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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

ちょっと修正

2010年04月17日 | 私訳メモ
8-4の国連世界人権宣言25条の条文を私訳ではなくリンク先のサイトにある日本語訳に置き換えた。日本語文として特に意味の変化はないが、いかにも「人権宣言」っぽい、法律の条文みたいな文体の方が好ましいだろうし、わたしにそうした文体の心得は、ないとは言わないまでもひどく乏しいからである。

これに伴い、この節でadequateを「まずまずの」などと訳していたのを、条文の日本語訳の方に合わせて「十分な」に改めた。

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結局

2010年04月13日 | 私訳メモ
難儀した3-4節があと1ページちょいで終わりなのを見たら放っておく気がしなくなって、昼休みの間にやってしまうことになった。最後がアメフトの話なのは有難かった。

実際、クルマの例は訳すのに難儀したのである。クルマの機械論や熱力学は知っているから、書かれていることの内容はわかるわけだが、わたしは運転免許を持っていないので、英語で「clutch out」と書かれているのを日本語では通常何と表現するのか知らないのである(笑)。これを調べるのは結構厄介だった。その点アメフトなら、たいがいの用語は日本でもカタカナ語のままで使われているから楽なのである。ただそのかわり、ワイドレシーバーとかクォーターバックが何なのか、アメフトの試合中継も見たことがない人は、英文も訳文もサッパリわからないということになるはずだ。NFLは今オフシーズンだから秋まで待て(笑)。

こういう話を書くのは、誰も読んでないとわかっていても愉しいものだ。風邪の熱がまだ少し残っているせいか、仕事の方は今日は壊滅的にダメダメだったのに。

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今後の予定

2010年04月11日 | 私訳メモ
・・・てなわけで、残った分のコピーを全部取ってきた。謝辞とか索引とかのページも含めてだ。

1月から続けてきた訳出作業も、はるか遠くの方に終わりが見えてきたという感じだ。GW中に終わってくれると一番ウレシイわけだが、残りを勘定するとちょっと残るくらいかもしれない。休日だからはかどるというわけではないことは、ここまでのことでもはっきりしているわけである。

さすがに索引まではやらないだろう(実際、そんなにたいした索引はついていない)が、謝辞の方は、やけに長い上に、前にちょっと眺めていて面白そうなことが書かれてもいたから、第3章が終わったところでこれも訳してみることにする。もっとも、google先生でも知らないような無名の人の名前までカタカナ表記できるかどうかはわからない。

問題は第6章である。第3章と第8章+あとがきが終わった後でも、現在の状況だと第6章が半分以上残っているといったことになりそうだ。おそらくは第6章をこれまた三分割して、第5章→第6章a、第3章→第6章b、第8章→第6章cといった順序でローテーションを割り振ることになるだろう。

・・・そんなことしないで順序よくやりゃいいじゃないか、と思うかもしれないが、それだったらそもそも全体を三分割してローテーション、などということもしないわけだ。毎日こんな機械的作業を繰り返しているわけで、作業それ自体は相当辟易するような何かであることに違いはない。「今日は昨日の続きだ」とか、「明日は今日の続きだ」とか、そういうことを意識させられるのは、元来怠け者のわたしにとってこれほど辛いものはない。だいたい、わたしのような怠け者でなくたって、いまわたしを含めた多くの人にとって今日も明日も明後日も「日本沈没」の日々が逃れようもなく続いているはずだが、そんな中で働いたり生活したりしていて嫌にならないだろうか?わたしは嫌で仕方がない。嫌だけど逃れようがないことも、これまた仕方がないことである。せめてもの気晴らしに毎日、ちょっとでもいいから違うことをやりたいわけで、事実やっているのである。

まあそれはともかく、第5章が終わったら第4章を、第8章が終わったら第7章を、それぞれ非公開カテゴリに移動する。これは以前予告した通りで、今のところ変更する予定はない。

