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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

「知識」についてのメモ(4) ── 無名の権威が自己組織する場合(1)

2014年04月02日 | チラシの裏
メモ(1)の最後でも言ったことだが、このメモの中では真理を保証するもののことを単に「権威」と呼ぶことにしておく。権威という言葉の意味を「真理を保証するもの」の意味に限定して用いるということである。

この権威(の担い手)は、もちろん人間であるとは限らない。実際、日常生活習慣から身についた知識において、それが真理であることを保証しているのは、特定の人物ではないし、特定されない誰かでもない。今日も昨日も一昨日も夜が明けて朝が来た、だから明日も明後日もそうなる、夜は必ず明けて朝が来るのだといったたぐいの知識は、人物として誰かがそれを真理であると保証しているわけではない。

とはいえ、これ(夜は必ず明けて朝が来る)が自明な真理ではないことも確かである。明日の朝がどうなるかは未来の出来事であって、いまここの直接経験ではない。「1、2、3ときたら次は4だ」という主張は少しも真理ではない。

細かく見ればいましがたの直接経験でさえ、それが知識であるためには何らかの保証を必要とする。いましがた目にしたものはリンゴだった、それは、それを目にしたことの直接経験としては自明な真理であるが、「いましがた目にした」と形容されるものは直接経験ではなく、その記憶ないし記憶の想起にすぎない。

想起された記憶、ないし記憶の内容が真理であることは自明ではない。実際、我々はしばしば「いましがた目にした」ものについて「わが目を疑う」ことがあるし、疑うことができるし、事実それはときどき間違っている(笑)。目をこすってもう一度見てみたら見間違えだったということは、よくあることである。

結局、「いましがた目にした」ことでさえ、それが知識として行為を──たとえばそのリンゴを手に取って食べるなどの行為を──触媒するものであるためには、「いましがたの直接経験、その記憶として想起された内容は、たいていの場合(笑)真である」ことが保証されていなければならない。それを保証している権威は自分自身ではないし、リンゴでもないし、いましがたの直接経験でもない、まったく不明な何かである。とはいえ、その不明な何かは存在するわけである。いかなる意味でも存在しないものは保証するということもできないであろう。

これらのことは、知識にとって「記憶」とは、また「理論」とはなにか、といった様々な問題を提起するものでもあるが、これらについてはしばらくおく。ほとんどの知識は真理として自明ではなく、何らかの権威によって真理であることを保証されなければならない。この権威とは何なのか。権威は存在しなければならないが、どのような様態(mode)において存在するのか。

原始時代の共同社会だったら、それを保証するのは、たとえば神話伝承(イイツタエ)のたぐいであったかもしれない。どうして夜は明けるのか。昔々これこれのことがあって、それ以来夜は明けるようになったのだ。そういうたぐいの神話伝承なら、いかにもたくさんあったに違いないと思われはすることである。

むろん、これは「思われはする」というだけで、実のところはまったくありもしなかったことの空想かもしれない(笑)。また本当にそうだったとしても、すべての権威がそうした起源をもつとは考えにくい。ただ、知識が神話伝承の類から真理であることの保証を得ている(権威づけられている)ことがありうること、またそのような(多少とも権威の効果をもつ)神話伝承が、原始時代の共同社会がどうであったかはともかく、現代の社会生活の中にも存在する──いわゆる都市伝説(urban legends)だけではなく、迷信(superstition)一般がこれに該当しよう──ということ、これらのことはたしかである。

迷信は我々にある行為を促すように感じられたり、あるいは逆に躊躇わせたりするものである。現代の文明社会の中では、迷信には一切従わないという人はそれなりにたくさんいるであろうが、それが行為を促したり躊躇わせたりすること、そのような効果をもつものの気配を、日常まったく経験することがないという人は、なお稀であろう。

そして、そのような神話伝承的なものとその権威が自発的(spontaneously)に、無名の(特定の人物や対象をその担い手としない、対象に帰属しない)秩序として生じてくるということは、可能であるように思われる。

そらまたいったいどんな風に、というのをこれから書こうとしているわけだが、前置きをぐだぐだ書いていたら長くなってしまった(笑)ので、続きは次回ということにする。キーワードだけ書いておけば、それは再び「触媒」である。

(つづく)

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「知識」についてのメモ(3) ── 余談(権力と葛藤について)

2014年04月01日 | チラシの裏
このメモの最初に、権力とかかわりをもつものとしての知識ということを述べたが、そもそも権力とは何かについては何も言っていなかった。

何も言わなかったのは、よく判っていないからである(笑)。とはいえ何の考えも持っていないわけではないので、それを書いてみる。

わたしの考えでは、権力(power)とは葛藤(conflict)の上で作用し、葛藤によっておしとどめられていた行為(あるいはその意志や欲望)を解放したり、(葛藤の対手にかわって)おしとどめたりする力のことである。

ふつうに権力という場合、それは人に何かをさせたり、させなかったりする外力(のように思われるもの)のことを指しているはずである。上はだから、単にこうした常識的な考えの上に「葛藤」という状況の限定を加えただけであると言ってよい。

そしてこの「葛藤」とは、ふたつ以上の行為(あるいはその意志や欲望)が互いに遂行を妨げあっている状況のことである。日本語の「葛藤」は専ら個々人の心の内側で起きるそれ──しばしば頭上で天使と悪魔が言い争う光景として戯画化されるような──を指すわけだが、もともとは英語でいう「conflict」の訳語である。そしてconflictは文脈によって「競合」「闘争」等々とも訳される。つまり、葛藤しあう行為の担い手は別々の人物でありうるし、それ自体の意志・欲望、およびそれらに導かれた行為ということを考えられるものである限り、それらの担い手が人間である必要もない、ということである。

──もちろん、人間以外の存在がそれ自体の意志や欲望を持つものかと言えば、それはきわめて疑わしい、考えにくい、およそ信じがたいことであって、ほとんどの場合それは比喩というか、対象の擬人化された判りやすさの描写にすぎないとみてかかるべきことであるけれども、さしあたり、ここではそれを深く問わないことにする。まったく実際的な意味で、このことで愛猫家や愛犬家と議論することは、引っ掻かれたり噛みつかれたりの無用な生傷が心に絶えないことで、兎に角よした方がいいことである。

いずれにせよ、ここではそういう広い意味で「葛藤」という言葉を使っている。

若干脱線気味になった(笑)ので話を権力に戻すと、このように権力ということを「葛藤」という状況の限定を加えて定義することには、いくつかの利点があるとわたしは思っている。

  (1) 単なる物理的な作用を権力に含める必要がなくなる。
  (2) 単なる暴力を権力に含める必要がなくなる。
  (3) 権力を社会的達成の直接原因と考える必要がなくなる。
  (4) 権力を自由の妨げとして単純に否定的なものと考える必要がなくなる。
  (5) 権力を自由の統制として単純に肯定的なものと考える必要もなくなる。
  (6) 自由を権力からの解放として単純に肯定的なものと考える必要がなくなる。
  (7) 自由を権力からの逸脱として単純に否定的なものと考える必要もなくなる。
  (8) 自由の存在を蔑ろにする必要がなくなる。
  (9) 権力の存在を蔑ろにする必要もなくなる。
  (10) 内的な意識と社会的な行為や達成の間に自然なつながりを考えることが可能になる。
  (11) その他(笑)

いくつかについて補足しておく。まず(3)については、社会的達成のそれ自体は常に個々人の行為を基礎とするのであって、権力それ自体が何かを達成するものではないということである。いいかえれば「権力は自ら手を下さない」ということである。それは行為する、その意志や欲望をもつ個々人を操(りう)るものではあるにせよ、直接に達成の糸を引くものではないということである。触媒はそれ自体が化学反応するものではない(反応の前後で変化しない)ように、あるいは、交差点の信号機はそれ自体が走るクルマの行先を指図するものではないように、である。

もうひとつ、(10)については、「我あり」から始まる哲学がいかにしてその「我」の外側を含めた事柄、つまり我ならざる他者を含む社会的な現実について論じることができるのか、つまり独我論(solipsism)で閉じてしまうことをいかにして回避できるのか、という哲学史上の難題のひとつに、この定義は貢献できるかもしれないということである。もうすこし簡単に言い直せば、すべての社会的な現実は、個々人の内的な意識におけるふたつの根源的な欲望(生と死の欲望)と、それらの葛藤ということから論じることが可能になるのではないかということである。

