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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

方針変更

2010年11月17日 | 私訳メモ
今朝も書いたがTRWの翻訳は元論文の方を始めたとたんやる気が微妙に低下してしまって、イントロダクションの途中で止まってしまっている。要はあんまり面白くないのである。中身が、ではなく、おなじ英語でも書いてるのはドイツ人だし、そもそも論文なわけだから、味も素っ気もないのである。

もちろん元論文の翻訳も続けては行くが、並行してサールの他論文への回答や、第1部「自身によるサール哲学概論」の一部も、アトランダムに訳して行くことにする。まずは第3論文「サールの生物学的自然主義:ひとつの類型学」への回答、あと第1部第9章「美学」といったところから。

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「第4論文への返答」についてのメモ

2010年11月09日 | 私訳メモ
下でああは書いたが、サールのこのあたりの説明はいつ読んでも判りのいいものではないと感じる。昔に書いたことだが、「因果的に還元可能で、存在論的に還元不能」とはいったいどういう意味だということにならざるを得ないのではないだろうか。意識状態が別の記述水準からする脳の状態だというのは、科学者だったら「単なる解釈の違い」であって実質がないと言うだろう。

このあたりのことについてわたしが勝手に補足しつつ理解しているのは、こういうことだ。因果的に還元可能だというのはたとえば「1足す2は3になる」というようなことだ。1+2は因果的に3を帰結する。まったくその通りで、そうでないのは間違いである。

で、存在論的に還元不能とはどういうことか。「3とは何か」ということである。それは「1+2」かもしれないし「0.5+2.5」かもしれないし、もっと滅茶苦茶複雑な方程式の解であるかもしれない。それはひとつに定まらないし、有限でもないし、それどころか可算ですらない。それが「存在論的に還元不能」ということの一番明瞭な含意だとわたしは思っている。

ただしサールの言っているのは、これとは微妙に違っている。つべこべ言ってもサールは意識が脳の神経生物学的過程であるということは譲らない。そうだとすると脳過程を、あるいはそれを含む適当な身体生理過程を調べ尽くせば、意識状態の対応物は有限なひとつに定まるのではないだろうか。そういう考えを明瞭に拒否するものにはなっていない。ただそれもまた実は微妙だ、というのも、この返答においても本当はサールは「生物学的自然主義」ということに、究極的なものはすべて押しつけていて、それが何なのかを明瞭には言っていない。明瞭に言っていないというのはつまり意識に対応するであろう身体生理過程とはそれを「調べ尽くす」ことができるような何かではないということを、本当はサールが気づいている可能性があるということだ。

気づいてはいても、それを言っちゃったら「ディベートで自説を擁護しきれない」と感じているのかもしれない。だったら素人哲学が臆せず言おう。実際にそうではないのだ。

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そういうわけで

2010年11月07日 | 私訳メモ
とりあえずTRW(Thinking about the Real World)の私訳に手をつけた。そして最初の訳文をうpする際、「TRW私訳」カテゴリを新設し、また従来「MSW私訳メモ」と題していたカテゴリ名を「MSW・TRW私訳メモ」に改めた。

それにしてもまた何で第4論文の、それもサールの回答からなんだよ、と閲覧者は言いたいことだろう。自分が一番読みたいところからやるというのはいいとして、普通は論文の方から先に訳すもんじゃないのか。

大丈夫だ、問題ない。この回答を訳したら(以下にあるのが半分、残りあと半分だ)そのすぐ後に論文の方を訳そうと思っているのである。なんで回答の方が先なのかと言ったら、読んでもらえばわかる通りこの回答はサールの心的因果についての考えを簡潔にまとめたものとして読むことができるわけである。要はRM(Rediscovery of Mind)やM(Mind)の復習がてら、まずこれを訳すことにしたのである。

