惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

商家の道徳

2011年12月26日 | げんなりしない倫理学へ
商家の心得集みたいなものは昔からたくさんあるわけだが、わたしはそういう家に生まれ育っていない、共働きの勤め人の息子であるせいなのか、コドモのころからその種の心得集みたいなものを──友達の家が商売をやっていて、遊びに行ったりすると、だいたいそういうのが家のどこかには掲げてあったり、日めくりみたいなものとしてあったりするわけである──目にするたびに「まったく、どうしてこんな何でもかんでも禁欲的なんだ」と思わずに済んだということがないわけである。

「親のいいつけはよく聞いて」みたいなのを読むと「うるせえ」とか思ってしまう(笑)。そんなこと、わざわざ書かれていなくたって、親はどこの親でも口やかましいものだと決まっているわけである。それをわざわざ文字にまでして書いてイマシメに掲げておくというのは、いったいどういう悪趣味なんだと思ってしまうわけである。もちろん口にはしないけど。

それは今でもそう思う(笑)のだが、

今はそれとは別に、どうしてそうなるのかの理由がなんとなくわかるようになっている。

なんで、何がどうわかったのかと言えば、わたしは若いころ、ささやかながら何年かのあいだ物書き稼業をやっていたわけである。それは極小形態だとは言っても一応「自営業」である。もちろんものすごく貧弱な何かである、とは言っても「商売」の一種であることに違いはないのである。

それをやるとわかるのは、というかやってみて初めてわかったことは、商売をやるというのは本当に24時間休みなしでコミットしていなくてはならないような何かだということなのである。それもただやっていればいいというのではない。何をどうするにも後先を考えながらやらなくてはならないのである。文字通り脇を固めて、生活過程の全体をそれに向かって集中的に組織し、ほんとにガッチガチに固めてじりじりと、淡々と、面白くもおかしくもなく進んで行くのでなければ、ちょっと気を抜くだけであっという間に何もかもが破綻してしまうわけなのである。いや破綻はしないまでも、でもその瀬戸際まではすぐに追い込まれるのである。地獄を見たとまでは言わないけれど、その入り口くらいは何度か見たような気がする。

そういうことである。昔の人は、特にわが国の昔の人は、そういう場合に理屈で考えるということはまずしないし、なまじ考えたところで全然身についてくれない、言ってることとやってることが乖離するばっかりのことになる(笑)ので、だいたい道徳で固めようとする方向に傾くわけである。その帰結するところがあの、商家の心得集の文言なのである。個別の文言にはさしたる意味は、たぶんないので、ただもう「用心せよ節制せよ引き締めよ、遊ぶな逃げるな怠けるな、黙々と粛々と営々とやれ」なのである。

それをはっきり身につまされたのは、わたしの場合は物書き稼業の体験だったということになるわけだが、でも本当はどんな仕事であれ、始めてみれば必ずや「貧乏ヒマなし」のことになってしまう──金銭的にはそれなりに儲かっていたとしても、である──のは、たぶんそれほどには違わないことである。そんな日々の中でふと立ち止まって考え込んだりすると「なんだよ・・・生きてていいことなんか何ひとつねえな。何だこれ・・・何なんだよこれは!」という感じしかやって来ない。それは本当にそうである。

だから普通の人達は立ち止まったりはしないのである。それだけではない、病気であれ不運であれ、あるいは意志してそうなったのであれ、何であれたまさか立ち止まってしまった人に対しては、世間の人々は客観的にだけ言えばまったく無体きわまりもない悪罵を投げつけたりするわけである。不運でそうなったのが明らかだと頭から罵ったりはしないけれど、どうも何か、次第々々に態度がそういう風になって行ったりするわけである。

twitterやなんかを「うつ病」とか「怠け病」とかで検索したりすると(むろんそれは、わたし自身がこのblogの題名の通りの怠け病者で、このblogや自分の呟きのネタにするためにしているのである)、そういう悪罵はもちろんのこと、悪罵の残響やら、投げつけられた側の悲鳴やら、どうもいささか怪し気な治療法の宣伝やら、大部分がそういったもので画面が埋め尽くされる。

それはそういうことなのだろうなという気がする。つまり、そういう(本当に不運でそうなったのかもしれないとしても)不運な人の不運を罵り倒してでも心情の上で拒絶しなかったら、自分の方もたちまち空虚に晒されてしまうであろうことを、普通の人達は心のどこかで知っているというか、「sad but true(悲しいけれど本当のこと)」というやつを握りしめているのではないだろうか。

・・・もちろん、こんなことをこんな風に書くということは、わたしはやっぱりどこか普通の人達の世界からはハズレてしまっているのである。いくつになっても本質的には世間知ラズのノンキ者なのである。詩人ではないから言葉の格好いい蝶々を追いかけたりはしないけれど、素人哲学だから論理の格好いい蝶々は追いかけようとしているに違いないのである。

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