惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

素人哲学の現状(基本的な問題設定)

2012年10月12日 | 素人哲学の方法
日々考えることは本当にアトランダムに、行き当たりばったりに考えているわけで、全然体系化できていないわけである。それにしてはこの半年か1年くらいの間に考える範囲がやたらと広がってきていて、我ながら収拾がつかない感じになっている。少し整理してみる。

●基本的な問題設定
つまり「(素人)哲学とは何か」というメタ哲学である。しばらくの間これを「現実について考えること」だとしてきた。この「現実」の比喩として、現実とはたとえば「可逆データ圧縮アルゴリズムが実用的である根拠」だと言ったりもしてきた。どんなアルゴリズムであろうと任意の(有限な)ビット列に対する圧縮率が平均で1を下回ることは決してない。つまり純粋に理論的には実用的な可逆圧縮アルゴリズムなど存在しない。だが、現にそうしたアルゴリズムは存在して実用に供されている。有用性は誰の目にも明らかである。そうしたアルゴリズムは「現実的な任意のデータファイル」の大部分を圧縮する。ところで、この「現実」あるいは「現実的」ということについての客観的かつ有限な記述は存在しないように思える。

これはこれで、自然科学の体系を限りなく緻密に、精密にして行くことのほかに、哲学として考えるべきことが存在することの傍証にはなるわけだが、専門家ではない素人がわざわざそれを考えることの根拠は何だと問われると(誰が問わなくてもわたしがわたしに問うわけだが)、パッと答が思い浮かぶというものではないような気がする。

最近になってもうひとつ別の表現を思いついた。素人哲学とは何か。それは「どうすればいいのか?」という問い一般についての考察である、というものだ。その問いが心に浮かんだとき、あるいは状況から突きつけられたように感じるとき、我々自身がそれに適切に答えることができる(もちろん適切に行為することを含めて)としたら、我々はそのとき自分の直面する現実を(相対的に)よく理解しているのだということができるだろう。専門家の哲学がこの問いに十分よく答えてくれるものでない(もちろん補助的に役に立つものでありうるが)ことは明らかである。専門家の哲学は専門家どうしの議論によって構築されるものだから、よかれあしかれそこで論じられる命題は公共的な次元に置くことのできるものでなければならない。ところが「どうすればいいのか?」という問い一般においては、つまり我々が我々自身にそれを問うときは、その問いの全体が公共的な命題とその議論に還元されるということはない。つまり個々人の私秘的な、もっとすっきり言えば主体的(subjective)な次元がそこに必ず関与してくるわけである。

そうでないなら、我々は何も考える必要はない。賢い人に答を訊きに行けばいいのである。いまどきはインターネットもあるし、緊急を要する問いについて緊急に答が得られることも多くなっている。これからもそれは際限なく増えて行くだろう。だが、どれだけ増えても、我々の生のすべてが、つまり「どうすればいいのか?」という問いのすべてがそれに尽きるわけではないことも明らかであろう。
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