あやし小児科医院 第2ホームページ

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ジャパニーズ・ドリーム ~少年と力道山~  あやし小児科医院 宮地辰雄 

2007-04-22 17:51:47 | 力道山物語

力道山が赤坂のクラブ「ニュー・ラテンクォーター」で暴力団員M に腹を刺されたのは1963年12月8日の夜であった。S 病院での緊急手術で一旦は救命されたと伝えられたが、1週間後の12月15日深夜急逝した。力道山は当時の日本で唯一最大の英雄であった。
翌朝のニュースで訃報を聞いた少年は自分の父親が死んだかのように悲しんだ。その日小学校の校庭には未明に大雪が降った。放課後三々五々集まった級友達は、国旗掲揚台の隣に雪で「力道山の墓」を作って手を合わせた。

次から次に来襲する凶悪な外人レスラー達・・・シャープ兄弟、メキシコの巨象ジェス・オルテガ、グレート・アントニオ、殺人狂キラー・コワルスキー、ミスター・アトミック、禿頭スカル・マーフィー、パット・オコーナー、ゼブラ・キッド、バックドロップの鉄人ルー・テーズ。

体重237キロのお化け南瓜ヘイスタック・カルホーンは転がされたら最後、自分では起きられなかった。銀髪の噛みつき魔フレッド・ブラッシーの試合は毎回流血となり、9人の老人をショック死させた。その視聴率は70%を越えた。
魔王デストロイヤーのフィギュア・フォー・レッグロックは初めてリング真上に据えられたカメラが中継した。黒い魔神ボボ・ブラジルは来日時24 歳と自称していたが、実は34 歳だったという。そのアイアン・ヘッドバットはなぜか日本だけで異常な人気があった。

当時はまだ戦後であった。「リングの上なら小さい日本人でもアメリカを倒せるんだ!」血だらけになって巨人達を叩きのめす力道山の勇姿に少年の血潮はいやでも熱く滾(たぎ)るのだった。撃退しても撃退しても凶悪な外人達は次々にやって来る。少年は力道山がかわいそうだと思った。しかし何のことはない、凶悪なレスラーは力道山が自ら大金を積んで連れて来るのだった。

野球と相撲の結果は翌日の新聞に載るのに、なぜかプロレスの結果は一行も出なかった。放送時間内に終わらなかった試合はどうなった? 力道山の流血は止まったのか? 当時日本テレビ系の金曜8時はディズニーランドとプロレスの隔週放送だった。少年は、毎週プロレスにして放送時間を延長しろ、とスポンサー(三菱電機)に再三手紙を書いたが梨の礫であった。

暴漢に刺された力道山が手術で一命をとりとめたのは、やっぱり正義の味方だからだ、と少年は喜んだのに、1週間後病状は俄かに改まった。手術はうまく行き、流動食も摂れるようになったと聞いたのに何故?という疑問は澱のように心に残った。

新聞は、「力道山が病院に運ばれたとき、小腸が2箇所損傷しており、1ヶ月の重傷」と伝えた。その後一般紙は経過について沈黙する。東京スポーツのみが、「手術はうまく行って、流動食を摂れるまでに回復した。日本プロレス興業の幹部を招集して、事業の経過報告まで受けた」と書いた。ところが12月15日の午後になって容態は急変、不帰の転帰をとったのである。

その死があまりにあっけなかったので、死因について当時いろいろな説が出た。・・・力道山は腸閉塞を起こして再手術になった、絶食を無視して焼肉を食べたので再手術の際に嘔吐して窒息した、いや食べたのは寿司だった、病室に付き添っていたアントニオ猪木がサイダーを飲ませたのが悪かった、ブランデーを一本空けた、周りが食い物を隠したので花瓶の水飲んだらしい、暴力団員がまた病室を襲った・・・結局真相は明らかにならず、力道山の死因は迷宮入りとなった。

力道山の死後、マスコミは掌を返したようにプロレスを叩き始める・・・キャデラックに乗って、毎日ステーキをたいらげる力道山のアメリカン・スタイルは表向きで、本当はキムチと焼肉ともやしが好物だった。黒タイツを穿くのは足を長く見せるためではなく、大相撲時代、しごきに耐えかねた弟弟子(初代若乃花)に噛み付かれた歯形を隠すためだった。下駄履きで「脇の下かっぽん」がトレードマークの豊登は博打狂で、年中借金取りに追われていた。原爆頭突きの大木金太郎は日本語も喋れない密入国者だ。力道山は構成員相手にも空手チョップを炸裂させていた。刺された夜も黒人ジャズ奏者に暴言を吐き、テーブルを手あたりしだいにひっくり返した。・・・などということがプロレス新聞に載るようになった。死に方は唐突だったが、トラブルの種をせっせと蒔いてもいたのである。

力道山を失ったプロレス団体は、その後離合集散を繰返す。馬場、猪木を二巨頭としてしばらく安定したが、やがて人気は衰退に向かう。1967 年発刊のプロレス紙「週刊ファイト」は2006年9月に、1968年発刊の「週刊ゴング」も2007年3月に廃刊となった。

「時代の謎」は何年か、何十年かたって、突然解けることがある。事件から30年後の1993年に岐阜大学医学部土肥修司教授の著書『麻酔と蘇生』が出版され、この本に力道山の死因に関する文章が載った。その53頁を引用する。
・・・「力道山の死は、出血でも、ショックでも何でもなく、単に、運び込まれた病院で麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことであった。もちろん気管内挿管ができなかったことが、力道山が死ぬ必要条件でも十分条件でもない。問題は、筋弛緩薬を使用したために、外科医が気管内挿管の失敗を繰り返していた間、呼吸ができなかった(人工呼吸をしなかった)ことによる無酸素状態が死亡の原因であった。この事実をアメリカで、医学生として現場にいた人から聞いたとき、マイアミ大学病院で、力道山の二倍はある大男に麻酔をかけ、気道確保をはじめいろいろな面で大変に苦労していた。(中略)三十年前の力道山の悲劇のような事件は、麻酔科専門医が増加してきたためきわめて少なくなった。」・・・

土肥教授は力道山の死亡時18 歳であった。医学部入学直前のことで、その死因に強い疑問を抱いた。その後麻酔の道に進んだ教授は、病院関係者や執刀医の弟子達に当時の様子を丹念に取材してこの結論に達した。当時の担当医、病院長らは全員他界、カルテも紛失しており、調査は困難を極めたという。

麻酔導入時の事故は昨今でも見聞される。今から44年前、血中酸素濃度のモニターもなかった頃の医療水準であれば十分に起こりえたと思えるのである。12月8日に医療事故があったとすると、力道山は1 週間植物状態にあったことになる。「小腸の手術」はうまく行ったとしても、意識は一度も戻らなかったであろう。
「流動食を摂れるまで回復した」、「幹部を招集して・・・」という記事は、緘口令が敷かれた中でのスポーツ紙の虚報だったのだろうか。

少年も後を追うように医学の道に進み、一時麻酔医をしていたことがある。挿菅困難なTreacher-Collins も、喉頭痙攣も経験した。筋弛緩剤を静注してから挿菅に成功するまでの時間ほど怖いものはないと知っていた。少年はこの頁を読み、何年も霧の中だった謎の輪郭がようやく少し見えてきたと感じた。

力道山は、1962年に故国北朝鮮に大金と高級車を贈り、1963年には韓国に凱旋帰国もしている。しかし日本の新聞は一言も書かなかった。というより、「日本の英雄」と持ち上げて来た手前、書く方法を知らなかったのである。新聞が世の中の出来事全てを伝えるとは限らない。

週刊プレイボーイが、タブー視されていた力道山の国籍問題を「もうひとつの力道山物語」として報じたのはようやく1984年のことである。力道山は17歳で来日する時、既に結婚し子供もいた。2002年の釜山アジア大会で、力道山の孫娘が北朝鮮の重量挙げ監督としてエントリーして話題になった。北朝鮮では、「力道山は日本の憲兵に拉致されて日本の相撲界に入門、独力で逆境を乗り越えた民族の英雄」と伝えられているという。ちなみに力道山刺殺犯Mの娘は、現在女子格闘技(ジョシカク)のスターになっている。