論文の方も読み始めてはいて、これはこれでJ・キムのあの例の議論を参照しつつサールの立場の問題点を探るというもので、とてもいいベンキョーになりそうである。

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あー終わった

2010年04月30日 | 私訳メモ
終わったよ、とにもかくにも本文の訳出が。

どんな場合でもそうだが、わたしは何かをやって達成感ということを感じることがほとんどない人である。それが仕事であっても何であっても、オレはやったぞの感じが全然しない。むしろそれまで抑圧していた「骨折り損のくたびれ儲け」の感じがどっと押し寄せてくることの方が多い。それで文字通りその場にへたり込んでしまうことがある。ずっと昔、大学受験の合格発表の時に本当にそうなったことがあった。傍からは落ちた人のようにさえ見えたかもしれない。

何もなくてもそうなのだが、今のわたしは特にそうだ。別にこんなことをやったからって、タバコが値下げになるわけでもなし、禁煙ナチスが一掃されるわけでもない。本当のことを言って、生産とか消費とかの純粋に経済的な(何かの理念にもとづく実践に属さない)行為を別にして、まさにそれを帰結することがないならば、今のわたしは自他のいかなる行為に対しても、いかなる非個人的な価値も認める気にはならない。このblogにうpした私訳が「わたし以外の役に立たない」としつこく言っていることの(極小的な意味はもちろん「ヒデエ訳だぜ」ということだが)極大的な意味はそういうことである。

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あと1ページ!

2010年04月29日 | 私訳メモ
・・・だったらその1ページをさっさとやっちまえ、と言われることだろうが・・・腹が減った。今日だけでかれこれ8ページ強も(途中で居眠りしたり動画サイトに見漬かったり、さんざんサボっているのだが)訳してきたわけで、さすがに空腹も限界である。

今日はここまでにしておこう、というか今日という日はあと1時間半しかないわけだ。今から飯食ってそれから残りをやるとして、普通に夜半は過ぎるのである。

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結局・・・

2010年04月27日 | 私訳メモ
「私訳Ⅲ」に割り当てた分は今日一日で終わってしまった。今日はもう会社のPCが使えない状態で、休み時間に辞書引くことくらいしかできなかったのだが、読んでてあんまり面白かったので、家に帰ってくるなり晩飯も食わずに一気に訳文を書き下ろしてしまったというわけである。

これで明日第6章5節をやったら、結局第6章1節だけが残ることになる。これは結構長いので、さすがに1日で全部終わるというわけにはいかないだろう。だからこれをさらに三分割・・・それはさすがにやめておこう。

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非公開分

2010年04月27日 | 私訳メモ
いまカテゴリ一覧を見ると非公開分のエントリ数と公開分の合計エントリ数がほぼ同じになっている。

1/3どころか半分非公開かよ、とは思わないでもらいたい。私訳Ⅰ・Ⅱ・Ⅲはそれぞれ1章・4章・7章(イッスーチーという奴だよ)から始めたわけで、つまり最初に手をつけたものから順に非公開にしているわけである。で、訳出のペースは後になるほど上がっている、つまり最初の方はエントリあたりの長さが短いのである。だから分量としては非公開分は1/3よりやや多い程度のはずである。

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"make it the case"をどう訳すか

2010年04月26日 | 私訳メモ
サールのテキストには「make it the case」という表現が頻出する。これは宣言型言語行為の記述だから、実際きわめて重要なポイントである。それは私訳作りのかなり最初の頃からわかっていたわけだが、実際これをどう訳せばいいのかわからず、ググってみてもはかばかしい結果が得られなかったので、とりあえずそのまま適当に訳してきたというものである。

うpした訳文を「ひどいバカ訳」だとか「わたし以外の役には立たない」などと言い続けてきたのは、別に自虐で言っていたわけではなく、こういう重要な部分の訳がちゃんとできていないのが自分でわかっていて、後からいろいろ調べ直して訳し直すことを前提として作業を進めていたからである。