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あーしんど

2010年04月10日 | 私訳メモ
どうも3章4節はこれまでの中で一番手間のかかる記述であるようだ。今日も2ページ訳すのに4時間以上もかかってしまった。

まあそれはそれとして、ベアルネーズ・ソースというのはやはりマヨネーズによく似たものであるらしい。サールの文章にはときどきこんなフランス料理に関連したネタが出てくるし、考察の例でもレストランが出てくることが多い。結構食い物にうるさい人なのであろう。哲学者としてはともかく、サール先生は直に会うと結構ヤな奴だという評判を、Webで時々目にするのも、さもあらんという気がしてくる。少なくともわたしは食い物にうるさい奴と仲良くなったためしがない。

ま、外国語が一切喋れない上に、航空会社の人権侵害のために海外便のヒコーキにも乗れないわたしは、生涯日本の外には一歩も出ることはない。万一あったとしてもサール先生に直に会うことなどあるまいから、そんなことは(事の真偽も含めて)どうでもよいことではある。

3-2b3-4aで参照されているサールの「Collective Intentions and Actions」はWeb上にタダで読めるpdfファイルがうpされているのを見つけたので、それへのリンクを張った。ただし、タダとは言ってもScribd上のファイルだから、ユーザ登録(無料)とログインは必要である。なお3-2bがmiscellaneousカテゴリに入ってしまっていたので、改めて私訳Iカテゴリに入れ直した。

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それで・・・

2010年04月09日 | 私訳メモ
8-4の何がそんなに面白かったんだ、と思った閲覧者もいるに違いない。あったり前のことが書かれているだけではないか、と。

わたしはそんなに「あったり前」のことだとは思わないのである。世代にもよるのかもしれないが、わたしなどはコドモの頃から権利とか義務とかいうことではおおよそふた通りの言い方しか聞いたことがないのだ。ひとつは権利を強調する方で、典型的に「××は人間にとって当然の権利だ」とだけ言って、何が当然なのやらサッパリ判らぬという言い方である。もうひとつは、半分くらいは前者に対する反発があって「いまどきのワカモノは権利ばかり主張して義務を(略」という、こちらはだいたい老人に共通したもの言いである。8-4のような権利と義務(責務)の捉え方は、だから、わたしにとっては初めて聞かされる、上のどちらにも属さない第三の態度だと思えるのである。

日付の変わらないうちに、まずはこれだけ書いておこう。

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さしあたり

2010年04月07日 | 私訳メモ
タルスキの真理論については昨年出た飯田隆他「岩波講座 哲学〈3〉言語/思考の哲学」(岩波書店)(Amazon/7net)で簡潔平易な入門が読める、という書評を見つけた。リンク先のblogの主は本職の分析哲学の研究者である。ど素人のわたしがつべこべ言うよりこのサイトの書評を読む方が、絶対的に信頼できるはずである。

モデル論とかは数学基礎論にもかかわっているし、情報科学・計算機科学の理論方面では、プログラミング言語の意味論とかの超↑高級なところでたまに(・・・でもないか。そのあたりの専門家にとってはむしろ基本中の基本だ)このあたりの議論のお世話になったりする。だからわたしも本当はど素人でもない、全然知らないわけではないんだけど、ろくにわけも判らずにクリプキやらタルスキやらの本をめくったりしていた日々も、思えばもう十年前のことなのである。さすがに忘れちゃったよw 今のわたしはただのプログラマで、計算機の理論屋じゃないからな。

サールの言語行為論はこのあたりのほんとに形式的な言語論とは重なるようで実は全然重ならなかったりする(実際、形式言語の勉強をやってる間は、サールのサの字も聞かなかったよw)のだが、言語哲学と言っても片方にはこういうのを延々やってる人達がいるというのを知っておくと、サールのような議論の意義というか重要性が逆側からよく見えてくるような気がする・・・なんて、まあこんなことが言えるのも、わたしが研究者の道を放擲した人だから言えることなわけだ。そうでなかったら言語行為論なんて(形式的な理論の側から見れば)変なものに首突っ込んでる暇は、物理的にも精神的にもないはずである。それがプロの研究者の道なのである。

