国家(『国家論大綱』の用語では国家権力)は組織体(一元的な規範によって統制され、秩序づけられた集団)の一種である。重要なのは、国家(権力)を組織体一般のうちでも特別なものにしている、つまり組織体としての本質的な特徴とは何だと言うべきなのか、ということである。
『国家論大綱』の説明をわたしなりに噛み砕いてものすごく手短に言ってみると、国家(権力)とは、たとえば営利企業が顧客の支配ということを経営理念として掲げ、実際に顧客を支配しているような、そういう特殊な組織体だということになる。
もちろん実際の営利企業がそんなものを経営理念として掲げているということはないし、ありえないことである。営利企業においては文字通り企業組織体自身の営利ということがその目的であるし、営利企業を典型とする組織体一般においてその規範とか秩序とかは、組織体の台(base)である集団を統制・支配するための、つまり内的な規範であり秩序であって、それ以上でも以下でもないのが普通である。
ところが国家(権力)の場合は、組織体の外部(社会)を支配するという目的が先行し、自身の統制・支配はこれに従属するという意味で副次的な目的になっている。国家(権力)もそれ自身の内的な規範や秩序をもつから組織体の一種には違いないが、それが組織されてあることの主目的がむしろ組織体外部の統制・支配ということに置かれている、その点で国家(権力)は際立って特殊な組織体であるということができる。
さて、そういう「主目的がむしろ組織体外部の統制・支配ということに置かれている」組織体は国家(権力)に限られるかというと、実はそうではない。人間の、個々人の自己意識もまたそうであるということができる。そして国家(権力)と個々人の自己意識に共通の特徴であって、他のいかなる組織体も持たない特徴は「(外部に対する)意志」であるということができる※。かくして組織体としての国家(権力)の本質的な特徴とは、それ自身の意志を持つということに帰着することになる。
※営利企業においてもその経営は「意志決定」をするが、その場合の意志は当の企業組織体の内部を志向するものであって、外部すなわち顧客の支配を志向するものではない。そもそもこの「意志決定」は英語の「decision making」の訳である。decisionは内部を縛るものであっても、外部を縛るものではありえないわけである。
『国家論大綱』の説明をわたしなりに噛み砕いてものすごく手短に言ってみると、国家(権力)とは、たとえば営利企業が顧客の支配ということを経営理念として掲げ、実際に顧客を支配しているような、そういう特殊な組織体だということになる。
もちろん実際の営利企業がそんなものを経営理念として掲げているということはないし、ありえないことである。営利企業においては文字通り企業組織体自身の営利ということがその目的であるし、営利企業を典型とする組織体一般においてその規範とか秩序とかは、組織体の台(base)である集団を統制・支配するための、つまり内的な規範であり秩序であって、それ以上でも以下でもないのが普通である。
ところが国家(権力)の場合は、組織体の外部(社会)を支配するという目的が先行し、自身の統制・支配はこれに従属するという意味で副次的な目的になっている。国家(権力)もそれ自身の内的な規範や秩序をもつから組織体の一種には違いないが、それが組織されてあることの主目的がむしろ組織体外部の統制・支配ということに置かれている、その点で国家(権力)は際立って特殊な組織体であるということができる。
さて、そういう「主目的がむしろ組織体外部の統制・支配ということに置かれている」組織体は国家(権力)に限られるかというと、実はそうではない。人間の、個々人の自己意識もまたそうであるということができる。そして国家(権力)と個々人の自己意識に共通の特徴であって、他のいかなる組織体も持たない特徴は「(外部に対する)意志」であるということができる※。かくして組織体としての国家(権力)の本質的な特徴とは、それ自身の意志を持つということに帰着することになる。
※営利企業においてもその経営は「意志決定」をするが、その場合の意志は当の企業組織体の内部を志向するものであって、外部すなわち顧客の支配を志向するものではない。そもそもこの「意志決定」は英語の「decision making」の訳である。decisionは内部を縛るものであっても、外部を縛るものではありえないわけである。