で、その訳出作業が終わりに近づいてきたせいか、はたまたもうじきGWの連休だからか、ちょっとは心に余裕が出てきたらしく、今日になって改めて調べ直してみたらアッサリ解決した。「"make it the case" Searle」でググってみると、なんと「Intentionality」の本文がぞろっと出てきたのである。以下「Googleブックス」で読める本文からの引用。

The primary question I will address is simply this: What are the features of speakers' intentions in meaningful utterances that make it the case that the speaker means something by his utterance?
(Searle, John R., Intentionality, an essay in the philosophy of mind, Cambridge, pp161)

そして以下が、以前からわたしが所持している邦訳書の対応部分の訳文。

私が検討する中心問題はただ次のことである。すなわち、有意味な発話における話し手の意図の性質のうち、話し手が発話によって何ごとかを意味するという事態を成立させるのは何か、という問題である。
(坂本百大訳「志向性──心の哲学」(誠信書房), p. 224)

ナルホドナルホド・・・

むろん、この訳し方で全部通せるかどうかはわからないわけだが、ひとついいヒントが得られたことは確かである。またこの方法自体、今後とも活用できそうである。サールの著書の邦訳書なら、わたしはたいてい持っている。サールに、あるいは専門の(言語)哲学に特有の(したがって普通に辞書を引いてもうまく訳せない)言い回しは、サールの著書の本文に同じ表現がないか検索し、見つかったら手持ちの邦訳書で該当部分がどう訳されているかを見てみればいいわけである。邦訳書はモノによって誤訳も多かったりするらしいのだが、そうは言ってもど素人のわたしのバカ訳よりは全然ましであるのに決まっているわけで、訳文の改善には非常に役立つはずである。

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おお、忙しない忙しない

2010年04月26日 | 私訳メモ
結局、今日のところはうまい具合に会社のPCを使うことができたので、いつも通り始業前と昼休みに訳文作りを進めることができた。

ついでに今日は強制定時退社の日でもあって、朝方書き込んだ通り定時と同時にダッシュで帰ってきて、第5章5節問7の分をうpして、さらに問8と6節の続きを訳して、これもうpした。よっしゃこれで今日は終わり・・・と思ったとたん、ハタと気づいた。結局、今日だけで第5章の残りがすべて終わってしまった。・・・そう、それならば、以前からの予告通り第4章を非公開カテゴリに移さなくてはならないではないか。うわーっ!

・・・で、それがさっき終わった。もう大車輪である。面倒である。仕事でもないのに忙しないったらありゃしない。やっと一息ついて一服しているところである。

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やれやれ、今日もよく働いた(笑)

2010年04月25日 | 私訳メモ
もの凄い勢いで6-2から6-4まで訳してしまった。

もともとそれほど長い節ではない、とは言えこの3節全体で本文では5ページ分くらいの分量はある。別に急に意気込んだわけではなくて、要はわたしにとってこのあたりの議論は計算機屋としても複雑性研究の学生としてもお馴染みの議論だということである。本当のところ、ここらへんはいちいち文字を追って読まなくてもだいたい何を言っているのかは察しがつくくらいのことなのである。わたしに特異的なことがたったひとつあるとすれば、ここでサール先生がたどってみせている道筋とほぼ同じ道筋をたどって、わたしも「自由の概念は・・・本質的である」という認識にまではたどりついたということである。もちろんサール先生が当たり前のことだけを言っているわけではない。わたしの知る限りこの種の議論を制度とか権利・義務とかの、その概念的な基礎にまで遡ってやってみせたのはサールが最初ではないか(そして、今でもほとんど唯一ではないか)と思う。だからわたしにとってそれは学ぶ価値があるし、こうして私訳を作ってでも読み込んでみる価値があるわけなのである。