つまり案外でかい話なのである(笑)が、ただの大風呂敷だと思われる前に註をつけると、そのようにさまざまな社会的な行為や達成のすべてを葛藤と権力のモデルで考えようとすると、次第にひとつの課題が浮かび上がってくる。ひとくちに社会的な行為と言ってもさまざまにあるわけだが、それらが、同じひとつのモデルから生じているのだとしたら、たとえば経済的な行為と知識的な行為は現実においてなぜ全然別物であるのか、これらはどのように区別されるべきで、またどうしてその区別があるのか、そういったことは必ず説明されなければならない、という課題である。

(つづく)

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「知識」についてのメモ(2) ── 行為の触媒としての知識

2014年03月31日 | チラシの裏
知識とは「真理の保証」である。そう考えてみると、ひとつの疑問が自然に生じてくる。

知識が真理の保証であるというのはいいとして、では、その真理はなぜ保証されなければならないのか、ということである。ほとんどの場合真理はそれ自体としてあるのではなく、保証されなければならないものであるとすれば、なんで「わざわざ」保証を要する真理を、あるいは真理の保証にすぎない知識を、人間は「わざわざ」求めるのか、ということである。

その疑問の答が今回の副題である。知識は本来、さもなくば行いえなかった行為を行いうるようにする、つまり行為を触媒する性質をもっている、ということである。

いま腹を空かせた人の目の前に、見たこともない物体がひとつ置かれているとする。その物体はどう見ても食欲をそそる形と色をしている上に、「うまそうな」匂いまでたてていやがる(笑)としよう。ところが我々人間は徐にその物体を手に取って口へ運ぶことが、しばしばできない。食べることができないだけでなく、食うか食うまいかと葛藤して立ち往生してしまうこともある。

知識はそこで「その物体は○○である。そして○○は食べ物である(あるいは、食べるべからざる毒である)」という真理を保証することができる。この保証によって初めて我々は食うか食うまいかの葛藤を離脱して、その物体に手を伸ばして食べる(あるいは、手を引っ込めて立ち去る)行為を開始することができる。知識によって初めてそれが可能になる、つまり「さもなくば行いえなかった行為」が可能になるわけである。

初めて目にする物体が食べ物なのか、見かけが食べ物っぽいだけで致死性の毒をもつものであるのかは、自明な真理、つまり直接経験の範囲を超越している。普通の言葉で言えば「食べてみなけりゃわからない」ことである(笑)。つべこべ言わずに(騙されたと思って)食ってみろ、などと言ったりするわけだが、冗談ではない、もしもそれが毒であったとすれば、食べたら死んでしまうわけである。

人間はそこで「勇気を奮って」食べ物である(毒である)ことの方に賭けることもできる存在ではある。けれども、そうは言っても現実にはほとんどできないものでもある(笑)わけである。知識をもつことはその敷居を無にはしないかもしれないが、それでもぐっと低くすることではある。

これはまったく、化学における触媒(catalyst)の性質そのものである。触媒はそれがない状態で必要とされる活性化エネルギ(activation energy, Arrhenius)という名の「敷居」をぐっと低くすることによって、特定の化学反応を生じやすくする(反応速度を上げる)作用をもつ物質である(その効果がしばしば桁違いなので、見た目には「起こりえない反応が起こる」奇跡の物質のようにも見えるが、実際はそうではなくて、ただ「敷居を下げて」いるだけである)。

何にせよ、こんな風に知識は行為の触媒だと考えられる。自明な真理だけではなく真理の保証を真理同然のものとして(手形を現金同然のものとして扱うように)扱うことで、人間は実際に可能な行為の範囲を大幅に広げることが可能になるわけである。

さらに、このように考えてみれば、この考え方自体が真理とは何かということの実際的(pragmatic)な本質を定義するものだと見なすことが、あるいは可能であるかもしれないということに気づかされる。少なくとも、そもそも真理はなぜ尊重されなければならないかというときに、絶対的・超越的な何かを無理して想定する(そうしなければならない予感に不安を抱く)必要は、必ずしもなさそうであることがわかる。

もちろん、はっきりした疑問がひとつ、ここから生じてくる。知識は確かに行為の触媒でありうるが、何の行為も触媒しない知識もまたあるように思われるということである。そのような知識の意味は何か、つまりそのような知識をもつことはいったい何をしていることになるのか。これは、またそのうち考えよう(笑)。

(つづく)

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「知識」についてのメモ(1) ── 真理の保証としての知識

2014年03月30日 | チラシの裏
ここで考えようとしている「知識」とは常識的な意味での知識、すなわち真理の同義語としての知識のことではない。また、情報科学の分野で言うような意味での知識、すなわち真理の記述とかデータとか、その系統だった集積(データベース)のことでもない。そうではなくて、知識という言葉にはもうひとつ、「権力」ということと関連する、あるいはひょっとすると権力そのもののことかもしれない、そういう意味での「知識」があるわけである。

そんなものはない、という人はいないだろう。なぜだかはよくわからないが、あることを知っている人はそれを知らない人をバカにすることがある。知らない人は知っている人を見て「俺はバカなんだ」と(知っている人からバカにされなくても)自分から納得してしまうこともある。いいか悪いかは別にして、知識というのはそれを持つことが優越感の種だったり、持たないことが劣等感の種だったりするし、さらにはそうした個々人の主観、つまり内的な考えにとどまらず、個々人の社会における序列、すなわち発言や行為の優先順位とか、収入や財産の大小といったことにも、どう見ても小さくはない現実的な影響を与えている。

知識がこうした性質を持っていることは、知識とは真理ないしその記述のことだという見方からは説明できないことである。

結局のところ知識とは何なのか、結論から言ってしまえばそれは「真理の保証」である。それが記述やデータなら「これこれは真理であると保証します」ということの記述である。

厳密に言えばすべての知識がそうだというわけではない。理性的な真理、つまり自分自身の直接経験(実験とか観察とか)から得られる真理は保証を必要としない。「いまわたしがうまい棒を食べたらうまかった」この経験それ自体(経験の記述ではない)は何の保証もいらないという意味で自明な真理である。

けれどもこれは特別な場合である。ほとんどの人が持っている知識のほとんどすべては自明な真理ではなく、ただ真理であることの保証にすぎない。それはただの保証にすぎないがゆえにウソかもしれない、そうした何かである──この「ウソかもしれない」ということを強調するためには「保証」というより「(約束)手形」とでも言った方がいいかもしれない。手形は落ちる(現金化できる)かもしれないし、落ちない(不渡りになる)かもしれない。手形は現金ではないが、あたかも現金のように、現実において通用している。同様に、知識は(ウソかもしれないという意味で)真理ではないが、あたかも真理のように、現実において通用している。

(この比喩を延長したとすると、経済において「自明な真理」に対応するものは何だろう。物々交換だろうか?そうではないかもしれない。ただの物々交換でさえ、それが成立するためには「交換のその瞬間(危域)において相手が持ち逃げしないこと」の最小限の信用ないし保証が必要である)

「保証」を与えるもののことを権威と呼ぶならば、知識は権力と密接な関連をもっているし、ひょっとすると権力そのもののことかもしれない、そこまではたやすく理解できるように思われる。

(つづけ)



ひとつ補足しておくべきことがある。こうした議論を無分別に延長して、科学的な真理の体系を(あたかも信用が無際限に膨らんだバブル経済のように)無根拠だと主張することは、まったく適切ではない。なぜなら科学的な真理の体系は、上でいう理性的な(自明な)真理、すなわち実験とか観察とかの直接経験に帰着されることを究極的な担保としている(制約されている)からである。もちろん科学研究の実際においては論理的な推論や数学的な解析が盛んに用いられるし、分野によっては単なる慣習(コンベンション)や属人的な権威さえ活用される、けれども直接経験に帰着されない(つまり実験観察によって検証されない)論証や数理解析の帰結は、それを最も高度かつ洗練された形で用いている物理学においてさえ、科学的な真理であるとは見なされないし、ましてや単なる慣習や属人的な権威は過渡的な保証としか見なされないのである。

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ある幼時の記憶から

2014年03月16日 | チラシの裏
コドモのころ、いくつの時かはっきり覚えていないのだが、確かまだ幼稚園くらいのころのある日、ふと「お金なんてものはなければいいのに」と呟いたことがあった。

