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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

やれやれ

2010年03月12日 | 私訳メモ
とにもかくにも、ようやくまず第1章をひと通り訳出した。

このblogで最初にMSWに言及したのが1月24日のことだ(本を入手したのはその数日前である)から、約ひと月半経っていることになる。3分割して同時進行しているので、全体では約60ページほど進んだことになる。まだ全体の1/3にもなっていない。学生の頃なら、このくらいの分量の論文を突貫工事の数日で訳出したこともあったものだが、勤め人の今となってはそんな時間は取れないし、取れたとしてもトシのせいかすぐ疲れてしまう。

まあそれはいいとして、ひと通り訳出したと言っても、日本語としてはご覧の有様、我ながら笑ってしまうほど無茶苦茶である。たぶん誤訳もいたるところでやらかしている。ここから訳文に手を入れて、自分で読んでわかる日本語に直して行くわけである。具体的には、うpしたものをワープロにコピペしてレイアウトを再調整しつつ、改めて原文と対照させながら訳文に手を入れて行くわけである。しかしその作業は、下訳作業の方がまだまだこれからが本番という段階では、なかなか手がつかないだろうという気がする。GWあたりまでにどのくらい進んでいるだろうか。

しかしだよ、銭にもならない上に、本当のところ自分にとって有用な知識になるかどうかも定かではないのに訳出を始めて、とにもかくにもまだ続いているのは不思議というか、根が飽きっぽいわたしにしては奇跡に近いことである。幸か不幸か、訳出を始めた頃から仕事が忙しくなって、もともとストレスフルな身辺状況が輪をかけて不愉快きわまりないものになっていたりするのだが、実はこの翻訳作業が案外いい気晴らしになっているようなのだ。

また、以前から日常の気晴らしであったところの2chとかニコ動とかが──これは個人的な、どこがどうと指摘することもできないような、ごく漠然とした印象なのだが──なんだか近頃雲行きがよろしくない。結果としてそっちの方にはあまり気を取られずに翻訳作業に集中できているということもある。

●やれやれの追記

2chの某スレで誤訳を指摘してくれた人がいた(ひとまず感謝申し上げる)。で、まあ、放置するのはさすがに恥ずかしいので該当箇所だけ直ちに修正したのだが、

こうして公開はしているが、別に人に読ませたくて公開している私訳ではない。強いて公開している理由らしいことを記せば、哲学書の感想なんかそう簡単に書けるはずもなし、書いたとしても当てずっぽうのデタラメにしかならないに決まっている。そうすると、素人哲学のblogが原書を宣伝するにはこういう形もありうるだろう、ということだ。私訳はデタラメでも分量がハンパじゃないから、量で閲覧者をしばし呆然とさせることくらいはできるだろう。たといデタラメ訳でも一介の素人にこれだけの量を書かせる原書とは、その著者とは何者だと思ってもらえたら、それでいいわけだ。

そうでなかったとしても、見出しの「ver. 0.1」は飾りでつけているわけではない。計算機プログラムに準えて言えば「バグだらけで使い物にならないガラクタ」の表示である。わざわざ読んでもわたし以外の役には立たないだろうということを重ねて言っておきたい。

あと、今後はよその掲示板等でなされた誤訳の指摘に対しても応答しない。されたら黙って訂正するかもしれないし、面倒だったらしないかもしれない。誤訳を探す手間が省けるのは悪くもないが、どうせなら全文訳し直してpdfでくれ・・・と、これを「口上」にも入れておこう。

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スキマ異聞

2010年03月06日 | 私訳メモ
ここでうpしている私訳の一部をある人に見せたら、やおら第6章のまとめに目を留めて「この『スキマ(gap)』て何?」と問われた。

 「な・・・何って、文字通り『隙間』ですが。意図と行為の間のスキマです」
 「あ、そっちのスキマか。schemaかとオモタ」

・・・正直、誰かはそう読むのではないかと予想はしていたのだが、まさか初っ端から言われるとは思わなかった。schemaはカタカナ語なら「スキーマ」と綴るのが普通で、JIS並に音引を省略して「スキマ」と綴るのは理科系でもめったに見かけないから大丈夫だろうと思ったのだが・・・。もっとも、わたしは人工生命を研究していたころに遺伝アルゴリズムの「schemata theorem」を「スキマタ定理」と綴っていたけども。なんかエロくていいじゃないか。

