惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

吉本隆明インタビュー「『反原発』で猿になる!」(週刊新潮)

2011年12月28日 | 読書メモ
twitterの方でも呟いたことだが、吉本隆明がインタビューとはいえ週刊新潮に登場するのはこれが初めてなんじゃないかと思う。実際、初めてだからなのだろうか、上の、たぶん編集者がつけたのだろう記事の題名はまったくのチンプンカンプンである。もう、奇を衒ったとかそういうのだとも思われない、おめえ全然判ってねえだろwwwとツッコミ入れたくなるような意味不明なのである。こんな珍妙な題名は近頃低迷著しい週刊新潮でも、ちょっと珍しいんじゃなかろうか。まあ、今こうして吉本を引っ張り出してきたとは言っても、もともときっと相当苦手な相手なんだろうぜと勘繰ってみたりする(勘繰った結果はtwitterの方で呟いてある)。

何はともあれ、まず題名のもとになったのだろう部分を引用しておく。

恐怖心を100%取り除きたいと言うのなら、原発を完全に放棄する以外に方法はありません。それはどんな人でも分かっている。しかし、止めてしまったらどうなるのか。恐怖感は消えるでしょうが、文明を発展させてきた長年の努力は水泡に帰してしまう。人類が培ってきた核開発の技術もすべて意味がなくなってしまう。それは人間が猿から別れて発達し、今日まで行ってきた営みを否定することと同じなんです。(強調は引用者)

まあ、要はいつぞやの「原発をやめろと言うのは、人類をやめろと言うのと同じ」だという発言のバリエーションである。それを読んでいれば上の題名のチンプンカンプンからでも大方察することはできるわけだが、みんながみんな吉本の発言を追っかけてるわけじゃないんだからさ。

そんな具合にどうも背後のスタッフにトンチンカンの気配が漂うのだが、しかし記事の中身は、いつも通りの吉本ではあるが、B5版の誌面の2ページ半ばかりの中に結構充実した発言が詰まっている。いちいち全部引用したら買う人がいなくなっちゃうからいくつかだけにとどめておくが、トンチンカンの中でもこれだけ話を引き出したのだから、とにかく週刊新潮の編集は頑張ったのである。それは確かだと思える。

・・・原発を改良するとか防御策を完璧にするというのは技術の問題ですが、人間の恐怖心がそれを阻んでいるからです。反対に、経済的な利益から原発を推進したいという考えにも私は与しない。原発の存否を決めるのは「恐怖心」や「利益」より、技術論と文明論にかかっていると考えるからです。

・・・小林秀雄は尊敬していた人でしたから、何を考えているのか知りたかった。(中略)意見を求められた小林は、「(中略)俺はもう年寄りだからね。”今は違う考えになっている”なんて言う気はさらさらない。だから、戦争中と同じ考え方を今も持っているさ」と答えたんです。(中略)さすがだなあ、と思いましたね。世の中では時代が変わると政府も変わる、人の考え方も変わる。それがごく当然なのですが、僕はそれにももの凄く違和感があった。

・・・特に今みたいな状況の中では誤解のないように言うのは中々難しいんです。/しかし、それでも考えを変えなかったのは、いつも「元個人(げんこじん)」に立ち返って考えていたからです。/元個人とは私なりの言い方なんですが、個人の生き方の本質、本性という意味。社会的にどうとか政治的な立場など一切関係ない。生まれ育ちの全部から得た自分の総合的な考え方を自分にとって本当だとする以外にない。そう思ったとき反原発は間違いだと気がついた。/「世間で通用している考えがやっぱり正しいんじゃないか」/という動揺を防ぐには、元個人に立ち返って考えてみることです。そして、そこに行きつくまでは、僕は、力の限り、能力の限り、自分の考えはこうだということを書くし、述べるだろうと思うんです。

(強調はすべて引用者)

「元個人」という言葉はこのインタビューで初めて使われた言葉だと思うが、言われている内容も同じように急拵えだというわけではない。敗戦直後の「一億総懺悔」な風潮の中で「俺の考えは今も戦争中の通りだ」と答えた小林秀雄を「さすがだ」と思いながら、なおそれを上回る違和感を抱いたところから始まった批評家・思想家としての吉本隆明の、世間の風潮にひとり抗していつも「一糸乱れる」発言をしてやむことのない、その根本にある発想の奥義というか精髄がこの「元個人」の3文字に込められていると言うべきである。そう読むべきである。

肉体のように目に視え、肉声のように耳に聴くことのできる思想と論理だけに席があたえられ、それ以外なものは削り取られる。この観念の肉体は生々しいかも知れないが、蝸牛のように殻の内だけを磨くことになる。だいたい思想や論理が、肉体や声のように生々しいだけで済むようなあらゆる抽象と論理と感覚の行手はたかが知れている。小林秀雄が到着した場所はそこであった。
(吉本隆明「小林秀雄」(「悲劇の解読」所収))

これを引用しようと思ってググったらトップに出てきたのは自分のblogの記事(高速哲学入門(79))だったよww

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