それは独り言ではなく、両親が居合わせている場でそう呟いたものだから、そう言うなり親からは血相変えて叱られた(笑)。幼児のくせしてそんな、共産主義者みたいなことを言うんじゃない、我が子ながらなんという末恐ろしいことを口にするのだと、文字通りそう言われたわけではなかった(はずだ)が、ずっと後から思い出してみると、叱られた理由はたぶんそういうことだったはずである。

念のため書いておくと、わが両親は反共主義者ではない(だいたいそんな知識も主義もない人達である)が、敗戦前後の出来事とその見聞からロシア(当時のソ連)のことは、その話を聞かされただけで身の毛がよだつというほど嫌っている人達なわけである。共産主義の何がどうしていけないかと言って、ほかでもない、それがそのソ連の旗印だったからで、それ以外のどんな理由でもなかった。

そんな事情も歴史も何も知る由もないころで、自分が何か叱られるようなことを言ったとは思わなかったし、ましてや意図して悪童ぶってみせたわけでもなかったから、叱られたこと自体がちょっとしたショックだった。それで、今でもその場面のことをはっきり覚えているわけである。

ただ、一方ではそのショックのせいで、そもそも何でそんなことを言い出したのかということの方は、ずっと長いこと忘れてしまっていた。それをいましがた思い出した。まったく、かれこれ45年ぶりくらいに初めて思い出したことで、また忘れないうちに(笑)書きとめておく。

それは別にどうということではなかった。幼児のわたしは、店で商品を買い求めるのに、なんでわざわざ商品とお金を交換しなければならないのか、ただ単にその理由が判らなかったのである。

そのころ(1970年前後)のわが国は、特に田舎であれば、消費経済というのは日常そんなに支配的なイメージとしてはなかったのである。つまり、もっと多く消費するためにもっと多く稼ごうというような、そういう人も、そのような振る舞いも、日常めったに見かけるものではなかった。両親は共働きだったが、コドモのわたしから見ていて、両親が働いているのは(より多くの)お金のためだという風には思えなかったし、見えなかった。こういう言い方は若干語弊があるかもしれないが、働くのは義務だから働いているのだという印象が強かった。

それはまた、幼児のわが身にひきあてて考えてみても、そうとしか思われなかったことだ。そもそも俺はどうして毎日々々あんな幼稚園だか、小学校だかに行かなくてはならないのだろうか。大人が義務で働いているように、コドモは学校に通うのが義務だからだ。そうとしか思えない。それ以外のどんな整合的な解釈も、幼児のわたしの心の中では成り立たなかった。

なぜそんなことを強いられなければならないのかは、どうしても判らなかったが、自分自身を含めてほとんど誰もがそう強いられていること自体は、まったく疑いようがない事実としてあった。人がこの世で生きるということは、どういうわけでか、誰であっても、大なり小なりそういう嫌なことを義務として、理不尽なことを強いられるままやらなくてはならないということと無縁ではいられない不愉快事なのだと、幼児のわたしにはそう思われていた。

その理不尽さというか不可思議さは、店で何かを買うたびに商品とお金を交換しなければならない、あの不可思議な行為の不可思議さと、幼児のわたしの心の中でいつか結びつくようになっていた。同じように不可思議な行為は商品とお金の交換以外にもたくさん見ていた。玄関先で来客と両親が互いに深々とお辞儀を交わしている。さらにそれだけではまだ足りないかのように、およそ心にもない(だろう、そうとしか見えない)形式的で空虚な挨拶の言葉を交わしている。家の中ではともかく、家の外に一歩出れば、あるいは出る前の玄関先でも勝手口でも、大人は何かそんなことばかりしている。そして、時々は幼児の自分もそれに巻き込まれている(笑)。

それらの行為のひとつひとつにいったいどんなわけがあるのか。幼児のわたしにわかるはずもなかった(これを書いている今でさえそんなによくわかっているとは言えないし思えない)。ただそれらの行為はすべて何者からか強制された義務のような気配を帯びている、そのことだけが確かで、間違いもなくすべてに共通していた。商品とお金の交換というのもまた義務として強制された行為だ──と、そんな風にはっきり思ったはずはない(笑)が、しかしある意味ではまさに「はっきりとは思うことがなかった」ことによって「お金なんてものはなければいいのに」という発語に、あの日あの時突然に結びついていたのだった。

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「信用」についてのメモ

2014年03月14日 | チラシの裏
信用とか信頼といった概念を予測とか期待という概念と結びつけて理解しようという試みはしばしば見られる。大雑把に言ってそれらは未来事象を確率論的に考えようとする試みである。そう言っていいと思う。

ところで、そのような考え方は信用とか信頼ということの実際にまったく合わないものである。

いま目の前に、ある商品をある価格で売ると書かれたWebページが表示されているとしよう。あなたはその商品が欲しいし、提示された価格はとりたてて法外なものではなく、またあなたに払えない値段でもなく、単純に払うのを躊躇うほど高価でもないとしよう(※)。さて、件のWebページには、その商品を買うためには代金を適当な(ただしこれ自体は信頼できるものとする)手段で送金せよ、代金を受け取り次第直ちに商品を発送する、と書いてあるものとしよう。

あなたはこの商品をポチるだろうか?ポチるとしたら、なぜなのか。あるいはポチらないとしたら、それはそれで、なぜなのか。

もちろん、ポチるのはそのWebページと、その背後にいる売り主が信用できるからだし、ポチらないのは信用できないからであろう(※こう言うために、信用のあるなし以外の理由で買ったり買わなかったりする可能性、たとえば値段と懐具合の条件を排除したのである)。相手は代金を受け取ったまま行方をくらますかもしれない。あるいは正直に商品を発送してくれるかもしれない。どちらもありうるし、ありえないということはない。

この場合に相手に対する信用ということを、予測とか期待という概念に結びつけて理解しようとすることは正当だろうか。どうもわたしにはそうは思えない。予測とか期待ということが成り立つ場合、そこには必ず合理的な根拠がなければならないが、いまの場合何をどう予測するにしても、合理的な根拠というほどのものはまったくなさそうだからである。

信用ということはこんな風に、本質的には非合理的な信念である。信用するというのも非合理的だし、信用できないというのも非合理的である。そう信じることに合理的な根拠がないという意味で非合理的である。

この世界に合理性だけで生きている人はめったにいないだろうが、いたとすれば、その人はあなたの信念について、それはほとんど神を信じる(信じない)という人の主張と何ら違うところがない、まったく非合理的な信念じゃないかと言って嗤うだろう。あなたはこの架空の、究極の合理主義者の主張に対して、結局は自分を擁護しきれないだろう。その意味でも信用についての信念は非合理的である。

何にせよ信用とか信頼ということを合理的に考えようとする限り、話はまったく、これだけでおしまいである。我々は誰も非合理的な信念について合理的に考える(反省する)ことはできないからである。非合理的な信念を非合理的に考えることはできるかというと、それはできるかもしれないが、しかし非合理的に考えるとは、それは、すなわち単なるデタラメにすぎないのである(笑)。

そういうわけで、信用とか信頼ということを考える場合、信用とか信頼それ自体について考えては駄目なのである。

けれども、それ自体について考えることができないからと言って、すぐに諦めてしまうことはない。そう言いたいのには理由がある。我々が信用ということについて抱く信念は確かに非合理的であるが、非合理的ということは無意味であるということとは必ずしも一致しないからである。

どういうことかと言えば、我々は実際、その信用に関する非合理的な信念によって(先の例で言えば)商品を買ったり買わなかったりしている、それは我々の現実において事実ではないか、ということである。

「意味」とは何か。まったく中二病そのもののような問いである(笑)。けれども答はまったく簡単である。あることの意味とは、それが「何をしていることになるのか」ということにほかならない。我々は非合理的な信念によって商品を買ったり買わなかったりする。その信念は非合理的だが、買ったり買わなかったりは事実している、つまりその行為が意味なのである。そしてその行為は(非合理的な信念の反省的なあやふやさに比べればずっと)確かな事実に、我々の現実に結びついている。

そんなのはお前の勝手な定義だと思う人がいるかもしれないが、そうでもない。上のような「意味」の定義は、計算機のプログラミング言語における意味(論)の定義をそのまま横滑りさせたものである。計算機プログラムの意味(論)とは、プログラムの記述に対応する計算機の動作のこと、つまり計算機が「何をしていることになるのか」のことなのである。

もう一度言おう。信用に関する信念は非合理的な信念であるが、非合理的な信念であるにもかかわらず、その非合理的な信念は意味をもっている。信念の意味として行為の事実を我々の現実において、確かにもっている。ここにかすかな希望があるように思われる。

