Eta Harich-Schneider (1897-1986) は、戦中から敗戦直後にかけて日本で活動したドイツのチェンバロ奏者。
梅岡俊彦さんのブログでも紹介されています。
このシュナイダーが、1941年10月、おそらく日本で初めてと思われるクラヴィコードのコンサートを新潟で開いていた、という資料を新潟大学の松本彰先生から紹介していただきました。
以下は「まいにちドイツ語」2011年9月号pp70-71に原文 Eta Harich Schneider (herausgegeben, kommentiert und mit einer Einführung versehen von Ingrid Fritsch),
Musikalische Impressionen aus Japan 1941-1957, München, 2006, S. 27f. とともに掲載されたものです。
新潟のコンサート
日本人のもとでは私たちのドイツ音楽はいつも喜んで迎えられ、感動してもらえます。こうした様子は、新潟でも強く見られました。日本のコンサート聴衆はとても規律かよくて、演奏中は咳や騒ぎなど一切ありません。深い統一と集中か支配しているのです。日本人がピアニストにおいて高く評価するのはその名人芸と輝かしさと力強さです。[???]でも日本人は、荘厳さ、崇高さも愛しているし、優しいもの、叙情的なものは、涙を溢れさせるほど強く日本人に作用するのです。私は、バッハの「イタリア協奏曲」の第2楽章を弾いているとき、またシューベルトのイ短調ソナタ作品143のへ長調のアンダンテを弾いているとき、新潟の聴衆とのまさに魔法のような触れ合いを感じました。[???]
ドイツ人聴衆の愛と、日本人たちの聞かれた態度や受け入れる力に支えられて、私は長大なプログラムを弾き通すことができました。リピートや「たくさんのアンコール」も含めて。途中、控え室では嘆きの声が聞こえました。「えっ、もう3曲目?」「もう半分終わってしまったの?」「ああ、もう最後の曲だ、これが終わるともうおしまい!」最後に私はとても可愛らしいやり方でだまされてしまいました。一度でいいからクラヴィコードの前に座ってください、そしてほんのちょっと、その上で指を動かしてもらえませんか。クラヴィコードを弾く手の形が見られれば、と言うのです。生徒たちにはステージまで来てもいいですよ、と告げられました。すると一斉にまるでミツバチの群れのように集まってきて、ステージ前に群れを作り、セーラー服の海ができあがりました。もう全く身動きせず、額に垂れた黒い髪の下の好奇心いっぱいの黒い眼差しだけか私と私の楽器を捉えて放しません。子どもたちがこれほど近くにいたので、私はこの子たちのためにいくつか小品を弾いてあげました。でも、弾き終わるとホール全休から拍手の嵐かわき起こったので、私はどんなにびっくりしたことでしょうか、マイクはだめ、と言っておいたのに、知らないうちに私の意向なんかおかまいなしに、マイクはちゃんと仕事をしていたのです。
エタ・ハーリヒ-シュナイダー「日本の音楽的印象 1941~1957年」より