井草八幡宮
鎮座地 善福寺1-33
祭神 八幡大神(やはたのおおかみ)
旧格式 郷社
別当寺 林光坊・城光坊
例大祭 10月1日
解説
上・下井草村の鎮守で上井草の別名「遅野井」をとって遅野井八幡宮とも言われた。
創建は平安時代で春日神社を祀っていたらしいが、
源頼朝が奥州征伐の際、戦勝を祈願して以来八幡神を祀るようになったという。
なお、その際、植えられた松の大樹がご神木として祀られていたが、
昭和48年(1973)枯死してしまった。
文明9年(1477)太田道灌が石神井城主、豊島泰経を攻める際に戦勝を祈願した。
慶安2年(1649)徳川家光より朱印地6石を賜っており、
当地の領主であった今川氏も信奉し、例祭には欠かさず幣物を奉納していた。
明治の神仏分離で別当を務めていた城光坊は宮崎主膳と改めて当社の神職となった。
(林光坊は後継無く絶えた)
なお、例祭には氏子中で堤燈を奉納するのが慣わしになっていた事から、
堤燈祭りともいわれる。
また、5年毎の例大祭では、流鏑馬の神事も行われている。
ホームページ http://www.igusahachimangu.jp/
鎮座地 善福寺1-33
祭神 八幡大神(やはたのおおかみ)
旧格式 郷社
別当寺 林光坊・城光坊
例大祭 10月1日
解説
上・下井草村の鎮守で上井草の別名「遅野井」をとって遅野井八幡宮とも言われた。
創建は平安時代で春日神社を祀っていたらしいが、
源頼朝が奥州征伐の際、戦勝を祈願して以来八幡神を祀るようになったという。
なお、その際、植えられた松の大樹がご神木として祀られていたが、
昭和48年(1973)枯死してしまった。
文明9年(1477)太田道灌が石神井城主、豊島泰経を攻める際に戦勝を祈願した。
慶安2年(1649)徳川家光より朱印地6石を賜っており、
当地の領主であった今川氏も信奉し、例祭には欠かさず幣物を奉納していた。
明治の神仏分離で別当を務めていた城光坊は宮崎主膳と改めて当社の神職となった。
(林光坊は後継無く絶えた)
なお、例祭には氏子中で堤燈を奉納するのが慣わしになっていた事から、
堤燈祭りともいわれる。
また、5年毎の例大祭では、流鏑馬の神事も行われている。
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