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「逃げられない」心理についてのヒント

2012年10月22日 | チラシの裏
「逃げられない」といって、ここでのそれは物理的に、文字通り牢屋か何かに監禁されているとか、縄や何かでぐるぐる巻きにされて身体的な自由を完全に奪われているといった状況の話ではない。そうではなくて、物理的には逃げ出せないことはない、それどころか、これといって何の拘束もかけられてはいないかもしれない、にもかかわらず本人が「逃げられない」と思い込んでしまっているために逃げられないということが、人間には普通にあるわけである。

以下で述べることは、そのような状況から首尾よく脱出する方法ではない。もしもそんな方法が存在して、あらゆる場合に適用できる普遍的な有効性をもつものであるとしたら、人間は誰でも神様(あるいはそのように想像された全能者)より有能になっていておかしくない。だがそんな人間はいない。これから登場することもありえない。書こうとしているのはあくまでも「ヒント」である。ひょっとしたら個別の場面で役に立つことがあるかもしれないと思うから書くのである。実際に役に立つかどうか、またどこまで役に立つのかは、書いているわたしがわたし自身に対してすら何の保証もできない。

「逃げられない」心理状況は、ひどい場合には命さえ奪われたり、他人の思うままに操られた結果犯罪に加担させられたりするようなことである。そうした事件が現実にときどき起きている。そのつどニュース報道のタネにもなるからそれは目立つ、けれども、そうは言ってもそれはかなり稀で凶悪な場合である。もっと小規模なことなら誰にでも、たぶん誰もが日常的にありふれて経験することである。逆に言えば、そのくらいありふれた心理であるからこそ、それを意図的に利用しようとしてしおおせる悪知恵者も出てくるわけである。

で、その「日常的にありふれて経験すること」とは何かと言ったら、心理学でいう葛藤(conflict)である。もっと普通の言葉で言えば「悩み」である。すべての悩みが葛藤から生じるわけではないけれど、厄介な悩みはたいてい葛藤から生じる、というより葛藤そのものだと言うことはできる。実際、葛藤に由来しない悩みは解決策がある。「金がない」のが悩みだったら金を稼ぐか盗むかすればいいわけである。ところが同じ「金がない」場合でも、それが「金を稼ぐ(盗む)ことへの拒否感」と葛藤していたら、これはまったくひどい厄介な悩みになってしまう。そしてこの葛藤には解決策がないのである。どんな些細な葛藤でもである。

葛藤が恐ろしいのは、しかしそれだけではない。心の葛藤がどんな場合でも当人にとって苦しみとして感じられるというのは、そこに入り込んでしまったら最後、人間の心は身動きができなくなってしまうからである。これは計算機プロセスのデッドロッキングや、国家間の領土争いが泥沼に陥ったりすることとまったく同じしくみである。傍から見ればどんな些細な葛藤でも、そこに入り込んでしまうと意志的な動きのすべてが停止してしまう。

この「意志的な動き」とはこの場合「後戻りのできないこと」である。計算機プロセスは命令実行を後戻りすることができない。国家にとって領土権は自らの存立にかかわっているという意味で、これも後戻りができない。こうした「後戻りのできないこと」が複数あって排他的に(つまり、両立することがありえない形で)競合すると、ほんの些細な競合のために主体の主体的なすべてが停止してしまう。計算機は文字通り停止してしまうし、領土争いの国家は豆粒のような小さな島の領有権をめぐって戦争状態に陥ることがある。そのような戦争は起きるというより止められないのである。それを止められる、止めるべき意志が立ち往生してしまっていることが現象の本質である。

人間個人の場合なら主体性が消失するか、消失はしないまでも著しく減退する。つまり「他人の意図によって操られやすい」状態が生じるのである。実際、排他的な競合を(かりそめにでも)解決できるのは、自己ならざるもの(つまり他人や社会のような、競合に関する第三者)の命令とか指図であることが多いものである。悪意の他人や社会はそのために、個々人に対して内面の葛藤を引き起こすようなことをわざと囁きかけたり、あるいは、それを導くはずの行為に誘ったりする。本当のところそれが善であるか悪であるかは、葛藤する当人のこちら側からは判断できない。判断しても確証は持てない。判断する主体が消失ないし減退しているからである。

人間の意志は本来そんなに簡単に挫かれるものではない。それは本性からして内的な意識だから、それ自体を外側から操作することはできないはずである。ところが、両立しない意志が複数(ほとんどの場合、ふたつ)存在するというだけで、それらはいずれもまったく機能しなくなってしまう。そしてそれが機能しなくなれば、命じられたことを命じられた通りに──機械的に──実行してしまうということが簡単に生じる。命令や指図はたいてい従わなかった場合についての脅しを含んでいて、従う方が合理的であるように設定されているからである。

機械とは合理的に作動し、かつ、合理性のみによって作動するものの謂である。人間の意識にとって「逃げる」ことは消極的な行為のようで、実は高度に主体的で意志的な行為である。その意志を完全に封じられたら最後、今やただの随伴現象(epiphenomena)と化した人間の意識はどんな無体な命令を下されようと「逃げられない」という感じだけをもつことになる。

・・・こんな話がヒントになるのか。最初に断っておいた通り、何の保証もできないことである。あとはただわたしのいま現在の考えを言っておけば、他人の命令や指図に身を委ねることをよしとしないなら、逃れられないと思える状況を自力で逃れる途はたったひとつで、競合するふたつの意志は、そうは言っても、もともとはひとつの自分から分岐したものだという地点に立ち戻って両者をふたたび統合すること、その観点を奪還すること、これだけである。もちろん、いつでも容易にそれができたら世話はないというのは、言うまでもないことである。

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愛なき者の思考法(1)

2012年10月17日 | チラシの裏
親密さとか親密な関係ということをどう定義したものかと考えていて、とりあえずひとつ思いついたのは

    「最悪原理(worst-case principle)を適用しない」

ということである。最悪原理という言葉があるのかどうかは知らないが、大雑把に「マーフィーの法則」のようなものを思い浮かべてもらえばいい。「バターを塗ったトーストをカーペットの床に落っことした場合、それは必ずバターを塗った側を下にして落ちる」というあれである。起こりうることは必ず起きる、転じて、何か起きるとすれば必ず最悪のことが起きると前提する。そこから、意図的で系列的な行為の計画や装置の設計は「常に最悪の場合を基準とすべし」という原則が導かれる。特に装置(システム)の設計について言う場合は最悪(値)設計(worst-case design)という。

親密さのない対象とつきあう場合、我々は普通、最悪原理に沿って行動する。いっぽう、家族ないし家族のように親密な間柄にある人に対しては、最悪原理は適用しない。じゃあどんな原理でと言われても困るのだが、最悪原理でないことは確かである。

その原理は「信頼しているから」という態度の背後にあるものとも微妙に違う。とりたてて信頼なんかしていなくても親密な相手に最悪原理は適用しないものである、というか、相手を信頼するということは必ず裏側に不信があるということを意味している。信頼と不信は表裏一体である。表面(おもてづら)では信頼するようなことを言いながら、裏では文字通り「裏切られた」場合に備えてバックアップ体制を敷く。保険をかけておくということである。どっちに転んでも損はしないように、というか実際は、ある有限の程度まで損する可能性を見込んでも、保険は損切り点でかけておき、それは隠しておく(笑)のである。損を底なし沼にしないためである。世上で信頼とか信用とか呼ばれるものの内実はそういうものである。だがこれは、それを人間関係に適用しているとしたら、まぎれもない最悪原理の典型的な適用である。

言いかえれば親密な間柄というのは、それを信頼に還元したとすれば無限大に発散してしまうような間柄だということである。だがそもそも無限の信頼とか不信とかいうことには意味がない。少なくとも合理的な概念としては意味がないことになる。つまり、我々は合理的に振る舞おうとする限りは誰とも親密にはつきあえないし、つきあうべきでもないということになる。だがそれは、おかしな話ではないだろうか?おかしいというのはつまり、現実的ではないのではないかということだ。

こういう図式に現実性を回復させる、合理性と現実性を両立させるための、常套的な手口のひとつは超越点をひとつ導入することである。1点コンパクト化である。たった1点で十分なのである。典型的には神様である。ある意味ではだから「神への愛」とか「国家への愛」というのは、他人の心情としてはまだわかりやすい方である。むろん神や国家を信じられるならの話で、わたしにそれはないのだが、他人がそれを信じていることの理屈はいくらかわかるということになる。



