権力闘争というくらいだから「権力」を争うわけであるが、そもそもその「権力」というものには実体がないわけである。
実体はないけれどもコトバはあるし、だいたいどんなものかのイメージは誰でも持っている。人によっていくらか違いはあるとしても、そう読んだ(あるいは耳にした)「権力」という言葉の意味をまるっきり勘違いしない程度には、それはだいたいおんなじようなイメージであるはずである。
つまり権力というのはまず、人間の行為ないし行為を導く意図(と考えられるもの)に影響を及ぼす仮想的な外力である、と考えることができる。つまり外側から作用するものが何もなかったとすればしなかったであろう行為をするとか、逆にしたであろう行為をしなかったという場合、そうした結果の変容(修飾)は、主体つまり意図や行為の主が外側から何かの作用を受けて、それを原因として生じたことであるはずだ、という類推があるわけである。
実際、物理における「力」とはそうしたものである。物体は外から何も作用しなければ静止したままであるか、一般に慣性運動(等速度運動)し続けるわけである(静止というのは与えられた座標系に関する速度0の等速度運動のことである)。物体がそうでない運動(加速度運動)をしたという場合、そこには必ずその物体の外側から作用したものがあるのだと考える。枝にぶらさがっていたリンゴが落ちたという場合、それはリンゴが地球の重力の作用を受けてそうなったのである。それがニュートンの運動方程式F=maの含意である。同じことを人間の行為についてなぞらえて考えた場合、その外側からの作用(つまり外力)に相当するものを権力と呼ぶわけである。もちろん「行為する人間」という概念は物理の概念ではないから、それを動かす権力もまた物理における力と同じものではないという意味で、それはあくまで仮想的な力である。
物理のようにスッキリと運動方程式のような形で書けるものではないとしても、主体の外側から主体の意図や行為に影響を及ぼすものがあるということ自体は特に疑わしくないことである。
ただし普通に権力という場合は、その力のもとはまた別の主体である、という限定がつくのが普通である。つまり意図や行為の主である。ある主体の意図に発するとは考えられない作用、典型的に自然現象の結果として主体の意図や行為に変容(修飾)が生じたとしても、それは普通は権力の作用とは言わない。
そして国家権力という言葉があるくらいだから、この場合の主体は人間であるとは限らない。国家権力という場合の国家は、それ自体の意図と意図に導かれた行為をもつ主体のように考えられている。
細かく考え出すとキリのないところがあるわけだが、まずはこんなところにしておいて、人がその権力と呼ぶものを求めるのはなぜか、である。
実体はないけれどもコトバはあるし、だいたいどんなものかのイメージは誰でも持っている。人によっていくらか違いはあるとしても、そう読んだ(あるいは耳にした)「権力」という言葉の意味をまるっきり勘違いしない程度には、それはだいたいおんなじようなイメージであるはずである。
つまり権力というのはまず、人間の行為ないし行為を導く意図(と考えられるもの)に影響を及ぼす仮想的な外力である、と考えることができる。つまり外側から作用するものが何もなかったとすればしなかったであろう行為をするとか、逆にしたであろう行為をしなかったという場合、そうした結果の変容(修飾)は、主体つまり意図や行為の主が外側から何かの作用を受けて、それを原因として生じたことであるはずだ、という類推があるわけである。
実際、物理における「力」とはそうしたものである。物体は外から何も作用しなければ静止したままであるか、一般に慣性運動(等速度運動)し続けるわけである(静止というのは与えられた座標系に関する速度0の等速度運動のことである)。物体がそうでない運動(加速度運動)をしたという場合、そこには必ずその物体の外側から作用したものがあるのだと考える。枝にぶらさがっていたリンゴが落ちたという場合、それはリンゴが地球の重力の作用を受けてそうなったのである。それがニュートンの運動方程式F=maの含意である。同じことを人間の行為についてなぞらえて考えた場合、その外側からの作用(つまり外力)に相当するものを権力と呼ぶわけである。もちろん「行為する人間」という概念は物理の概念ではないから、それを動かす権力もまた物理における力と同じものではないという意味で、それはあくまで仮想的な力である。
物理のようにスッキリと運動方程式のような形で書けるものではないとしても、主体の外側から主体の意図や行為に影響を及ぼすものがあるということ自体は特に疑わしくないことである。
ただし普通に権力という場合は、その力のもとはまた別の主体である、という限定がつくのが普通である。つまり意図や行為の主である。ある主体の意図に発するとは考えられない作用、典型的に自然現象の結果として主体の意図や行為に変容(修飾)が生じたとしても、それは普通は権力の作用とは言わない。
そして国家権力という言葉があるくらいだから、この場合の主体は人間であるとは限らない。国家権力という場合の国家は、それ自体の意図と意図に導かれた行為をもつ主体のように考えられている。
細かく考え出すとキリのないところがあるわけだが、まずはこんなところにしておいて、人がその権力と呼ぶものを求めるのはなぜか、である。