惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

THN1-3-16d

2011年12月26日 | THN私訳
3-16 動物の理性(承前)

(次に動物の本性的な、異常なほど賢明な行動について考えてみると)人間は自分自身の理性の作用には驚かないくせに、動物の本能の方は賞賛して、しかもそれを説明することに四苦八苦しているわけである。なぜそうなるのかの理由はただひとつで、動物の本能と人類の理性をまったく同じ原理に帰着(させて説明)できないからである。我々(の意識)を現象につき従わせる習慣の力がいかに強いかを、これほどよく示している事柄はない。(けれども)正しく考察すれば、理性とは、観念の一定の系列に沿って心を送り、その観念のもつ個別的な状況と関係に応じて個別的な性質を観念に付与するという、我々人間の精神の驚嘆すべき、また一方では不可解な本能(instinct)にほかならないのである(※大槻訳の挿入をアレンジ:だから動物の本能も別に驚くほどのことではなくて、それは人間の理性という本能的な能力と同じ原理に基づくのである。その原理とは、この第三部で縷々詳述してきたように、過去の経験に基づく習慣であり、そして究極的には、人間本性の説明しがたい自然、すなわち天性なのである)。いかにも、この本能は過去の経験と観察から生じるものである。けれども過去の経験や観察がなぜ本能という結果を生み出すのか、またなぜ自然のみがそれを生み出すのでなければならないのか、その究極の理由は何であるのか、誰にもわからないのである。確かに、自然は習慣から生じるすべてを生み出すことができる──いな、習慣とはあまたある自然の原理のひとつにすぎない。あらゆる力はこの(自然という)起源に由来するのである。

註記するのを忘れていたが、この節の私訳で「畜生」と訳してあるのは原文では「beast(s)」である。「動物」は「animal(s)」である。畜生と書いて「チクショウ」と読むことにどうしても抵抗があるという人は「ケモノ」あるいは「ケダモノ」とでも読むがよろしかろうと思う。

(第3部おわり)
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