このシリーズの題名は言わずと知れた鮎川信夫の詩「愛なき者の走法」のパロディだが、書こうとしている内容はどっちかいうと次の詩の方に近い──

    日本人だから
    愛という言葉は
    言うのも聞くのも嫌いだった

    (中略)

    無償を意味する
    愛という言葉は
    いまでも私を動顛させる
    どうしたらいいかわからなくなる
    すべてを奪われても文句を言えない
    すべてを与えられても文句を言えない
    理不尽な契約を前にして
    私は口をつぐむほかはない

    心の禁制は解けぬまま
    わが日本語の「愛」は
    完全に処女性を保っている

    (鮎川信夫「愛」より)

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こういうことが書いてあると途方に暮れるわたし

2012年10月13日 | チラシの裏
心理学者ブレット・ローゼンは、青年の人間関係における親密さのパターンを調査しました。十七歳では、恋人が一番親密な人となります。リストでは友だちが次に来て、母親は三番目、それから父親。兄弟姉妹は最下位です。恋人は、親密さを構成する諸属性についても、常にトップにランクされます。(中略)若者は恋を通して、乳児期の絆や幼児期の無邪気さを再体験します。鼻声で甘え、赤ちゃん言葉を使います。若者は恋に落ちると童心に帰ります。ブランコに並んで座ります。手をつなぎ、子どものころのあだなで呼びあい、愛の証としてぬいぐるみをプレゼントします。乳児期の愛着行動が、青年期の恋愛関係の基本型になります。

M.トンプソン、C.O.グレース、L.J.コーエン『子ども社会の心理学』(板崎浩久訳・創元社、pp210-211)

書いてあることが間違っていると言いたいのではない。こういうことはいろんな本に書いてあるし、大なり小なり本当のことであるのに違いない。ただ、正直言って、わたしにはこれが何のことやらサッパリ判らぬのである。

こういうことがまるっきり判らないのは、素人哲学であっても哲学にとって致命傷だと言いたいくらい重大な欠落だとは思うわけである。いまさらこんなことを経験的に確かめるすべもないから、せめて理論的にくらいは理解したいと思うわけだが、さて、わたしはいったい何を読んだら、この種のことについて少しは理解らしいことが得られるのだろうか。思うだに途方に暮れてしまう話である。

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国家と共同体(1)

2012年10月06日 | チラシの裏
数日前にtwitterで「国家の起源は意識の起源と同じくらい古いかもしれない」思いつきの仮説を考察したとき、国家と共同体の違いについて保留していた。グダグダ書くことはその時点でもできそうな気はしたのだが、明確に一言ですぱっと切れそうな言葉を求めるとしたら何になるだろうと思って、すぐには思いつかなかったから保留したわけである。

で、それは何なのかというと「支配」ということになると思う。

共同体の辞書的な定義はたとえば「血縁的・地縁的・感情的なつながりによる共同生活を営む集団のこと」(はてなキーワード)というものだ。ドイツ語由来のゲマインシャフト(Gemeinschaft)というカタカナ語も、最近はあまり聞かないが昔はよく使われていた。もっと簡単に1文字で「絆(きずな)」とか「柵(しがらみ)」と表現できるような何かだとも言えるだろう。絆で結びつけられた個人の、あるいはたかだか家族の集団、それが共同体である。

いずれにせよそれは「支配」ということには馴染まない、ほとんど相容れない何かである。共同体にもリーダーはいるし、リーダーを中心とした権力構造のようなものは存在しうるが、それは「支配」と呼ばれるようなものではないわけである。「支配」という場合、その支配者は典型的に成員に対して生殺与奪権を握っている、また実際にその力を振るう何かである。

ちなみにここでは「権力」は広い意味で使っていて、「心的に人を動かす」力、つまり人の心がかかわる認識とか行為に作用する力のことである。

(忘却しなければ不定期につづく)

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他人様のブログ読まぬでもなし ── 「吉本隆明の自立の思想の今」(極東ブログ by finalvent)

2012年09月26日 | チラシの裏
今朝方にfinalvent氏の「極東ブログ」を眺めていたら、「関連する記事」の中に「吉本隆明の自立の思想の今」(2007.09.27)というのがあって、へえ、こんな人も吉本を読んでいたのかと思って興味を引かれて読んでみた。

もう一つの極点は、構想力だ。こちらは、私には驚きと違和感があった。こちらも教育という枠組みで比喩的に語られる。吉本は「あなたが文科大臣になったらどうするか」ということを意識しておけとしているのだ。

昔はデモも有効だったけど、そんなものがいま役に立つわけはないんです。時代の転換期で、そういうものが通用しにくくなってきている時代なんです。だけどあなたのような頑張り方で、ただ追い詰められているだけじゃなくて、追い詰められた分だけ俺が文科大臣になったらどうするかという、大筋だけは相当はっきりと確立しておこうと、積極的にちゃんと考える。そういう構想を持っている人が増えると、ひとりでに社会は変わっていくわけです。

日常的には臨床的な専門の仕事をやっていればいい。その中間はいらない。追いつめられるだけじゃなくて積極性ですね。塾連合会みたいなものをつくっている連中が勢力を拡大して、補助金が募れるようになったといい気になるけど、そんなのは嘘ですから、そんなものは何の意味もないし、それより、俺が責任者になったらこうするというのを持てる人たちが少しでも多くなってくれば確実に日本は変わる。
(吉本隆明「よせやぃ。」(ウェイツ刊)より)

国家のような上からのビジョンを、もっとも下の大衆の側から描くというのが構想力として語られていると言っていいだろう。

私は、率直に言うと、そういう構想力には違和感を持つし、吉本の思想はそんなものだったのかと訝しく思う点もある。この点については、ちょっと驚くなというのとわからないなというのがある。

私は、そもそも教育に国家が関わるべきではないと思うし、国家の運営とは、ドブさらいと夜回りをしていればそれでいいと考えている。そうした国家観が、どうやら吉本とは違うようだなとも思う。
「吉本隆明の自立の思想の今」(極東ブログ 2007.09.27)より

ここの箇所はわたしも読んだ覚えがあるが、このblog主のように驚いたとか、わからないということはなかった。たぶんこの博覧強記のblog主にとって吉本の著作はたくさんある本のうちの1冊2冊にすぎないので、他のあれこれが色々思い浮かんで混乱してしまったのかもしれない。そこで、ある時期まではほとんど吉本しか読んでなかったような、知的怠惰なら誰にも負けない(笑)わたしが少々補足してみることにしたい。

1990年代の終わり、わが国でリストラの嵐が吹き荒れていたころ、吉本は「会社にリストラされたと思うな、会社をリストラしてやったんだと思え」くらいのことを言っていたわけである。ここの箇所はそれと同じことを別な角度からもう少し具体的に言っただけだと思った。今でもそう思う。

そもそも国家のようなものは「ゴミ当番みたいなものであるのがいい」というのは吉本の十八番である。このblog主にしては珍しい気がするが、この「ドブさらいと夜回り」云々はどう見ても吉本の真似である。吉本以前にそんなことを言った人はいない。以後でもめったにいない。言えば吉本の真似だとすぐ判っちゃうからである。

ま、そんな小さなことはいいとして、吉本の読者ならわかるはずだが、「ゴミ当番みたいなものであるのがいい」ということと「俺が文科大臣になったらどうするか(略)積極的にちゃんと考える」ということの間には、少なくとも吉本の思考においては矛盾はないと思って読むべきなのである。わたしなんかも含めて他の著者ならば、その時々の気まぐれでいくらでも矛盾したことを言う(笑)わけだが、吉本に限ってそれはない、あったとしても日本思想史上の誰よりも少ないのである。矛盾があれば矛盾だと吉本自身がバラしてしまうからである(笑)。何にせよ吉本のいう「ゴミ当番国家」とは「俺が文科大臣になったらどうするか(略)積極的にちゃんと考える」ことを自ら獲得したという意味で自立した大衆によって運営されるゴミ当番(笑)なのである。

