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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

素人政治基礎論のメモ──権力(1)

2012年05月16日 | チラシの裏
権力闘争というくらいだから「権力」を争うわけであるが、そもそもその「権力」というものには実体がないわけである。

実体はないけれどもコトバはあるし、だいたいどんなものかのイメージは誰でも持っている。人によっていくらか違いはあるとしても、そう読んだ(あるいは耳にした)「権力」という言葉の意味をまるっきり勘違いしない程度には、それはだいたいおんなじようなイメージであるはずである。

つまり権力というのはまず、人間の行為ないし行為を導く意図(と考えられるもの)に影響を及ぼす仮想的な外力である、と考えることができる。つまり外側から作用するものが何もなかったとすればしなかったであろう行為をするとか、逆にしたであろう行為をしなかったという場合、そうした結果の変容(修飾)は、主体つまり意図や行為の主が外側から何かの作用を受けて、それを原因として生じたことであるはずだ、という類推があるわけである。

実際、物理における「力」とはそうしたものである。物体は外から何も作用しなければ静止したままであるか、一般に慣性運動(等速度運動)し続けるわけである(静止というのは与えられた座標系に関する速度0の等速度運動のことである)。物体がそうでない運動(加速度運動)をしたという場合、そこには必ずその物体の外側から作用したものがあるのだと考える。枝にぶらさがっていたリンゴが落ちたという場合、それはリンゴが地球の重力の作用を受けてそうなったのである。それがニュートンの運動方程式F=maの含意である。同じことを人間の行為についてなぞらえて考えた場合、その外側からの作用(つまり外力)に相当するものを権力と呼ぶわけである。もちろん「行為する人間」という概念は物理の概念ではないから、それを動かす権力もまた物理における力と同じものではないという意味で、それはあくまで仮想的な力である。

物理のようにスッキリと運動方程式のような形で書けるものではないとしても、主体の外側から主体の意図や行為に影響を及ぼすものがあるということ自体は特に疑わしくないことである。

ただし普通に権力という場合は、その力のもとはまた別の主体である、という限定がつくのが普通である。つまり意図や行為の主である。ある主体の意図に発するとは考えられない作用、典型的に自然現象の結果として主体の意図や行為に変容(修飾)が生じたとしても、それは普通は権力の作用とは言わない。

そして国家権力という言葉があるくらいだから、この場合の主体は人間であるとは限らない。国家権力という場合の国家は、それ自体の意図と意図に導かれた行為をもつ主体のように考えられている。

細かく考え出すとキリのないところがあるわけだが、まずはこんなところにしておいて、人がその権力と呼ぶものを求めるのはなぜか、である。

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試し書きシリーズ・制度の機能的本質

2012年05月16日 | チラシの裏
機能的に見た場合の制度とか(成文)法とかの本質はコンパクト化(compactization)ということにあると思える。多少の語弊はさておいて、もっとわかりやすい、ミもフタもない言葉で言い直すとしたら簡略化(simplification)ということである。法は政治的調整過程の簡略化、制度は(特に限定しなければ)あらゆる社会的実現の方法的な簡略化である。

どういうことかと言えば、我々はたとえば喉が渇いたときは水道水を飲むか、あるいはコンビニや自販機で飲み物を買って飲むか、はたまたコーヒー・ショップのような店に行って注文して飲むか、だいたいそんなような選択肢の中から選択して喉を潤すわけである。いずれにせよ簡単なことであるが、それがこれだけ簡単で、しかも確実であるということは、制度によって実現されていることである。何もなかったとすれば実際には大変な手続きを要する──まず、コーヒー豆の栽培に適した気候と土壌の調査からはじまって──ことが、せいぜい数個の選択肢のどれかを選ぶ程度のことにまで簡略化されているわけである。

それが簡略化であるということは、その代償の方から見た方がより明確になるかもしれない。

代償のひとつは「裏腹」ないし「生憎」ということである。制度は簡略化された選択肢を提示するので、本来望んでいたことがその選択肢のうちになかったとしたら、その目標を達成することは制度がなかった場合よりもっと大変なことになってしまうかもしれない。つまり可逆データ圧縮のアルゴリズムとおんなじ話で、ある方法のクラスを制度化することは、実のところ大変さの順序を入れ替えているだけで、クラス全体の平均的な手間暇は実はまったく変わらない、だから制度化によってうんと簡単になるものがある一方で、かえって手間暇がかかるようになってしまったはずのものが必ず存在するということである。もちろん、後者は現実にはまず求められないようなことに振り向けられるわけで、それをうまくやるかどうかが制度のよしあしだということになる。

代償のもうひとつは「隠蔽」ということである。自販機で缶コーヒーを買って飲んでいるというとき、我々はそれが実際にはどれほど多くの複雑な手順を踏んで実現されていることかについて、ほとんどまったく意識しない。第一ほとんど知らない。そして多くの場合、知ろうとしてもほとんど知ることができないわけである。それはひどい話でもありうるが、そうでないという面もある。それが隠蔽されているからこそ、我々は一連の複雑な手順について意識する理由すら持たないわけで、缶コーヒーを飲むのにわざわざアフリカだか中南米だかのコーヒー農園でドレイ的な搾取労働を強いられているんだ!かもしれない農業労働者のことを(直接的に)気にかけなくてはならない謂れもなければ、何かの不備で缶コーヒーに異物が混入していたとして、その責任を(直接的に)負わなければならない謂れもないわけである。

簡略化と言わずに比喩的な表現を用いるとすれば、制度の機能的な本質は生化学における酵素のそれに準えられる(ちなみに法はDNAのそれに準えられる)ように思える。当の生化学者は酵素を微小精密機械のように語るのが好きな人が多い──酵素の構造にしろ動作にしろ、ほとんど他の何にも例え難いほどの驚嘆すべき精妙さでできていて、生化学の歴史がその解明にどれだけ苦心してきたことかを知っているからである──のだが、そもそも生命がなぜ単に脂質膜で覆われた有機物のランダムなスープの反応系ではなく、構造といい動作といいほとんど完璧にガチガチに組み上げられた超巨大化学工場のごときものとして進化してきたのか、それは精妙な酵素が最初からあったわけではなく(実際、あったとは思われない)、コンパクト化の機能的な本質がそうあることを要請した(そのことに進化的な有利の本質が存在した)からではなかろうか。

