惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか(1)

2016年04月20日 | 素人哲学メモ
以下はひとまずさっき投稿した「無題」の続きである。他我問題のさらに根底にこれがあると気づいてしまったからには、考えてみないわけにはいかない。

もっとも、我々にとってこの問いはいわゆる「究極の問い」、つまり存在論としての問いではなく、あくまでも認識論的な問いである。つまり「なぜ(外界には)何もないのではなく、何かがある(我々はそのように外界を見る)のか」ということである。

存在論としての問い、つまり究極の問いの方は、正直、まともに考えてみたこともないのだが、根拠もなしに問いを回避していると思われても癪だから、その根拠だけは最初に書いておこう。理由がどうあれ(あるいは理由がなくても)わたしは事実存在している。つまり「究極の問い」の答はわたしが事実存在することにいかなる影響も与えない。したがって、存在するわたしがすることについてのいかなる問いの答も、わたしがなぜ存在するかという問いの答の如何には影響されない。ある問いの答が別の問いの答に影響を及ぼしうるなら、後者とともに前者を考えることには当然意味がある、けれども影響がないなら、前者について考えることは、それとは無関係な後者に関する限り無益である。

以上の論証に釈然としない人がいるなら、上述の「わたし」をたとえば「物質宇宙」に置き換えれば、なぜ自然科学が宇宙の存在理由を問わないのかについての普通の答え方になることを確認してもらいたい。すなわち、この宇宙がなにゆえ存在するかということの理由は、仮にその理由があるとしても、それはまさにこの宇宙(very universe)で起きていることの探究、すなわち自然科学の研究プロジェクトにはいかなる影響も及ぼさないのである。

ついまともに考えてしまって(笑)長くなった。マクラだけ投稿するのは気が引けるが、以後は認識論的な問いに限って議論するので、どうでもいい前置きで煩わせないためにもこれだけ別にしておきたい、ということで勘弁してもらいたい。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 無題 | TOP | 4月20日(水)のつぶやき »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 素人哲学メモ