知能科学に関心を持つ計算機屋とか研究者というのは不思議なことに、こうした議論の流れにまったく乗って来ない人が一方にいるかと思えば、ほとんど必然的にこの方向に流れついてしまう、つまりわたしの同類が一方にいるわけである。もっとも後者は、計算機屋ということに限って言えば、わたしはわたし以外に同じことを考えている人を知らない。むろん、世界のどこかにはやっている人がたくさんいるだろうとは思っているが、どうせわたしにはまるっきり読めない種類の言語でやられているに決まっているわけだ。そんなのはわたしにとってないも同然である。

まあ、そんなことはどうでもよくて、連休に入ってからこのくらいのペースを維持することができれば、連休中にひと通りの訳が出来上がるところまでこぎつけられそうである。懸念事項がふたつ。

  (1) そういう時に限って連休中に気まぐれを起こして作業が進まない
  (2) この私訳が終わったら次は何をしようか

前者は気まぐれを計画したり抑止したりすることはできないのだからどうしようもない。後者については、いくつか腹案がないでもないが、正直どうするか決めかねている。とりあえずは最初から訳し直しの読み直しをやることになるだろうけれども。

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てなわけで

2010年04月24日 | 私訳メモ
第8章と、あとがき相当の「社会科学の存在論的基礎」が終わった。これに伴って第7章を非公開カテゴリに移動した。

次回の「私訳Ⅲ」ローテーションは第6章6節に飛ぶ。予定ではこれは火曜日だ。以前言ってた通り連休に入るまで会社のPCが使えないので、火曜日はほんのサワリくらいしかできないだろう。

ややこしいので各ローテーションの今後の予定を以下にまとめてみる。

  私訳Ⅰ→次回(明日)第6章2節から
  私訳Ⅱ→次回(月曜)第5章5節問7から(第5章終了後はそのまま第6章冒頭へ)
  私訳Ⅲ→次回(火曜)第6章6節から

どうしてこういう割り振りになったのかと言えば、私訳Ⅲカテゴリには気まぐれでやってしまった第6章8節「結論」が入っているからである。ちなみに、この第6章8節は非公開にはしていない。今日非公開にしたのはきっちり第7章だけである。

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てなわけで・・・

2010年04月22日 | 私訳メモ
「謝辞」の翻訳(それに加えて列挙された名前の調査、雑誌や文献へのリンク貼り等々)は今後ヒマな時にちびちび進めて行く方針に切り替えた。赤の他人が赤の他人に感謝を述べている文章を訳すのは、かくもアホらしい気分のすることで、なけなしのやる気などは容易に失せてしまうような何かだというのは、今度やってみて初めてわかったことだ。学生のころにやっていた翻訳は、論文や書籍の中身の、自分の研究に必要な部分しか訳さなかったし、謝辞まで手を伸ばしたとしても、たいていほんの数行だったからなあ・・・

まあ、とにもかくにも「私訳I」の次回は第6章2節の冒頭へ飛ぶ。

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残念なお知らせ?

2010年04月21日 | 私訳メモ
毎日せっせと私訳のページを拾いに来てくれているgooglebotさん他の閲覧者の方々には、いささか残念なお知らせである。

毎日うpしている私訳は、休日以外は会社の始業前とか昼食後の休み時間とかのわずかな時間──両方フルに使っても1時間と少し──を使って書いているわけなのだが、来週、すなわち連休前の3日間は、諸事情あって会社のPCが使えないことになった(計算機屋がPCも使えなくて何の仕事をするんだと思うだろうが、まァ会社というところではいろいろと変な仕事もさせられるということだ)。その間は家に帰って来てからしか作業ができないので、進行はぐっと遅くなることになる。半ページもできればいい方だろうか。

ところで、私訳Ⅲの次回のローテーションは土曜日である。たぶんこの1日で8章の残り(10節と付録)は終わるだろうから、土曜の夜には第7章が非公開になっているだろう。

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「Power and Social Ontology」概要

2010年04月21日 | 私訳メモ
いろいろ調べたがこの本を普通に入手することは困難である(版元に直接mailで注文するしかないようである。たぶん英語で通じるだろうが、支払方法がわからない。そもそも日本への発送を受け付けているかどうかも、現時点ではわからない)。とりあえず訳文中にも張ったリンク先にあるブックガイドをコピペしてみる。いま訳してる暇がないので原文だけ。気が向いたら訳す。

What is social power? How does it fit into the world of institutions, practices, rules, and norms in which we live our lives? Of what does the authority of a president or the informal power of a fashion guru exist?