そのコンパクト化とは何のことなのか、いや、どうして単に簡略化ではなくコンパクト化なのかと言えば、フレーム問題のことを考えてみればいいわけである。機械知能がフレーム問題を解くことができない、その理由は(フレーム問題はいくつかの段階があるのだが、そのどの段階にせよ)選択肢が無限に存在して常に適切な区分を与えることができないということにあるわけである。コンパクト化という操作はその無限の選択肢の集合を有限個の選択肢に「まとめてしまう」ことが「いつでも」できるようにすることにほかならない。それを「どうやって」達成したのかは、もちろんまだ謎なのだが(笑)、生命と社会の組織的進化に共通する特徴をひとつ括り出してみろと言われたら、現在のところでは、それは言語的な分節化ないし階層性ということに帰着するのではないかと言うことになるし、その本質を単に機能的な観点から言うとしたら、それはコンパクト化ということに帰着するとわたしには思われる。

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キトッケンの問題

2012年05月15日 | チラシの裏
このキトッケンというのはもちろん既得権益のことである。わざとカタカナで書くのは皮肉のためで、その皮肉こそが本質だと言いたいくらい重要だからである。

その皮肉というのはどういう皮肉かといえば、世上の建前によればキトッケンというのは、それが行使される限り悪だということに決まっているわけである。そしてもちろん、誰もそうとは語りたがらない真実においては、日常誰もが大なり小なりそのキトッケンのたぐいを行使しながら生きているわけである。通常これはお役所とかお役人とかがそれにしがみつく場合について言うわけだが、一般的に言えば現実的な権利の現実的な行使はたいてい何らかの意味でキトッケンの行使である。わかりやすく言えばそれを行使することの少なくとも一部はズルだということである。

生きる上で、もし明るみに出して追求されたらズルだと言われるに決まっていることを何もしていない人は、たぶんいない、とわたしは思っている。大人だけではない、コドモでさえ親の愛情というキトッケンにしがみつかなければ、たいていはまともに生きてもいけないのである。

それは当然の権利であってズルではない、と言う人はいるかもしれないが、その親の愛情に恵まれないコドモもいるわけである。むろん、そういうコドモに対して、さすがに今の世の中はまったく知らぬ顔をするということはしない。だが誰もズルはしていないなどと言い切れる人は、よほど愚かでない限りいないはずである。誰もが大なり小なりズルはしているのである。

「キトッケンに固執する」という。なぜキトッケンに固執するということがあるのかと言えば、一般的に言ってキトッケンというものは、本質的にどこからも誰からも庇護されてはいない種類の権利権益だからである。自分で護らない限り誰も護ってくれないから、その所有者は文字通りしがみついて護ろうとするわけである。偉い人が護ってくれるのだったら(そうと確信していれば)しがみつく必要はないのである。しがみつくと言って、具体的にはその権利権益の行使はもとより、その存在そのものも極力隠蔽してしまうことである。しばしば埋蔵金などと言われる。行使するとき以外は人目につかないところに隠し込んで密封して、できれば自分以外の誰にも開けられない鍵までかけて、なんならその上に最新技術を駆使して光学的迷彩をすら施し、本体はもとより鍵穴の存在まで一切合財を不可視にしてしまうことである。

それができれば一番確実でいいのは、自分のアタマの中に隠してしまうことである。これはわたしのような技術者がよくやる(笑)ことである。その人物がいない限りモノを作ることも修理することもできないとなると、そのモノで商売している企業はその技術者を粗末な待遇で扱うことはできなくなる。それどころか、増長しようと思えばいくらでも増長することができる。まあ、あまり増長すると人の恨みを買うから(笑)現実にはほどほどにしておかなければならないことである。でも誰もが少しずつはやっている。いまどき企業なんていうのは人のクビを切って儲けているので、その脅威から我が身を護る必要はあるわけである。

その手の「ズル」を、仮に一切合財剥ぎ取ってしまったとしたら、たぶん大人で相当の実力ある人であっても、ほとんどまともに立って歩くこともできないくらいのことになってしまうだろうとわたしには思える。誰もが日々を無から稼ぎ出しているわけではないし、そんなことはほとんどできない。おおかたの収入はズルが支えているのである。

世の中の、現実的な秩序はだから、相当程度この手の「ズル」の均衡によってかろうじて保たれているところがあると言っていいわけである。AもBもズルしていて、ただその度合いに大差がないと思われる限り、AもBも相手のズルのことは、気がついたとしても黙っているものである。

その「ズル」が勘定に入って来ない、あるいは枠組みの本質として入れることができないような、社会についてのどんな議論も、特に理論モデルの議論はただの書生論にすぎないということになる。実際、普通に眺めていると、「誰ひとりズルしてないモデル」ばかりではないだろうか。

確かに、一般的に言ってズルは理論化しにくいというか、それ自体を直接理論化することはできない何かだと言っていい。対局の途中で「あ、ブタが空を飛んでる!」と言って相手の気を逸らし、こっそり飛車をひとコマ動かす裏芸まで含めたら、将棋の戦術理論など作れるはずもないわけである。けれどもそんなズルやインチキが一切ないものと想定して作った理論は、将棋(シミュレーション・ウォーゲーム)の戦術理論にはなるかもしれないが、現実の理論として有意味であろうか。わたしには信じがたい気がする。

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素人政治基礎論のメモ──権力闘争(2)

2012年05月15日 | チラシの裏
勝ち負けということがあるのは、あるいは勝ち負けのあるゲームということが現実としてあるのは、人間の世界においてだけである。無生物や植物の世界には勝ちも負けもない。動物には一見するとありそうだが実はない。動物AがBに取って食われたとして、AはBに負けたわけではないし、BはAに勝ったわけではない。それを勝ち負けと見るのは人間がそう見るだけである。人間は動物の姿や振る舞いを──時として植物や無生物のそれに対してさえも──大なり小なり人間のそれになぞらえて見ようとする強い傾向を持っているからである。

