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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

書かない読まない人の物語論(5) ── 「珍しい話」の位相幾何学(笑)

2014年04月15日 | チラシの裏
嘘だ詐欺だという話から少し離れてみる(笑)。

物語に限らず、誰かが何かを語りはじめたとき、我々はそれが自分とは直接関係のない──つまり、その話はべつに真実である必要がない、実話かもしれないし、「ツクリ」話かもしれない──ことであっても、時に「膝を乗り出す」ことがある。常にそうなるとは限らないが、そうなることはある。なぜか興味を惹かれる。

なぜ興味を惹かれるのか。あるいは、そうした語りの何が無関係な他者の興味を惹きつけるのであろうか。

常にそうだと断定していいかとなるとやや微妙な気もするが、そうしたことが起きる場合、その話はたいてい、聞く(読む)側にとって「珍しい」出来事についての話であるように思われる。あるいは、出来事それ自体は珍しくないが、登場人物が「珍しい」、つまり有名人か何かであるという場合もある。

いずれにせよ「珍しい話」だということで一括することにしよう。それで、なぜ我々は「珍しい話」に興味を示すのだろうか?

それが実話であるか、そうと明かされていなくても実話の可能性があると認められる限り、珍しい話は、それを聞かされる側にとってその世界観を破壊しかねない、あるいはそれほどでなくても、緊張させたり刺激したりするものであろう。「この世界はだいたいこれこれのようになっているはずだ」と思われているところからは、その例外であるか、破綻あるいは破綻の徴候を示すような事実の報告、それが「実話として珍しい話」であろう。

早い話が生に対する脅威である。脅威は死の欲望を喚起する。すなわち生の脅威を認知し、認知した脅威を克服することの願望を「珍しい話」は呼び覚ますのである。

物語は、しかし、作り話である。ほとんどの場合、それは作り話だとわかるように語られ、わかった上で読まれるものである。上述の「珍しい話」理論は作り話の場合を含むように拡張することができるものであろうか。できるとしたら、どんな風に拡張されるのであろうか。

ひとつの解釈を示してみると、たとえばこんな風になる。

数学の世界ではよく、クラスAの要素aについての問題を解くのに、A(またはAの部分クラス)を別のクラスBに写像し、Bの要素bについての問題を解いてから、bの解を逆写像してAに戻すとaの解になっている、というやり方を用いる。

顕著な実例は微分方程式のラプラス変換による解法である。ラプラス変換は微分方程式の部分クラスを有理方程式のクラスに写像する。有理方程式を適当に式変形して逆変換すれば、あーら不思議(紋切型)、もとの微分方程式が解けている。なんでこれがうまく行くのか、ちょっとやそっと説明されてもサッパリ合点がいかない(真面目な話、きちんと理解するには位相幾何学や線形作用素の解析学を学ぶ必要があろう)、まるで魔法のような数学の技巧であるが、実はこれと同じことが物語において起きているのではないだろうか。

物語は確かに実話ではない、作り話である。つまり物語世界は現実世界ではない、けれどもある同相写像によって現実世界と結ばれた世界ではあって、現実世界の直接経験からは窺い知りえないか、あるいは著しく困難であるような物事や物事の関係が、写像された先の物語世界でははっきりと現れ、しかもそれは現実世界に逆写像すれば、上述の意味で「珍しい話」になっている、そういうことがありうるのではないだろうか。

・・・いかにも理科系の人間が思いつきそうな、まるっきり取ってつけた、こじつけの解釈ではないかと思われることであろう。わたしもそう思う(笑)。思うけれど、我ながら面白い解釈だから書いてみたのである(笑)。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(4) ── 権力と嘘とコミュニケーション

2014年04月15日 | チラシの裏
・・・おい、またこっちなのか。「知識」の方はやめたのかと懸念する向きはあるだろうが、こう書いているくらいだから忘れてはいない。しかし、ここ数日は、こちらの方を考えるのが面白くて仕方がない(笑)のである。twitterで呟くことさえおろそかになって、最近は30tw/dayにもなかなか届かない。



嘘が行為であるということは、言いかえれば、伝達言語はもともと嘘をつくためにあるのではないかということである。嘘が真の欠如であるとすれば、嘘以前に真が(時間的順序ではなく、論理的に)先行して存在しなければならない、あるいはそもそも嘘は非存在であるということになるが、嘘が行為である、つまり真とは異なる様態で存在するものであるとすれば、真がどのように存在してもしなくても嘘は行為として存在するということになる。そして我々は誰でも、あらゆる知識に先行して(つまり未就学の幼児でも)嘘をつくことができるのだから、伝達言語はもともと嘘をつくためにあるのだと考えた方が理屈に合うわけである。

またそのように考えれば、世にいう「コミュニケーション能力」とは「嘘つきの能力」にほかならないということになるし、その障害とは「嘘をつくことができない」障害だということになる。これは、これらの語の正しい理解ではないだろうか。

ふと思いついて「嘘 哲学」を検索語にしてググってみると、おおよそ「嘘をつくのはいいか悪いか」という意味のことが題された記事ばかりがずらりと並んで出てくる。いいか悪いかはさておいて、そもそも嘘とは何かを考察している哲学はそんなにないといった印象を受ける。有名なのはエピメニデスの「クレタ島人のパラドクス(嘘つきのパラドクスとも、自己参照のパラドクスともいう)」だが、これは嘘についての考察というよりは論理についての考察である。

コミュニケーション能力とは嘘つきの能力だという場合、その嘘とはいわゆる悪行や悪徳としての嘘を必ずしも意味していない。それは言葉を向けた先の他者に何らかの行為を促すような言語の行為一般を意味している。つまり、他者の葛藤に作用してその行為を触媒したり、阻害したりする権力の行為である。つまり他者を自分の目的達成の手段(means to an end)として行為させる、道具として使役するということである。他者を道具扱いしてはならぬというカントがいかなる場合も──たとえ相手が明らかな凶悪犯罪者であっても──嘘をついてはならぬと結論づけたのは、そんな意味では理にかなっているのである。ところで、カントは哲学者だから物語は書かなかったであろうが、読むこともなかったのであろうか。

2回前におにぎりを売る話を書いた。無造作に品物を家の前に並べてみたって、それは売れはしないし、見向きもされない。つまりものを売るということは、黙っていても売れるということは、銀河系内の恒星どうしが衝突する可能性のようにほとんどないのであって、大なり小なり客にそれを買わせること、それ以前に不特定の誰かを特定の客として商品に注目させるということが、どうしてもなくてはならないものである。「買わせる」「注目させる」これらはいずれも使役動詞である。つまり、上で述べた通りの意味で(広義の)嘘をつく必要があるということである。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(3) ── 嘘は知識に束縛されない

2014年04月15日 | チラシの裏
最初に方針変更のお断わりを。副題に続き番号を入れるのは、このシリーズではやらないことにする(前回つけたものは消した)。書いていて構成的にまとまる感じがしないからである。少なくとも当分は思いついたことを思いついたはじから書いて行くような格好になりそうである。通し番号だけでは味気ないので副題はつけるが、毎回の副題は必ずしもその回の主題を表示しているとは限らない。



商売はどんな商売でも、ある意味で「正直」「誠実」なものでなければ成り立たない。信頼関係がないところには、取引は決して成立しないからである。

しかし一方で、あらゆることが正直と誠実だけでできている商売というのも、めったにないような気がする。公平に言っても店と客はキツネとタヌキの間柄で、どちらも他方を少しずつ騙してはいる存在であるように思う。

