湖のほとりから。

花と空と心模様を写真と詩と文に託して。

お彼岸の日に

2019-03-21 16:17:00 | 日記

暑さ寒さも彼岸まで。

昔から

うちの母親がよく言っていた言葉。

 

春分の日の今日は

嵐のようなお天気です。

 

父の面影を辿るような横浜巡りをし

友達に自分とお揃いのお土産を買ってきたのを友達に渡したら

急に疲れが出たのか

風邪をひいてしまった私。

 

友達とお揃いのお土産

色違いのレースの小さな手提げ袋

 

ちょうどその友達が自分のお母さんの洋服を買ってあげたいからと立ち寄った先のショッピングセンター内のファミレスで友達と待ち合わせをして渡すことができた。

 

話を聞いて

お土産を渡して帰る途中の車の中で

ふと、亡くなった母のことを思っていた。

 

洋服、もう一度、買ってあげたかったなぁ。

 

買ってあげられる幸せを私はもう掴めないんだなぁって。

 

その友達を初めて羨ましく思った。

 

その夜に

友達からお礼のLINEが来た。

『あなたがあなたのお母さんを大切にしていたのを間近に見ていたから、わたしも、自分の母親をだいじにするよ。洋服を買ってあげたり、面倒をみたりするのが喜びなんだと、やっとわかったよ』と。

 

涙が出て仕方なかった。

 

私は人に教えてあげられるものなんてないと思っていたけれど、彼女が私を見て、自分も同じようにするんだと言ってくれたことが、とても嬉しかった。

 

同時に

やっぱり、与える愛があるのは

幸せなことなんだと思った。

 

帰りの車の中で母を思ったことが蘇った。

 

もう一度、母親の洋服を買ってあげたかった。

喜ぶ顔をもう一度見てみたかった。

 

そう思うと

久しぶりに涙が止まらなくなった。

 

 

友達への返事には

『ありがとう。お母さんを大切に。

お母さんの笑顔がいつまでも、見られますように。

与える愛と言うのは

本当に幸せなことなんだと思うよ』

 

お彼岸の中日のせいか涙もろい私がいる。

決して、風邪の辛さじゃない。

 

母が恋しくなってしまった。

 


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横浜にて『氷川丸』との出会い

2019-03-20 16:46:48 | 日記
週末に
横浜に行ってきた

氷川丸の近くのホテル

そのホテルは偶然のように
予約が入れられた

ホテルから見る風景は
山下公園を中心にするかのように
向こう側には
赤レンガ倉庫が立ち並ぶ様子も
横浜の港湾の鼻先と呼ばれる大桟橋も
見渡せる場所に建っていた

横浜という町は
新しくオシャレだけれど
昔々の面影もちゃんと残してある町で
どこかノスタルジックな
こころがキュンとするような
海の磯の匂いが似合うのか
初めてきた町だけれど
いつかわからない時に
佇んでいたかもしれないと思うのは

あまりにも
歌やドラマに使われていたせいだろう


氷川丸
現在は日本郵船の船として停留されている。


うちの父が亡くなる一年半前
テレビに映った氷川丸をみて
ポツリと呟いたことがあった

『この船、ワシが和歌山の潜水夫をしていた時に、スクリューに巻き込んだロープを外してやったことがあったんや』と。

私が生まれる前の話である。


本当のことかどうか知りたくて
調べるだけ調べたけれど
そうした汚点ともいうべきことは
どこにも書いてはいなかった。


しかし
最後の航海を神戸港で終え
横浜の山下公園に停留されるまで一年
ちょうど父の言う時期と重なり
そして、おそらく
神戸港から横浜に行くのに
わざわざ遠回りはしまい