つまり勝ち負けということは人間が作り出したものである。あるいは人間が作り出した他の何かから必然的に帰結するものである。



権力闘争の本質は勝ち負けのあるゲームだとは言っても、勝ち負けのあるゲームなら何でも権力闘争になるのかと言えば、もちろんそんなことはないわけである。むかし、ヤクザの抗争を野球で決着させようというシナリオの「ダイナマイトどんどん」という変な映画があったものだが、ああいうのはまさしく映画ならではのフィクションである。実際にそんなことがあるわけもない。

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現実はどうかというと、ヤクザの人も野球が好きな人は多いらしくて、組どうしに分かれて試合をやったりもするらしい。しかし当然のことながら、抗争の決着をそれでつけようなどということになったりはしない、という話を何かの本で読んだことがある。また国会議員の野球チームというのもあって、試合では自民党と共産党がアストロ球団並みの死闘を繰り広げたりするかというと、そういうことは全然なくて、むしろ国会の議場でもまず見られないくらいの和気に満ちているのだそうである。

変な余談ばかり書いているようだが、これらのことを考えても、勝ち負けのあるゲームというだけでは権力闘争というものの特徴を十分に掴んだことにはならない、まだ何かが足りない、ということが言いたいわけである。サッカーの国際試合がもとで戦争になったという例が稀にはあるが、本当に稀にしかないことである。



奇妙だと言えば奇妙な話なのである。いくらデモクラシーが建前だけの嘘だと言っても、制度としてあるものが何から何まで嘘だというわけではない。総理大臣になったからと言って何かものすごい特権が裏口から供与されるわけではない。総理大臣は自衛隊の最高指揮官だからと言ったって、自衛隊を文字通り「好き勝手に」動かすことができるわけでは決してない。また普通のサラリーマンとかに比べれば、総理大臣の年間報酬はずっと多い、とは言ったって、いまどきそこらの大企業の重役が霞んで見えるほどたくさん頂戴できるわけでもないし、裏金として頂戴しているというわけでもないのである(あったところで、それが度外れた額ならたちまちバレてしまう)。そうすると現代の日本のような社会において、政治家たちが自分のかかわる地域や業界の利害調整に勤しむ一方で、確かに権力闘争もやっている(ように思える)というのは、彼らはいったい、根本的には何を動機としてやっていると見るべきなのだろうか?

そんなもん、直接会って訊いてみりゃわかるだろう、というわけにはいかないわけである。そこにこそ勝負がかかっているというときに、政治家がほんとのことを言うわけがないからである。また何も言わずに黙っているならともかくも、利いた風な嘘八百を延々並べ立てるに決まっているわけである。

だから現代政治学というのは本来、政治家どもが自らは絶対に語るはずがない動機を、論理的にか実証的にか解明してみせてくれるものでないと困るわけなのだが、まあ少なくともわたしは、そのようなことが書いてある、また確かにそうだろうと納得できるように書かれている本にも講義にも一切お目にかかったことはないのである。

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素人政治基礎論のメモ

2012年05月14日 | チラシの裏
これまでにも何度か書こうとしては、その都度書きあぐねたまま放擲していたテーマを、また少しだけ蒸し返してみる。

政治とは何かと問うた場合に誰でもすぐに思いつくことがいくつかあって、ひとつはいつも言ってる通り、経済取引のような相互的な交渉が通用しない種類の利害の競合を(競合する利害それ自体にとって)超越的な次元から調整することであるが、もうひとつの大きな柱はその調整を行う(行おうとする)者どうしの「権力闘争」ということである。この権力闘争というのはどうも現実の政治には不可欠なものであって、しかも「利害の調整」ということからはどう逆さに振ったって直接には導き出されない、まったく独立にある、政治という現象に見られる最も顕著な特徴のふたつのうちのひとつなのである。

そしてそれくらい顕著なものである割には、権力闘争とは何か、なぜそれが政治において不可欠なもののように存在するのかということを自問してみても、なかなかそれらしい答には思い当たらないわけである。権力闘争それ自体を論じた本がないだろうかと探してみても(実際、数ヶ月にいっぺんくらいの割で探している)、これが実にびっくりするくらい一冊も見当たらない。いつ探してもびっくりする。

仕方がないので例によって自分で勝手に考えているわけだが、

今日になってひとつ思いついたことは、権力闘争というのは必ずチェスやポーカーのような、本質的に不完全情報のゲームだということである。つまり自分の最終的な目標なり指し手の意図なりを隠蔽するということが本質として含まれているようなゲームである。

なぜ隠蔽するかというと、隠蔽した方が、また隠蔽がうまく行けば行くほど、相手が合理的に勝つチャンスは確実に減るし、そのぶんだけこちらが勝つチャンスが増えるからである。つまり本質的に勝ち負けということが存在する、というより、そのためにやるゲームだということである。

つまり、それは政治ということのもうひとつの柱である「利害の調整」とはまったく違う、というか、ほとんど正反対と言っていい特徴なわけである。政治的な利害調整には本来勝ち負けということはない。あるように見えてもそれは偶然である。というかほとんどの場合、利害調整の結果に勝ち負けを認めることができるということは、それはとりもなおさず調整の失敗であるか、そうでなければ調整が終わっていないということである。

もう少し違う言い方をすれば、権力闘争のゲームは本質的に排他的な何かの獲得競争である。

利害調整はその反対で、排他的な設定を除去するような拡大された設定の採用もしくは創出ということが本質である。最後に1個だけ残った饅頭のように、どうやっても排他的であるしかないような設定はあるわけだが、たとえば「次回は譲る。同じようなことが起きるたびにかわりばんこだ」という取り決めをすることで、設定を非排他的に拡大することができるわけである。あるいは経済取引のように、最後の饅頭を取る側が取りはぐれる側にしかるべき金額を払って、効用を均衡させて解決するというやり方もあるわけである。