そもそも、夫婦や親子や兄弟姉妹のような間柄でも、人間と人間の関係は大なり小なり嘘を含んで成り立っている。嘘ということがまったくありえない人間どうしの関係があるとしたら、理想的な友情──「友情とは二つの肉体に宿れる一つの魂である」──が成立している場合だけであろう。店と客のように本来がまったく赤の他人どうしの間柄では、むしろ嘘の方が多いくらいであって当然だと言うべきかもしれない。

何が言いたいかというと、我々は通常嘘ということを真実の欠如とか不足として考える、つまり嘘というものがあるのではなく、そこには真実がないだけだと考える(根深い)傾向を持っている、けれども本当はそうではなくて、嘘というものがそれ自体として存在するのではないだろうか、ということである。

──実はこのことは、もとは「『知識』についてのメモ」のために考えていたことである。しかしそっちの方が権力だとか闘争だとかのやや大がかりな話になってしまって、なかなかこっちの話にはなりそうもないから、嘘とか詐欺とかいうことを主題に別の考察の流れを作れないかと思って始めたのがこのシリーズである。それはそれとして、自分が物語を書かないし書けないのはなぜかという疑問を抱いてきたのは事実なので、ちょうどうまく重なるのではないだろうかと思ったわけである。

嘘とは真の欠如ではなく、嘘というものが存在するのではないかと言って、それが真と同じように存在しているわけではないことは、明らかである。我々が学校で教わるのは真だけである。真として教わったことが実は真でなかったということが、後から判ったりすることもあるが、これは嘘だと言って嘘を教わることは決してない。

同じような非対称性は探せばすぐにたくさん見つけることができる。学校の授業では正解(真)とともに正解の導き方を教わるけれども、嘘を教わることがないように、嘘の導き方(つまり間違う方法)を教わることもないのである。

人間は学校で教わらない限り何ひとつできるようにはならないと主張する教師もいるが、我々はかつて教わったことのない、誰からも決して教わることはない嘘をやすやすとつくことができる。教わらなくてもできるのだから、まだ何も教わらない幼児でも嘘をつくことができる。確かにそれはできるわけである。

嘘は無意味だろうか。もちろん無意味ではない。無意味だったら、学術論文に嘘が書かれていたと言って世間が大騒ぎすることはない。嘘が無意味なら、それはただのノイズである。どんなにきれいに印刷しても、印刷された論文をルーペで拡大してみれば必ずちらほらと乗っている微細なインクのゴミと同じである。ノイズは少ないに越したことはないが、あっても案ずるには及ばない、ノイズは符号化次第でいくらでも取り除くことができると、これはシャノン大先生が厳密に証明したことである。嘘はそうした無意味なノイズではなく、意味がある、だからこそ学術論文に嘘を書かれては困るのである。

どう考えたらいいのか。嘘は定義上真理ではないし、真理の保証として知識でもない。知識であれば、そうすることの善悪は別として「教える」ことが可能なはずである(「教える」ということが本当に存在すればであるが・・・)。けれども実際、嘘は教えることができないもののように思われる。わたしが物語を書けないように(笑)。

嘘はつまり、行為なのではないだろうか。多くの行為は知識によって触媒されて初めて可能である、いいかえれば知識に束縛された行為であるが、知識に束縛されない行為が存在して、それが嘘と呼ばれるのではないだろうか。

・・・さすがに、これだけでは定義として過剰すぎる気がするが、そうは言っても、いくらか嘘の本性にかすっているところはありそうな気がする。

ずっと前にこのblogで「悪は論じることができない」と書いたことがある。そう書いたのは、まったくただの思いつきからであった(笑)のだが、我ながらお気に入りの定立のひとつになってしまったものである。嘘も悪のうちであるとして、それを論じることができないのは、それが行為であって、知識に束縛されないからではないのだろうか。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(2) ── 書くことの詐欺論

2014年04月14日 | チラシの裏
物語とそうでない文章の何が最も違うかと言えば、前者は基本的に作りごとの嘘っ八だということである(笑)。

いや、そう言うよりも、この論考の主題に沿って言えば、もっとはっきり、物語の書き手は読者を騙さなければならないわけである。嘘といって、単に記述が事実ではないとか、実在しない架空の人物や出来事の記述であるという意味ではなく、それは意図して読者を騙す書き手の行為でなければならない、ということである。

物語を構成する要素は、基本的にすべて嘘である。たとえば太宰治『走れメロス』の冒頭は「メロスは激怒した」という有名な一文で始まる。メロスは実在の人物ではないし、実在しない人物が「激怒した」という出来事も実在しないことは明らかである。ところが読者はなぜか、この10文字に満たない単純な文を読み終えた時点ですでに、メロスが存在することも、メロスが激怒したことも、まったく疑わない心的な態勢になっている。つまり、この一文の記述を信じ込まされているわけである。

ほとんど誰でもそうなるし、そうなっているはずである。「メロスは激怒した」と書いてあるのを読んで「は?メロス?誰よそれ?」とか言い出す、あるいは言い出したという経験をもつ人は、めったにいないのではないだろうか(笑)。むろん、これを書いているわたしも例外ではなかった(笑)。けれども、これはものすごく異様なことではないだろうか。物語以外の文章でこんなことが突然書かれていたら、誰でもその事実性を根本から疑うか、根本から否定するか、あるいは狂人の戯言だと確信するか、いずれにせよほとんどそこで読むことをやめてしまうはずである。

もっと奇妙なことは、物語を書くことの詐欺は普通にそう呼ばれる詐欺とも明らかに違っていて、確かに我々は「メロスは激怒した」を疑わないけれども、メロスという人物や、その人物が激怒したことの事実性や実在性について、あえて問われたら、これまたほとんど誰もが「もちろん事実ではない。人物も出来事も実在しない。すべて作り事である」と直ちに答えることができてしまうということである。

読者は騙されているのだが、「あなたは(この物語の書き手に)騙されているのか」と問われたら、平然として「そうだ」と答えることができてしまう。他のことなら、自分が騙されていることに気づけば、たちどころに怒り出すか、恥じ入るかするのが普通ではないだろうか。あるいは、騙されたってことさら損するわけではない、物質的あるいは精神的の被害を蒙るわけではない、つまり無害だと判っているような場合でも、わざわざ騙されようとはしないものであろう。わざわざ騙されるのは悪趣味だと自分でも思うし、他人からも言われるだろう。すべて、物語を読む場合を除いては。

つまりどうやら、読者は物語の入口と出口で、それをくぐる一瞬の間に、世界が転倒するような経験をしている。世界が転倒するというよりは、何かから促されて自ら逆立ちさせられている(出口では元に戻る)という方が正確だろうか。いずれにせよ奇妙なことに、その自覚はまったくなしにそれをやっているし、とりたてて困難も苦痛も感じていないのである。

読む方はそんなものだが、書く方はどうなのか。実のところその(世界を転倒させることの)労苦は書き手がすべて負わされているのではないだろうか。コンビニでおにぎり1つ買うことに、それを買う方は代金以外の何も求められはしないけれども、他方においてそれを売る(というよりも、買わせる)ことは、どうしても手短に書くことができそうもない、途方もない労苦であったり、絶望的な困難とか不可能とかの思いにかられる何事かであるように思える。嘘だと思うなら、おにぎりを作って、まったく無造作に家の前にそれらを並べて売ってみればわかることである。道行く人の誰ひとりそんなものを買いはしないし、それどころかほとんど一瞥もくれずに通り過ぎるであろうことである。

