惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

2-5a (ver. 0.1)

2010年03月26日 | MSW私訳・Ⅰ
第2章 志向性

2-5 志向性の一般的な構造

ここまで、わたしは記憶や知覚についてほとんど言及してこなかった。というのもこの本は大部分行為について扱っていて、これらのより厳密な認知的現象について扱うものではないからである。しかし完全性のためには、知覚や記憶が(先行意図や行為中の意図のように)因果的に自己参照的であることを指摘しよう。あなたは対象の存在があなたの視覚的な経験を引き起こす場合にのみ、その対象を見る。あなたは、あなたがピクニックを経験した事実が現在のピクニックの記憶を引き起こす場合にのみ、ピクニックを記憶(想起)する。しかし記憶や知覚の適合方向と因果の方向は先行意図や行為中の意図のそれと鏡像対称の関係にある。記憶と知覚は下向きの、つまり「心→世界」の適合方向を持つが、これは先行意図や行為中の意図が上向きの、つまり「心←世界」の適合方向を持つこととは違っている。視覚的な経験の因果的な自己参照性と記憶の経験は、状態それ自体が状態の内容のうちに表象される事柄の状態によって引き起こされる場合にのみ満たされるような何かである。結果はここまで記述してきた志向性のタイプの間の、ひとそろいの美しい形式的な関係である。それを以下の表に示す。


表2.1 志向性

いささか古めかしい「認知(cognition)」と「意志(volition)」の語を、これらの志向状態の基本タイプの名前として用いる。(「適用不可」というのは[原文ではN/Aと表記されている]、信念や欲望はその志向内容において因果的な自己参照性の条件を持たないので、因果の方向についての問題が生じないということである。)

志向性のさまざまな構成要素の形式的な関係はこのように美しい(実際とてもキレイだ)ものなので、わたしは少なくともこの対象性が暗示するものについて言わなければならない。我々の、認知の原始的形態──つまり知覚と記憶である──を介した現実世界に対する関係の概念は絶対的に基礎的である。充足条件を構成する事柄の状態が、事柄の状態をその充足条件としてもつ、まさにその知覚や記憶を引き起こす場合にのみ、「心→世界」の(下向きの)適合方向の形態において我々は満足を達成すると我々は考える。意志によって、我々は厳密にその鏡像を得る。それは我々のやってみることや計画、行為中の意図や先行意図の成功の認知において等しく基礎的であるので、まさにその計画ややってみることがその成功を引き起こす場合にのみ(つまり、志向的現象、つまり心的現象がそれが表象する世界の中で事柄の状態を引き起こす場合にのみ)「心←世界」の(上向きの)適合方向を達成することに成功する。我々は「心←世界」の適合方向を、「心→世界」の因果の方向によってのみ達成する。

多くの哲学者は志向性の原始的形態は信念や欲望だと考えている。しかし我々はこれらを、行為と知覚における志向性のより生物的な基本形態から派生し脱色された(etiolated)形態だと見るべきである。信念や欲望においてこれらの因果関係は漂白される。信念と欲望はそれによってはるかに柔軟になっている、というのもそれらは因果的に自己参照的な構成要素を持たないからである。しかし現実に対して関係づけられる生物学的により基本的な形態とは、我々の計画(先行意図)、やってみること(行為中の意図)、知覚、記憶である。これらにおいて我々は因果的かつ表象的な構成要素を持ち、それらは厳密に、ここまで記述してきた道筋に結びつけられる。

ひとつ、先の図で除外されていた機能は想像力である。想像力は適合方向を持たないので除外したものである。状態のタイプSと内容pの区別を想像力に適用する。わたしは雨が降ってると信じることができる、あるいは望むことができるように、わたしは雨が降ってると想像することができる。しかし下向き(心→世界)の適合方向をもつ信念や上向き(心←世界)の適合方向をもつ欲望と違って、何かを想像することは、その場合何を想像したと信じるのか、あるいはその場合何がどうなってほしいのか、どちらにもわたしを束縛(commit)しない。しばしば人は何がどうなりそうかを空想したりはするが、それは欲望を形成する空想や想像の本質的な特徴ではない。人は何が起こるかを空想し、恐れや憎しみを空想する。そして実際起こりえないことを信じる。想像に適合すべき責任は存在しない。想像することに独特なもうひとつの特徴(あるいは、そうでありうるもの)は自由な意思的な行為(free voluntary action)である。わたしはわたしが信じることも欲することも意志的に意図することもできないことでも何でも想像することができる。「想像せよ」という動詞は他の動詞がそうできない場合でもいとも容易に命令法をとることができる。「ヴェニスの暮らしを想像せよ」は正しい文である。それは「ヴェニスで暮らすことはどんな風なものであるかを想像してみよ」という意味である。しかし「ヴェニスの暮らしを信じよ」「ヴェニスの暮らしを欲望せよ」「ヴェニスの暮らしを意図せよ」はすべておかしな文である。

※・・・そうなのか?特におかしな文(bad English)だとは思えないのだが・・・英米人が聞くとヘンなのか?

志向性のこの説明においては「より基本的なことからあまり基本的でないことへ」の自然な進行が存在する。志向性の最も原始的な形態とは知覚と意図的行為である。これらの場合、動物は環境と直接接触し、環境が動物に何かを引き起こす(知覚)か、あるいは動物の方が環境に何かの変化を引き起こす(行為中の意図)。これらに比べるとより基本的ではないのは、それらがそれらの充足条件としてもつ表象である。これらは先行意図と知覚的記憶である。これらの場合、我々はやはり因果的な構成要素をもつが、充足条件との直接の因果的結合は失っている。記憶は過去を表象する。先行意図は未来を表象する。そのとき次の段階は信念と欲望である。そこで我々は因果的構成要素の必要を除去する。あなたは何かを信じることができるし、信念はあなたの信じることがあなたの信念を引き起こさなくてさえ満たされうるし、あなたは何かを欲することができるし、あなたの欲望はあなたの欲望が欲望の充足を引き起こさなかったとしても満たされうる。想像においてあなたは充足条件との内的結合を失う。

(つづく)

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