紀伊水道を通り太平洋に出て
横浜に向かったと推測される。


そうなれば
和歌山での出来事
金属会社の大きな貨物船が入る港に
曳航されてトラブルを回避するだろう


父が言ったことは
どこにも残っていないかもしれないが
頭もまだボケてない
いくら遊び人だった父でさえ
潜水夫と言う仕事に誇りを持っていた

間違いない事実だと
私は受け止めた


そして
横浜に来て
実際の氷川丸と対面することができた

父はかつて言っていた。
当時にしても、それはそれは大きな船で
スクリュー一つとっても
それが一回りするだけで
どれだけ推進力があることか、、。


そのスクリューに巻いてしまったロープを
時折スクリューを左右に回しながら
緩めていく
その時、体がスクリューにもっていかれてしまいそうになりながら
父は決してロープは離さなかったと。
鯉のぼりのように体が水平になりながらだったと言っていた。


私が小さいころ
分厚いゴムでできた宇宙服のような
潜水夫の服を中庭に干してあった
頭の部分は分厚いガラスと鉛のような金属でできたバケツのような被り物は
到底重くて大人が2人がけで持つような。

そして、そこにつながる酸素の管

毎日、毎日、干してあるのが
磯臭くて
ゴム臭くて
汗とタバコの息が混じったような匂い。


父の背中に乗ると
同じような匂いがしたのを覚えてる。


深い海で
水圧と何時間もの作業は
どれだけ体力を使ったのだろう
今なら少しは想像できる


そんなことを思い出しながら
色んなことの記憶を蘇らせながら
氷川丸の船内を歩いた


華やかな客船の時期
戦争の苦しい時期
病院船としての痛ましい時期


これほど数奇な運命を背負った船があっただろうか。


喜びと悲しみを背負いながら
その時代に沿って
任務を全うした船


重厚な船内には
きっと沢山の思いがしみ込んでいることだろう

その一端に
うちの父がいる

そして、私がいる

不思議な感覚
自分の親戚に出会ったかのような

誰かが作って
誰かが船に乗って
沢山の人を運んだけれど

最後の最後に
うちの父が誇らしげに見ているような。

私は氷川丸の見学を終えても
何度も何度も
振り返りながら見ていた

話しかけてくるかのようで
優しい笑みでこちらを見ているようで

思わず
会えて良かったよって呟いた。

















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ホワイトデーとブライダルブーケ

2019-03-14 22:57:40 | ポエム

今日は一日

 

頭の中を空っぽにしたかったのかな

 

ずっと花に触れていたかった

 

 

 

ちょうど

 

課題に出された宿題のようなもの

 

心を無にして取り掛かっていた

 

 

 

あ、そうか

 

今日はホワイトデーだったのか

 

お返しをもらったことがないから

 

はなから関係ない話

 

 

 

あ、そうか

 

今日はあの人の結婚記念日だったのか

 

なんだか体調がわるそうだって

 

だけど今日は記念日だろうから

 

楽しい時間になればいいねって

 

 

 

そう思いながら

 

無になりたくて

 

無になれなくて

 

それでも

 

少しは無になれた

 

 

 

一心になることは

 

気になることを忘れさせてくれる

 

 

 

花を触っていたくせに

 

本当は自分の心を触っていたのね

 

輪郭を確かめて

 

ふと抱きしめたくなる自分の心

 

 

 

 

ブライダルブーケは

 

輪郭が大切で

 

中にふわっとした温かいもので足元を覆う

 

 

 

どうして今日は

 

ブライダルブーケなんて作ってるのだろう

 

 

 

回り回ってきた日

 

回り回ってきた課題

 

 

 

人生の課題は

 

まあるく

 

優しく

 

納めていきたい

 

 

 

出来上がりをケースに入れたよ

 

今この時の空気を入れた

 

 

 

あとは眺めていることにしよう

 

 

きっと見るたび思うこと

 

 

 

キラキラ、イキイキさせたいから

 

自分の中の

 

キュンとしたことを丸めて入れたよ

 

 

 

せめて色褪せず

 

華やかで可愛いままでいて

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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美しいカタチ