(つづく)

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「知識」についてのメモ(14) ── 闘争とは何であろうか(3)

2014年04月14日 | チラシの裏
もともと葛藤のない自然的過程の上に意識や社会の葛藤がある、闘争はその裏面として必然的に生じてくるというのが前回の結論であった。この結論はいずれ修正が必要になるであろう、というのも、少なくとも人間の意識を持たない(したがって葛藤もない)動物もたいてい(個体間で)闘争はするからである。またチンパンジーのように、集団内における個体間の序列のような、一種の権力構造を(それなりの安定度をもって)作り上げる動物種は確かに存在するからである。

これらの、人間以外の動物における個体間闘争や、その帰結として生じる権力構造を、ただちに人間のそれと同一視しなければならないということはない、けれども、それにしても、人間のそれとはどう違うのか、それはいずれ説明されなければならない。

しかし今のところはそれよりも、上のように見られた闘争と権力構造の関係を考えることの方に集中する。

闘争は葛藤の裏面に貼りつくように存在するものだが、それ自体が葛藤に作用して、いわば対消滅するように葛藤を解消したり弱めたりするわけでは、必ずしもない。葛藤に作用するのは権力である。闘争が直接葛藤に作用するとしたら(時にはそれがある)、それは権力の失敗である。

わかりやすい例は政治家の場合であろう。政治家は自身が(権力)闘争を行うものだとは言っても、その闘争は通常、政治の肯定的な役割であるところの利害調整にはかかわりのないところで行われる。政治家どうしの(権力)闘争に大衆が直接巻き込まれるということは、普通はないし、肯定もされないことである。

闘争が直接葛藤に作用していいなら、権力はいらないし、権力の担い手はもっといらない。それ(闘争が葛藤に直接作用すること)が起きること自体が権力の破壊であり、つまり権力の失敗である。

このことから、権力はふたつの制御にかかわっていると考えることができる。以下は作業用の素描である。

ひとつは自然的過程からの乖離としての葛藤について、その乖離度合いを維持するようなヨコの制御である。ヨコの制御はマクロにみれば秩序(権力構造)の維持ということそれ自体である。現実的な過程は次第に乖離度合いを大きくして行く自然な傾向をもつ(個別の要素が拡大するほど、要素どうしの干渉は次第に増える道理である)と考えられるし、他方にはこの傾向を打ち消す闘争が存在するわけだから、この相反する傾向のバランスを取ることができれば、この制御は達成されることになる。もっとも、この制御には定まった参照(制御目標)はないように思える。

もうひとつは、乖離を維持しつつ意識や社会の現実的過程を自然的過程に同期させるタテの制御である。意識や社会の現実的過程は幻想の過程だから、それが自然的過程に同期させられていなければ、思念が行為に実効的に結びつくこともできないわけである。

後者についてひとつ不明なのは、現実的過程は葛藤をもつ分だけ速度は落ちる(楽器の演奏を「意識」するとほとんど必ずミスするようなものである)はずだから、ベクトルの向きはそのままで現実的過程を加速する(欲望の背中を押す)何かもまた権力の作用のうちにあるはずだということである。理屈の上ではそうなるが、その作用が何を根拠として生じるのかは、まだよくわからない。これも闘争からエネルギーを受け取るのかもしれないし、そうではないかもしれない。

(タテとかヨコとか言ってるのは、書いてる当人は以上をアタマの中の図式的に考えているということである。その図を描いてもいいというか、読む方はその方がわかりやすくなるはずだが、絵描くの面倒くさいから(笑)とりあえず字で書いているまでである)

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(序)

2014年04月13日 | チラシの裏
この題名はそのまんまの意味である。実際、わたしはいわゆる小説をほとんど読まないし、書くこともない人である。

「ほとんど」である。全然書かない読まないのだったら、そもそも論じる意味がないことになるが、ちょっぴりはある(あった)というのが曲者である。

書く方は後に回して、まず、読む方はどのくらい読まないかというと、電車の中で本を読んでいる人がいると、まず十中八九は小説の本を読んでいる。本音を言えば、それがいつもひどく不思議である、その程度には、わたしは小説を読まないわけである。

世の中のたいていの人にとって、本といえば小説の本である。本らしい本はほとんど読まないような人でも(典型的にはわたしの両親である)、たまに気まぐれで本を買うことがあると、それは十中八九、小説の本である。

なぜ世間一般はそうであり、わたしがそうではないのか。このような事実それ自体は必ずしも不愉快ではない(笑)が、その理由がわからないということは、いずれにせよ不安なことである。だからその理由は知りたい。尋ねても教えてはもらえないなら(この世の中ではたいてい、尋ねたって何ひとつ教えてはもらえないものである)自分で解き明かしてでもそれを知りたい。それは確かにわたし自身の、かなり幼いころからの願望のひとつである。

書く方について言えば、わたしは過去に物書きをやっていた時期があるが、なれるものなら小説書きになれたらよかったと、今でもたまに思うことがある。小説書きなら間違って売れることもあるだろうが、計算機ソフトウェアの解説書きなんて間違っても売れはしないからである。

この三十年くらいは試みることすらなくなったが、それまでは、まかり間違えば売れるかもしれないじゃないか(笑)ということで、ときどき試みに書いてみようとしたことはあった(笑)ということである。つまり中二病の延長である。小説は読まないが、マンガならそれなりに読んできたつもりである。なら、今で言うところのラノベ感覚で(笑)書くことは、さしあたり巧拙は別として(ましてや、稼業になりうるかはさらに別として)書くことができないということはないだろうと考えるわけである。

ところが書いてみようとすると、これがまったく書けない。「読まない」方は単に趣味でないから読まないだけだとも言えるが、「書かない」方は趣味でなくても「書けない」ということに、わたしは三十年ほど前に気づいたわけである。

これがたとえば、もともと他のどんな文章も書かない(書けない)というのだったら、物語が書けないのは当然だということにしかならないが、わたしの場合そういうことはなかったわけである。物語でない文章は(しつこく言うが巧拙は別にして)書けるし、その当時でも日々何かは書いていた(今もこうして書いている)。なぜか物語だけがまったく書けないのである。

何だろうこれは、と考えているうちに、どうやらひとつ、根本的にわからないことがあるのに気づいた。

たいていの物語では主人公は(しばしば冒頭から)多少なりともひどい目に会うわけである。ひどい目に会って、それでどうした、どうなったというのが物語のスジになるわけであるから、主人公をひどい目に会わせないわけにはいかないわけである。しかし、すべての物語がそうではないと言っても、主人公はたいてい、大なり小なり作者の分身であろう。自分がひどい目に会う話、それも作り話を、いったいどういう顔して書けばいいのだろうか。というか、実際に書いてる連中はどういう顔して書いているのだろうか。

それがわからないのでは、試みることからして無駄なことだと思って、以来試みることもしなくなった次第である。また上のことは、あえて調べてみれば気づくはずだが、どこにも書かれていないことである。答が書かれているのを読んだこともないし、問うているのをさえ読んだことはない。



それが、今になってこんなものを書き始めた動機は、つい昨日のこと(笑)、ひとつのことにふと気づいたからである。それはつまり、物語を書くという行為、あるいは物語が進行するということ自体が読者の存在を前提としてはじめて成り立つことなのではないかということである。