ただし、ここの部分の吉本の発言は、よく知らない読者にとっては確かに誤解を招きそうなところである。吉本の論を読み慣れていない読者だと、「積極的にちゃんと考える」とは、あたかも理想的な文科大臣ならそう考えるであろうような立派なことを立派に考えることだという風に誤解しそうな気が(わたしが読んだときも)した。上をいま初めて読んだ人も絶対にそう考えたはずである(笑)。そういうことではない、というか、そういうのは駄目なのである。そういうのを──これはわが国における思想用語として吉本が定着させたものだといっていいと思うのだが──「床屋政談」というのである。

「積極的にちゃんと考える」というのは、国家の文教政策について床屋政談をやれということとはまったく違う。床屋政談に陥らずに「積極的にちゃんと考える」とはどういうことか、そうであることはどんな風に示されうるかといえば、そう、たとえば会社をクビになったときに「俺の方から会社をリストラしてやったのよ」と言って、それがべつに屁のつっぱりの強がりなどでないことを自分自身の心に証せるかどうか、そういう内容を持っているかどうかということにおいてなのである。日本や世界の経済動向とか企業経営とかを床屋政談の位相で考えている限り、つまり「あたかも理想的な経済官僚や企業経営ならそう考えるであろうような立派なことを立派に」考えたり言ったりしている限りでは、到底そんなことにはならないわけである。何を失業者ふぜいがエラそうに、そんな駄ボラばっかフカシてっからクビになるんだぜ、というクスクス笑いが聞こえてくるだけである。

あるいはもっと初等的な例で言ってみると、パソコンみたいな計算万能の道具をどうしたら使えるようになるのか、あるいは上達できるのかと言ったら、まさにこれと同じ意味で「積極的にちゃんと考える」ところを持つことによって、かつ、それのみによって可能になるのである。実務上のどんなアンポンタンであろうと、パソコンを使うことだけは知っている、それを使ってできることなら何でもやってみせられるという人は、確かに「積極的にちゃんと考える」ことだけは知っているのである(それでいて実務上のアンポンタンだったりするのは、それしか知らないからである)。ただ単に計算機のしくみやプログラミングについて学校で専門知識を習うように習い覚えただけでは「それを使ってできることなら何でもやってみせられる」という風にはなれないし、そう言って胸を張ることもできない。「積極的にちゃんと考える」から、何を持って来られても取り組むことができるのである(それでいて実務上のアンポンタンだったりするのは、何度も言うが、それしか知らないからである)。もちろんこの世界にもこの世界なりの「床屋政談」があって、そういう人はだいたい、スティーブ・ジョブズの哲学がどうした、マイクロソフトの製品戦略がこうしたということを、飽きもせず延々語って倦むことがないのである。計算機屋なんてどっちみち実務上のアンポンタンであることに変わりはないかもしれない、とはいえ、本当の上達者とただの床屋政談がどう違うかは、だいたい察しがつくのではないだろうか。

以上のことは、しかし本当は、簡単に3文字で「主体性」と言ってもいいのである。厳密に哲学的な意味でならまったくその通りのことなのである。ただし哲学上の概念というのはだいたい何でも激しい論争を引き起こさずにはいないものである。論理的な点概念は厳密であるほど論争を爆発させる。常識的な意味での「主体性」の理解からはその概念を追い込んで行くと次のような話が出てくるとは、ほとんど誰も想像さえできないのではないだろうか。

日常的には臨床的な専門の仕事をやっていればいい。その中間はいらない。追いつめられるだけじゃなくて積極性ですね。塾連合会みたいなものをつくっている連中が勢力を拡大して、補助金が募れるようになったといい気になるけど、そんなのは嘘ですから、そんなものは何の意味もない

吉本の文章は、ある意味では親切なものではない。もうちょっと親切に書いたらいいのにとわたしでさえ思う、が、とはいえ吉本を「主体的に」読んできた人間に限っては、上のごとき語りが次のような詩に、ほとんど一直線でつながっていることが直ちにわかるようにはなっているのである。

  ぼくはでてゆく
  冬の圧力の真むこうへ
  ひとりっきりで耐えられないから
  たくさんのひとと手をつなぐというのは嘘だから
  ひとりっきりで抗争できないから
  たくさんのひとと手をつなぐというのは卑怯だから
  ぼくはでてゆく
  すべての時刻がむこうがわに加担しても
  ぼくたちがしはらったものを
  ずっと以前のぶんまでとりかえすために
  すでにいらなくなったものにそれを思いしらせるために
  (「ちいさな群への挨拶」より)

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画像論2012(1)

2012年09月16日 | チラシの裏
かつて吉本隆明が「マス・イメージ論」(福武書店、1983)の中の「画像論」で分類してみせたCM画像の4段階を簡単にまとめてみる(ただし、以下の用語は、わたしがいま即席で勝手に作った)。

  1. 単宣伝CM
  2. 添加像CM
  3. 消去劇CM
  4. 破壊神CM

これについて自分なりに再考を加えてみる。

単宣伝とは「単なる宣伝」のことである(笑)。民放番組のスポンサ企業が自社の商品の価値だと思っているはずの内容、つまり、消費者がその内容を認知・識知さえしてくれれば、個々の必要や欲求に応じて買ってくれるはずだと考えているその内容、それがほぼそのままCMの惹句(言語像)になったり映像(動画像+音響像)になったりしている、そう見なして差し支えないCMである。「とっても美味しい」と書かれていれば、少なくともメーカの方は「とっても美味しいはずだ」と思っているはずだ。そう思える。

もちろんそれらは誇大な像でありうるし、事実しばしば(ほとんど)誇大である。けれどもそれが誇大かどうかは当の商品を買った消費者には直ちにわかる。市場や企業が揮発性のものでない限り、実物の商品価値について消費者の信頼を損ねるような単宣伝は次第に淘汰されてゆく。像それ自体が淘汰されない場合は消費者の方が黙って無視するか、割り引いて受け取ることが「常識」化して行くだけである。不動産広告の「駅から歩いて××分」とか、ノートPCのバッテリ耐久時間のカタログ値のようにである。ただの袋菓子に「とっても美味しい」という惹句をつけて宣伝する企業がいまどきあったとして、字面通り受け取る人はいないだろう。

添加像CMというのは、商品価値とは直接関係ない(独立の)像価値が添加されたCMのことである。その嚆矢といってよく、また最も典型的なのは「違いのわかる男のネスカフェ・ゴールドブレンド」のCMシリーズだった。このCMシリーズはその時代を過ごした人なら知らない人がいないくらい有名だが、とはいえとっくに終了しているので、これを読んでいるのがワカモノの人だとピンと来ないかもしれない。そこで「違いのわかる男」という惹句の言語像だけに絞って少し説明してみる。

「違いのわかる男」かどうかなどはインスタント・コーヒーの商品価値とは明らかに何の関係もないことである。それを単宣伝の場合と同じように、惹句や映像の上で大真面目に関係があるように見せかけたとしたら、それは誇大も誇大、大真面目な詐欺になってしまう。でも実際、関係などないことは誰にでもすぐわかる。大人もコドモも揃って「違いがわかるとか何とか、関係ないじゃないか。そもそもインスタントコーヒーごときで何を」とテレビの前でツッコミを入れたものであった。でも、ある日気がつくと、わが家はもちろん、たいていどこの家にも「ゴールドブレンド」の瓶があった(笑)。

もちろんそれらは、それを飲めば「違いのわかる男」になれると思って買い求められたわけではないし、また来客にそれを衒示するために買い求められた(当時だと外国産ウィスキーの瓶がそれに相当していた)わけでもなかった。つまりインスタント・コーヒーのそれ自体はまったくその商品価値と嗜好飲料の需要に応じて買い求められ、消費されたのだし、「違いのわかる男」という惹句と映像は、インスタント・コーヒーの商品価値とは独立な(つまり実質をもたない、無意味な)像価値としてお茶の間のテレビ画面から提供され、そのまま消費されたのである。

CMの惹句や映像の制作費はインスタント・コーヒーの商品価格に転嫁されているから、それ(像価値)は決してタダではなかった。とはいえインスタント・コーヒーのメーカはそれ(像価値)自体から利益(売買益)を得たわけでもなかった(はずである)。もしメーカがそれ自体から利益を得ていたとすれば、その像価値に実質(意味)がないとは言えなくなる。それは、大真面目な詐欺とまでは言わないにしても「怪しい商行為」くらいには該当したはずである。

しかし、そんな意図や含みはなかったであろう、というのも、仮にそれがあったとしても、その(怪しい商行為の直接の)利益は「本業」の商品販売から得られる利益にくらべたら微々たるものでしかない。本業ではない、しかも怪しい商行為で足し前をする必要も動機も大企業メーカにはない。ゆえにその像価値は、取引としてみれば経費が商品価格に転嫁されるだけの、差し引きゼロの〈触媒〉であったはずである。

