惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

メモランダム

2012年09月11日 | チラシの裏
そう言えば今日は911だった。

ついでに言えば、昨日は実は自殺予防デーか何かだったそうだ(知ってはいる、国際テロ組織WHOのオマツリなんぞに同調したくないだけだ)が、状況に何らの変化もないことを、故松下金融相が示してしまった。例によって陰謀好きの人達の間ではこれも謀殺だったのではないか、などと言われている。しかし現状でそうした憶測をたくましくする理由をわたし個人はまったく持たないと言っておきたい。



しばらく前からマルクスの「デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異」を読み返している。新訳が出ていることに気づいて「せっかくだから」と思って買って、そのまましばらく放置していた(笑)ものである。

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マルクス・コレクション1 学位論文・ヘーゲル法哲学批判序説
(中山元+三島憲一+徳永恂+村岡晋一訳・筑摩書房)
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吉本隆明が「マルクス紀行」で言及していたマルクスの自然哲学を、エピクロスに遡って読み返し、捉え返してみたいというのは、吉本とマルクスの両方の読者であれば誰でも一度は目論む(笑)ことなわけである。実際わたしは若いころ何度かそのつもりで読んだ、いや、読もうとしたのだが、その都度ザセツしてきた。今回はそれよりはましな感じで読めている。THN1巻の私訳を1年がかりでやった甲斐が、意外なところにあったのである。

エピクロスとヒュームに何の関係が、と思うだろうが、(実際、そんなにはないのだが)マルクスはこの論文の序でTHNの一節を引用している(ちなみに、この訳書のその箇所では大槻訳が引用されている)と言ったら、読んだことない人は驚くかもしれない。だが事実である。読みようによって、の話であるが、ヒュームが現象学の18世紀における祖先であるとすれば、エピクロスは古代ギリシャにおけるさらなる祖先だと言えないこともないところがある、と思う。

感覚による知覚に反論できるものはない。同じ感覚は、同じ感覚を否定できない。確実性が同じだから。また異なる感覚は、異なる感覚を否定できない。同じものについて判断していないから。そして概念も感覚に反論できない。概念は感覚による知覚に依拠しているのだから。
(エピクロス「基準論」上掲書p.30)

少なくとも、マルクスはエピクロスと同じくらいヒュームを読んでいたと思われる。

とはいえ、このネタからこの先何かアウトプットを出せるかどうかは定かでない。いまわたしはいろんな意味で余裕がなくて、ひとつのことに集中して取り組むということができていない。



それはそうと「エピクロス」でググってみるとこんな記述がみつかる。

  より詳しく彼(エピクロス)の主張を追うと、彼は欲求を、
    (1) 自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、
    (2) 自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、
    (3) 自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、
  このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが
  良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア; ataraxia)」を追求する
  ことが善だと規定した。
  (Wikipedia)

別に珍しい見解ではない。エピクロス派というのはこういう考えだ、というのは高校生が倫社の授業でも習うことであろう。

しかしエピキュリアンと言えば快楽主義者の別名なわけである。今ではあんまりいないが、昔の衒学的な教養主義者、つまり知的にスカしたところをもつ連中ほど前者を好んで用いたものである。

ま、どっちみちそれは誤解から生じた話だというのは、これも教科書に書かれていることだ(笑)が、どうしてそんな誤解が生じたのか。上の説明を普通に読めば、むしろこれこそ「ストイック」の最たるものではないのだろうか。そう思う人が多いはずである。特に反(脱)原発の左翼テロ連中なんかは大喜びしそうである。なんてったって彼らにとって嬉しいことに、エピクロスはマルクス自然哲学の師匠なのである。そしてこれは「清貧の思想」のようにも読めるわけである。昔っから左翼テロは口先で清貧を語るのが大好きである。

実際、根本的にはそれは老エピクロスを蝕んだ「清貧の思想」であったのだろう。続けてこういう記述がある。わたしが記憶している限りでは、倫社の教科書にもだいたいこんな風なことが書いてあった。

こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性についてストア派から激しく批判されることになった。
(同上)

まあ、昔から哲学というのは、多くは世間知らずな金持ちのボンボンの(その反抗心と自己韜晦も含めて)暇潰しであったわけである。エピクロスにしてもたぶん、もともとはどっかそういうところがあって、トシをとるほどにそれが露出してきたのであっただろう。性懲りもない。古代ギリシャであれ現代の先進世界であれ、自由な市民()などと称したがる連中は、というところである。