権力闘争もそうであればいいのに、ではなくて、おそらく権力闘争とは利害調整や経済取引のようなやり方が(ほとんど)許されない本質を持っているということである。

典型的な場合については割とわかりやすい答がある。ある種の利害調整は「人民の名において」なされるものだとすると、その「人民の名」は絶対にひとつしかないわけである。ふたつもみっつもあるということは決してないし、もしもあったらそれは直ちに共同体の分裂もしくは解体ということを意味してしまうわけである。

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「新・資本論」のための覚書(2)

2012年05月11日 | チラシの裏
覚書と言って書いているが、実際のところわたし自身がその「新・資本論」なるものを書くかどうかは定かではない。どっちかというと、なんでオレがそんなもの書かなきゃなんないんだ、誰か書いてくれ(笑)と、怠け病らしく思っているくらいのことである。

ただこういう観点で書かれたものは読んだことがないなあ、という気がするから、思いつくままアトランダムに書いているだけである。

「資本論」と言ったって、それをそう呼ぶのは単に「資本」を論じた本だから資本論だというだけである。ただ、そもそもマルクスのそれにしたって、マルクスが本来考えていたのは19世紀の世界経済の現実に即したところのそれだったのではないかと思うわけである。言いかえればマルクスは別に「資本家論」を書いたのでもなければ「資本主義論」を書いたのでもない、「資本主義を打倒すべきの論」を書いたのではもっとない、いや、結局は書いてしまったのかもしれないが(笑)それは本筋のことでは実はなくて、本当に文字通り「資本論」を書きたくて書いたのではなかっただろうか。

わたしの念頭にあるところでは「資本」は別に打倒すべきものでも何でもない、ある意味ではただの機械である。ただの機械だが、この機械には、うまくかみ合いさえすれば人々を大規模に豊かにしたり、表面的には全部ウソであっても、実質において人々が願うような「自由」「平等」「寛容」といったデモクラシーの根本原則みたいなものをいくばくか増進させることもできる、それどころかある意味ではその唯一の真の手段だと言ってもいいくらいの機能と力を備えている、そういう機械であるわけである。

書かれるべき新たな「資本論」は、だから、その機械をもうちょっと上手に扱う方法はないのかについての論だということになる。鉄人28号みたいなものである。よいも悪いもリモコン次第であって、我々はいまだその操縦に習熟していないのである。というか、どれがレバーでどれがスイッチなのだかもちゃんと見分けがついていない状態なのである。

そもそもそのような「資本」という機械はどこから生じてきたのかと言えば、天然自然の暴威を克服したいという人類共通の願いというか欲望というか(笑)、あるいは以前からわたしが使っている言い方で言えば「素朴な正義」の歴史的な洗練の結果として生じてきたわけである。だからこそ、「資本」について誰でもすぐに指摘できる第一義の特徴は「際限ない自己拡大の傾向」ということに見出されるのである。投資はとにかくプラスのリターンを生み出すものでなければならないのである。

人間は個々人としての能力だけでは、身体的能力だろうと精神的の能力だろうと、別にそんなにたいしたことができるわけではない。それが現実には1日のうちに地球の裏側までも、いや映像だけでよければ一瞬のうちに移動したり、移動した先の状態に自分の意図を反映させることさえもできるようになっているというのは、そのための「道具」を使うことができるからである。そのような道具を作り出す、特にそれを誰でも使えるという意味で普遍的に作り出すことのできる、その実質的な力の本源は「資本」にあるわけである。真夜中に小腹がすいたら近所のコンビニで何か食い物を買ってきて食べることができる、つまり腹を満たす「道具」としてのコンビニエンス・ストアやそれに連なる流通とか生産とか技術といったものを作り出しているのは間違いなく「資本」である。

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「新・資本論」のための覚書(1)

2012年05月11日 | チラシの裏
なんだいきなり、と思われるだろうが、わたし自身が今日突然思いついて驚いている。

別にそう面妖なことを考えているわけでもない。きっかけは数日前にtwitterで呟いていた、こんな話だ。

確証も何もないと断った上で言うが、数日前に思ったことは、デモクラシーというのは市場経済と利害が一致するうちだけは結構そうに見えるだけの、ひょっとして本当に中身も何もない幻想なのかもしれないということだった
(celsius220) May 9,2012

要するに日本が現在ある程度までには豊かな国になったということも、そこにデモクラシーらしきものが、ひどくウソくさい程度のものであるとは言っても何か存在するようには見えるというのも、もとをただせば「投資」の結果なのではないか、そしてこのさき日本が成長し続けることができないというか、あっという間に失速してふたたび世界の最貧国にまで転落して行く、そればかりではなく、今あるように見えるデモクラシーもたちまち消失してしまいそうな予感があることの、予感が本当になるとしてその根拠らしいことがあるとすれば、その「投資」をする意味がもはやないように思われるからということではないのか。

つまりその「投資」の主に相当する仮設的な「資本」という存在を考えた場合、というか考えることができたとしてだが、

つまり高度成長期のような時代には、給料をたくさん払えば払っただけのことが市場経済の側にあるので、給料は年々歳々増えるということがあったわけだが、それが次第に飽和してくると、その社会は市場経済にとって「魅力のない」ものになってしまうのではないか
(同)

この呟きの中で「市場経済」と言っているものがいまそう呼ぼうとしている「資本」のことだ。「資本」にとっては投資効率ということがすべてで、高度成長期の日本はそれが世界の中でも抜きん出て高かった上に、日本も含めて世界中で「どうやら大衆は豊かになってもらった方が、また社会体制は大雑把にデモクラシーと呼べるものであった方が、結局は投資リスクは小さくなるし、リターンも大きくなるらしい」という認識が広まった結果、多くの先進国では実際に人々は(それ以前の時代と比べればはるかに)豊かになり、(それ以前の時代と比べればはるかに)本当らしいデモクラシー体制が出現することになったのではあるまいか。

けれども今やその「資本」にとって最も効率の高い「投資」先は、ひょっとすると先進国ではなくなっている。先進国の人々を今ある以上に豊かにしても、あるいは今ある以上にデモクラシーを本当らしく見せかけても、かけた金ほどにはリターンが見込めなくなってきているのではないか。そこに金をかけるよりは今ようやくそれなりの経済規模をもつようになった新興国に「投資」した方がよくはないかというように、「資本」の判断の大勢が傾きつつあるのではないか。

