惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

ある駅前の光景

2010年01月24日 | げんなりしない倫理学へ
わたしが住んでいる街の最寄駅は数年前に地下化工事が完成した。それに伴って駅前は広くなり、踏切もなくなった。これ自体はまあ、結構なことだと言っていいはずのことだ。ところが、踏切がなくなった後はそのまま道路になるのかと思っていたら、そうではなく、何やら変なロータリーのようなものになってしまい、歩行者はわざわざ迂回して歩かなくてはならなくなってしまったのである。

迂回と言って、それほど大きな回り道ではない。直線距離に直してほんの数十メートル程度の小さな差にすぎない。だが、こういうのはどうも釈然としないものを感じるわけである。なぜと言われても、そう感じるのがわたしなのだとさしあたり言っておくしかないことだ。で、実際、ロータリーと言ったってごく小さなものであるし、タクシーとバス以外のものが通っているのを見かけることはほとんどない。だから、たいていは以前の通りまっすぐ横断している。

最初のうちは単に、これまでまっすぐ横切ってきた道を、わざわざ遮るようにロータリーが作られて迂回しなければならなくなったということが「なんとなく釈然としない」から、いわば軽いイタズラの感覚でそうしていただけだった。もし咎められたら空とぼけて走り去れば済むことだし、わざわざ咎めだてする者もあるまいと思われたことだった。だが、しばらくしてあることに気づいた。そうやってロータリーを横切って歩いているのはわたしだけではなく、おそらくはこのあたりに住んでいる婆さん達の姿もあったのである(不思議なものだが、そういうことをするのは全部婆さんで、爺さんはいないのだ)。

それを見て、わたしはわたしの軽いイタズラを「いくぶん本気」程度まで格上げしなくてはならなくなった。

ほかでもない、その婆さん達の姿や表情というのが、遠い昔、幼いわたしの手を引いて、普通にクルマがびゅんびゅん行き交っているような大通りを、何食わぬ顔してずかずか横断して歩いた曾祖母の姿や表情に重なって見えたからである。その小さなロータリーは、今のわたしのような中年男性なら何の不安もなくスタスタ渡れる程度のものだが、杖代わりにショッピング・カートを押して歩いているような、よちよち歩きの老人にとっては、ひょっとすると危ない場面があるかもしれないと言えなくもない。そうだとすれば、これはもはや軽いイタズラではない。わたしははっきり意図的にこのロータリーを横断しなければならないのである。

おそらくこれをうっかり読んだ人は、わたしがいったい何を言おうとしているのか、まったく理解できないだろうし、わたしのしていることはもっと理解できないだろう。わたし自身も、たまたま自分が同じ方角から歩いてくるのでなかったら気づかなかったに違いない些細な光景である。しかし気づいてしまったからには、わたしはわたしの哲学と倫理を挙げてこの行動原則を貫徹しなければならない。「実践はない」という禁を破ることにはなってしまうのだが、別に誰のためでもない、わたし自身の閉じた思いとその行為にとどまるものだ、ということで許容することにする。

最近になってそのロータリーにはロープが張り巡らされ、ご丁寧に「横断禁止」の貼り紙までつけられてしまった。ここまでされては、老婆の人達はもはや横断することはできないかもしれない。たぶんその光景は見られなくなるだろう。ひとりわたし自身を除いては。

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