わかりやすいたとえで言うなら、小学校の理科実験である。電池に豆電球をつないで光らせるやつである。豆電球を光らせるためには、そもそもまず、その豆電球は少なくとも回路図の上に存在しなければならない(笑)。さらに、それが回路の一部として(導線で)接続されなければならない。豆電球が存在して、それが回路に接続されない限り、そもそも電気は流れないのである。この(回路図上の)電気の流れのようなものが物語の流れ(進行)であるという風には考えられないだろうか。

それがどうした、と言われそうだから説明すれば、上述のわたしの三十年前の疑問は、上の比喩で言えば、電流は電池電圧に帰するものと考えてしまっていたことから生じた誤解であったのかもしれないということである。そのモデルが正しければ、物語を書くために必要なのは電池(作者の思惑)だけだということになる(実際、書いたものが読まれるかどうかは、いつでも、また物語に限らずどんな文章であろうと、まったくの別問題である)のだが、実際この考え方は電気回路についての考え方としても間違っている(笑)。電流が抵抗値の逆数(コンダクタンス)を係数として電圧に比例する(オームの法則、I=E/R)と単純に言えるのは直流回路に限ったハナシであって、電気回路一般の状態は電流と電圧のふたつを成分として、通常複素で表示されるのである。

また別の言い方をすれば、文章経営という言葉があるが、わたしの文章経営はこれまでは(というか、これを書いている今でさえ)単式簿記のようなものにすぎなかったのではないか、ということになる。どうりで何を書いていてもすぐ破綻してしまうと思っていたら(笑)、実はそういうことであったのかもしれない。

そうだとすれば、これは物語を書くか書かないかの問題ではない、むしろ文章を書くという行為一般の基礎にかかわる問題だということになる。物語を読まないし書くこともない人であっても、文章を書くという限りは再考してみる価値がありそうに思えるし、ここまでの経緯を思えば、特に物語を書くことについて考えることが適切であろうということになる。

だいたいこんなわけで、こういうことを考え、書くからと言って、この先に「物語の書き方」の具体的な答が結論として出てくるとは限らないし、たぶん出てくることはない。仮に出てきたとしても、それが実際に物語を書く上で役立つ答になっているかどうかは少しも保証できないと、予め言っておくことにする。当たり前のことだが、そもそもこれを書いている本人が物語を書かないし、この論全体の成否にかかわらず、今後とも書くことはないであろうからである。

(つづけ)

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「知識」についてのメモ(13) ── 闘争とは何であろうか(2)

2014年04月11日 | チラシの裏
ずっと若いころから心に留めているひとつの命題がある。

「自然的現実はデッドロックを起こさない。それでいて暴走もしない。物理法則が破壊されることはない」

ということである。若いころからこの通りの文字で思っていたわけではない、もっと神秘的だったり(笑)、中二病的だったり(笑)したのであるが、いまこの「メモ」の考察に合わせて改めて文字にしてみればそんなことになる。

(・・・それを思えば、おい、科学ってのは学んでみる価値が随分あるぜ、と、いままさに神秘的だったり中二病的だったりのことに熱中しているさ中のワカモノの人達には言ってみたいことである)

計算機という機械仕掛けの世界の方に先に慣れてしまうと、物理宇宙という、これはこれである種の機械仕掛けの世界(機械仕掛けとして見られた世界、と言ってもいい)が上の命題の通りであることは、改めて考えてみるとひどく不思議なことのように思えてくる。

並列実行される多数のプロセスを、デッドロックを起こさずに正常に稼働させ続けることは、どんなによく作りこまれた計算機システムでも不可能に近いことである。もちろん排他制御をしなければデッドロックも起きないが、その場合、長い間にはシステムの動作や出力が全体としてデタラメに陥る、つまりシステム全体の論理が破壊されてしまうことは避けられないはずである。

どうして物理宇宙は、我々の自然的現実は、大きく見ても小さく見ても、このディレンマを患うところがまったくないように見えるのであろうか。

それは物理宇宙がもともといたるところ暴走しているシステムで、つまり物理法則はこれ以上破壊されようがないからだ、という答はちょっと聞くともっともらしく思えなくもない。けれどもそうなら、それにしては、物理法則は現在の標準理論をみても、まったく驚くばかりの単純さであって、しかもその単純さを、どんなわずかな破綻もなしに保っているのではないだろうか。

だいたい、物理法則と言って、人間が方程式系として定式化(モデル化)したそれはしばしば特異点や発散が生じてしまう、それを「現実の宇宙はどう見ても破綻していませんよ?」という理由から「くりこみ処方」によって辻褄を合わせている(合わせることができる)ほどなのである。どうやら現実の宇宙は人間がこれまで作ってきた(またこれから作りうる)理論よりもさらに、究極の姿としては、ずっと単純なものであるのに違いないのである。

またしても闘争のハナシをそっちのけにして脱線しているようだが、闘争というのは、また闘争がどんな場合でも穢らしさの現れをもつように見えるのは、これと同じことの反映なのではないだろうか。

人間は個々人の内的な意識的現実においても、外的な社会的現実においても、さまざまな葛藤をもち、そこで立ち往生することを強いられたり、そこから逃れることの代償であるかのように権力から操られたりもする存在であるが、それらを根底で支えている自然的現実においてはいかなる葛藤も存在しないのである。闘争はこの矛盾を軸として、表側の意識的社会的現実の裏側に必然的に生じるものではないだろうか。

それを闘争と呼ぶべきかどうかはさておくとしても、我々が意識的社会的現実において葛藤をもち、それが自然的現実の反映ではない(自然的現実に葛藤は存在しない)以上、我々が葛藤の裏側に対となる何かをもつことは必然的である。ここまでは確かである。

(つづく)

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「知識」についてのメモ(12) ── 闘争とは何であろうか(1)

2014年04月11日 | チラシの裏
権力は葛藤の上で作用する力であるが、権力それ自体もまた他の権力と葛藤(競合)しうる。ただし権力の間で生じるのは葛藤というよりは闘争(struggle)であるように思われる。よく権力闘争(struggle for power)というが、闘争はむしろ権力の間にしか生じないものだと言うべきではないであろうか。

戯画化された葛藤、「頭上の天使と悪魔」はたいてい取っ組み合いをする、つまり闘争するもののように描かれるわけであるが、実際には葛藤は闘争ではない。むしろ闘争(したくても)できないことこそが葛藤の本質というべきである。デッドロックに陥ったふたつの計算機プロセスは闘争しない。両者は互いに拮抗し、共々に立ち往生する。それが我々の葛藤の像(イメージ)である。この図式の上で闘争するものがあるとすれば、計算機プロセスから見た場合の「権力者」ないし「超越者」、つまり、資源競合からデッドロックに陥ったプロセス群の扱いをめぐって争う管理者たちであろう。

・・・唐突に闘争のハナシを始めてしまったが、これはずっと前にこのblogで「政治」について考察していたことの、ある意味では続きである。

「政治」の考察では、その肯定的な本質を「葛藤しあう欲望の調整」とみたわけであるが、政治の実際は明らかにそれだけで尽くせるものではないであろう。少なくともそこには必ず(権力)闘争が存在するように思える。それがない場合の方が例外であろう。

以前の考察では、しかし、闘争については考察しなかった。第一手に負えなさそうだった(笑)ということもあるが、それ以上に、闘争ということは本当に人間の社会にとって本質的な(それがなければそもそも社会が成り立たないような)行為であるかどうか、それ自体が疑わしく思われていたからでもあった。