もちろん何度も言うがこの「資本」はいかなる実体にも直接には結びつけられない、あくまで仮設的な存在にすぎない。けれども現実の世界経済からそのような「投資」の主体、投資効率最大化の原理にのみ沿って「機械的に運動」する「資本」に対応する閉部分空間を括り出すことは、ひょっとしたら可能ではないのか。もし可能だとしたらそれを括り出した上でその閉部分空間とその特徴──運動方程式のごとき原理──を調べ上げることから、我々はその「投資」対象としてやられっ放しでいるところの現在から脱出する方途が見出せる、少なくともその可能性くらいは見ることができるのではないだろうか。

・・・と、そんなことをつらつら考えているうちに、なんだ、これは文字通り「資本論」じゃないかということに思い当たったわけである。

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中沢新一「追悼・吉本隆明/『自然史過程』について」の謎(2)

2012年04月21日 | チラシの裏
(1)は書いておかなくてはならないことであった、とは言え題名通りの話にならなかった。改めて仕切り直して、そもそも中沢新一がどうして吉本の「反・反(脱)原発」論をその追悼文の中で否定してまでも自分の「反(脱)原発」の主張にこだわるのか、件の追悼文から伺える限りのところで見てみることにする。さんざん読み返してみて「おそらくはこれだ」とわたしが思ったのは以下の箇所である。

まず「自然」ということばに、二つの意味が発生していることに気がつく必要がある。一つの意味では自然は地球生態圏そのものをしめしている。(中略)これに対して第二の意味での自然は、現生人類の脳内に生起する現象で・・・
(中沢新一「『自然史過程』について」「新潮」5月号,2012)

中沢新一のアタマの中では地球の外というものは、それどころかその生態圏(生物圏)の外のものは自然として存在しないのだろうか。そうだとしたらただのトンデモ学者ではないか。だいたい誰でもそう思うに違いないのだが、実はそうじゃないのである。何でもなさそうに書かれているが、ここに書かれていることは中沢のアタマの中にあるのは「物理」と「精神」の二元論ではなく、大雑把に言えば「生命」と「死(反生命)」の二元論なのだということをはっきりと示しているわけである。あるいは生命と死は単に反対概念であるとすれば、枠組みとしては「生命」一元論であると言ってもいいはずである。

つまり中沢の思想的核心は、物理過程から生命が生じた、つまり生命が物理に依存しているのではなく、その逆だと考えるところにあるのである。普通に物理と呼ばれるものは真の自然過程=生命的過程とでも呼ぶべきものから生命を消去することによって、機械論的ないし(統計性を込みにした広い意味での)決定論的な特徴をもつように単純化された形で再構成された理論モデルにすぎないのだ、ということである。

いまどういうことになっているのかわたしは知らないのだが、数理物理学にはR・ペンローズが提唱していた「ツイスター理論」というのがある。これは「実はこの宇宙に電子はひとつしか存在しない」という仮定から宇宙の全時空をねじって裏返し、その(途方もなくねじくれまくった)描像のもとで、いまだ果たされない量子論と相対論の理論接続を果たす、という途方もない(実際、わたしなどにはその理論的詳細はまったく理解できそうもない)理論であったわけである。これに準えて言えば、中沢の考えは電子のかわりに「地球生態圏」ないしはその生成的な核心としてある(というか、形而上学的に仮定される)〈生命〉をおいた別様のツイスター理論だと思えばいいということになる。「実はこの自然に〈生命〉はひとつしか存在しない」という仮定から「自然史過程」の全体をねじって裏返し、その描像のもとでいまだ果たされない(最も広い意味での)心身問題を解決する──という、これはこれで途方もない理論(にはまだなっていないだろうと思うのだが、少なくともその可能性を示唆しはする提起)であるわけなのである。

素人哲学として言うと、この途方もない考えは、少なくともその核心においては、直ちに退けられていいものではない。

修士(理学)しか持たないが科学者として言えば、科学としてはこの考えを肯定も否定もできないし、またする必要もないわけである。科学者は単に実験観察のすべてと無理なく整合し、実用上十分な予言もできるような高精度の理論を(できるだけ手間暇かけずに理解・応用できる形で)作り出そうとしているわけである。もちろん、ニュートンから数えてもすでに何百年にわたって全体的な整合性を維持し、さらにちょっとずつ継ぎ足しながら、実際にそういう体系的で高精度な理論を作り出してきたのだという(分野としての)自負はあるわけで、既存の体系からみて明らかに整合しないことを、十分な実験観察の裏付けもなしに言い出されたら、それを「トンデモ」と呼んで拒否するということはするわけだが、そうでない限りは「はあ、そうですか」としか言いようがないところはあるわけである。

さてそれで、この中沢式「〈生命〉のツイスター模型」から見た場合、吉本の考えは、特にその「反・反原発」の主張はそんなにも間違ったものなのかということが問われるわけである。むろん、わたしの考えではそうは思えないということになる。おそらく中沢新一は吉本がつまらない「科学主義」的原則に徹しようとするあまり「反・反原発」という誤った結論を導き出してしまったのだと思い込んでいる。(1)で指摘したように吉本の「反・反核」ということでさえ正確に読んではいないことからして、つべこべ言ってもろくに読んじゃいない、いくらか聞きかじった程度のところで評価しているのである。そんなだからいつまで経っても、たかが素人哲学からもイタズラ坊主扱いされるのだ、と、今頃は「正定聚の位」あたりにはいるのであろうか、吉本は笑っているに違いないことである。

・・・昼からずっとこんなこと考え込んだり書いたりしていて、正直だんだんくたびれてきたので、ビールでも飲んでからまた続きを書くことにする。まあわたしが「ビールを飲む」ということはそのまま居眠りするかもしれないということで、(3)は明日になるかもしれないということである(笑)。

(つづく)

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中沢新一「追悼・吉本隆明/『自然史過程』について」の謎(1)