2019-03-13 21:46:45 | ポエム
風が私の体を
もうこれ以上進んではだめと
 
 
足止めするほど
いくつもの腕から
押されているように
 
 
髪は乱され
行こうとしても
 
 
もうこれ以上は行けない
 
 
ここからは
私の行く道ではないように
 
 
やっとのことで
風に押されて立っているというのに
 
 
あの複雑な形の雲間から
光は見えているというのに
 
 
近づくことは許されないのね
 
 
手を伸ばそうとしても
寒さでかじかんだ指は空をきる
 
 
そう
眺めているだけね
 
そう
見ているだけね
 
 
掴んじゃいけないものがある
 
 
願うだけしかできないことがある
 
 
きっとそれが
一番の美しいカタチ
 
 
 
西の空に
夕陽がやってきて
 
ぶどう色の雲を作っても
 
昔からのように
 
願いをかけるのが
 
一番の美しいカタチ
 
それが
きっと私のカタチ
 
 
 
 
 
 
 

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パニック発作(広場恐怖症)私の場合

2019-03-13 08:55:04 | 日記
プロ野球ロッテマリーンズの永野選手が
自らパニック障害の『広場恐怖症』であると発表した。
 
 
飛行機、バスが乗れない。
 
人が大勢集まるような場所で
逃げ場がないと感じられるようなところに
行った場合、恐怖、不安で
冷や汗や死んでしまうのではないか
頭の血管が切れて倒れてしまうのではないかと思うがゆえに
パニック発作に見舞われてしまい
その場にいても立ってもいられなくなり
汗をかいたり、気分が悪くなったり
その場を逃げ出しくなったりする不安症状をさす。
 
 
不安神経症とも言われる
 
 
神経の伝達物質が過剰に分泌されるからだとか、遺伝だとかも言われているが
症状をもつ本人しかわからず
突然に発作がきて
一度そんな発作がきてしまうと
次にまた来てしまうのではないかと
『予期不安』を生み
飽くなきループを呼ぶため
長い期間をこの発作に苦しむことになる。
 
 
 
症状は人様々で
 
混んでいるスーパーのレジに並べない
公共交通機関には乗れない
レストランにも入れない
長く続くトンネルに入ると発作がくるとおもってしまう
 
車での移動の際、長い橋の上で渋滞に会うと発作が起きてしまうのではないかとおもってしまう。
 
自分の車をサンドイッチのように、
前後を大型トラックに挟まれてしまうと
生汗が出てきて、飛び出していきたくなってしまう。
 
高速道路で一人での運転ができなくなる。
 
病院でMRIの検査の機械に恐怖ではいれなくなる。
 
仕切られた部屋が狭い場合、息苦しくなって逃げ出したくなったりする。
 
 
ライブ会場でどれだけ見たいアーティストであっても、人に挟まれた状態になると
苦しくなって逃げ出したくなるか
恐怖で倒れてしまうのではないかという不安にかられる。
 
 
 
最近、芸能界の人達の中で
この症状を開示してきた人が多い
 
 
元来、安易に助けてもらいたいと思う人より
だれかの迷惑になってはいけない。
自分がしっかりしなくては、、と
思う人の方がかえって罹患してしまうらしい。
 
 
だから、
そばにいる人に甘えてしまうわけではないが、分かってもらえてる安心感が
次期の予期不安を消してくれるケースもあるので、予め、自己開示しておくほうが
気持ちが楽になると言える。
 
 
 
私が
20年来、このパニック症候群の『広場恐怖症』と一緒に歩いてきた。
 
 
もう自分には、
1人ではどこにもいけないと落胆した日もあったし、今でも場所によっては1人ではいけない。
 
ある日、
唯一安全な家でパニックに襲われて
病院へ連れていかれても、病院に着いた途端に症状は消えてしまった。
 
テレビを見ていて、たった一言のセリフ
 
『家族はあなたがいなければダメなのよ』
 
そのたった一言だった。
当時、自分の親(同居)と 夫との橋渡し
子供と夫との橋渡し
夫は働くだけの企業戦士
 
 
私がいなければ、この家は回らない。
私が頑張らなければならない(ならない)
それを強く感じていた。
 
 
ものすごい恐怖と不安から
呼吸ができなくなり心臓はドキドキと
動悸が止まない。
生汗が手のひらから脇の下へ、滴り落ちるように。
もう死んでしまうという思いになった。
 