困ったので元ネタは「ゆかりん17歳(ぉ」だと説明しようとしたのだが、知らん人にどう説明したものやら、説明しようがないので弱り切っていると

 「貴君のことだからどーせまた『萌え系』のネタか」
 「え?・・・ええ、ええ、そうですそうです(笑)」

これにて一件落着。そこから先は「行為と合理性」の話になった。おかげでわたしはスキマ送りにされずに済んだ、というお話。

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7-3a覚書

2010年02月27日 | 私訳メモ
以下は7-3aの訳文中に書き込んでいたイタズラ書きのような註記であるが、ちょっと長くなってしまったのでこっちの方にまとめておく。

(1) これはまたビックリだ、というか、最初に詳細目次訳を作ってみた時からなんとなくそんな印象を持っていたのだが、サール先生は「共同幻想論」の領域にまで手をかけようとしているわけである。なるほどこんなネタを吹き込むものがあったとすればフーコーしかありえまい。それにしてもこれは、みだりに怪力乱神を語らない英米哲学の伝統においては、相当な冒険に違いないはずのことだ。「探求」に「explore」の語をあてていることからもそれが伺える。
(2) あるいは、ひょっとすると、わが国ではサールの著作がしばしば専門家よりもわたしのような素人の間で読まれているというのは、もともとどこかしらこういう傾向がサールの文章にはあって、やはり専門家より素人の間で人気のある吉本隆明のそれに、ほんのわずかだが通じるところがあるのかもしれない。一見して風貌は好々爺のようでありながら、口は悪く、いくつになっても闘争的なところはそっくりだと言えなくもない。もっとも、サールは「高校生のころジョイスの『ユリシーズ』を読破した」などという、文学好きではあるにしても空恐ろしい超優等生でエリートである。

・・・あるいは日米戦争で日本が勝っていたら、我々は吉本の「言語行為」を、サールの「言語にとって美とはなにか」を読まされる羽目になっていたのかもしれない(笑)。吉本とフーコーを対比させた議論の試みは過去に時々あったが、これにサールを交えて改めてやったとしたら、米欧日の三極に跨る途方もない比較哲学の論考が成立しそうな気がしなくもない。しかし、そんな空恐ろしい仕事は専門家に任せておこう(笑)。
(3) アーサ・アンデルセン(Åsa Andersen)は名前から北欧系の女性であることは察せられる。サールを触発(inspire)するくらいだから抜群に優秀な哲学者には違いないはずである。しかしググってもこれといった情報が何も得られない。どういう学者なのだろう?おまけにサールがキーワードとして挙げている「telic power」のtelicは辞書にも載ってない。家に帰ってググってみたら

1. directed or moving towards some goal; purposeful
2. (Linguistics / Grammar) (of a clause or phrase) expressing purpose
[from Greek telikos final, from telos end]

Collins English Dictionary – Complete and Unabridged 6th Edition 2003. © William Collins Sons & Co. Ltd 1979, 1986 © HarperCollins Publishers 1991, 1994, 1998, 2000, 2003

どうやら「目的的」というほどの意味であるようだ。なるほどギリシャ語のtelosからは他にteleology(目的論)という語も派生している。こんな語が辞書に載ってないのはいささか拍子抜けだ(上の引用が英語辞書からなのも、日本語の辞書サイトでは該当項目が見当たらなかったからだ)。しっかりしる、三省堂「エクシード英和辞典」(Amazon / 7net)icon!(たまにこういう抜けがあったり、計算機用語が無駄にたくさん収録されている割にはほとんどが時代遅れであったり、マヌケなところも多々あるのだが、小判ながら収録語数の多い有用な辞書である。少なくともわたしは重宝している。ポメラのお供にどうぞ)
(4) ・・・それはそうと、計算機屋ならnetworkはネットワークとカタカナ書きにすりゃいいじゃないかって?いいではないか。networkという単語には「網状組織」という訳語が昔からちゃんとあるのだ、ということも知らない人が多いだろう。コンピュータをわざわざ計算機と書き、ネットワークをわざわざ網状組織と書く。これもわたしのコトバ遊びである。「美しい日本語」などはクソでも食らえだ。



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「standing」の訳について

2010年02月26日 | 私訳メモ
まだ訳文には反映させていないが、standingは「定常」と訳すべきものであるらしい、というのはクワインの用語でstanding sentenceというのがあり、これが「定常文」と訳されているようだからである。