2012年04月21日 | チラシの裏
そもそも中沢新一はどうして「反(脱)原発」などに肩入れするのだろうか。ただの心情としてならまだしも、中沢は宗教学者である。また思想家である。吉本のように「偉大な」思想家だとは思わないし、しばしば単なるチベット仕込みのイタズラ坊主と区別がつかなくなることはあるにしても、思想家としての顔を持つ人物には違いないとわたしは思っているわけである。

だが去年の震災以来中沢新一が言いだした「反(脱)原発」の主張はどう眺めても、ただの心情ではなく宗教学者や思想家としての顔を出して言っているのは間違いないと思う。その宗教学の知識や思想のどこに「反(脱)原発」などに肩入れする必然性が存在するのだろうか。しかも「一人の偉大な思想家」と呼ぶほどに敬意をもっていたであろう吉本の死に臨んで書いた追悼文(「新潮」5月号)の中でさえそれを露わにしないではいられなかったのだろうか。要は「お悔やみ申し上げます」という意味のことを、心情の真実さに応じて4ページでも40億ページにでも膨らまして書けばよかっただけの話ではないのだろうか。これがそもそもわたしの疑問なわけである。

まず中沢は吉本の「反・反原発」論を正確に読めていない、ということは指摘しておくべきだろう。なにしろ中沢は追悼文の中で吉本の「反・反核」論と繰り返し言っているわけである。これは、もし中沢がわざとやっているのなら、亡き吉本になり変わってでも殴り飛ばしてやりたい、わざとでなくても悪質なデマゴギーだとは言わなければならない、知的誠実をまったく欠いた表現である。確かに吉本はいわゆる「反核」運動つまり反「核兵器」の運動に対して、その多くが「アメリカの核兵器は口を極めて非難するくせにソ連や中国の核兵器に対しては口を濁す」、要するに単なる党派イデオロギーの運動に過ぎないことを示しつつ、それに対する異論・反論を展開した。その意味で「反・反核」であったことは確かである。けれどもこれ自体は原子力発電とは何の関係もないのである。吉本が「反・反原発」を主張する根拠はこういうことだ。

おれは反原発ということ自体に反対なんだ。もっといえば第一に反原発などと、簡単に、つまり人類の文明の歴史にたいして一個の見識もないくせに、やすやすとほざくことに反対だ。第二に、反原発を反核やエコロチズムに融着させることに反対だ。第三に経済的にたいした利益にならないから無意味だという論議の立て方に反対だ。第四に原発が安全でないという論議は科学技術的にまったくの嘘と誇張だから反対だ。すくなくとも現存する科学技術と実際化したどの装置や動力構築物(たとえば航空機、列車、乗用車、レース・カー)よりも原発は安全だ。だから安全性がないという煽動に反対だ。第五に安全性に不安があれば新しい試み、新しい構築、新しい未知の課題にとりつこうとしないという考え方に反対だ。そして安全でないなどというケチを社会運動にしようという心情と理念の退嬰性に反対だ。
(吉本隆明「情況への発言」試行 vol.68,1989)

一言で言えば「反(脱)原発」なるものは反文明(反人間=猿)の主張だとしか思えないから反対だということである。上述のような「反・反核」の根拠とは何の関係もないことは明らかだろう。そもそも「反原発を反核やエコロチズムに融着させることに反対だ」ということまでわざわざ言っているわけである。

吉本の「反・反原発」が「反・反核」とはまったく違う根拠に基づいて主張されているということは別にふたつのことからも言うことができる。まず、吉本は「原発推進」は主張していないわけである。少なくとも積極的には主張していない。「ことさらに反対する理由がない」というだけである。「おれが反原発にシンパッシイを示せるのは、原子力公団や政府と地域住民の経済社会的な利害が(安全性がでない)対立したとき住民の利益を第一義とすべきだという点においてだけだ」(同上)とはっきり言っている。つまり、震災(に伴って起きた福島第一原子力発電所の事故)前だろうと後だろうと、「原子力公団や政府と地域住民の経済社会的な利害対立」が第一義であるような状況が生じていたら、吉本は必ず「地域住民の経済社会的な利害」の側に立つことを表明していたはずだということである。そして現実にそれが表明されなかったのはもちろん、「原子力公団や政府と地域住民の経済社会的な利害対立」という状況は、第一義もへちまもない、まったく生じていなかった(今も生じていない)からである。だいたいどんな「原発推進」の主張を考えたって「地域住民の経済社会的な利害」を(「場合によって」であれ)蔑ろにしていいという主張も立場も成り立つはずがない。それこそ「当たり前」のことではないか。

もうひとつ、吉本は党派イデオロギー抜きの意味でなら「反核(兵器)」ということに少しも反対でなかったし、それどころかどんな「反核」理念よりも明確な根拠のある「反核(兵器)」の主張を持っていた、ということである。なぜ核兵器が否定されるべきなのかと言えば、吉本によれば「核兵器(あるいは一般に大量破壊兵器)の開発や所持ということは『国家が戦争の選択肢を持つ』ことが前提にない限り正当化され得ない」からにほかならない。国家がなくても個人が刀剣・銃器類を護身用の装備として所持することはありえようし、それは少しも否定されるべきことではない、けれども核兵器は「国家」と「国家の戦争」が(単に可能な選択肢としてであれ)前提されない限り正当化される根拠がないという意味でありえないというわけである。吉本は国家の交戦権を「認めない」とするわが憲法第九条の理念を、単にわが日本国の憲法であるという以上に普遍的な理念として支持していた。その意味で「反核(兵器)」を主張していたのである。

たったひとつのことを言うのに長くなったのでいったん区切る。

(つづく)

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吉本隆明の「とにかく十年やれ」について

2012年04月07日 | チラシの裏
亡くなった吉本隆明は「とにかく十年やれ」というのが口癖だった。「それでモノにならなかったら、この素っ首くれてやるよ」と言い切るほどであった。吉本の読者なら誰でも知っている有名な口癖だ。

