惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

計算機の素人数学は哲学になりうるか

2011年02月07日 | 素人哲学の方法
これは下(高速哲学入門(94))の続きである。最後に説明した「計算機プログラミングで素人数学をやる」方法は、そもそもわたし自身がずっとやってきた(ある意味では今でもやっている)ことである。

このやり方の延長線上で専門の数学者とタメを張れるような数学知識が身につくかというと、それは絶対無理だ(笑)。なんでもそうだが、専門分野というのは固有の順序が確立されているということも、それが専門であることの一部なのであって、それに沿ってやらないということは、何か奇跡のような才能でもない限り専門家には勝てないということだと思っていいのである。じゃあ駄目なのかと言えばそんなことはない。数学の専門家は計算機プログラミングでも直ちに一流の腕前を発揮できるのかというと、現実にそんなことはないわけである。専門家の順序は現実の順序とは必ずしも一致しない。現実においてはどうでもいい重箱の隅を専門家の、それも超一流が雁首そろえてつつき回っているということはよくあることだ。それを嘲ることも愚かなら、逆説的に感心して素人が真似したりすることもやはり愚かなことなのである。

ところでわたしの素人哲学は確かにこの素人数学の延長線上で作っているものではある。もちろん哲学だから直接には計算機プログラミングに関連づけることはできない。哲学は人間(主観的な意識)の現実ということが問題であって、計算機は人間じゃないからだ。ただ人間の現実と計算機(機械論)による模擬の本質的な差異がそこには現れてくるわけで、その視点から哲学を進めることは可能だとわたしは思っている。その一番の好例はたとえばサールの「中国語の部屋」であるわけだ。あるいは「爆発の模擬は爆発ではない」。確かにそうだ。では根本的には何が違うのか?これに自明な答はない。哲学をやるしかないし、やる意義もあるのである。
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