惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

ヘーゲル哲学と弁証法にかんするメモ

2016年04月22日 | 素人哲学メモ
わたし以外は誰も言わない(誰かが言ってるのを読んだことがない)ことだが、わたしが前から言っていることは、ヘーゲル哲学はニュートン力学の双対(dual)として考えるのが一番判りがいいはずだ、ということである。ニュートン力学が物質の運動を扱うように、ヘーゲル哲学においては概念の運動が扱われている。だからヘーゲル哲学における、いわゆる弁証法的な論理学というのは、ニュートン力学における運動方程式のようなものである。ただしそのヘーゲルの論理学は、ニュートン力学においては本質的な「時間」の概念が消去された形で定式化されている。それは、哲学(ヘーゲルのいう論理学)において時間は本質的ではないとヘーゲルが考えていたからにほかならない。実際、ニュートン力学における物質(質点)の運動は位置の時間発展(時間に沿った状態の変化)にほかならないが、概念の運動は別に時間的なものであるとは限らない。言ってみればニュートン力学が19世紀のラグランジュやハミルトンによって解析力学として、つまり対象の状態を一般化された「位置と運動量」のふたつからなるものとした上で再定式化されたように、おなじ19世紀の哲学者ヘーゲルにおいても概念(命題)は真偽のいずれかであるものではなく、それ自身のうちに否定の契機を含む自励運動体として考えられていたのである。いいかえれば、現代にいたる形式的な論理学においては通常そう見なされる述語(predicate)としての概念ではなく、言葉の本来の意味における概念、つまり思念(cogito)としての概念が、そこでは考えられていたということである。

ところで、上のことを思い出しながら改めて書いてみているうちに、ひとつのことに思い当たった。

わたしが素人哲学と称してやっている考察に独自の方法的な原理のようなものがあるとして、それを一言で言えば「通常(従来)は二分割ないし正面衝突の図式で考えられている(いた)さまざまな『対立』を、正面衝突ではなく直交する交差点上の『競合(ないし葛藤)』の図式で捉え直してみること」だということになる。

心身問題の解からしてそうで、デカルト的な二元論がそうであるように、世界を物質的と観念的の二領域に文字通り二分割するのではなしに、物理領域を列方向、心的領域を行方向とする無限次元行列を世界とみるならば、物理表示と心的表示は互いに不確定性関係をもつことになる、という考えがあの解を発想した根底にある。そしてこの考えは、もとをただせば(冒頭に書いたように)ヘーゲル哲学をニュートン力学の双対とみることができる、ということから着想されたものである。

ちなみに、こうした発想は必ずしも珍しいものではなく、スピノザ由来の二重相貌説なんかも基本的には同じ発想だと言えないことはない。ただ、幸か不幸かスピノザは無限次元の算数を知らなかったので(笑)、その二重相貌説は結局属性二元論のいち変種に帰着してしまう。すなわち、この世界には物質面からは見えない「ウラの顔(相貌)」が存在して、それが裏側の精神面からは見えるのだ、という話にオチてしまう。これは紛れもない属性二元論であって、近代から現代にいたる自然科学の研究史において余すところなく否定されてきた考えである。実際、この論理を用いればほとんどどんな種類の神秘主義でも容易に導けるし、正当化できてしまう。自然科学の研究史をまるごと虚仮にするつもりなら、である。

最初はだから、この考え方は心身問題の解を導くために、ある意味アドホックな思いつきを導入したものではあったのだが、色々考えてくると(なんだかんだでもう十数年になる)自分の考察のいたるところで同様の発想を使っているわけである。そして何に思い当たったかというと、つまりこれが弁証法的論理の本義なのではないかということである。

そもそもヘーゲルはなぜ形式論理の明解さをかなぐり捨ててまで「それ自身のうちに否定の契機を含む自励運動体」としての概念ということに固執したのか。つまりそれこそが、人間なら誰でももち(デカルトに言わせれば「公平に分け与えられており」)、かつ人間しかもつことのない理性的思考の本質的な特徴であること、いいかえれば、人間が他のあらゆる存在カテゴリから区別される、つまり人間が人間であることの本質をそこに見出していたということではないだろうか。
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