洋楽オタの昔話といったらやっぱりこれに限るのかもだ。BCRが流行ったのはわたしが小学校6年から中学校1年にかけてのことだったのだが、ホントにこれだけはもう、知らないやつが誰ひとりとしていなかった。どう見ても口パクだろとかちゃんと弾いてねえだろとか言いながら皆聴いていた。歌詞も覚えた。今でも素で歌える。そして歌詞の意味は今もって全然知らないしわからない(笑)。このメロディが流れている間に限って、わたしは完全に中学1年生に戻ってしまうのである。こんな曲はほかにはない。
わたしは一応地元の進学校に通っていたわけだが、クラスの中の誰に聞いても「Saturdayの綴りはこれで覚えた。そんなん決まってんじゃねえか。何を間違ったってこれだけはもう絶対間違えっこねえよ」と言っていたものだ。わたし自身もそうだったのだから間違いないことである。このトシになってもSaturdayの語を綴るときは必ず足でステップを踏んでいる(笑)。マジでそうせずには綴れないのである。恐ろしいことである。
西原理恵子のマンガだとクラスの中がBCR派とKISS派に二分されていてどうこう、ということも、地域によってはあったようなのだが、俺の通った学校ではみんな両方聴いていたよ。
もうひとつ。わたしがBCRのことを最初に知ったのはほかでもない電気工作の雑誌「ラジオの製作」の記事でだった。今だったら信じられないというか理解もできないくらいの話だろうが、昔のマニア雑誌というのは「マニアなネタばかり載っている雑誌」ではなくて「読者層がある分野のマニアに限定されている総合雑誌」だったのである。普通の雑誌と違うのは電子回路の配線図とか、アマチュア無線資格の試験対策とかがたくさん載っていることだけで、そういうのを別にすれば内容はまったく普通の中学生向け雑誌だったのである。
で、そういうのに飽き足らなくなると「CQ Ham Radio」とか「トランジスタ技術」とか、そういう雑誌に手を出すようになっていったのである。