、八幡2丁目(石切町)あたりからバイクで通ってましたよね。私は土橋通りのとんかつ「萩や」の隣のアパートに住んでましたから、北六でよくすれ違いました。
もう30年以上前のことになります。祝賀会の写真を見て、当時を懐かしく想い出しました。
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蝶野の全裸は見たくない (顔の広いQちゃん)
2007-07-05 00:52:10
YO君、コメント有難う。さすが執筆が早いです。全国区のタレント教授は違います。今度サンデーモーニングとかに出て下さいよ。考えてみればYO君は例のト○カ○ト事件で、最初に全国区で名前が売れた同級生でしたね。そのせいかこの前会ったら一足早く頭頂部がクールビズでしたけど。彼とは学生実習先の労災病院でずっと一緒でした。懐かしいです。

そうです、僕は顔が広いんです。ていうか、小柄で威圧感の無い容貌なので割りと話しかけ易かったんじゃないでしょうか。僕のこと友人だと思ってる同級生は結構いると思いますよ。M5の時、その友人達に手当たり次第に声を掛けまくって「ゆれるまなざし」というソフトボールチームを作り上げ、あれよあれよという間に優勝してしまったのを覚えていますか?辰ちゃんの所属していた、I塚氏率いる「チームこども会」と決勝で対戦したかったんですけど、「こども会」はあっさり途中で負けてしまいましたね。

で、プロレスです。ラッシャー木村とオックス・ベーカーの大流血戦の流血の真偽の程はYO君に任せるとして、猪木V.S.シンの「腕折り事件」のことを書きましょう。

猪木Xシンの数々の遺恨試合は日本中を熱狂の渦に巻き込み、もうどちらかが死ななければ決着が付かない、というところまで来ていました。いつだったかのシリーズ最終戦で猪木Xシンはついに雌雄を決する戦いに挑みました。その日、リングにはいつもと異なる異様な緊張感が漂い、猪木も眼を血走らせて興奮していました。しばらく膠着状態が続いた後、いきなり猪木はシンの左腕を順手に持ち、自分の肩越しに抱えて自らの肩に叩きつけました。シンはこの世のものとは思えない程の奇声を上げて絶叫し、激痛に悶絶しているように見えました。その動作を3-4回繰り返した後、アナウンサー(当時誰だったんでしょ?古館ではなかったような気が)が興奮を抑えきれない様子で、いま嫌な音がしましたね。ボキっていいましたよね、遠藤さん。」と解説者の遠藤幸吉に同意を求めました。遠藤幸吉は状況がよく飲み込めないまま「イノキはですね!イノキはですね!」と難解な日本語を山形弁イントネーションで叫び続けました。場内は興奮の坩堝と化し、観客は熱狂して様々なものをリングに投げ込みました。シンは泣きながら猪木に慈悲を求め、猪木は鬼の形相でシンの顔面にナックル・パートを叩き込みました。シンは左手をブラブラさせてそこが骨折していることをアッピールし、観客は素直にそれを信じました。猪木も除々に怒りを鎮め、「折ったぞ、このヤローッ!」と叫ぶと悠然と控え室に帰って行きました。これが日本プロレス史上稀にみる凄惨な試合と言われた猪木Xシン腕折り事件の概要です。

しかし当時すでにプロレス耳年増であった僕は何か変だな、と思ってました。1)猪木がシンの左腕を順手に持っていたこと。2)猪木の方が数cm身長は低かったはずなので、低い位置からのアームブリーカーにそれ程威力があるとは思えないこと。3)シンの演技が必要以上にわざとらしかったこと。等から疑問を持ち、プロレス雑誌を徹底的に調べました。

そして、見つけましたね。翌月号だったかの海外のプロレス雑誌(地球上で行われたすべてのプロレスの対戦結果が記録されている。)で、シンが猪木戦の翌日、岐路ハワイで、なんとカーチス・イアウケアと対戦しているのを!いくらシンがタフでも、骨折した翌日に試合が出来ると思いますか?

その後何度かシンは来日しましたが、猪木Xシン戦は以前程の盛り上がりを見せなくなりました。それはそうでしょ、もう猪木はシンの左腕をへし折って完全決着をつけたのですから。

程なくしてシンは当時全日の看板悪役レスラーだったアブドーラ・ザ・ブッチャーと交換トレードの形で全日に売られて行きました。シンは馬場・鶴田などの全日レスラーとそこそこ絡めましたが、ブッチャーは猪木と全く噛み合わず、結果的に又全日へ送り返されました。

この猪木Xシン戦から僕が学んだことは、「猪木は力道山である。」ということでした。理由はもう、お判りですよね。では、又。Qちゃんでした。
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猪木腕おり事件 (YO)
2007-07-07 01:05:03

う~ん、あたしの記憶では、肩に担ぐ前に鉄柱に2度3度上腕部後側をぶつけてたような・・・。
でも、翌日ハワイで試合していたとすると、単なる打撲(以下)だったんでしょうねえ。
あれは東京の試合だったはずですが、その前の週の大阪で猪木はシンに火を吹かれて完全に頭にきていた(という設定)はずです。あのときは、溜飲をさげたなあ。

その後、NWFを取られたりしましたが、最後に猪木が60分3本のNWF挑戦で、1本目コブラツイストで猪木、2本目アルゼンチンバックブリーカーでシン、3本目、はて?、卍固めだったか、で猪木、のあと、シンが猪木の手をとって挙げたのに感激した覚えがあります。
すいません。だんだん、記憶がさだかでなくなって。

ジャックブリスコVS猪木

のUNも名勝負でしたよね。みた?