 
家族は、何も分からないまま
病院で何ごともないから大丈夫。
気のせい。
気を強く持てば大丈夫だと、とりあってくれなかった。
その後、病院の診察にも
雑踏の中、不安を紛らわし
なんとか一人で待合室でまった。
色んな検査をしても何も出てこない。
たった1人の戦い。
家族は理解はしてくれない。
 
 
何回も起こしていた後
家庭で、起こしたのが
一番大きな発作だったせいで
一番安全な家で起こしたことの自分のショック。
もはや、家庭にさえ安心安全はないと知った思い。
 
 
これを皮切りに
上に書いた羅列した状況になったときに
発作が始まりそうになる
恐怖が優先で、不安が2番目、3番目に誰かに迷惑がかかってしまう。
 
 
その3番目を強く思えば思うほど
いつまでも、症状は繰り返す
 
 
しかし
色んなものを調べて
やっと心療内科にたどり着いた。
 
自分の早めに始まった更年期と重なったこともあり、血圧も安定しない。
高い日が続く
上の数値と下の数値の差が20もない日々
シンドさと、恐怖の日々
 
誰にも言えない
理解してもらえないもどかしさ。
変な目で見られることを恐れ
友達との誘いを断り続けたあげく
数人の友達が離れていった。
 
 
おそらく、いまだに誤解したままだろう。
 
 
病院で処方されたもの
漢方薬と安定剤
 
数種類試したあと
比較的安全に飲め
穏やかな薬と出会った。
 
レストランにも
混み合ったスーパーのレジにも並べるようになった
 
ライブ会場にはいけなくても
バスには乗れなくても
日常生活は守れるようになった。
 
少し楽になってから
心配してくれていた友達に話をして
約束は、ドタキャン有りを承諾の上での
付き合いだと分かってもらえた。
 
家族には
いまだに理解はできないようだが
無理やりこちらが
気分悪くなったら退席するからと
あからさまに嫌な顔を自分がすることも
自分に許し、相手の嫌な顔は気にしないことにした。
 
あの恐怖は
発作を起こしたものしかわからない。
私のたまたま知った友人の悩みが
私と同じパニック症候群で
その友人は外出ができなくなり
しばらく、寝たきりになった。
そのおかげか、家族にはいたわってもらえ
数年かけて、外出できるようになったので
私は比較的軽いのだと言われたが
自分は自分しかないので
友人とて、私との温度差はあったことになる。
 
不安神経症の様々な症状を
それを理解してほしいと思うほうがいけないのだと。
自分から働きかけて
予期不安につながることを避け
家族に気分が悪いんだということだけでも
伝えようとすることを決めたこと。
 
随分と気持ちが楽になった。
 
抗不安剤は手放せないけど
生活はできる。
 
1人では遠出は、今はできないけれど
どうせ、変形性股関節症のおかげで
スポーツ、ウォーキングはドクターストップされているから
私は私の生活範囲の制限がある。
 
そうだ、制限は出ている
 
しかし、制限があるからこそ
その中での
ささやかな幸せを見つけることが出来、
思いを飛ばせることができるのだと思う。
 
 
この先、母の目の病気が遺伝して
私にきたとして
歩けない、見えない、不安でしかたない日が来るかもしれない。
 
 
だけれど、それまでは、
目は美しいものを追い
思いは、素敵なもので満たし続けていきたい。
 
ある日突然、私にとっての
何かしらの奇跡と遭遇することは
誰にで、どこの人であっても
与えられていることだと思ったら
少しは未来は明るく感じられることだろう
 
 
色んなものに制限が出て
狭められたからといって嘆くことは
たやすくできる。
 
だけど、違うものが見えてくる場合もある。
 
だからこそって、、、、。
 
 
少なくとも
私は何でも出来て
どこへでも行ける人よりも
沢山の幸せを見つけられる。
 
 
これは、感謝です。
 
 
 
 
 
 
 
 

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