分業によってどんな場合でも生産性が上がるというわけではない、とはいえ、たいていの場合は上がるように思われる。上がる場合の効果はしばしば劇的である。これはアダム・スミスの時代から広く言われていることで、時代と社会によらず実際にもたいていそうであることから、今では改めて反省されることもめったにないし、ほとんどの人がことさら理由を問うこともなく信じている。
けれども、あえて反省してみる価値はある。生物の個体レベルで分業するのは基本的に人間だけだからである。社会性昆虫などでは集団内で分業がみられる場合もあるし、個体レベル以下では、たとえば個体の細胞レベルでは細胞分化という形できわめて高度な分業が生じている、けれども個体レベルで身体構成にまさるとも劣らない高度な分業が生じているのは、人間、特にアダム・スミスが『国富論』を書いた産業革命の時代より後の人間社会においてだけである。
さて、なぜ分業によって生産性が上がるのかについて、アダム・スミスは3つの理由を挙げている(※いま手元に『国富論』の本がないので、以下はWebでテキトーに調べた結果から自分なりに書き直したものであると断っておく)。
(1) 単純な作業は容易に熟練することができる
(2) 作業と態勢の変更に伴うコストが減らせる
(3) 単純な作業を効率化する道具が発明される
これらをたとえば個体の身体構成における分業、つまり細胞分化の場合にあてはめてみると、どうなるだろうか。そうすることで分業ということの自然的な効用を見定めやすくなる。
(1) 細胞が自ら何かに熟練するということはまずない(笑)けれども、熟練と同じことが細胞分化によって起きていることは確かである。すなわち、細胞が分化するということは機能的に分化するということであり、単細胞生物なら生存の必要から備えている機能の多くは、多細胞生物の分化した細胞においては退化するか消失する一方、残された単一あるいは少数の機能が(しばしば著しく)強化されている。
(2) 細胞の場合、その活動が細胞全体の態勢(モード)として明確に区分されるということはそれほどない、けれども、より微細に眺めれば活動内容が変化することに伴うコストは確かに存在している。細胞の活動内容が変化することは大なり小なり遺伝情報の参照が変化するということであり、それに伴う発現機構の構成が変化することである。細胞はこれらの分子的動作のいちいちに化学エネルギーというコストを支払っている。
(3) 細胞が自ら何かを発明するということはまずない(笑)けれども、分化した細胞においては単細胞生物が通常産生しない物質や細胞内装置が産生されるということは広く見られるし、分化した細胞の機能的な強化はたいていそのような物質ないし装置によって支持されている。
いずれの場合も細胞分化は、細胞が単独で生存する能力を失うか減退させることを代償として特定の機能を強化し、細胞あたりの生存コストを下げることにつながっている。そして単独で生存する能力の喪失は集団(組織体※)として生存する能力の増大によって埋め合わされる格好になっている。その集団(組織体)として生存する能力の増大は、ごく大雑把に言えば、集団をひとつの組織体として束ね上げる秩序の強化ということに対応している。
※この「組織体」は英語で書けばorganismで、生物体、あるいは単に生物とも、あるいは古くは(今でも専らそう訳す分野もあるが)有機体とも訳されてきた言葉である。
こう考えると、もともと均質で無秩序な集団の内側で分化ないし分業が(またそれを裏打ちするように組織体としての秩序化が)進むのは、あたかも必然の成り行きのように思う人がいるかもしれない。けれども地球上の生命の歴史においても、人類文明の歴史においても、こうした分業体制の進化は決して直線的に進行してきたわけではない。まずこれが疑問のひとつである。
また、分業と秩序化の進行が必然的なら、個体レベルでの分業ということが同種の集団内でそれほど広くは見られないのはなぜか、あるいは、多数の種を含む生態系をひとつの組織体としてみることが可能であったとしても、その生態系の時間に沿って分業(種の分岐)がとめどもなく進行するということがない(ひとつ生態系をひとつの秩序によって束ねられた組織体としてみた場合、その秩序はどんな場合でも非常に緩いままにとどまっているように見える)のはなぜかという疑問が生じる。分業と秩序化にかかわる過程のすべては機械的(自然的)な過程であるとしても、少なくとももうひとつのパラメタがなければこれらを説明することはできない。
さらにまた、細胞レベルのことで言って、多細胞生物は単細胞生物を圧倒するほど「成功」してきたと言えるわけではない。今日の地球上においても生物の大部分は(個体数や種の多様性においてはもちろん、重量比においても圧倒的に)単細胞生物であり、多細胞生物の生存は単細胞生物に強く依存している。少なくとも多細胞生物の世界が単細胞生物の世界を(生物的に)「支配」しているわけでは全然ないことは確かであるし、見方によってはむしろ逆に、前者は後者の道具として作り出された(支配されている)という見方すら成り立つのである。
