惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

King Crimson Barber Shop - King Crimson

2012年09月25日 | 年を経た洋楽オタの話
作品とはなにか。

作品は、これも一種の交差点のようなものだ。ただしこの場合は交通路の交差点のように、南北方向と東西方向の道路がまったく対称的なものとして交差しているわけではない。

作品において交差ないし競合するのは作品の作り手と受け手のそれぞれの欲望である。このふたつが対称的でないことは明らかだ。この「対称的(symmetric)」というのはもちろん幾何学的な意味でのそれである。地図の上に描かれた、直角に交差する交差点付近の図を90度傾けても十字路の形は変わらない。つまり交差する交通路A,Bを入れ替えても(交差点付近における)幾何学的な様相の本質は変わらない。けれども作品の作り手と受け手を入れ替えた場合「幾何学的な様相の本質は変わらない」ということはできない。それは文字通り〈反転〉を引き起こすように思える。こうした状況は反対称的(antisymmetric)と呼ぶのが一番相応しいと思える。

もうひとつ、交差点との大きな違いは、交差点は交通路の交差ということがなければ生じ得ない、つまり交通路や交通路を走るクルマのそれ自身にとって交差点の存在は必然でもなければ目的でもない。けれども作品の場合はむしろそれ自体が目的(目標)である(そう思われている)ことの方が「ずっと多い」ということである。

ずっと多い、けれども普遍的にそうだとは必ずしも言えない。読まれることを欲しない(拒否するというのとは違う)、あるいは目指さないで書かれる文章ならいくらでもある──たとえばまさしくこの記事──し、読者は読者で、人の手によっては書かれるべくもない文章を欲する、つまり「無い物強請(ねだ)り」ということも普通にある。

作品はひとつの解決と見ることができる場合もある。優れた作品は特にそうである。けれども本当の意味ではそれは解決ではない、最初は解決と見なされたものが後にはむしろ桎梏になってしまうということは珍しくない。娯楽作品の分野では特にたくさんある。

たとえば1969年においてキング・クリムゾンの「21世紀の統合失調者」という曲はロック・ミュージックの歴史における最も優れた解決のひとつであった。聴衆の多くにとってそれはほとんど最終的解決とさえ見なされたのであるが、しかしバンドにとっては全然そうではなかった。いつまで経ってもその曲を、下手をするとその曲だけを演奏することを期待されるようになった、そう感じたバンドは業を煮やして解散してしまったほどであった。そして数年後に復活したときは、またそれ以後は、別名

「21世紀の統合失調者」は演奏しません。もう絶対しないんだから。アンコールもなし、写真もダメ、期待の牢獄に閉じ込められるのはもうお断りだ、けれどとっても規律正しいみんなの床屋キング・クリムゾン

を自称するようになっていたりした。

とはいえこの別名は長すぎるので正式名称は以前のまま「キング・クリムゾン」であった。当初案では「規律」というのもあったようだが、そんな鹿爪らしい名前は嫌だと陽気なアメリカ人メンバーが愚痴ったのか、後に倒産する「安直」という名の陰気なマネジメントがもっと売れそうな名前にしろよと命じたのかで、最終的に「規律」はアルバム名とタイトル曲にのみ名残りをとどめることになったようである。

from YouTube



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 9月24日(月)のつぶやき(手動... | TOP | 9月25日(火)のつぶやき(手動... »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 年を経た洋楽オタの話