オリジナル楽器とは?コピー楽器とは?いろいろな考え方があるので一概に答えることは難しい問題だが,16日のコンサートは普段あまり意識しないこのテーマを改めて考えるきっかけになった.
私がコピー楽器を作り始めたのは比較的最近のことで,それまではむしろown designにこだわっていた.きっかけは今回の演奏会で紹介したショートオクターブのイタリアンクラヴィコード.過去のブログでも紹介しているが,ベルギーのクラヴィコード製作家ジャン・トゥルネイさんに頂いた図面を元にしたC/E-c3,45キー,長さが1mちょっとという簡素で小さな楽器.オリジナルはベルギーの博物館にあるが展示はされていない.2013年に訪ねた時に見せて欲しいとお願いしたが,鍵盤楽器の担当者が不在とのことで,残念ながらその時は見ることができなかった.トゥルネイさんから送っていただいた写真では,現在は弦は張られていないので音を聴くことはできない.しかもタンジェントの先に皮を巻いてあるので,さらにオリジナルの音はどうだったのだろうと想像力をかきたてる.
オリジナルの音に惚れ込んで作るというのがコピー楽器製作の大きな動機と思うが,音を聴くことができる保存状態の楽器は多くはないだろう.たまたまコンディションが良くてしかも楽器として大きな魅力のある楽器がこれまで数多くコピーされて来た.けれども音を聴くことができなくても興味深いオリジナル楽器というものも当然あるわけで,そうすると聴いたことのない楽器の音を再現するという摩訶不思議な行為におよぶ.16日のコンサートでのトークで,想像力と言ったのはこの辺りの事情が念頭にあった.
楽器製作者は音そのものを作るのではなく,音を作るのは演奏者の役割.製作者は素材としての木を楽器という形にして形のない音との間に入る存在.形をあるものと形のないものとの境界は果てしなく広くて深いので,そこで呻吟するのが仕事ということだろう.図面を描き起こしている間にも,先人たちと対話しながらその意図を探り当てようとする.その中から少しずつ音のイメージが浮かんでくるのかと問われると,確かにそうだとも言えない.けれども一種の発酵のような時間の経過があるのは確か.言い訳に聞こえるかもしれないが,その過程が早く進むのかゆっくりなのかは自然の流れにまかせるしかない.そういう意味でまさに発酵なのだと思う.今回のコンサートの前後にも楽器製作者たちの数々の「奇行」の話を耳にしたが,それもむべなるかな,工業製品のようにホイホイと作る訳にはいかず,発酵の時間と向き合う中でつい逃げてしまう弱さも,人間としては当然のことなのだと思う.
今回のコンサートでオリジナルSchmahlの隣に並べて置いていただくという栄誉に与ったイタリアンクラヴィコードは,幸いなことに自分の存在をちゃんと主張してくれた.200年以上の時を刻んだ楽器と並ぶと,作って3年の楽器は当然ながらまだ出来たてホヤホヤ.けれども同じく時を刻んだ建物の中にあると,連綿と続く楽器の歴史の新入りとして「初めまして」と挨拶させてもらったような感覚があって,それがなんだか嬉しかった.
私がコピー楽器を作り始めたのは比較的最近のことで,それまではむしろown designにこだわっていた.きっかけは今回の演奏会で紹介したショートオクターブのイタリアンクラヴィコード.過去のブログでも紹介しているが,ベルギーのクラヴィコード製作家ジャン・トゥルネイさんに頂いた図面を元にしたC/E-c3,45キー,長さが1mちょっとという簡素で小さな楽器.オリジナルはベルギーの博物館にあるが展示はされていない.2013年に訪ねた時に見せて欲しいとお願いしたが,鍵盤楽器の担当者が不在とのことで,残念ながらその時は見ることができなかった.トゥルネイさんから送っていただいた写真では,現在は弦は張られていないので音を聴くことはできない.しかもタンジェントの先に皮を巻いてあるので,さらにオリジナルの音はどうだったのだろうと想像力をかきたてる.
オリジナルの音に惚れ込んで作るというのがコピー楽器製作の大きな動機と思うが,音を聴くことができる保存状態の楽器は多くはないだろう.たまたまコンディションが良くてしかも楽器として大きな魅力のある楽器がこれまで数多くコピーされて来た.けれども音を聴くことができなくても興味深いオリジナル楽器というものも当然あるわけで,そうすると聴いたことのない楽器の音を再現するという摩訶不思議な行為におよぶ.16日のコンサートでのトークで,想像力と言ったのはこの辺りの事情が念頭にあった.
楽器製作者は音そのものを作るのではなく,音を作るのは演奏者の役割.製作者は素材としての木を楽器という形にして形のない音との間に入る存在.形をあるものと形のないものとの境界は果てしなく広くて深いので,そこで呻吟するのが仕事ということだろう.図面を描き起こしている間にも,先人たちと対話しながらその意図を探り当てようとする.その中から少しずつ音のイメージが浮かんでくるのかと問われると,確かにそうだとも言えない.けれども一種の発酵のような時間の経過があるのは確か.言い訳に聞こえるかもしれないが,その過程が早く進むのかゆっくりなのかは自然の流れにまかせるしかない.そういう意味でまさに発酵なのだと思う.今回のコンサートの前後にも楽器製作者たちの数々の「奇行」の話を耳にしたが,それもむべなるかな,工業製品のようにホイホイと作る訳にはいかず,発酵の時間と向き合う中でつい逃げてしまう弱さも,人間としては当然のことなのだと思う.
今回のコンサートでオリジナルSchmahlの隣に並べて置いていただくという栄誉に与ったイタリアンクラヴィコードは,幸いなことに自分の存在をちゃんと主張してくれた.200年以上の時を刻んだ楽器と並ぶと,作って3年の楽器は当然ながらまだ出来たてホヤホヤ.けれども同じく時を刻んだ建物の中にあると,連綿と続く楽器の歴史の新入りとして「初めまして」と挨拶させてもらったような感覚があって,それがなんだか嬉しかった.