嘘だ詐欺だという話から少し離れてみる(笑)。
物語に限らず、誰かが何かを語りはじめたとき、我々はそれが自分とは直接関係のない──つまり、その話はべつに真実である必要がない、実話かもしれないし、「ツクリ」話かもしれない──ことであっても、時に「膝を乗り出す」ことがある。常にそうなるとは限らないが、そうなることはある。なぜか興味を惹かれる。
なぜ興味を惹かれるのか。あるいは、そうした語りの何が無関係な他者の興味を惹きつけるのであろうか。
常にそうだと断定していいかとなるとやや微妙な気もするが、そうしたことが起きる場合、その話はたいてい、聞く(読む)側にとって「珍しい」出来事についての話であるように思われる。あるいは、出来事それ自体は珍しくないが、登場人物が「珍しい」、つまり有名人か何かであるという場合もある。
いずれにせよ「珍しい話」だということで一括することにしよう。それで、なぜ我々は「珍しい話」に興味を示すのだろうか?
それが実話であるか、そうと明かされていなくても実話の可能性があると認められる限り、珍しい話は、それを聞かされる側にとってその世界観を破壊しかねない、あるいはそれほどでなくても、緊張させたり刺激したりするものであろう。「この世界はだいたいこれこれのようになっているはずだ」と思われているところからは、その例外であるか、破綻あるいは破綻の徴候を示すような事実の報告、それが「実話として珍しい話」であろう。
早い話が生に対する脅威である。脅威は死の欲望を喚起する。すなわち生の脅威を認知し、認知した脅威を克服することの願望を「珍しい話」は呼び覚ますのである。
物語は、しかし、作り話である。ほとんどの場合、それは作り話だとわかるように語られ、わかった上で読まれるものである。上述の「珍しい話」理論は作り話の場合を含むように拡張することができるものであろうか。できるとしたら、どんな風に拡張されるのであろうか。
ひとつの解釈を示してみると、たとえばこんな風になる。
数学の世界ではよく、クラスAの要素aについての問題を解くのに、A(またはAの部分クラス)を別のクラスBに写像し、Bの要素bについての問題を解いてから、bの解を逆写像してAに戻すとaの解になっている、というやり方を用いる。
顕著な実例は微分方程式のラプラス変換による解法である。ラプラス変換は微分方程式の部分クラスを有理方程式のクラスに写像する。有理方程式を適当に式変形して逆変換すれば、あーら不思議(紋切型)、もとの微分方程式が解けている。なんでこれがうまく行くのか、ちょっとやそっと説明されてもサッパリ合点がいかない(真面目な話、きちんと理解するには位相幾何学や線形作用素の解析学を学ぶ必要があろう)、まるで魔法のような数学の技巧であるが、実はこれと同じことが物語において起きているのではないだろうか。
物語は確かに実話ではない、作り話である。つまり物語世界は現実世界ではない、けれどもある同相写像によって現実世界と結ばれた世界ではあって、現実世界の直接経験からは窺い知りえないか、あるいは著しく困難であるような物事や物事の関係が、写像された先の物語世界でははっきりと現れ、しかもそれは現実世界に逆写像すれば、上述の意味で「珍しい話」になっている、そういうことがありうるのではないだろうか。
・・・いかにも理科系の人間が思いつきそうな、まるっきり取ってつけた、こじつけの解釈ではないかと思われることであろう。わたしもそう思う(笑)。思うけれど、我ながら面白い解釈だから書いてみたのである(笑)。
(つづく)
物語に限らず、誰かが何かを語りはじめたとき、我々はそれが自分とは直接関係のない──つまり、その話はべつに真実である必要がない、実話かもしれないし、「ツクリ」話かもしれない──ことであっても、時に「膝を乗り出す」ことがある。常にそうなるとは限らないが、そうなることはある。なぜか興味を惹かれる。
なぜ興味を惹かれるのか。あるいは、そうした語りの何が無関係な他者の興味を惹きつけるのであろうか。
常にそうだと断定していいかとなるとやや微妙な気もするが、そうしたことが起きる場合、その話はたいてい、聞く(読む)側にとって「珍しい」出来事についての話であるように思われる。あるいは、出来事それ自体は珍しくないが、登場人物が「珍しい」、つまり有名人か何かであるという場合もある。
いずれにせよ「珍しい話」だということで一括することにしよう。それで、なぜ我々は「珍しい話」に興味を示すのだろうか?
それが実話であるか、そうと明かされていなくても実話の可能性があると認められる限り、珍しい話は、それを聞かされる側にとってその世界観を破壊しかねない、あるいはそれほどでなくても、緊張させたり刺激したりするものであろう。「この世界はだいたいこれこれのようになっているはずだ」と思われているところからは、その例外であるか、破綻あるいは破綻の徴候を示すような事実の報告、それが「実話として珍しい話」であろう。
早い話が生に対する脅威である。脅威は死の欲望を喚起する。すなわち生の脅威を認知し、認知した脅威を克服することの願望を「珍しい話」は呼び覚ますのである。
物語は、しかし、作り話である。ほとんどの場合、それは作り話だとわかるように語られ、わかった上で読まれるものである。上述の「珍しい話」理論は作り話の場合を含むように拡張することができるものであろうか。できるとしたら、どんな風に拡張されるのであろうか。
ひとつの解釈を示してみると、たとえばこんな風になる。
数学の世界ではよく、クラスAの要素aについての問題を解くのに、A(またはAの部分クラス)を別のクラスBに写像し、Bの要素bについての問題を解いてから、bの解を逆写像してAに戻すとaの解になっている、というやり方を用いる。
顕著な実例は微分方程式のラプラス変換による解法である。ラプラス変換は微分方程式の部分クラスを有理方程式のクラスに写像する。有理方程式を適当に式変形して逆変換すれば、あーら不思議(紋切型)、もとの微分方程式が解けている。なんでこれがうまく行くのか、ちょっとやそっと説明されてもサッパリ合点がいかない(真面目な話、きちんと理解するには位相幾何学や線形作用素の解析学を学ぶ必要があろう)、まるで魔法のような数学の技巧であるが、実はこれと同じことが物語において起きているのではないだろうか。
物語は確かに実話ではない、作り話である。つまり物語世界は現実世界ではない、けれどもある同相写像によって現実世界と結ばれた世界ではあって、現実世界の直接経験からは窺い知りえないか、あるいは著しく困難であるような物事や物事の関係が、写像された先の物語世界でははっきりと現れ、しかもそれは現実世界に逆写像すれば、上述の意味で「珍しい話」になっている、そういうことがありうるのではないだろうか。
・・・いかにも理科系の人間が思いつきそうな、まるっきり取ってつけた、こじつけの解釈ではないかと思われることであろう。わたしもそう思う(笑)。思うけれど、我ながら面白い解釈だから書いてみたのである(笑)。
(つづく)