実際これは、かなりな程度まで本当のことだと思う。表立って言われることはめったにないことだが、多くの大人の実感にかなうことでもある、という気がするからだ。この「多くの大人」というのはもちろん「吉本の名前すら知らない、第一、亡くなるまでその名前を耳にしたことがなかった、というような多くの人々」という意味だ。

とはいえ「素っ首くれてやる」と言い切るほどの自信を持って言える人もまずいないだろう、と思う。わたしにだってそんな自信はない。だって、人によっては、10年を超えてあと3日くらいかかるかもしれないじゃないか(笑)。吉本の言い切りにはつまり、もしそんなコドモじみた屁理屈こねてノコノコ素っ首さらいに現れるやつがいたら遠慮なく返り討ちにして、吉本家の菜っ切り包丁のサビにしてくれよう・・・かもしれないぜ?(笑)という「元個人」の脅しが少しばかり入っているような気がする。

さてこの、吉本隆明十八番のひとつにつけ加えてわたしなどが言うことは何もないというか、どう考えても僭越にすぎるので弱ってしまうわけだが、それでもなお恐れながらひとつだけつけ加えさしてもらうと、当たり前の話だが「とにかく十年やれ」なのだから、「とにかく十年やれそうな」ことをやらなければならない、ということをつけ加えてみたい気がする。つまり、吉本が「素っ首やるよ」とまで豪語したことの裏には、本当にきっちり十年やれる人は実に少ないのだという認識もあったのではなかろうか──と、そう思うこと自体が恐れ多いから言いにくいわけである。でも言う。

「とにかく十年やれ」と言って、本当にきっちり十年やれるということは、適性とか才能とかいうほどのものではないにしても、本人の中に何かうまくかみ合うものがあったからやれるということなのではないだろうか。

わかりやすい例を作って言ってみれば「とにかく吉野家の牛丼を十年間毎日食い続けてみろ」である。それ十年やったら一丁前の「吉野家ユーザ」になれるだろう、つまり吉野家の偉い人でも一目置くような人になれるであろう、と。実際、冗談抜きでなれるだろうと思うわけである。でも、そんなこと実際にやろうとしてやる人はとても少ないに違いない(笑)。やり遂げる人はさらに少ないだろう(笑)。

そういうことである。やろうとしてやり遂げられるのは、それはやっぱり、どっか吉野家の牛丼と相性がよかった人なのである(笑)。相性と言って悪ければ、自分の存在と吉野家の牛丼の区別がつかないくらい、後者は前者にとって抜き差しならないところをもつような何かだったということである。

もちろんそれは、やる前から判っていればいいけれど、やる前にはたいてい、本人がまったく判っていないことなのである。だからいちいち根拠など述べずに、聞きようによってはカミナリ親父の頭ごなしのように「いいからやれ。とにかく十年やれ」と吉本は述べていたのである。少なくともわたしにはそう思える(笑)。

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ふたつの現実的な「全体主義」対策とその明暗

2012年04月06日 | チラシの裏
昨日の仕事中にふと変なことを思った。

変なことというのは、オーベー諸国における「ナチス・ドイツ」関連の物事の扱いのことである。一言で言ってほとんどタブー扱いになっているわけである。たとえ否定的な文脈でも話題にすること自体が躊躇われる何かで、人々の間でもそれが当たり前になって久しいから、ちょっともう今更どうしようもない、とはよく耳にすることである。

わが国ではそこまでタブー視はされないものだから(笑)、否定的どころか、時には大手を振った肯定的な扱いが、大衆向けの作品や論説の上ではなされたりすることもある。もともとそんなつもりもないだろうが、そういう作品はオーベー諸国には輸出できなかったり、たまにうっかり向こうで輸入するバカがいて、なぜかこっちが叱られたり、本来なら無用の規制を増やさざるを得なくなったりしている。さすがにあんまりひどいの──「ホロコーストはなかった」という類のトンデモ──は、わが国でやっても叱られる(よせばいいのにその類を「特集」にして、確かそのまま廃刊を与儀なくされた雑誌もあった)けれども。

考えてみればオーベー諸国がそうだというのは、その惨禍を直接に被った当のオーベー諸国においてさえ、「ナチス」的な全体主義の理念というのは、その実質というか現実の上でスッキリと全部を否定し去ることができていないということだよな、と思ったわけである。

もっとはっきり言えばオーベーの(政治・社会)哲学やそれに基づく(政治・社会)理念は、偉そうなこと言ったって本当はナチスの始末もちゃんとはつけられない程度のちょぼくさい何かなのだ、ということである。もちろんわが国のそれはもっと始末がつけられない、ほとんどそれ以前の代物ばかりだとは、改めて言うまでもないし、どや顔して言いたいことでもないのである。

わたしが言いたいのは第二次大戦後に「ナチス」的なもの、大雑把に全体主義的なものと呼んでいいであろう、その種の(誰が何と言おうと人々が蒙ったところの惨憺たる結果において)邪悪きわまる(政治・社会)理念をどう現実的に始末するかということで、オーベー諸国はつまりはデモクラシーの例外を作って、悪く言えばインチキして(笑)、ただインチキするかわり社会構成上の「政治」極は決して不活化することがなかったのに対し、わが国の場合は「政治」極そのものをまったく不活化することによって、いかなる(政治・社会)理念も、そこから導かれた行為・行動も、社会の動力学についてほとんど無効であるしかないような、そういう社会構成をとることによって対応してきた、という、そういう対応のあり方の違いを指摘できそうな気がする、ということである。

オーベー諸国に対して日本が多少でかい面をできそうなことがひとつだけあるとすると、わが国ではありとあらゆる(政治・社会)理念を不活化したことで、邪悪な全体主義のもうひとつであるところの「共産主義」もまた不活化されたのであった。不活化それ自体のよしあしは別にして、不活化したことは確かである。さてオーベー諸国はどうだったであろうか、ということくらいだろうかと思う。

・・・もっとも、あんまりでかい面して言うと、賢いオーベー人からは叱られるかもしれない。去年の大震災以来おめえんちの国で猖獗をきわめているあの反(脱)原発テロはいったい何だ、あれは「左翼」じゃないか、微妙に火の粉が飛んできてこっちぁいい迷惑だぜ、と。