もっと正直に言えば、それはできれば本質的でない方が嬉しいわけである。政治(権力)闘争でなくても、闘争というのは何のどんな闘争であろうと、基本的に泥まみれ、悪くすれば血まみれの行いになることが避けられないものである。何をつべこべ飾り立てて言ったところで、それが穢らしい行いであること、それだけはどうしても不変であるとしか思われないことである。

よく「世界の歴史は戦争の歴史だ」などと言うが、事実そうなら(事実そうだが)どうして我々は排泄物の歴史なんぞを神妙な顔して学ばなければならないのか。学べば二度と排泄物は出さずに済むというならともかく、そんなことはありそうもないことではないか。

そう、たった今思いついて(笑)書いた上の通りの意味で、おそらく闘争は我々の社会にとって本質的な、それがなければそもそも社会が成り立たないような行いのひとつである。とはいえ、闘争は人間に固有の行いであるとは言えない。明らかに人間以外の生物体も闘争はするわけである。

闘争は秩序を生み出す、つまり局所的な作用の特徴を非局所の秩序へ展開する(人間社会の場合に限れば)権力の作用、ないしはその過程である。

もっとも闘争だけでは秩序にならない。他に何もなくて闘争だけがあるのなら、速やかに最強者が総取りして、話はそれでオシマイである。

そもそも局所作用はそれだけでは非局所の秩序として展開して行くすべがないわけである。秩序が生み出されるためには、局所を非局所へ展開していく拡散項(diffusion term)がなければならない。

(つづく)

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「知識」についてのメモ(11) ── 休憩(フタタビハジメニモドル)

2014年04月10日 | チラシの裏
・・・前回あたりはもう、すっかり忘れていた(笑)わけだが、最初の問いはどうなったのだろう。

「あることを知っている現在の自分は、それを知らなかった過去の自分をバカにすることがある」(メモ7)。それを知らなかった過去の自分(の記憶された像)が、何らかの意味でそれを知っている現在の自分にとって脅威でありうる、それはなぜで、またどういう意味で脅威なのか、という問いである。

ここ数回で何か進歩があったかというと、どうもなさそうに思える(笑)。行き詰まってしまっているような気がするので、今回はある種の「息抜き」を兼ねて(笑)、この「メモ」全体の目論みを整理してみる。

この「メモ」全体が目論んでいることは、権力とは何かということの解明である。権力はミクロに見れば葛藤の上で作用する何かであるというのは、この「メモ」以前のものとして置いてある仮定であるが、根源的な葛藤(生と死の葛藤)がどのようにして人間の社会の上に権力構造と呼ばれるような、おおよそ安定した秩序を作り出すのか、この「メモ」で解明できれば解明したいことはそれである。

秩序は局所的(local)な作用に内在する特徴が非局所(non-local; 時空上の、ゼロではない有限な大きさをもつ領域のことを物理学ではそう呼ぶ)に反映されたものである。地球が丸いのも、我々の銀河系が渦巻き状の姿をしていることも、物理法則に内在する特徴が時空の非局所領域に反映されたものであるように、である。

実際、局所の作用法則である物理法則(それはまだ完成してはいないので「標準理論」と呼ばれているが)を記述する方程式系の、そのパラメタのどれかをほんの少しいじっただけで、この宇宙は極微から極大にわたるあらゆる尺度の領域においてまったく異なる姿をもつようになってしまうであろうということは、物理学者の間ではよく理解されていることである。

上をひらたく言えば、秩序は各点上の作用法則を調べることによって知ることができるし、逆もまた同様ということである。宇宙の成り立ちを知るために素粒子物理が探究される一方、素粒子物理の理論モデルを検証するために天文現象(今やこれは宇宙物理学と呼ばれるのであるが)の観察が行われる。これと同じことを哲学的な問題に適用してみようとしているわけである。

そのためには、秩序すなわちマクロな構造をミクロな作用の集積に対応づけることができ、かつ、ミクロな作用の集積にのみ対応づけられるということが言えなければならない。つまり、この対応づけが揺るぎないものであるようにミクロな概念が定義されなければならない。

もちろん、社会現象やその秩序ということを、観察可能な個々人の行動(behavior)の集積として理解しようとすることは、たいていの社会科学研究の基本設定である。ただ社会科学は「科学」であることを維持するために、行動の内側には踏み込まずに、かわりに「統計」を立てるわけである。つまり「生きている、意志を持つ個人」ではなく、複雑に組み合わされたサイコロのようなものをミクロとしているし、そうせざるを得ないのである。このやり方で解明できる現象の水準は確かにあって、無意味ではないのであるが、そうは言っても次のふたつの問題は最初から放棄されている。

(1) 「統計」はその本質において平均操作を含むものである。そのぶんだけ個々人の像はぼやけてしまう。これがマクロの側も同じようにぼやけるだけならいいが、たいていの場合ありもしない偽像を生み出してしまう。その最も明瞭な例のひとつは「世論」である。
(2) この枠組みで得られる知見は「統計」集団を集団として制御・統制しようという支配者ないし管理者にとっては役に立つが、「生きている、意志を持つ個人」が、つまり我々自身が個別の場面や状況に直面したとき、「生きている、意志を持つ」自らの存在にかかわって何をどうすればよいかという問題には、ほとんど何の助けももたらさないのである。

(つづく)

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「知識」についてのメモ(10) ── 脅威について(3)

2014年04月09日 | チラシの裏
人間にとって根源的なふたつの欲望、生と死の欲望はどのように葛藤するというべきだろうか。

死の欲望は、もうすこし穏当な言葉を使えば「成長することの欲望」だということになる。成長すること、つまりじぶんの意図と行為が有効に作用しうる範囲が拡大することは、拡大した分だけ死=宇宙は征服された、つまりその脅威が克服されたということであるし、一方でそれはまた、じぶんが死=宇宙に近いものになったということでもある。

生の欲望は、だから、これに対応づけて言えば「成長することの拒否」だということになろう。

実際、成長ということが脅威の克服ということにほかならないということは、それ以前に脅威と争闘しなければならないことを意味するわけである。その目的がいったい何であろうとも、争闘することそれ自体を限りなく忌み嫌い、拒絶したいという願望もまた、誰の心においても常にあるもののはずである。

人間以外の生物には死の欲望などはないので、生物学的身体が成熟に向かうということ以外では、成長はそもそもありえない。そしてこの「生物学的身体が成熟に向かうこと」という意味での成長は、それ自体が生物機械の個体プログラムの一部であるから、そのこと自体が重ねて欲望される必要はない。その意味で人間以外の生物には生の欲望もまたないと言うべきである。

死の欲望がないということは、死が脅威であると受け止められているということもないということで、したがって死=宇宙と対峙し争闘する動機もないということである。どんなに勇敢で「死を恐れない」と称する人間よりも、人間以外のすべての生き物の方がずっとやすやすと(生物学的な)死を受け入れる「ように見える」し、個体死に直面した際の行動(behavior)が驚嘆すべき勇敢さの発揮である「ように見える(ことがある)」ゆえんである。けれども実際は、人間以外の生物は勇敢なのでもなければ「死を恐れない」のでもなく、単に生も死も欲望としてはもっていない、もつことがない、もつ理由がない、したがってそれらの葛藤もないというだけのことにすぎない。