YO

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見てません (アバウトなQちゃん)
2007-07-08 17:00:56
埼玉のYO君。忙しいのに有難う。これでNHK常連のウイルスおぢさん、K根君が加わってくれればメンバー的にはほぼ完璧ですね。

すみません、前回の書き込み、かなりいい加減でした。一部の方からご指摘を受けたので、訂正してお詫び致します。僕はプロレスに関しては(というか大体に於いて)アバウトなんです。ですから、辰ちゃんが参考文献まで挙げて学術論文のような形で「力道山物語」を書き上げたのに感動したのです。

1)「腕折り事件」の場所は、大阪府立体育館でした。当時6、000人収容の会場に8,900人の観客が押しかけ、入りきれなかった客が暴動を起こしかけたそうです。日時は1974年6月26日ですね。

2)「骨折させた」腕は左腕じゃなくて右だったみたいです。大体この世界では痛めつけるのは利き腕じゃない方というお約束があるので、左かな?と思ったのですが調べた結果右だったみたいです。

3)ハワイで試合をしたはもしかたら翌日じゃなかったかもしれません。時差の関係もあってはっきりはしませんが、兎に角数日以内だったことは確かです。

で、シンに関して少し調べてみました。1940年生まれ、カナダ・トロント出身でインドとは縁も所縁もない、とされています。若いころは正統派無名レスラーとして知られて(?)いました。MGSの帝王ブルーノ・サンマルチノにも挑戦したことがあるそうです。

猪木は1972年新日本プロレスを旗揚げしましたがNWA∝日本プロレス、AWA∝国際プロレスという系列ができていた為、外人招聘のルートは厳しく(当時はまだ日本人同士の遺恨という図式はなく、飽くまで日本人ベビーフェース対外人ヒールという力道山以来のパターンを引き摺っていました。)、安くて将来性のある外人レスラーを探していました。

ある日外人レスラーカタログ(?)を見ていた猪木の眼に、ナイフを咥えたみるからに凶悪そうな風貌のレスラーが飛び込んで来ました。「こいつにサーベルを咥えさせたらいいんじゃねえかな。」と猪木は側近(新間寿?)に囁いたそうです。

そしてシンは1973年5月に初来日する訳ですが、手違いで2ヶ月早く来日してしまい、せっかく早くきたのだから、と山本小鉄の試合に乱入させてみたところ、あっさりと小鉄を失神させてしまいました。

猪木はシンのレスラーとしての実力とサービス精神、日本で売れたい、という野望に眼をつけ、「あいつをインド人にしてしまえ。」と香港でターバン、サーベル、ガウン等インド人セット1式を買ってきて「狂える凶虎」を誕生させたということです。

安く買った無名の外人レスラーの商品価値を高めることに関して、猪木は天才的でした。73年11月、新宿伊勢丹前で猪木と新妻賠償美津子がシンその他の外人レスラー(シン以外誰がいたかは完璧に思い出せません。多分猪木が二束三文で買い叩いた安物レスラーだったのでしょう)白昼大勢の通行人の目の前で暴行を受けた事件は余りにも有名で、スポーツ紙以外の一般紙の紙面も飾りました。

その後徐々に遺恨対決の雰囲気を盛り上げ、YO君の言ったように火炎で顔面を焼いたりとかサーベルの柄で突っついたりとかで猪木の怒りを買い、ついに大阪決戦の2-3週間前に猪木が「腕折り宣言」を出すに至りました。そうです、猪木はかなり前からシンの腕を折ることをお約束していたんですねぇ。

そしてやはりYO君の指摘通り、猪木はシンの右上腕外則を鉄柱に叩きつけたりして、そのたびにシンは断末魔の悲鳴を上げて、「腕折り」のムードを高めていった訳ですね。でも、そういっちゃ何ですけど、あの鉄柱攻撃ってどれほどの効果があるもなのか、僕は以前から疑問に思ってたんですけどね。

ま、そんなところですけど、ちなみにジャック・ブリスコX猪木戦は、見てません。丁度一時期プロレスに対する興味を失いかけてた頃ということもあるのですが、僕は基本的に正統派レスラーがあまり好きじゃないんです。したがって猪木Xロビンソン戦も、猪木戸トロス戦も猪木Xゴッチ戦も見ていません。

長くなるので取り合えずいったんやめますね。

ちなみにYO君、ニッキ水床に落として割ってしまって御免なさい。
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ニッキ水 (YO)
2007-07-13 01:15:26
Qちゃん
ねにもってないよ。

そうでしたねえ。たしかに右上腕でしたねえ。
鉄柱攻撃の件は、挫創か切創かという点も含めて、いずれ、法医学的に考察いたしましょう。

ブッチャーなんか、リング上で堂々と額を切るんだもんなあ、考察以前の話。

ニッキ水はネットで注文いただけます。
まあ、毒物飲料に近いけど。

YO

宮地先生、ごめん、すっかりへんな書込になってしまいました。

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スイマセン少しだけ補足を ()
2007-07-19 22:11:14
猪木シン伊勢丹襲撃を真似しようとしてベーカーに木村サンを襲う計画があったようです、がベーカーが道一本間違えて未遂に終わったそうです、

浜口サンが言ってましたから確かでしょ
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