題名に掲げた問いの答はアダム・スミスの答に尽きているとしても、その先にはまだ不明なことが多く残されていると言わなければならない。掲げてきた疑問をひとつの問いにまとめて言えば、すなわち「分業による生産性の向上は(本当は)何を意味しているのか」ということである。
(つづく)
けれども、あえて反省してみる価値はある。生物の個体レベルで分業するのは基本的に人間だけだからである。社会性昆虫などでは集団内で分業がみられる場合もあるし、個体レベル以下では、たとえば個体の細胞レベルでは細胞分化という形できわめて高度な分業が生じている、けれども個体レベルで身体構成にまさるとも劣らない高度な分業が生じているのは、人間、特にアダム・スミスが『国富論』を書いた産業革命の時代より後の人間社会においてだけである。
さて、なぜ分業によって生産性が上がるのかについて、アダム・スミスは3つの理由を挙げている(※いま手元に『国富論』の本がないので、以下はWebでテキトーに調べた結果から自分なりに書き直したものであると断っておく)。
(1) 単純な作業は容易に熟練することができる
(2) 作業と態勢の変更に伴うコストが減らせる
(3) 単純な作業を効率化する道具が発明される
これらをたとえば個体の身体構成における分業、つまり細胞分化の場合にあてはめてみると、どうなるだろうか。そうすることで分業ということの自然的な効用を見定めやすくなる。
(1) 細胞が自ら何かに熟練するということはまずない(笑)けれども、熟練と同じことが細胞分化によって起きていることは確かである。すなわち、細胞が分化するということは機能的に分化するということであり、単細胞生物なら生存の必要から備えている機能の多くは、多細胞生物の分化した細胞においては退化するか消失する一方、残された単一あるいは少数の機能が(しばしば著しく)強化されている。
(2) 細胞の場合、その活動が細胞全体の態勢(モード)として明確に区分されるということはそれほどない、けれども、より微細に眺めれば活動内容が変化することに伴うコストは確かに存在している。細胞の活動内容が変化することは大なり小なり遺伝情報の参照が変化するということであり、それに伴う発現機構の構成が変化することである。細胞はこれらの分子的動作のいちいちに化学エネルギーというコストを支払っている。
(3) 細胞が自ら何かを発明するということはまずない(笑)けれども、分化した細胞においては単細胞生物が通常産生しない物質や細胞内装置が産生されるということは広く見られるし、分化した細胞の機能的な強化はたいていそのような物質ないし装置によって支持されている。
いずれの場合も細胞分化は、細胞が単独で生存する能力を失うか減退させることを代償として特定の機能を強化し、細胞あたりの生存コストを下げることにつながっている。そして単独で生存する能力の喪失は集団(組織体※)として生存する能力の増大によって埋め合わされる格好になっている。その集団(組織体)として生存する能力の増大は、ごく大雑把に言えば、集団をひとつの組織体として束ね上げる秩序の強化ということに対応している。
※この「組織体」は英語で書けばorganismで、生物体、あるいは単に生物とも、あるいは古くは(今でも専らそう訳す分野もあるが)有機体とも訳されてきた言葉である。
こう考えると、もともと均質で無秩序な集団の内側で分化ないし分業が(またそれを裏打ちするように組織体としての秩序化が)進むのは、あたかも必然の成り行きのように思う人がいるかもしれない。けれども地球上の生命の歴史においても、人類文明の歴史においても、こうした分業体制の進化は決して直線的に進行してきたわけではない。まずこれが疑問のひとつである。
また、分業と秩序化の進行が必然的なら、個体レベルでの分業ということが同種の集団内でそれほど広くは見られないのはなぜか、あるいは、多数の種を含む生態系をひとつの組織体としてみることが可能であったとしても、その生態系の時間に沿って分業(種の分岐)がとめどもなく進行するということがない(ひとつ生態系をひとつの秩序によって束ねられた組織体としてみた場合、その秩序はどんな場合でも非常に緩いままにとどまっているように見える)のはなぜかという疑問が生じる。分業と秩序化にかかわる過程のすべては機械的(自然的)な過程であるとしても、少なくとももうひとつのパラメタがなければこれらを説明することはできない。
さらにまた、細胞レベルのことで言って、多細胞生物は単細胞生物を圧倒するほど「成功」してきたと言えるわけではない。今日の地球上においても生物の大部分は(個体数や種の多様性においてはもちろん、重量比においても圧倒的に)単細胞生物であり、多細胞生物の生存は単細胞生物に強く依存している。少なくとも多細胞生物の世界が単細胞生物の世界を(生物的に)「支配」しているわけでは全然ないことは確かであるし、見方によってはむしろ逆に、前者は後者の道具として作り出された(支配されている)という見方すら成り立つのである。
題名に掲げた問いの答はアダム・スミスの答に尽きているとしても、その先にはまだ不明なことが多く残されていると言わなければならない。掲げてきた疑問をひとつの問いにまとめて言えば、すなわち「分業による生産性の向上は(本当は)何を意味しているのか」ということである。
(つづく)