だいたいこんな意味で、生の欲望と死の欲望は、バランスシートの左右が必ず均衡するように均衡するものであると考えられる。死の欲望は生の欲望がなければ存在する理由がない。それはもともと生に対する脅威に対応して生じるものだからである。一方、生の欲望もまた死の欲望がなければ存在する理由がない。成長が欲望されなければ、それを拒否することの欲望(願望)もまた生じえないからである。

互いの存在が他方に(かつ他方の存在のみに)依存し、なおかつ両者は互いに他方の存在を否定することが自身の存在的な本質である、つまり、他方を否定しないことは自身の存在を失うことにほかならない。これが生と死の間の葛藤の形式である。そして、この葛藤があらゆる葛藤の根源であると我々は考えるのであるから、この形式こそが葛藤の根源的な形式であるということでもある。

ひとつ、こう書いてみると気づかされることは、この根源的な葛藤の形式は単に論理形式としてみても非常に奇妙な形をしているということである。前半は「互いに他方の存在に依存すること」つまり「互いに他方の存在を肯定すること」である一方、後半は「互いに他方の存在を否定すること」である。前半と後半は互いに矛盾するというか、これ自体がまさに葛藤である(笑)。犬も食わない夫婦喧嘩の図そのものがこの形式の上に現れている。

これは本当にいま書いてて気づいたのである(笑)。このことの意味は改めてよく考えてみる必要がありそうである。

ところで葛藤は、葛藤しあう欲望のそれら自体によってはどうすることもできないものである。デッドロックを自己解決できる(並行プロセス型の)計算機システムが存在しないように、である。それを解決するためには大なり小なり計算機システムにとって外部的あるいは超越的であるような、つまり人間の意図が介入しなければならないものである。

(つづく)

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「知識」についてのメモ(9) ── 脅威について(2)

2014年04月08日 | チラシの裏
前回の最後で意識ということを言ったので、今回はその意識について。どうも話が脇道に逸れて行くばっかりでちっとも前に進まない感じだが、書く方も我慢のしどころである。

人間の本質は意識だ、つまり意識を持つのは人間だけだと、どうして言えるのか。

実のところこれは「どうして」という話ではなく、これに先立つ議論が別にあるわけである。わたしの考えでは、ある存在が意識をもつとは、その存在が生と死のふたつの欲望と、そのふたつの葛藤をもつことにほかならない。もっと極端に言えば、死の欲望が意識の本質である。それがなければ生の欲望と呼ばれるものは、単に生得的な、そのように作りつけられた生理機械的な反応の随伴現象にすぎないし、生と死が葛藤するということもないからである。

死の欲望という言葉は、そもそも「死」が不気味で嫌な文字だから、やはり不気味で嫌な語だと、どうしても思われてしまうのであるが、しかし、そもそもこの場合の「死」とは無機物(になる)ということである。そして無機物とは、物理的な世界の全体(宇宙)そのもののことである。物理的な世界は全体がひとつのものであって、本来そこにはあれとこれの区別や区分は何もないからである。それらの区別や区分のように思われているのは、たとえば物理学の記述や実践の便宜上導入される区別や区分、すなわち述語(predicate)にすぎない。便宜上の述語だからこそ、たとえば冥王星が惑星だったり、ある日突然惑星でなくなったりするのである※。

※もちろんこれは常識的な意味で「冥王星は存在しない」ということではなく、それに相当する物理は確かに存在するのであるが、その物理にあてられた「冥王星」という述語は物理ではない(物理的な世界の存在ではない)ということである。

もう一度繰り返せば、「死の欲望」という場合の「死」とは、実は宇宙全体のことである。それを欲望するとは、すなわち宇宙全体を欲するということにほかならない。つまり我々人間は誰でも宇宙全体を欲している、それを支配したい願望を持っているということである。なぜそんな願望を持つのかと言えば、もちろんそれ(死=宇宙)が根源的な脅威だからにほかならない。

そして、なぜそれを根源的な脅威と感じる(ことができる)かと言えば、人間存在は外的には宇宙に対して開かれた存在だからである(「外的には」というのは「身体的には」と言った方がわかりやすいかもしれないが、この身体は生物学的身体のことではないから、それとは区別する意味で〈身体〉とカッコ書きする)。それを征服するためには砦の外に出て対峙し争闘しなければならない。対峙し争闘する相手は脅威とか敵とか呼ぶのが普通であろう。何にせよ、〈身体〉を開かれたものとする一方、それを統御するために、人間は内的で閉じた対応領域、つまり意識の世界を作り上げたのである。

以上はもちろん仮説である。仮説どころか途方もないトンデモ説だと感じる人の方が、どうせ多いのだろう(笑)。けれどもこのような、開かれた〈身体〉と内的に閉じた意識を対としてもち、前者を後者の対応によって統御するような生命体の進化が実際に生物進化の上で起こりうること、そして他の〈身体〉的に閉じた生物種のすべてに優越して地上を席巻しうることなどは、いずれ科学的に──少なくとも計算機上の模擬実験で──証明(もしくは反証)可能になるはずのことである。

(つづく)

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「知識」についてのメモ(8) ── 脅威について(1)

2014年04月07日 | チラシの裏
権力は知識と脅威の両方に関係しているように(なんとなく)思えるので、つながりが(多少とも)明確になるところまで考察を進めてみる。

なお、今回は前もって結論を出していたことを書いているわけではない、まったく未知に向かって考えを進めているのをそのまま書く、つまり文字通りのメモ書きになるので、わけのわからないことを書いているように見えるかもしれない。仕方のないことである。

わたしの考えでは、人間存在にとって根源的な脅威とは(じぶんの)死ということの脅威である。他の脅威は大雑把に言って死の脅威が対象に反映された像としてあるものではないかと思われる。

ちなみに、ここで脅威と言っているのは人間の意識においてそう感じられる脅威のことを言っている。人間以外の動物が脅威を感じているかのような振る舞い(行動)を表すことはあるにしても、さしあたりそれらは考慮の外に置く。実際、脅威ということを、動物行動学的に、個体の生物学的生存にかんする脅威への生得的で生理機械的な反応のように考えたとすれば、人間はおよそ不可解な対象に不可解な脅威を認めうる存在だと言わざるを得ない。

ヨコハマタイヤとか、シュガーカットとかのことである(笑)。ヨコハマタイヤの絵のいったい何がどうして生物学的生存の脅威か(笑)。こじつけ以外で説明がつけられることとは思えない。

(動物行動学的な脅威の解釈を仮定すると)それ以上に不可解なのは、前回考察したように、我々は過去の自分(その記憶)に対してすら脅威を認めることがあるということである。実際にじぶんの生存を脅かしてくる、少なくともその可能性を認められる対象に、こちらから先制攻撃を加えたり、それができない(阻まれている)対象に呪い(の言葉)を浴びせたりすることは、行動として有効なものであるかどうかはさておき(笑)、生物体の生得的な防衛反応やその心的な延長として説明することもできるし、事実そうである場合もあるに違いない。けれども、過去のじぶんに対してそうするというのはまったく説明できないことである。

これらの「動物行動学的には不可解な」脅威のありかたに可解な説明を与えるためには、動物にはありえない何かを人間が(人間なら誰でも)もっていて、それが原因になっていると考えるほかないように思われる。