その定常文とは何のことかについて説明しているサイトとしてこことかここを挙げておく。後者はpdfファイルなのでAdobe Readerなどが必要である。何にせよそれ自体について詳述している日本語のサイトは見当たらない。

まだ確認していない(買ってはあるけど読んでないw)が、飯田隆「言語哲学大全」とかに説明があるかもしれない(リンクはクワインを扱っている2巻に張ってある)。

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件の参照箇所

2010年02月25日 | 私訳メモ
訳すのしんどいから英文のままで。

With the History of Sexuality this portrayal of domination gives way to a less reductive and 'physicalist', but no less ideal-typical and unindirectional, account of the rise of 'bio-power' in which the deployment of sexuality became part of the 'great technology of power in the nineteenth century' ─ a 'life-administrating power' concerned with using social science and statistics to 'normalize', control and regulate the life and health of populations. Here, as with discipline, the 'productive' role of power in 'making up people' is simply the obverse of its repressive role, but we are given a phenomenologically richer account of what is involved. Thus we may think we gain more freedom by casting off sexual inhibitions, but we are in fact dominated by images of what constitutes a healthy, fulfilled human being. Sexual permissiveness is an illusory freedom because we are controlled by an

economic (and also perhaps ideological) exploitation of eroticization, from sun-tan products to pornographic films. Responding precisely to the revolt of the body, we find a new mode of investment which presents itself no longer in the form of control by repression but that of control by stimulation. 'Get undressed ─ but be slim, be good-looking, tanned!'
(Foucault, M., "Power/Knowledge: Selected Interviews and Other Writings, 1972-1977",
Brighton: Harvester, p.57, 1980)

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ちなみに

2010年02月24日 | 私訳メモ
サールは7-2節でフーコーの権力論を批判しているわけだが、彼自身は生前のフーコーと「夫婦で」食事を共にするほどの親交があったらしい(夫婦で、と書いておかないと哲学的腐女子の人達が勘違いしそうだ)。ここにうpされている抄訳(わたしのいい加減な訳とは違う、未訳出の部分も含めて全訳を刊行してほしいくらいの素晴らしい訳文である)の95ページから、フーコーやブルデュー、その他のフランスの学者・思想家の何人かについて語っている。原書は↓こちらで、該当箇所は161ページからである。
Conversations With John Searle
Gustavo Faigenbaum
Libros En Red
Amazon


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あれっ?w

2010年02月14日 | 私訳メモ
今頃になって自分が「count (as)」の訳を思いっきり間違えていることに気がついた。

これまでうpしてきた訳文では、適当に意訳しているところは別として、これを「説明する」(countが名詞の場合は「説明」)と訳してきたが、たまたま訳がうまく行かない箇所があって改めて辞書を引き直したら、そんな訳語はない(笑)。「count as」は「と思われる」、名詞の「count」は「論点」ないし「観点」と訳すのが、たいていの場合は適当であるようだ。いま調べてみると、どうもアタマの中で「account」の訳語とごっちゃになっていたらしい。

馬ッ鹿でやんの、と嘲笑われても仕方のないことだが、ワタシの脳はもともと異常に記憶容量が小さいので、こんなことはしょっちゅうなのだ。語形も意味も接近したふたつの語と意味を区別して覚えていることができず、いつからか混じってしまっていたのだ。だから脳なんてものは金輪際アテにはできないということだ。

とはいえ、翻訳という作業は、これはどうしたってある程度までは脳の記憶「機能」に頼らざるを得ない(すべての単語を毎回辞書で引いて調べるわけにもいかない)。いかに誤動作だらけでもまだ脳の方が計算機よりよく機能するのだから仕方がない。そうは言っても所詮は機械である。しかも最初からポンコツである。外国語がどうしても苦手だと言わざるを得ないゆえんである。

いずれにせよ近いうちにこれまでの訳を全部点検して直さなければならない。この点検の済んだものから題名に「(c)」を付する(ここから先でうpするものにはつけない)。さしあたって詳細目次の2箇所を修正しておいた。やれやれ・・・。

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「状態」について+その他

2010年02月11日 | 私訳メモ
以前に物理主義の議論をネタに、その「状態」概念が、個々の状態の属する状態集合(空間)について特に何も定めないまま使われているのではないか、というようなことを書いた。同じことはもちろんサールの議論にも当てはまるとわたしは思っている。少なくともこれまでのところ、サールのいう「生物学的自然主義」に、わたしは満足していないのである。ただ、サールの議論がユニークなのは、心的因果や自由意志に関する細々した議論をある意味ですっ飛ばして、その存在自体はかくべつ問題にもしていないということである。