※触媒(catalyst)は化学反応を(大なり小なり特異的に)媒介し、それがない場合と比較して反応速度を著しく高める効果を持つが、それ自体は反応の前後で変化しない(中間状態では変化しても、反応後にはもとに戻る)ような物質のことである。

(つづくだろうが、話はしばしば前後したり脱線したりする予定)

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BtoBとBtoC

2012年09月12日 | チラシの裏
電子商取引の用語でBtoBとかBtoCというのがある。Bはbusinessの略で、企業のこと、Cはconsumerで文字通り消費者のことである。だから、BtoBとは企業間取引、BtoCはリテール(小売)のこと、となるわけである。

・・・ったく、いちいち勝手に新語を作るんじゃない、と言いたくならないでもないが、まあ昔と違って今はこの種の業界用語や符牒のたぐいはたいてい、ネットでちょっと検索してみるだけでたちどころに必要十分な説明が得られる。電子商取引はまさしくネットありきの商形態である。そのネットで調べりゃすぐわかるくらいのことであれば文句は言うまい。

BtoBやBtoCのほかにBtoE(Eは従業員)とかCtoCとか、得手勝手に用法が拡大している印象もあるが、基本的には題名のふたつである。電子商取引の世界でも、このふたつは根本的に性格の異なるものと考えられているし、事実異なるわけである。

さて、では、根本的には何が異なると言うべきだろうか。

パッと考えて思いつくことは、一般消費者相手にものを売るというのは、その〈欲望〉に向かって売るということである。他方、企業間取引ではそれは(少なくとも直接的には)ない、ということである。もっと明瞭なことを言えば、BtoBは広告を必要としないのである。BtoB専門の会社は山ほどあるが、これらの会社は広告しない(しても人材募集広告くらいである)。だからその存在すら一般には知られていないことが多い。小さな会社ならもちろん、大きくても、たとえば広告代理店とか、書籍の取次、一般に中間流通業の会社はめったに知られない。

もちろん広告に似たものならある。取引相手になりそうな会社を営業マンの人が挨拶回りしたり、御用を聞いて回ったり、何やかやの機会を捉えて名刺交換したりするのがそれである。どんな場合でも売り込む方は必死だが、いくら必死でも、企業相手に何かを売り込むのに(普通は)人気タレントを使ったりはしない。「違いのわかる企業のゴールドNC旋盤」などというような、中身と無関係なキャッチコピーやイメージ戦略も必要ではない。〈欲望〉が絡まなければ、取引とはこれほど実質的なものなのだ、と思う。

(何にでも境界的な領域というのはある。たとえば技術雑誌にはどう見ても個人向けの消費財などではないハード/ソフトの美麗な、おおいにイメージ添加された広告がたくさん載っている。これらの広告はつまり、メーカー勤めの技術者の個々人の〈欲望〉に訴えるところをもつわけである。企業の設備投資において、どんな装置を導入するかは技術者の意見や流行もそれなりに影響力を持ちうるからである)



逆に言うと、こうした〈欲望〉にかかわらない、実質的な取引のあり方は、むしろ経済学がモデル化している取引のイメージに近いわけである。そもそも経済学にはここで言っているような意味での〈欲望〉の概念はない。わたしは若いころ表計算ソフトのマクロを使って経営シミュレーション・ゲームなるものを(仕事と言いながら半分遊びで)作ったことがあったのだが、そのとき、せっかくだから広告宣伝の効果も組み込んでみようと考えて、同じ職場にいたもと広告屋の人に

「広告宣伝効果の数理モデルって何かご存知ないですか」と尋ねたら
「そんなもんあるわけないだろ、バカヤロ」

言下に否定されて衝撃を受けた(笑)ことがあった(念のため言うが、当時はインターネットのイの字もなかった時代である。今だったらまずは自分で、ネットで徹底的に調べるだろう)。

その時点ですでにわが国のGDPの過半は個人消費が占めていたわけである。それはつまり、日本経済の過半は大なり小なり広告宣伝の絡む局面で営まれていた、ということである。にもかかわらずその肝心要の広告宣伝効果に関する数理モデルがない?それがない経済学がどうして経済の実態を分析したり、予測したり、あまつさえ計画したりできるのか。合理的に。

「べつに合理的である必要なんてないじゃないか。経企庁がどんな理屈でやっているにせよだ、
 結果として経済成長すればよし、しなかったら自民党の支持率が下がる(笑)そんだけさ」
「いいんですかね、そんなことで」
「知ったこっちゃない(笑)。ここは役所じゃないし、俺達は役人じゃない」

そう言って「つべこべ言っても世間知ラズの若僧だな」という顔をするので、嬉しくなって(笑)そのまま飲み屋に行っていろいろ話し込んだりしたものだった。

・・・こんな昔話を書きたいのではなかった。言いたかったことはつまり、広告宣伝というのはどんな場合でも消費者の〈欲望〉を正確に反映したものだと考えることができるが、経済学は今も理論のうちに〈欲望〉ということを適切に組み込むことには成功していないように思える、ということである。

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メモランダム

2012年09月11日 | チラシの裏
そう言えば今日は911だった。

ついでに言えば、昨日は実は自殺予防デーか何かだったそうだ(知ってはいる、国際テロ組織WHOのオマツリなんぞに同調したくないだけだ)が、状況に何らの変化もないことを、故松下金融相が示してしまった。例によって陰謀好きの人達の間ではこれも謀殺だったのではないか、などと言われている。しかし現状でそうした憶測をたくましくする理由をわたし個人はまったく持たないと言っておきたい。



しばらく前からマルクスの「デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異」を読み返している。新訳が出ていることに気づいて「せっかくだから」と思って買って、そのまましばらく放置していた(笑)ものである。

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マルクス・コレクション1 学位論文・ヘーゲル法哲学批判序説
(中山元+三島憲一+徳永恂+村岡晋一訳・筑摩書房)
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吉本隆明が「マルクス紀行」で言及していたマルクスの自然哲学を、エピクロスに遡って読み返し、捉え返してみたいというのは、吉本とマルクスの両方の読者であれば誰でも一度は目論む(笑)ことなわけである。実際わたしは若いころ何度かそのつもりで読んだ、いや、読もうとしたのだが、その都度ザセツしてきた。今回はそれよりはましな感じで読めている。THN1巻の私訳を1年がかりでやった甲斐が、意外なところにあったのである。

エピクロスとヒュームに何の関係が、と思うだろうが、(実際、そんなにはないのだが)マルクスはこの論文の序でTHNの一節を引用している(ちなみに、この訳書のその箇所では大槻訳が引用されている)と言ったら、読んだことない人は驚くかもしれない。だが事実である。読みようによって、の話であるが、ヒュームが現象学の18世紀における祖先であるとすれば、エピクロスは古代ギリシャにおけるさらなる祖先だと言えないこともないところがある、と思う。

感覚による知覚に反論できるものはない。同じ感覚は、同じ感覚を否定できない。確実性が同じだから。また異なる感覚は、異なる感覚を否定できない。同じものについて判断していないから。そして概念も感覚に反論できない。概念は感覚による知覚に依拠しているのだから。
(エピクロス「基準論」上掲書p.30)

少なくとも、マルクスはエピクロスと同じくらいヒュームを読んでいたと思われる。

とはいえ、このネタからこの先何かアウトプットを出せるかどうかは定かでない。いまわたしはいろんな意味で余裕がなくて、ひとつのことに集中して取り組むということができていない。



それはそうと「エピクロス」でググってみるとこんな記述がみつかる。

  より詳しく彼(エピクロス)の主張を追うと、彼は欲求を、
    (1) 自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、
    (2) 自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、
    (3) 自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、
  このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが
  良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア; ataraxia)」を追求する
  ことが善だと規定した。
  (Wikipedia)

別に珍しい見解ではない。エピクロス派というのはこういう考えだ、というのは高校生が倫社の授業でも習うことであろう。

しかしエピキュリアンと言えば快楽主義者の別名なわけである。今ではあんまりいないが、昔の衒学的な教養主義者、つまり知的にスカしたところをもつ連中ほど前者を好んで用いたものである。