動物にはありえないが、人間なら誰でももっているもの、いわば人間が人間であることの本質は意識(consciousness)である。

あるいは、無意識まで含めて心(mind)であると言うべきかもしれない。もっとも、無意識というのは心のうちで意識に属さないもののことであって、その意味で無意識は意識によって定義されるものであるとも言える。ただし心ということに全体として閉じた定義を与えられるとは思いにくいことであるし、したがって無意識も同様である。以下ではもっぱらこのような含みのもとで「人間の本質は意識である」ということにする。

(つづく)

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「知識」についてのメモ(7) ── ハジメニモドル

2014年04月05日 | チラシの裏
このメモの一番最初に書いた問題に戻ってみる。

もともとは権力としての知識というか、知識のあるなしが権力のように作用する(ことがある)のはなぜか、そしてどんな風に作用するのか、ということを問題にしていたのであった。それを考えるためには知識ということを常識的に、真理の同義語だとか、真理の記述だとか定義しても埒があかないように思われる。だから「知識とは真理の保証であり、行為の触媒である」という、他ではあまり言われることはないかもしれない、違う定義を立ててみたわけであった。

「あることを知っている人はそれを知らない人をバカにすることがある」なぜそんなことが実際に可能なのか。

そもそもそんなことで他人をバカにしてはいけない、などという道徳が混入してくるのを防ぐために(笑)、さしあたり、上の括弧書きに登場するふたりの人物は同一人物であるということにしよう。「あることを知っている現在の自分は、それを知らなかった過去の自分をバカにすることがある」わけである。実際、自分に関してそう思う傾向があるからこそ、他人の知識(量)が自分より劣っていると思うと、過去の自分を見下すようにその他人を見下すということも起きるのではないか。とりあえずそう考えておいて、自分が自分をバカにする場合についてだけ考えてみる。

人間が知識をより多く獲得しようとすることは、知識についての我々の定義による限りでは、本来なら自然なことであると見なすことができる。知識を獲得するほど、可能な行為が、また行為の選択肢が増える、つまり行為することの自由が増すことになるからである。

一方、それが学校の勉強だということになったとたん少しもやる気が起きなくなる(笑)し、知識(と称するもの)を獲得すること自体少しも嬉しくない(笑)ことについても、これまた自然な説明を与えることができる。学校で教わる知識(と称するもの)のほとんど全部は、実際何の行為も触媒してくれない何かである。

行為が触媒されなければそれは(我々がそう定義するところの)知識ではない。文字や数字や記号がでたらめに並んでいる(ようにしか見えない)データにすぎない。そのような乱列(random sequence)を暗記せよと命じられたら、実際それを暗記することは、まあやってみればわかる、誰がどんな風にやっても非常に大変なことである。非常な精神的苦痛を無意味に無駄にたくさん味わわされて、得るところは何ひとつないのが最初からわかっている、文字通りの難行苦行である。かくして我々はたいてい誰でも学校の勉強が、学校を想起させる知識が、とにかく大ッ嫌いである(笑)。

後者のことはいいとして(笑)、前者について、そんなことは過去の自分を見下す理由には少しもならないことに注意すべきである。知識を獲得して行為の選択肢が増えたら、それを素直に喜べばいいだけで、わざわざ過去の記憶に向かってその姿を嘲笑したり軽蔑したり、はなはだしきは罵倒したりする必要は少しもないはずである。そんなことをして新たな知識が獲得できるわけでもなければ、既得の知識についてその真理保証が強化されるわけでもないことは、いずれも明らかである。

考えてみると、ある対象を嘲笑したり罵倒したりすることは、その対象が何らかの意味で脅威であると思われている場合に限られる。脅威でないなら罵倒することはいらないというか、わざわざ気にとめる必要もないし、通常気にとまらないものである。それが脅威であって、しかも直接にそれを払いのける手段がないか、あっても阻まれている、その場合に限って、我々はその対象を嘲笑したり軽蔑したり罵倒したり、つまり呪い(の言葉)を浴びせずにはおれなくなるのである。

それ自体が危害を加えてくるはずはない過去の自分の記憶がどうして脅威になるのであろうか。その過去が他人の知るところでもあったとすれば、その他人が脅威である(笑)ということにはなりえようが、自分しか知らない過去であっても脅威はやはり脅威であるように思われる。また他人が知っていて、他人から嘲笑される可能性があるという場合でも、過去の自分を嘲笑されることをどうして、嘲笑される理由をもたない現在の自分が脅威に感じなければならないのであろうか。事実たいてい感じるのであるが(笑)。

(つづく)

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「知識」についてのメモ(6) ── 無名の権威が自己組織する場合(完)

2014年04月04日 | チラシの裏
生命の化学的な起源に関する「RNA世界」説、あるいは類似の説の要にあるのは、酵素活性(触媒能)それ自体の分子進化ということである。

いくらか極端なかたちで敷衍して言えば、それはすなわち、どんな化学物質でも微弱ながら酵素活性(触媒能)をもっているのであり、現在普通に酵素と呼ばれているものは、分子進化によって洗練されてきた結果であるということを主張していることになる。

もともと「分子進化」というのは、分子種を生物種のように、分子数(濃度)を個体数のように見なした場合、ランダムな反応系は分子の生態系のように眺めることができる、つまり数理生態学の枠組みで系全体の振る舞い(各分子種の濃度の増減)の時間発展(進化)を論じることができる、という理論的な枠組みのことである。

生物種進化と分子進化が大きく異なるのは、ミクロに見た場合の個体数や濃度の増減の原因である。生物種進化の場合、個体は自己複製(進化的な時間尺度で見た場合、無性生殖か有性生殖かは、通常は本質的な違いではない)によって増え、捕食や寿命によって減るのであるが、分子進化の場合、分子は生成反応によって増え、他の反応で消費されることによって減るということである。ミクロに見ればまったく異なるが、マクロに、つまり系全体として見れば生物種ごとの個体数もしくは分子種ごとの濃度の変化であるという点で同じである。

それにしても「ランダムな反応系」が文字通りランダム(でたらめ)であるならば、個々の分子種の生成速度と消費速度は速やかに平衡へ向かうはずであるから、マクロな分子進化はあっという間に終わってしまう(微小な搖動が残るほかはまったく変化しなくなる)はずであるが、ここに「どんな化学物質でも微弱ながら酵素活性(触媒能)をもっている」という前提を入れると話はまったく違う様相を呈することになってくるのである。酵素活性(触媒能)とは特定の化学反応を促進する能力のことだから、どんなに微弱であっても個々の分子種が酵素活性をもつならば、分子種ごとの生成速度と消費速度は平衡せず、ある分子は次第に増え、別の分子は次第に減ることになるわけである。分子進化における自然選択とはこれである。そして化学反応系の場合、触媒能の担い手もまた分子であり、同じ自然選択の機構のもとに置かれるわけである。

詳細は省くが、以上の条件を適当にモデル化してランダムな反応系の振る舞いを計算機で模擬実験(シミュレーション)させてみると、複数の分子種が相互触媒系(ハイパーサイクル)の集団を形成し、より効率のよい(つまり生成速度が速く、消費速度が遅い)集団に属する分子の濃度が上昇して行くことがわかる。さらにモデルとしてより現実に近い条件(分子間の距離など)を与えると、酵素のような分子、つまり触媒能に関して強い基質特異性をもつ一方、自身は反応の前後で変化しないような分子も現れてくる。またそのような性質が個別の分子においてではなく、相互触媒系の集団(数理生態学の用語で言えば準種quasispecies)において獲得される場合もある。つまり触媒能はないが安定な分子と、そこから特異的に誘導される触媒能の高い分子の組、つまりDNAと酵素の組み合わせに準えられるような集団が現れることもある。