力道山は生前、プロレスラー以外に日本プロレス興行、リキ・スポーツパレスなど6社の代表取締役社長を兼務していた。破天荒な性格ではあったが、その圧倒的な存在感は少年を魅了して已まなかった。常人を越えたヴァイタリティーは、裸一貫で異国に渡り、人間ダイナモと呼ばれた野口英世をさえ彷彿させるのである。

クラブ「ニュー・ラテンクォーター」はホテル・ニュージャパンの地下にあった。少年は長じてこのホテルで結婚式を挙げた。式の8ヵ月後の1982年2月8日、ニュージャパンは火災で焼失した。死者33名・重軽傷者34名(うち消防隊員7名)の大惨事であった。ホテルはスプリンクラーが設置されず、防火扉はヒューズが切れて不作動、自動火災報知器はスイッチが切られていて、非常放送設備は故障・・・。消防署の再三の指導にもかかわらず改善されなかった。社長Yの開き直った会見は国民の怒りを呼んだ。少年はその火事の夜、たまたま学会で上京していたが、別のホテルに泊まっていたのは幸運であった。思い出のホテルを選んでいたら、寝巻きで窓から飛び降りる羽目になっていた。

そのYも1998年に死去。ニュージャパンの跡地は買い手がつかないまま廃墟の状態で14年間も放置され、都心の心霊スポットになった。Yに巨額の融資をしていた千代田生命が競売で自己落札、1996年に取り壊して高層ビルを建てようと目論んだが、今度は千代田生命自身が経営難に陥り、計画は頓挫。今では彼の地にプルデンシャル生命のビルが建っている。Y は湯ヶ島にもホテルを経営していたが、これもニュージャパンの火事の翌年火災を出して廃業した。閉鎖後、大浴場から22金製、時価1 億円の鳳凰型純金風呂が盗まれてワイドショーを賑わした。またYの田園調布の居宅は、美白の女王と呼ばれたS が買い取って自宅を新築していたが、完成直前にS は急死した。

ホテル・ニュージャパンが営業終了した6ヵ月後、少年の家に小包が届いた。それは結婚式の写真のネガであった。そこで挙式した全員に送っているとのことであった。本来ネガには著作権があり客には渡さない性質のものだが、それはホテルの写真館の最後の良心であった。

2007年、少年は池上本門寺にある力道山の墓を訪れる。梅の季節であった。(雪で作った墓ではなく)本物の墓に花を手向けることは、あの雪の日以来の宿願だったのである。墓の左には巨大な石碑、右には青銅の胸像が建っていた。石碑の文字は児玉誉士夫の筆になる。この寺には、幸田露伴、溝口健二、代々松本幸四郎などの墓も並ぶ。力道山の胸像は西方を向いて立つ。視線の先にあるのは日本を目指した釜山港であったろうか、生前故郷と称した長崎の大村であったろうか。

力道山という存在は、戦後の日本の光と闇そのものであった。昭和29年にシャープ兄弟との対戦がテレビに初登場してから凶刃に倒れるまで、僅か9 年と9 ヶ月。
振り返れば一炊の夢、ジャパニーズ・ドリーム。




力道山光浩(戸籍名 百田光浩)

北朝鮮咸鏡南道出身の「日本の英雄」
本名 金信洛
性格 粗暴
戒名 大光院力道日源居士
享年 39 歳(!)

この文章は「2006 年10 月26 日、大木金太郎(金一=キム・イル)氏がソウルで死去、享年77 歳。」というニュースに触発されて書き始めた。力道山が生きていれば今年83 歳である。

参考図書
土肥修司:麻酔と蘇生,中公新書,東京,1993年
村松友視:力道山がいた,朝日新聞社,東京,2000年
田中和章、流智美、佐々木徹:写真集・門外不出!力道山,集英社,東京,2001年

(仙台市医師会報 2007年4月号 No.514に掲載された記事です。)


池上線の電車


池上駅


池上本門寺正門


境内の紅白の梅


力道山の墓の案内板


児玉誉士夫の筆になる石碑


墓には献花が絶えない


死後43年が経つが、今でも訪れる人は多い。
 

じっと西方を見る胸像