クラヴィコード徒然草ーLife with Clavichord

チェンバロ、クラヴィコード製作家 高橋靖志のブログ
製作にまつわるあれこれや猫との暮らし、趣味のオーディオについて

「刃物の見方」

2013-05-17 09:30:42 | Information
クラヴィコードとは直接関係ありませんが、木工に欠かせないのがさまざまな種類の刃物。その刃物について論じた幻の名著が復刊されました。著者の岩崎航介は、日本の伝統的な刃物製作に科学的な分析を導入して良質な刃物の生産に生涯をかけた人物で、この本は著者の遺稿集として40年以上前に地元の書店から出版されたものの復刊。すでに長い間入手不可能で、私は行きつけの刃物屋で借りてコピーしたものを持っていたのですが、買い物ついでにのぞいた書店で偶然見つけました

帯のコピーを紹介します。
「三条の鍛冶屋は顕微鏡を持っている。鍛刀法・刀剣の研ぎ等を究めた著者が、刃物製作は科学に裏打ちされるべきとする信念のもと、玉鋼をはじめ刃物の材料や刃物と研ぎ、砥石とのかかわりなど、実際の技術と金属工学の論理とをむすびつけた幅広い内容を詳細に説く。幻の名著復刊」



Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5オクターブ2台のそろい踏み

2013-05-05 08:02:44 | Instruments
5オクターブクラヴィコード2台は、ちょっと壮観です!左がunfretted、右がfretted



Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フーベルト Hubert について

2013-05-01 16:33:20 | Instruments
Christian Gottlob Hubert(1714-1793)はよくコピーされる製作家ですが、彼の生涯についてはあまり知られていないようです。Koen Vermeij The Hubert Clavichord Data Book に彼の小伝が載っていたのでかいつまんで紹介します。

 1714年、フラウシュタット(Fraustadt)、現在はポーランドのフスホヴァ(Wschowa)で、パン屋を営んでいたChristian Hubertの二男として出生。幼少時や受けた教育については知られていない。1740年にバイロイトに出たとされている。1748年に結婚。クラヴィコードのラベルの記述から、1756年以降バイロイト辺境伯の宮廷と公式の関係があったと判断できる。1772年のラベルにはまだバイロイトの文字があることから、1769年に宮廷がアンスバッハへ移転した後も数年間はバイロイトにとどまったと推測される。またこのことから、彼が宮廷専属として宮殿内に居住していたのではなく、フリーの事業者として街の中に工房を構えていたと推察される。1776年にアンスバッハへ移り、1793年の死までそこに居住した。
 最初に彼が製作した楽器は、1748年の5ストップのオルガンで、これは彼の結婚の年でもある。1749年に同業であった2人のオルガン製作者とオルガンの修理をめぐって衝突し、それによって彼の法的権利が危機に瀕したことが、この時期以降フーベルトが有弦鍵盤楽器の製作に集中していった理由と考えられる。
 彼の後継者であったホフマン(Johann Wilhelm Hofmann 1764-1809)によれば、フーベルトはクラヴィコード以外にもハープシコードとピアノフォルテも作っていた。ピアノフォルテは2台が彼の作として現存してる。一方クラヴィコードは80台が現存している。このことが、私たちが彼を主としてクラヴィコード製作者と見なす理由となっている。彼が実際に作ったクラヴィコードの数は推測するしかないが、最初のクラヴィコードが作られた1756年から最後の1789年までの間に、少なく見積もって約200台のクラヴィコードが作られた。彼は晩年まで製作を続け、80台のうち12台が80年代の作であり、さらに複数のピアノフォルテとオルガン1台もこの時期に製作されている。この頃彼は70歳の老人だった!ホフマンは、1789年から彼を手伝っていたと語っている。
 フーベルトは生前には限られた地域でしか知られていなかったように思われる。彼の名前は、ジルバーマンやシュタインのように、C. Ph. E. バッハやW. A. モーツァルトのような有名な音楽家の書いたもののなかには出てこない。
 フーベルトの名前は、J. G. Meusel Miscellaneen artistischen Inhalts (1786)と、E. L. Gerber Lexicon der Tonkünstler (1790) に見ることができる。
(Vermeijの引用によればこの二つの資料には、フーベルトがすぐれた楽器製作者として有名であること、彼のピアノフォルテがフランス、イギリス、オランダに送られていること、彼は小男で控えめで品のある性格だが、わずかに短気で頑固なところもあること、にもかかわらず仕事においては彼は非常に正確で精密なこと、などが書かれています)
 フーベルトの生涯についてのこれ以上の情報が出てくる可能性はないだろう。というのも、重要な情報源となったであろうアンスバッハ辺境伯の公的記録が失われてしまったからだ。これらの記録は、ナポレオン時代にミュンヘンへ移されそこで破棄されてしまった。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする