惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

竹田青嗣「中学生からの哲学『超』入門」(ちくまプリマー新書)

2010年09月18日 | 土曜日の本
中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書)
竹田 青嗣
筑摩書房
Amazon/7net

この本は1年ちょっと前くらいに出た本だが、たまたまいつもの本屋にこれが並んでいるのを見つけたので買って読んでみた。

いいトシしたオッサンが「中学生からの」と銘打たれた本を読むのかと言って、そもそもホントの中学生が、わざわざ「中学生からの」と題された本を買って読んだりするだろうか。それも哲学書を、である。中学生のころのわたしだったら、そういう本は真っ先に忌避して、判りもしないのに本格的な哲学書(のように見える本)を、無理して背伸びして読ん(で、やっぱり全然判らなかった)だりしたはずだと思う。出版社編集者は、もし仮に本気で中学生に本を買わせたいのだったら、そういう中学生の典型的な背伸びの心理を計算に入れて題名や帯の文句をつけるべきなのである。具体的にどうすればいいのかって、今だったらいたって簡単、「中学生からの」というかわりに「中二病の」と書けばいいのである(笑)。

もっとも、実際問題として編集者というのはそんなにアホではない。こういう題名がついているということは、実際にはわたしみたいなオッサン読者を、むしろアテこんでつけられていたりするわけなのである。そして実際に読んでみると、この本はやはり中学生に薦めるには勿体ない超高級な入門書であった。この場合の「勿体ない」というのはケチで言うのではなく、並大抵の中学生ではこの本に書かれたことを(著者がひょっとすると期待しているように)読解することはできないだろうとわたしには思える、ということだ。

本物の中学生にはむしろまず、この著者の「人間的自由の条件」とかを直接読むことをオススメしたい(最近文庫化されたから、ラノベのついでにもう一冊、それも買ってみろというわけだ)。判っても判らなくても、である。そっちを読んでから改めてこの本を読むと、著者が自分の考えをどんな風に噛み砕いて書き直したかがよくわかる。勉強になると言えば、確かにそれはベンキョーになるはずである。

・・・って、いらんことを書いてたら中身のことがおルスになってしまった。日付が変わらないうちに書き足しておく。竹田青嗣の分哲(分析哲学)嫌いは有名だが、この本では珍しく簡潔明瞭にそのわけを書いている。そこだけちょっと引用してみる。

いま英米で流行している分析哲学では、さかんにこういう(アキレスと亀のパラドックスのような──引用者註)論理の謎(難問)を作り出しては、それをどう解くかを競うということが大きなテーマになっている。これは少し前まで、現代思想の最先端だったポストモダン思想などにも言える性格です。私は、このような相対主義にもとづく現代の哲学には批判的です。それは哲学の本義からかなり外れてしまっているのです。
(懐疑論と詭弁論; p.100)

竹田のこうした見解にわたしは賛同できない。分哲にそういう傾向があるのは否めないが、そういうのばっかりではないことも確かである。分哲が「難問」にこだわるのは、それ自体を解くことに焦点があるわけではなく、難問の形で提示された言明が分析対象になっている当の概念の成り立ちを浮かび上がらせるところがあるからで、言わば思考の粒子衝突実験みたいなものなのである(わたしはそう見ている)。そうだとすればそれは哲学の本義からそう外れていない。あるのは方法の違いだけだ。

そうは言っても些末なことに難解な議論が駆使されすぎていると、竹田は今やプロのアカデミシャンだから言わずにはおれないのかもしれない。でもわたしみたいな素人哲学にとっては、そうしたことは実はどうでもいいことなのである。ある学者が哲学の本義から外れた些末事に煩わされていると思えたら、そうした部分は単に読まなければいいだけだからである。

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