意識についての微視的な、まさしく分析哲学に特有のちまちました、いわばヨコの議論を延々と展開し続けることを放棄する代償として、サールの議論はタテに展開して行く必然を持っているように思える。その暫定的な結果が生物学的自然主義であり、また本書のような「社会の哲学」の試みであるに違いない、という風にわたしは見当をつけている。これは、わたしが学生時代に複雑性の科学として考えていたこと(このblogで「分布としての『身体』」と称しているもの)のすぐ傍にあるアプローチで、しかもずっと堅固な基盤に支えられているように、少なくともわたしには思えるのである。そうと判っていれば制度学派の経済学やなんかの、存在論的にはどうしようもなく煮え切らない議論を「だからその制度というのはどっから来たんだよ!」的にイライラしながら読むことはなかったのではないかと思えて仕方がないわけなのだが、まあ後の祭りである。

さっきうpした4-2節の後半でサールは動物の前言語的心性においてもカテゴリが存在することを、いくつもの例を挙げて論証しているが、これもここだけ切り出して読むと、なかなかツッコミどころの多そうな議論だと感じる人が多いに違いない。ただ本文中でもサール自身が繰り返し注意していることで、実際にも気をつけておかなければならないのは、ここでサールが考えているのは動物と言っても動物一般ではなく、「人間の他の能力をすべて持ちながら言語だけは持っていない」ような、つまり人類が現世人類に進化するほとんど直前の状態にあるような種類の類人猿である。少なくとも志向的な意識は持っていることが前提になっているということである。志向性ということは少なくとも意識が何かを志向すると言える程度には対象を対象として括り出すことができるということで、なるほど、そこまで前提すればサールの議論はおおよそ問題のないものである。

問題はだから、「対象を対象として括り出す」意識の能力を人間はどこからどうして(進化生物学的にではなく論理的に)得たのかということなのである。それはたぶん未訳出の第2章と第3章で論じられているのに違いないわけだが、訳出がそこまでたどりつくには、えーと、まだまだ何ヶ月も先のことである。目標は「1日平均1ページ」なのだが、どう見てもそんな結構なペースで進んではいない。おそらく3章を訳し終えるのは、ほかのことに浮気しないで順調に作業を進めたとしても(この仮定自体がかなり怪しいことは言うまでもあるまい)、まるまる1年は先のことだと思っていただきたい。どんなグータラ学生でもそんなの待っていられないだろう、だから原書を買って自分で嫁(笑)。

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範列関係

2010年02月10日 | 私訳メモ
●範列関係(paradigmatic relation)についての解説と、これを訳語としない理由
範列関係とは、置き換え可能な構文単位どうしの(潜在的な)相互関係のことである。たとえば「これはペンです」という場合の「ペン」は「机」「本」「灰皿」等々と範列関係にあるということができる。

という説明をつけてparadigmaticの訳語を改めて「範列的」に統一しようかとも考えたが、やめた。

この語は言語学の専門用語で、したがって言語哲学の専門用語でもあるから、サールのテキストの訳語としてはもちろん適切である。しかし「範列的」という語それ自体が、普通の人には何のイメージも与えない語でありすぎる。

たとえば「志向性」といった語なら、その正確な含意はちゃんとテキストを読まなければわからないとしても、字面のパッと見で最小限のイメージは喚起されるから、テキストを読み進むことの妨げにはならない。「範列的」にはそれがない、意味論的な微小ブラックホールのような語である、ためにこの語が出現するたんびにつまづく感じになってしまう。

わたしは素人哲学である。この訳文もその素人哲学の途上で作っているものである。だから、わたし同様の素人が読んでもピンと来ない、出現するたんびにつまづく言葉や言い回しを用いることは、それで(大なり小なり原文を歪めてしまうから)翻訳としてのクオリティが随分下がることになったとしても、できるだけ避けようと思う。専門家は不服を唱えるだろうが、専門家は訳文などなくたって最初から原書でスラスラ読めるんだろうから、いいじゃないか別に。