そう言やあ、サール先生はサール先生で、twitterで「Possible worlds semantics is the worst thing to happen to philosophy since the ontological proof(可能世界意味論は神の存在論的証明以後の哲学で最悪の事件だ)」などと呟いておられましたな。twitterだから軽い気持ちで言ってみただけなのか、逆にだからこそ本音だったりするのか、それは判らないけど。なーんとなく判るような気もするんだけどネ。

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実は8-4が超面白い

2010年04月06日 | 私訳メモ
8-3bの訳文が、特に後半にかけて妙にノリノリ(死語)だったりするのは、実は勤め帰りの電車の中で8-4を読んでいたら、わたしのアタマの中が↓状態になってしまったからである。
まあ誰でも知ってるとは思うのだが、上の写真が何なのか知らない人は「外人4コマ」でググってみること。

とにかく今すぐでも訳出したいくらいの気分だったりするのだが、まあ慌てずに3日後まで取っておこう。

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大忙しだ

2010年03月29日 | 私訳メモ
予告しておいた通り、第2章が終わったので第1章を非公開にしたのだが、これが結構面倒だった。

複数記事のカテゴリ間一括移動はカンタンにできるものと思い込んでいたのだが、実はそんな機能はこのgoo blogにはなかったのだった。記事を「複数選択して一括削除」というのはあるのだが、移動は「特定のカテゴリ内の全記事を別のカテゴリに一括移動」することしかできないのであった。仕方がないので第1章の記事をひとつひとつ、カテゴリをつけかえる羽目になってしまった。ああ面倒くせえ!

いっそのこと現在の「3分割」構成をやめて各章ごとにカテゴリを立てようか、ということも考えたが、それもどうかと思い直してやめた。本文ばかりかカテゴリまで私訳だらけになると、さすがにこのblogの性格そのものが怪しくなってしまいそうである。

まあ・・・いいか、そう頻繁にやることじゃないしね。

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MSW訳語メモ

2010年03月28日 | 私訳メモ
このメモは随時追記してその都度ageる。バージョン番号とかはつけないことにする。

constitutive rule(s)を「構成的規則」と訳す。分野によって「構成規則」あるいは「構成則」とすることもあるようだが、言語哲学、というかオースティン→サールの言語行為論の用語として「構成的規則」と訳すのが通例となっているようだ。このページが参考になる。
gapを「スキマ(gap)」と訳す。ただし変な誤解が生じないように必ず原語を括弧書きでつけ加える。「行為と合理性」の翻訳では確か別の訳語があてられていたはずだが、あえて違う訳語をあてるのは、べつに不満があるからではなく、素人哲学のお遊びである。スキマ妖怪・八雲紫とは何の関係もないのだけれど、何の関係もないからお遊びなのである。
(保留事項)speech actを現状では「言語行為」と訳している。同名の著作がそう訳されているし、それなりに普及した訳語だからであるが、これは「発話行為」と訳すべきだという主張も多くなされている。確かに字義にこだわればそうであるが、オースティンやサールの言語行為論が話し言葉以外に及ぶものであることも確かである。軽々に判断がつかないのでさしあたり保留する。
それで思い出した。actionを「行為」、behaviorを「行動」と訳す。当たり前のようだが、これらの語は理科系では「作用」「振る舞い」と訳すのである。
prior intention(s)を「先行意図」、intention(s)-in-actionを「行為中の意図」と訳す。
deontic powerを「権利義務力」、deontologyを「権利義務論」と訳す。通常deontologyは単に「義務論」と訳される(この訳はカントの翻訳に由来するようだ)のだが、サールは権利も義務も含むような形で再定義してこれらの語を使っている。しかし我ながらこの訳はカッコ悪いにもほどがある。もっといい日本語がないのだろうか。──「義力」というのも考えた(ルーク、義力を使え)が、「義」は一文字だけで「正義」を意味してしまうことになりやすい。「義を見てせざるは勇なきなり」の「義」は正義のことだろう。だいたい邪義という言葉は「北斗の拳」以外では聞いたことがない。じゃあ「義理力」はどうか。いよいよスター・ウォーズのようだが、しかし日本語で書くと東映ヤクザ映画のようではないか。それに、義理と一緒に秤にかけられるところの人情もまた、サールによれば権利義務力のひとつだということになるはずである。
expressionを「表出」、representationを「表象」と訳す。ただし後者は気まぐれに「表す」としている場合もある。実際そういう意味なのだが、文脈によって哲学用語としての「表象」であることもあり、そうでないこともあって、よほど明瞭でない限り訳し分けるのが煩わしい。
(権利義務論の、または充足条件に対する充足条件の)impose(imposition)を「授課する」と訳す。この造語はdeontologyを「権利義務論」と訳していることに対応するもので、動詞の方でも権利を「授ける」と義務を「課する」をくっつけてみたものである。
create/creationを「創出」と訳す。普通は「創造」だろうということになるが、変な誤解を避けたいからである。理科系の文献ならともかく、哲学の場合はキリスト教神学とか、そっち系統の厄介な隣人がたくさん控えているわけである。サールはいわゆる唯物論や無神論の哲学者ではない(と思う)が、少なくとも生物種の進化論については、それを自身の哲学における「基本的な事実」に含めるという形で認めている。