A peculiar fact of the field of social ontology – concerned as it is with concepts like institutions and collective action – is that social power has been almost completely missing from it. In this book, Åsa Andersson rectifies this deficiency. She provides a new approach to the conceptual analysis of social power and explains the forms it takes, using recent developments in social ontology. The various forms of social power share a common feature; they depend for their existence on collective intentionality.

Andersson also offers a critical discussion of John Searle’s, Margaret Gilbert’s, and Raimo Tuomela’s work, probably the most important theories of the social world available today. She concludes with an investigation of normativity in relation to the social world, arguing that moral facts are social facts.

ÅSA ANDERSSON is a philosopher at Lund University.

Copyright © Bokbox Publications 2007

Scientific CommonsにAnderssonの同じ題名の博士論文のabstractがある。書籍になったものは、おそらくはこの論文か、この論文に加筆修正を加えた内容ではないかと推測される。以下、そのabstractの全文。

This work presents an account of social power based on recent advances in social ontology. It is argued that a conceptual analysis of social power can be informed by developments in social ontology, but also that this field can be enriched, and in fact requires, an analysis of this central social concept. Social power is dependent on the existence of various kinds of social phenomena, such as institutions and social structures, in order to exist. Consequently, a precise analysis of these social phenomena improves our understanding of social power, and the different forms it takes. The proposed taxonomy of social power is based on this insight since the various types of social power is explained in terms of the different social phenomena on which it depends. These forms of social power share a common feature; they are dependent on collective intentionality to exist, which makes the analysis of this notion an important part of the book. The following definition of social power is proposed: An agent A has social power if and only if A has an ability, which is existentially dependent on collective intentionality, to effect a specific outcome. Due to presupposing a cooperative and consensus-oriented view of social phenomena, other works in this field offer too narrow analyses, if any, of social power. For instance, the type of power - deontic power - previously discussed is necessarily visible or transparent. But there are other forms of power in social reality, such as opaque kinds of social power, telic power, and power as the imposition of internal constraints. In order to account for these forms of social power the investigation is extended to areas which have been neglected so far: second-order social phenomena such as social structures, opaque kinds of social facts, and different types of normativity. A definition of "social structure" is offered, and the tools of social ontology are applied to a new area, meta-ethics, in arguing for the thesis that moral facts are social facts. The book also offers a critical discussion of central theories in this field, such as John Searle's construction of social reality, Raimo Tuomela's collective acceptance account of sociality and Margaret Gilbert's plural subject theory. This critical discussion aims at improving our understanding of the nature of social phenomena.

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第3章が終わったぞ

2010年04月19日 | 私訳メモ
三分割したうちのIの末尾とIIの冒頭がこうしてつながったわけである。いつもよりちょっと感慨深くてタバコもうまい。

もっとも、この状態はそう長く続かない。かねて予告してきた通り、第5章が終わったら第4章は非公開にするからである。ヘボ訳でいいから原書読解の参考にしたいという人は、今のうちにコピペするなりDLするなりしておくことである。

そんで、「私訳I」のローテーションの次回は、これも予告通り「謝辞」の訳出とする。たいがい人名で埋まっているので、いつもよりは早く進むだろうが、1回で3ページ半すべてを訳出できるかどうかはわからない。いずれにせよそれが済んだ後で第6章2節へ飛ぶ。なんか今原文を見てみたら、第6章はこれがまた1節がやけに長いのである。

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