とはいえ、現在これにあてている「典型的」という語は(確かに辞書にある訳語ではあるが)まったく不適切であることに違いはない。これはいずれ直す。

同じようなことで今から頭が痛いのは「内包性(intensionality)」という語である。こちらは英語だと「志向性(intentionality)」と、語形も含意も酷似している(が、わずかな違いが哲学では決定的な差異になってしまう)、ためにサールはわざわざ「tのつく志向性(intentionality-with-t)」と「sのつく内包性(intensionality-with-s)」と書いたりしている。日本語だとその悩みはないのだが、そのかわり「内包性」というのは、これがまた何のイメージも湧かない、というか「内包」の2字から喚起されるイメージからは、実際の含意の何にも結びつかないような語なのである。

実は内包的(intensional)/外延的(extensional)というのは理科系でも、特に計算機科学の世界では時々使われる(実際、わたしが最初にこれらを習ったのは「計算の理論」の中でだった)概念なのだが、これらの語が使われることはまずない。文章で書かれても判んないからだ。どうするかって?数式で書くのです(笑)。

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いやはや、参った!

2010年02月10日 | 私訳メモ
きっと権力論の専門家が下の訳文を読んだら笑い転げるに違いない。これしきの記述に七転八倒しながら訳して、(たぶん)誤訳だらけなのである。悪かったな、くそっ!さすがにこのあたりの議論は、わたしはまったく無知であると認めざるを得ない。

訳文を改善するにも、もうちょっと類書に目を通してからでないと駄目だなと思って調べてみると、Lukesの本(Power: A Radical View)には翻訳があった。
スティーヴン・ルークス著, 中島吉弘訳「現代権力論批判」(未来社, 1995)(Amazon / 7net)
原書の方は第二版となっていて、この訳書はたぶん初版の方なのだが、まあいいや。サールだけでも難儀なのに、これ以上原書が増えてもやりきれない。

Ledyaevの本は、こちらはさすがに訳書はないようだ。「Ledyaev 権力」でググってみたら、ついさっきうpしたうちのページしか出て来なかったよw

別に先を急ぐこともあるまいに、と思われることかもしれないが、無理を承知で無知な分野の議論を、とにもかくにも訳しているのは、実のところこの先(7-2)でフーコーの権力論についてコメントしているのが判っていて、早くそこにたどりつきたいからなのである。

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いやー

2010年02月08日 | 私訳メモ
平日は会社の休み時間に訳文を作っているのだけれど、帰り際にドタバタしたせいで訳文のファイルを忘れてきてしまった。そういうわけで、7-1の続きをうpする予定だったのだけれど今日はなし。まあ、どっちみち今日はほとんど進まなかったのだけれども。

実際、7章はpowerの話なのだが、英語では同じpowerでも日本語では「力」と「権力」とを訳し分けないと通りのいい文章にならない(すでにうpした分もそのあたり滅茶苦茶なので、そうとう気合いを入れて訳文を作り直さなければいけないと感じている)。ともあれ、こんな基本的な単語でいちいちつまづくことになるので、どうしても作業がはかどらない。

あと、わたしは政治学は大学の学部時代に入門的な講義を受けたことがあるだけなので、どうもこのあたりのタームにうまく馴染めていないのかもしれない。理科系の人間にとってgroup theoryとは「群論」のことなのだが、政治学の分野では「集団(理)論」と訳すのである。ちなみに理科系で「集団」とは、特に生物学の場合はそうだがpopulationのことである。

・・・「何を当たり前のことを言ってるんだ」って?英語の苦手なわたしには、そんなことでも初めて知った時は目からウロコが落ちまくったものなのだ。systemは「体系」のことだとか、ニュートン力学の運動方程式 F = ma はそれぞれ「force(力)」「mass(質量)」「acceleration(加速度)」の頭文字だと(30歳をとっくに過ぎたある日)突然気づいたとき、己のアタマの悪さと語学のセンスのなさを呪って部屋の中を転げまわったものなのである。そういう経験を一度もしたことがない人とは、できれば話をしたくはないものである。そういう人に限って辞書は英英辞典を使うべきだとか、その手のことをさも当たり前のことのように話したり、あまつさえ周囲にもそれを薦めて回ったりする。こん畜生め!