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誤訳修正メモ

2010年03月28日 | 私訳メモ
この記事は誤訳修正を行ったらその都度追記してageる。辞書はこまめに引いているつもりなのだが、そうは言っても、なんでんかんでん引いていると正直キリがない。面倒になると適当に訳してしまう場合があるわけだが、どういうものか、そういう時に限ってとんでもない誤訳である。マーフィーの法則というか、とことん英語のセンスがないというべきなのか。

Mar.23,2010: trade union → 労働組合(1-2)
Mar.28,2010: impose/imposition → 授課(する)
詳細目次, 1-3a(1-3-1), 7-3a, 4-7, 1-7(1-a-2), 4-9c, 4-10a, 7-4-3/4(7-4-3), 4-11, 7-4-5/6/7/8(7-4-6), 4-12/13(4-12), 5-2-1


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予告

2010年03月26日 | 私訳メモ
少し気が早いのだが、予告しておきたいことがひとつ。

このまま私訳のうpを続けて行くと、最後には(ひどい訳ではあるにせよ)本一冊まるごと訳文をうpしてしまうことになる。

いかに「わたし以外の役には立たない」と言っても、またそれが紛れもない事実であるにせよ、世の中にはここに全文の訳が、ひでえ訳だがあるにはあると聞けば「らっき、原書買わんで済むわ」などと勘違いする人が絶対にいるわけである。それは、長いことグータラ学生をやっていたわたし自身の経験に照らして間違いないことである。

それはまさしく過去のわたし自身の姿でもあるから、本音を言えば彼らを「ぬか喜び」させてやりたくならないでもない(どっちみち勘違いなんだからぬか喜びにしかならないわけだが)。とはいえ、その勘違いのために原著者と原書の版元が、あるいはすでに企画書くらいは出ているかもしれない未来の邦訳書の訳者とその版元が損失を被ってもいいとは思わない。

そこで、こうすることにした。いま最後にさしかかってきた第2章が終わった段階で、第1章をパスワードつきのカテゴリ(いまさっき作った。右カラムのカテゴリ欄にすでに表示されている)に移して非公開にする。同様に第5章が終わったら第4章を、第8章が終わったら第7章を、同じく非公開にする。非公開にした章はいつか(訳文のデバッグが進んだら、ということだ)再公開するかもしれないが、そのときは別の章を非公開にする。つまりどんな場合でも全部の章が可視になることはないようにする。

なんですっぱり削除しないで、わざわざパスワードつきのカテゴリに移すなんてややこしいことをするのか。パスワードが破られたらどうするつもりなのだ、などと変な心配をする閲覧者がいるかもしれない。削除まではしないのは、この私訳だって一応は「日記」のうちだからである。そもそもこのblogは書いたわたし自身が読んで自己満足に浸る(笑)ためのものでもある。パスワードつきのカテゴリは管理者だけはフリーパスで読めるからその点で便利なのだ。パスワードが破られたら?もちろんどんなパスワードでも破られる可能性がある。しかしこの場合、破ったところで別にお宝があるわけじゃないしさ(笑)。破った方が恥ずかしくなるようなパスワードを、わざわざ破るやつも、破って吹聴するやつもいないだろうて。