それはそれとして、こうした態度が快楽主義と誤解されるのは、ずっと後代のフロイトが言った「快感原則」がやはり同様に誤解されて受け止められたこととパラレルなのである。これは、ひょっとすると倫社の教科書には書かれてもいないことである(倫理学の教科書はもともと「カント大先生と定言命法を讃える」ためにあるものなので、カント以後の思想哲学については基本的に扱いがお座なりである)。実のところフロイトのいう「快感原則」とは、上の(1)にほぼ重なるものだと言っていい。快感原則というのは、ひらたく言えば赤ん坊(ないしは幼児)の欲求と充足のありかた(ないしは苦痛と忌避のありかた)である。「おっぱい──まんぷく──すやすや」の繰り返し、アタラクシアとはこれである。赤ん坊はその権化である。フロイトの文脈においては以下のようになる(以下の引用では「快楽原則」と訳されている)。

人間のエスは快楽原則に従い若年期を支配するが、成熟する(大人に近づく)に伴い、現実世界の急迫や障害のために苦痛に耐え充足を延期することを学ぶ。「教育された自我は『理性的』になる。それはもはや快楽原則により支配されるままにはならず、現実原則に従うようになる。これもまた根底では快楽を求めるのであるが、その快楽は現実を計算に入れた上で確保されたものである。延期され減少した快楽であるかもしれないが」。(Wikipedia)

これを上の(2)や(3)に重ねてみると、フロイトの言い分もまた、無類の勤勉実直の上にもクソ真面目の石部金吉であったフロイト宗匠の性格が少々反映されすぎたものであることがよくわかる。現実原則が加わることによって快楽の追求は延期されはする(ここでいう延期とは、つまり「我慢」とか「妥協」のことである)かもしれないが、べつに減少などしやしないのである。いったい、現実的な誰が(2)や(3)を「減少した快楽であるかもしれない」などと真顔で思うだろうか。それを倫理的に肯定するか否定するかは別として、(2)や(3)の欲求はほとんど誰もが持つ(ひた隠しもする)ものであることに違いはあるまい。これらは快感原則が現実原則によって修飾され拡大強化されたところの、自我とその理性に媒介されて必然的に生じてくるのである。だって、ほかにはそれを導く原理はないのだから。

そうは言ってもフロイト宗匠が偉かったのは、自分のことはさておいて(2)や(3)があること、その抑圧、葛藤、あるいは退行といったメカニズムを想定しつつ、心の力学モデル(わが国では力動的なんちゃらと訳されるもの)を考察し、治療実践を行ったことである。そこに何か問題があったとすれば、さておききらなかった部分、つまり、フロイトの(たぶん)念頭にあった理想的に健康な精神の像が「存在して、かつ、人格的にも社会的にも立派な成人男性で父親」のそれでありすぎたことである──

──とは、まあ、よく言われている、ありきたりの話だ。それよりもこの重ね合わせは、他方のエピクロス派の態度がまさにフロイトがそう呼んだ通りの意味での「退行」にほかならぬことをはっきり浮かび上がらせる。(2)や(3)の種類の欲求を理念的に嫌忌する(本来のエピクロス派の主張はこれであった。倫理的利己主義と呼ばれる)ならまだしも、現実的な生の態度としても嫌忌する(自己充足的、閉鎖的な特性)というのは、まさしく現実原則からの撤退、すなわち退行以外の何物でもないわけである。

さて、論語の中に次のような章がある。

子路従而後、遇丈人以杖荷條、子路問曰、子見夫子乎、丈人曰、四体不勤、五穀不分、孰為夫子、植其杖而芸、子路拱而立、止子路宿、殺鷄為黍而食之、見其二子焉、明日子路行以告、子曰、隠者也、使子路反見之、至則行矣、子路曰、不仕無義、長幼之節、不可廃也、君臣之義、如之何其可廃也、欲潔其身而乱大倫、君子之仕也、行其義也、道之不行也、已知之矣(微子第十八)

孔子はわたしがここで書こうとしたことを、「隠者也」のたった3文字で子路に伝えおおせた、ということである。



おまけ。そもそもこの一文はマルクス論文の邦訳書にある「反跳」という語について調べていた、そのついでになんとなく書いたものである。せっかくだから調べた結果の方も書いておくと、日本語の「反跳」は英語でいうrecoilまたはreboundingの訳語である。で、エピクロスの原子論におけるそれは、英訳書ではreboundingと書かれている。専らそう訳されているようである(もとのギリシャ語がどうかなんて、べつだん哲学が本職ではないわたしが調べても仕方がないことである)。何が言いたいのかって、つまり「recoilだったら銃器オタの人が目を輝かせたであろうに」ということである。残念でした(笑)。

・・・とはいうものの、たとえばニーチェのテキストには、その邦訳書では「反動」という語がやたらと出てくることがある。これは政治理念の保守反動とかのことではなくて、ビリヤード玉みたいなもののそれ、つまりまさしく「反跳」の意味で使われている。それがわざわざ反動と訳されているのは、ひょっとすると原語ではrecoil(ドイツ語ではRückstoß)だったりするのかもしれない。だいたい、銃器オタの人達には、エピクロスよりはニーチェの方がウケがよさそうなことである。
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