初期の分子生態系は単純で、あるのかないのかわからない程度の微弱な酵素活性しか持たない分子から始めても、その反応系の時間発展(進化)の帰結として、より複雑で、はっきりと高い酵素活性をもつ分子や、そのような分子を含む準種が自発的に生じてくる、つまり触媒能それ自体が自己組織することがありうる。それはこんな風に(現実と比べると相当に簡略化されたモデルを用いた)計算機実験の結果としてなら示すことができるのである。

あまり聞いたことのない話だと思う人は多いだろうが、それはそのはずで、以上はそもそもこれを書いているわたしが大学院で研究していたことの要約である(笑)。

上述の通り、計算機実験やその結果の解析に用いていたのは現実の化学反応系やその環境とは似ても似つかないくらい簡略化・抽象化されたモデルなのだが、ある意味ではだからこそ、以上の結果はそのまま「行為の触媒としての知識」の場合に、つまり「真理を保証する権威の自己組織化」の場合に移行させられる。

知識らしいものはほとんど何も持たなかった原始時代の共同社会の人達が、他の人や物の振る舞いの知覚から自らの行為に関して(微弱な)影響を受けるということがあったとすれば(この仮定はありえないというほど無体なものではないであろう)、この行為に関する微弱な相互触媒系は次第にはっきりとした触媒能を持つ振る舞いと、それに触媒される行為をふたつながらもたらすことになって行ったであろう。それはそのまま真理の保証である知識と、その保証を与える権威の自己組織化でもあったということである。

一方で人間の集団は個体としても集団としても生存競争に晒されている。上の枠組みから生じるのはある意味でランダムな知識や権威であるが、知識はそれがなければ行われえなかった行為を行うことを可能にするものである。つまり生じた知識と、そこから誘導される行為が個体や集団の生存にとって有為であるならば、というよりも有為である程度に沿って、人間の個体や集団はそれが保持する知識や権威とともに(知識や権威が生じてくる過程のそれとはまた別の)自然選択に晒されることになる。結果、人類全体としてはより複雑な行為を、個体や集団の生存に関してより有利な行為を創出することへとつながって行ったであろうと考えられる。

(つづく)

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「知識」についてのメモ(5) ── 無名の権威が自己組織する場合(2)

2014年04月03日 | チラシの裏
知識において、その真理を保証する権威が自発的に、無名の秩序として生じてくることは、いったいどのようにして可能であるのか。

前回の最後に「触媒」というキーワード(鍵語)だけを掲げておいた。メモ(2)で述べた通り知識は行為を触媒するものである。いま仮にこの触媒を実体あるもののように見なしたとすれば、「権威はどこからどうして生じるか」つまり権威の起源問題を解くことは、行為の触媒がどこからどうして生じるかの起源問題を解くことに替えることができよう。

(地球上の)生命の化学的(※)な起源についての研究・考察に詳しい人は、これだけ書けば(もっと察しのいい人は触媒というキーワードだけで)あとのシナリオ(筋書き)はだいたい想像できてしまうかもしれない。本職の研究者ならむしろできなくては困ると言いたいくらい、以下はその手の分野では「枯れた」シナリオである。

※この「化学的」は「生化学的」と書いた方がいいような気がするが、生命以前を含む話で「生化学的(biochemical)」というのも変であるし、さりとて「有機化学的(organochemical)」というのも、実は語源的には同じ(organicとはもともと「生物由来の」という意味である)である上に、わざわざ書くには長ったらしいので、ここでは単に「化学的」と書くことにする。

よく知られている通り(笑)、生命の化学的な本質は遺伝物質とそれが担う遺伝情報である。ひとくちで言えばDNA(鎖)である。したがって生命の化学的な起源を探究するとは、このDNAがいかにして生じたかの起源問題を解くことに等しいわけである。原始地球にDNA(デオキシリボ核酸)の分子が、ましてやDNA鎖が最初からあったとは考えられない。仮にそうだとすれば地球の外でもDNAの単分子の痕跡くらいは普通に見つかっていいはずだが、太陽系内はもちろん、現在観測可能な宇宙のどこを探しても見つからない、あったとしても非常に珍しい分子種だということは、どうやらたしかである。したがってそれは原始地球の置かれた物理的・化学的環境、その特異性に依存して生じたものである。そう考えるのが妥当である。

ところで現在の地球では、無数の生物のその細胞のひとつひとつの内側で、DNAは盛んに合成されたり分解されたりしている。DNAは化学物質なのだから、そういう化学反応が起きているということである。それはまた、まったくデタラメな化学反応ではなく、秩序だった化学反応の系列(series)である。この秩序を担い、また保っているのは、ひとつは細胞内の物理化学的環境とその安定性ということであるが、もうひとつは酵素(enzyme)と呼ばれる触媒能をもつ分子である。

酵素とは、という話を始めると生化学の教科書をまるまる一冊書くことになってしまう(笑)。だからこの話に必要な部分に限って端折って書けば、酵素は実際触媒であって(特定の化学反応を促し、それ自体は反応の前後で変化しない)、DNAの遺伝情報の翻訳から、かつ、それのみによって作り出されるタンパク質分子を基礎とする物質である。

生命の化学的な起源問題が難問であるのはここである。DNAはともかく、酵素が最初からあったのなら、DNAはそこから(最初はまったくランダムに、そこから長い時間の分子進化(自然選択)を経て安定的に)作り出されたのだと言うこともできるのだが、酵素はDNAがなければ作れないのである。タマゴが先か、ニワトリが先かということである。

この難問について、生化学の専門的な背景をもつ研究者の間から提唱されるようになったひとつの解は「RNA世界(RNA world)」と呼ばれる解である。最初にあったのはRNAであり、DNAと酵素はそこから生じたのだという考え方である。実際、RNAはそれ自体が遺伝情報の担い手でありうる(RNAしかもたないウィルス/ウィロイドは普通にたくさん見つかっている)し、そうでなくてもRNAから逆転写によってDNAが生じることは、実験的にも観察によっても示されている。一方でRNAの中には酵素活性を持つものが存在し(そもそもDNAの合成過程ではそのようなRNAがいくつかの反応を触媒している)、さらにRNAはそれ自体が有機高分子として(タンパク質ほどではないにせよ)安定した物理的構造を作り上げることができる。実際、細胞内小器官のいくつかはRNA分子を基材として出来上がっているし、そもそも分子の立体構造が安定していなければ、その分子が高い酵素活性を持つこともありえないわけである。結局、RNAさえあれば現在あるような生命とその化学過程はすべて分子進化の帰結として生じうる、という考え方である。

──もちろん、誰でもすぐに指摘できることは「じゃそのRNAはどっからきたのか」ということである。RNA世界を考えることで、DNAと酵素というまったく別の物質の起源をふたつながら考える必要はなくなるが、RNAそれ自体の起源は不明なままなのである。しかしここで念を押しておかなければならないのは、「そのくらいのことは最初っから提唱者にも判っている」のだということである。RNA世界というのは、生命の化学的な起源問題に関して「生化学の専門的な背景をもつ研究者」つまり科学者が科学的に立証できる、つまり実験・観察によって確かめられる限りにおいての、現在までに与えられた最良の答のひとつなのである。

くそっ、結構いろいろ端折って書いているつもりなのに1回では書ききれない(笑)

(つづく)

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