まあ、そんなことはともかく、当時はロバート・A. ダール著・河村他訳「統治するのはだれか―アメリカの一都市における民主主義と権力」(行人社, 1988)←こういうのを結構熱心に読んだりもしたものだったのだが、思えばそれも十年以上前のことなのである。この本、Amazonで調べてみると原書も訳書も普通に(古本ではなく)売られているようなので、原書のリンクも貼ってみる。
Robert A. Dahl, "Who Governs?: Democracy and Power in an American City, Second Edition (Yale Studies in Political Science)," Yale University Press, 2005
政治学の実証研究というのは、特にわが国ではめったにないから、こういう政治学もあるのだというのを知らない人は、一度は読んでみるといいかもしれない。研究としては相当古い(1950年代のアメリカだよ)ものなのに今も本が動いているのだから、かの分野では古典中の古典なのである。

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「deontic power」の訳語をめぐって

2010年02月07日 | 私訳メモ
MSWを訳し始める前から、それどころかサールの前著「Freedom and Neurobiology」(Columbia Univ Press, 2008)を読んでいた時からこの「deontic power」をどう訳すべきかをずっと悩んでいて、一向に解決の目途が立っていないのである。

「訳語メモ」では冗談みたいなことばかり書いているが、真面目な話、漢籍や仏典(の漢語訳)について深い教養の持ち主ならわたしの懸案を解いてくれるのではないかと思っていたりする。つまりわたしには四書五経の知識がないし、また、いつも手元に「国訳大蔵経」のたぐいが置いてあったりもしないわけである。だが、たぶん日本のどこかには、そういう人がまだいるはずなのである。

そう言えば昔、大学で生化学入門の輪読会に参加していたとき、雑談の折に教授が知人の生物学者から「新種を発見したんだが、ラテン語の判る人はいないか」と尋ねられて困った、という話をしていたことがあった。なるほど学名はラテン語でつけるのだが、いまどき生物屋でラテン語の素養のある人なんかまずいないのである。いるとすれば哲学か、神学を含む西欧古典の研究者くらいである。R・ドーキンスは「いまどき大学に神学部なんていらないだろ」などと悪態をついているが、神学部がなくなるとラテン語に堪能な人がいよいよ減って、生物学は困るに違いない。

書いてるうちにまた冗談になってしまったが、しかしちょっと驚くべきことだと、閲覧者諸兄は思わないだろうか。少なくとも現代日本語には権利と義務の双方を包摂するような概念と語がないようなのである。英語にしたってdeontologyなどという単語は、わたしもサールの本を読むまでは知らなかったし、そもそもギリシャ語の「義務」が語源らしいから、日常語として権利と義務の双方を包摂するような概念と語は、やはりないのではないだろうか。「権利」や「義務」という語を知らない人は日本にも欧米にもいないだろうということを考えると、これ自体がとても面白いことだとわたしには感じられる。正数と負数という概念があるのに、両者を包摂する整数という概念がないというようなものなのだ。

わたしは数学史のことを考えている。負数の概念が知られるようになってから整数の概念が知られるようになるまでは、これもきっと一瞬の出来事ではなく、相応の時間差があったのではないだろうか。

もうひとつ、こちらはたぶん意地悪なことを言ってみる。世の中には「近頃のワカモノは権利ばかり主張して義務を(略)」という老人がたくさんいるけれど、そのように権利と義務をワンセットで考えろと彼らは言う割に、どうして彼らはただの一度も両者を包摂するような概念と語を創出することがなかったのであろうか。

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とはいうものの(下の訳文の補足)

2010年01月30日 | 私訳メモ
「スキマ(gap)がなければ我々の権利義務構造は意味をなさない。まったく機械論的な宇宙の中に権利義務論の場所はない。」という記述は、少なくともわたしにとって感慨深いものだ。学生をやっていたころのわたしが複雑性の「科学」をいったん棚上げにせざるを得なくなったのも、複雑性の経済モデルを考えていたとき、この「スキマ(gap)」の存在に突然気づいたからだった。わたしの頭の中に閃いたのは「(物理的な)実在に選択の余地(自由)はない」という一文であった。

スキマ(gap)を科学の言葉で言えば相空間上の特異点のようなものだということになるだろう。つまりその存在を前提する限り、現象のあらゆる機械的因果的なモデルは破綻してしまう(無意味になってしまうと言ってもいい)のである。

サールは(少なくともわたしが読んできた中では)このことを誰にでも判る言葉ではっきり述べている、ほとんど唯一の現代哲学者だと思える。原書を自分で訳してでも読まなければならないと思っているのも、この一点があればこそである。

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えーっと

2010年01月27日 | 私訳メモ
下の訳文は今日作ってろくに推敲もしないままうpしたものである。ざっと眺めてもヘンなところが山ほど残っているわけだが、そういうのはおいおい修正して行く。

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