ま、どっちみちそれは誤解から生じた話だというのは、これも教科書に書かれていることだ(笑)が、どうしてそんな誤解が生じたのか。上の説明を普通に読めば、むしろこれこそ「ストイック」の最たるものではないのだろうか。そう思う人が多いはずである。特に反(脱)原発の左翼テロ連中なんかは大喜びしそうである。なんてったって彼らにとって嬉しいことに、エピクロスはマルクス自然哲学の師匠なのである。そしてこれは「清貧の思想」のようにも読めるわけである。昔っから左翼テロは口先で清貧を語るのが大好きである。

実際、根本的にはそれは老エピクロスを蝕んだ「清貧の思想」であったのだろう。続けてこういう記述がある。わたしが記憶している限りでは、倫社の教科書にもだいたいこんな風なことが書いてあった。

こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性についてストア派から激しく批判されることになった。
(同上)

まあ、昔から哲学というのは、多くは世間知らずな金持ちのボンボンの(その反抗心と自己韜晦も含めて)暇潰しであったわけである。エピクロスにしてもたぶん、もともとはどっかそういうところがあって、トシをとるほどにそれが露出してきたのであっただろう。性懲りもない。古代ギリシャであれ現代の先進世界であれ、自由な市民()などと称したがる連中は、というところである。

それはそれとして、こうした態度が快楽主義と誤解されるのは、ずっと後代のフロイトが言った「快感原則」がやはり同様に誤解されて受け止められたこととパラレルなのである。これは、ひょっとすると倫社の教科書には書かれてもいないことである(倫理学の教科書はもともと「カント大先生と定言命法を讃える」ためにあるものなので、カント以後の思想哲学については基本的に扱いがお座なりである)。実のところフロイトのいう「快感原則」とは、上の(1)にほぼ重なるものだと言っていい。快感原則というのは、ひらたく言えば赤ん坊(ないしは幼児)の欲求と充足のありかた(ないしは苦痛と忌避のありかた)である。「おっぱい──まんぷく──すやすや」の繰り返し、アタラクシアとはこれである。赤ん坊はその権化である。フロイトの文脈においては以下のようになる(以下の引用では「快楽原則」と訳されている)。

人間のエスは快楽原則に従い若年期を支配するが、成熟する(大人に近づく)に伴い、現実世界の急迫や障害のために苦痛に耐え充足を延期することを学ぶ。「教育された自我は『理性的』になる。それはもはや快楽原則により支配されるままにはならず、現実原則に従うようになる。これもまた根底では快楽を求めるのであるが、その快楽は現実を計算に入れた上で確保されたものである。延期され減少した快楽であるかもしれないが」。(Wikipedia)

これを上の(2)や(3)に重ねてみると、フロイトの言い分もまた、無類の勤勉実直の上にもクソ真面目の石部金吉であったフロイト宗匠の性格が少々反映されすぎたものであることがよくわかる。現実原則が加わることによって快楽の追求は延期されはする(ここでいう延期とは、つまり「我慢」とか「妥協」のことである)かもしれないが、べつに減少などしやしないのである。いったい、現実的な誰が(2)や(3)を「減少した快楽であるかもしれない」などと真顔で思うだろうか。それを倫理的に肯定するか否定するかは別として、(2)や(3)の欲求はほとんど誰もが持つ(ひた隠しもする)ものであることに違いはあるまい。これらは快感原則が現実原則によって修飾され拡大強化されたところの、自我とその理性に媒介されて必然的に生じてくるのである。だって、ほかにはそれを導く原理はないのだから。

そうは言ってもフロイト宗匠が偉かったのは、自分のことはさておいて(2)や(3)があること、その抑圧、葛藤、あるいは退行といったメカニズムを想定しつつ、心の力学モデル(わが国では力動的なんちゃらと訳されるもの)を考察し、治療実践を行ったことである。そこに何か問題があったとすれば、さておききらなかった部分、つまり、フロイトの(たぶん)念頭にあった理想的に健康な精神の像が「存在して、かつ、人格的にも社会的にも立派な成人男性で父親」のそれでありすぎたことである──

──とは、まあ、よく言われている、ありきたりの話だ。それよりもこの重ね合わせは、他方のエピクロス派の態度がまさにフロイトがそう呼んだ通りの意味での「退行」にほかならぬことをはっきり浮かび上がらせる。(2)や(3)の種類の欲求を理念的に嫌忌する(本来のエピクロス派の主張はこれであった。倫理的利己主義と呼ばれる)ならまだしも、現実的な生の態度としても嫌忌する(自己充足的、閉鎖的な特性)というのは、まさしく現実原則からの撤退、すなわち退行以外の何物でもないわけである。

さて、論語の中に次のような章がある。

子路従而後、遇丈人以杖荷條、子路問曰、子見夫子乎、丈人曰、四体不勤、五穀不分、孰為夫子、植其杖而芸、子路拱而立、止子路宿、殺鷄為黍而食之、見其二子焉、明日子路行以告、子曰、隠者也、使子路反見之、至則行矣、子路曰、不仕無義、長幼之節、不可廃也、君臣之義、如之何其可廃也、欲潔其身而乱大倫、君子之仕也、行其義也、道之不行也、已知之矣(微子第十八)

孔子はわたしがここで書こうとしたことを、「隠者也」のたった3文字で子路に伝えおおせた、ということである。



おまけ。そもそもこの一文はマルクス論文の邦訳書にある「反跳」という語について調べていた、そのついでになんとなく書いたものである。せっかくだから調べた結果の方も書いておくと、日本語の「反跳」は英語でいうrecoilまたはreboundingの訳語である。で、エピクロスの原子論におけるそれは、英訳書ではreboundingと書かれている。専らそう訳されているようである(もとのギリシャ語がどうかなんて、べつだん哲学が本職ではないわたしが調べても仕方がないことである)。何が言いたいのかって、つまり「recoilだったら銃器オタの人が目を輝かせたであろうに」ということである。残念でした(笑)。

・・・とはいうものの、たとえばニーチェのテキストには、その邦訳書では「反動」という語がやたらと出てくることがある。これは政治理念の保守反動とかのことではなくて、ビリヤード玉みたいなもののそれ、つまりまさしく「反跳」の意味で使われている。それがわざわざ反動と訳されているのは、ひょっとすると原語ではrecoil(ドイツ語ではRückstoß)だったりするのかもしれない。だいたい、銃器オタの人達には、エピクロスよりはニーチェの方がウケがよさそうなことである。

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究極の幻像──中二病的に

2012年05月16日 | チラシの裏
人間は究極的には宇宙全体をその手に取って自由自在に振り回したいというような存在である。

むろん、実際にそんなことはできていないわけだが、手に取って自由自在に振り回せるものとして「より大きなもの」を求めてきたことは確かである。まだ自由自在に振り回せるほどではないにしても、太陽系内の任意の地点に意図的に小さな物体を置いてみせる(しかも、それを後から意図的に回収する)程度のことはできるようになっている。つい先年それを成功させたわが国は世界中から(ずいぶん久しぶりに)賞賛されたわけである。

そうなるより前に大きめの小惑星が地球に衝突するとかして、ほとんどひと晩のうちに全人類が滅亡してしまうようなことでもない限り──現時点ではそっちの方がよほど早くやって来そうに思えるのは生憎なことだが──人類はいずれは太陽系内にあるものは何であれ「(遠隔操作される機械の手を介してであれ)自由自在に振り回せる」ようになるのは間違いないことである。別に未来SFの話がしたいのではなく、これを過去に向かってひっくり返せば、それがつまり文明の歴史(の、ひとつの側面と限ってもいいが)だということである。

ヘーゲルが何と言ったのであれ、言わなかったのであれ、それが(振り回せるもののサイズに関する)進歩の歴史であることを疑う理由があるだろうか。ヘーゲルは観念の運動としてそれを論じたわけだが、唯物論的にひっくり返せばそれはそういうことなのである。できるだけ大きな対象についてそれを「自由自在に振り回せる」ようになることは、そのスケールにおける天然自然の暴威を克服することとほとんど同義である。

小惑星が地球と衝突するコースに入ってきたら「つまんで放り出せ」ないしは「木っ端微塵に粉砕してしまえ」と言えるようになる日が人類滅亡より先にやってくるかどうかは判らない。けれども人類がそれ(根源的な正義の実現)を望まないということはおよそ考えられないことだと、わたしには思える。まあ、それよりも先に大津波を「つまんで放り出す」くらいの、地球規模の自在さを獲得する方が先だろう、とは思うけれども。

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