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うひょー

2010年03月25日 | 私訳メモ
8-0bをうpする前に、ただの気まぐれとは言え、可愛いらしい女子高生の萌え絵を貼っておいてよかった。

もう、ベンサムったら、毒々しいったらありゃしない。ホントに心の底からフランス革命やその人権の理念を憎んでいたのだということが、英語の原文を読んでいても伝わってくる。

ところでマッキンタイアという人は、これもわたしの読んだことのない人であり著作だが、何というかこれは、保守主義の本場英国の西部邁みたいな人なんだろうか(笑)。

西部邁は、わたしは嫌いじゃないんだけども、その著作を人に薦められるかというとなかなかそうも行かないということがある。著作家として現われているところの人柄は好きだが、書いてることに賛成できるかというと、それはまた全然別の話である。

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えーっと

2010年03月23日 | 私訳メモ
今日に限って5章と8章の冒頭部分の訳がいっぺんに出て来たのにはわけがある。ハードカバーの本はいろんな意味で扱いにくいので、ちょっとずつコピーを取ってそれを持ち歩いているのだが、今日はうっかりしていて、うpした部分まででコピーが途切れてしまっていたのである。5章の冒頭2ページ(実質的には1ページ半に満たない)ではちょっと少ないので、急遽8章の冒頭1ページも追加したというわけである。ここんとこ意識的に訳出のペースを上げていたためでもあるのだが、油断していた。

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参照のリンク

2010年03月22日 | 私訳メモ
この私訳はわたし以外の誰の役にも立たないはずだと言って、ホントに何の役にも立たないというのは、やってていささか切なくなってくることなので、本文中の参照はできるだけ該当する書籍・論文あるいはそれらの日本語訳へのリンクを張るようにしている。まあAmazonへのリンクはアフィリンクだから転んでもタダでは起きない(笑)というわけなのだが、しかし書籍はともかく、論文なんかの場合にタダでコピーを配布しているサイトを発見したら、積極的にそっちに飛ぶようになっている(笑)。

それにしても、そのリンクを作るために、また手元の辞書にない術語とか言い回しとかをググって調べていると、たまに本文そっくりの内容が検索されてくることがある。それらはつまり、サールの過去の著作を引用(ないし翻訳)しているページである。どうも、MSWは全編書き下ろしというよりは、部分的には過去の著作を、その脚注なども含めてコピペしたりしている箇所もあるようなのだ。むろん、自分の本を自分でコピペしているのだから別に咎められるようなことではないし、MSWはサール哲学のひとつの到達点で、簡潔明瞭なダイジェストでもあるということを示す事実であるとも言え──まさか来年あたりに三倍くらいぶ厚い本が出るのではないだろうな?

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やっと4章と7章が終わった

2010年03月21日 | 私訳メモ
4章の最終節はほとんどギャグではないか(笑)。八十老人のリア充談義にもびっくりしたが、それは微笑を誘われたからいいとして、しかし、これを称して大真面目に脱神秘化(demystification)などと呼んでいいものかどうか、わたしにはいささかギモンだ。むしろこれこそ神秘化(mystification=煙に巻く、とも訳す)の最たるものではないか、などと、無粋なツッコミを入れたがる人もいることだろう。

ほとんど機械的に訳文を作ってきただけの現時点で確言はできないが、7章は結局のところフーコーの権力論とはほとんど関係がなかったのではないかという印象が強い。こんな議論は生まれて初めて読んだという意味で興味深いところもたくさんあったし、一方ではサールほどの哲学者でも政治権力を論じると、しばしばただの床屋政談に陥ることは避けられないものであるらしいという意味では、いささか食い足りない感じも残った。これらの印象は訳文の「デバッグ」が進行するにつれて変わって行くかもしれないし、ずっとこのままであるかもしれない。しかしいずれにせよ、ここから先はめいめいが自分で考えるしかないのだろう。

まあとにかく、これでようやく、三分割した下訳作業のそれぞれについて一章ずつが終わった。実際、全体としてもちょうど1/3くらいが終わった感じだろうか。

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