まあ、オーベー人に日本語なんて読めるわけないから平気だが、万一言うものがあれば、遺憾ながらその通りなのである。けれどもこうも言える。いま文明世界が等しく直面しつつある政治・社会的脅威とは、その最大最悪のもののひとつがわが国の大震災以来の反(脱)原発風説テロに象徴される、そう言ってよければ「第三の全体主義」のようなものなのであると。オーベー諸国がとってきた「タブー化」の手法も、わが国でとられてきた「不活化」の手法も、思うにこの第三の全体主義に対してはそれほど効果を示していないのではないか、というかそれどころではない、これまではどちらも「現実の上で」一定の効果を示してきたものが、旧来の全体主義もまたこれに便乗してくることで、ともに「現実の上で」破られつつありはしまいか、と。

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ニコ倫逍遥

2012年04月05日 | チラシの裏
 


マクダウェルの「心と世界」の読解のためにニコ倫(アリストテレス「ニコマコス倫理学」)を読み始めているわけである。読んだことなかったのかと言って、あるわけねえだろ(笑)である。まあとにかく通勤電車の中でぽつぽつ読んでいる。そうすると、こんな一節が目に留まった。

   (人間の)主要な生活形態として三通りがある。
   享楽的な生活と、政治的な生活と、観照的な生活である。

念のため断っておくが、上の引用は訳書(高田三郎訳・岩波文庫)の記述をアレンジしたものである。ヒュームの「人性論(人間本性論)」の、半世紀以上前に作られた大槻訳に比べれば、訳も版もかなり新しくてずっと読みやすい(わたしが買ったのはワイド版で字も大きいからなお読みやすい)のだが、それでもいじってみたくなる。他人の文章を勝手にいじくり回すのは、まあわたしの悪癖のひとつである。

ま、そんなことはともかく、上の「享楽的」というのを「経済的」、「観照的」というのを「宗教的」ないし「文化的」と置き換えれば、以前少し考えた(最近放ったらかしになっている)社会構成の思いつき三極モデルに当てはまるな、などと思った。生活形態の3通りとあるわけだが、それは古代ギリシャの身分制を反映しているわけで、現代の文明社会ではこの3つのすべてが個々人の上に(あるいは社会のさまざまな組織的形態の上に)さまざまな比率もしくは確率で混在していると見ていいはずである。もっとも、わが国では後のふたつは不活化されてしまって、個人から国家までを貫くものとしてはほとんど「経済」極(ニコ倫の言い草では「享楽的生活」)しか残っていないわけなのだけれども。

この見方が当たっているかどうかなどはわたしの知ったことではない(笑)。どうせ思いつきモデルである。しかもつい最近思いついた、最小限の骨組みしかないものである。けれどもそんな思いつきの骸骨でも何でも作っておくと、ニコ倫みたいな古めかしい、形而上学ほどではないにしても哲学には違いない、つまり面倒くさい本を読む場合でも、ただ漫然と文字を追って読んで行く(したがって何も残らない)よりはましな読み方が、少しはできるかもしれないと言ってみたいわけである。

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試し書きシリーズ・同期言語と伝達言語

2012年03月03日 | チラシの裏
人間の言語は少なくともふたつの異なる機能を持っている。ひとつはいわゆる言語の機能と目されるもので、つまり情報伝達の手段としての言語である。もうひとつはたいていの動物が持っていて、情報伝達の機能はないか著しく貧弱な、つまり集団内の個体の状態や行動を同期させる手段としての言語である。情報伝達は同期なしには実現できないので、人間が前者を持つなら後者も当然持っていなければならない。便宜上、前者を伝達言語(機能)、後者を同期言語(機能)と呼ぶことにする。

ひとつ注意すべきことは、伝達言語と同期言語はあくまで機能の分類であって、発語の分類ではないということである。たとえば「ウミ」「ヤマ」という発語が伝達言語か同期言語かという問いには意味がない。ひとつの発語が両方の機能を混在させている、あるいは重ねあわされているということは普通にある。機械通信においても同期信号が情報を含んでいてはいけないということはない。

同期現象は大雑把に相互結合された単位的な要素で構成された系において普通に生じうる現象なので、動物の集団が同期言語を持つことまでは何の不思議もない。生物個体の集団が同期して行動することは進化的な違いをもたらすことは確かである。重要な問いのひとつは、人間はなぜ同期言語の土台の上に伝達言語を発達させることになったのか、ということである。伝達言語を作り出したことは明らかに人間個体の集団が単なる集団ではない、共同体とか社会とかいったものになること、今もそのようにあることの本質のひとつである。

わたしの考えでは、人間はその自律的な個体生存の基盤を生理学的身体に閉じた形で局限するのではなく、その外側に開いた形で置くようになった、知られている中では唯一の動物だからだ、ということになる。もともとたいていの動物も完全に閉じてはいなくて、少しばかりは開いている、だから木の枝なんかを道具として使う鳥類もいたりするわけだが、人間以外の動物の場合、そうした行動はきわめて限られたものであるか、場当たり的なものであるか、いずれにせよ貧弱なものでしかない。

生物個体の身体生理は生物進化の長い時間をかけて作り出されてきた、複雑だが強固な安定性を備えている。それなりに大きな、また複雑に構成された物質系の状態を安定に保つためには優れた制御系がなくてはならない。まして開かれた系を制御するということは、現代の制御工学をもってしても途方もないことである。人工物としての機械は機能的にはほぼ完全に閉じた系として設計される。だからこそその構造や動作を数理的に解析したり、それに基づいて設計したりすることができるので、開いた系では解析とか設計とかいうことがそもそも意味をなさないわけである。

伝達言語は人間個体が開かれた系として安定的に生存するために作り出した、地球上のことに限れば最初の答であったに違いない。

(つづかない)

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試し書きの書き損じ・「ウソ」論(ex1)

2012年02月29日 | チラシの裏
以下はテキトーなことを書きなぐっただけの雑文である。いつにもまして本気にされると困る。



我々は有効期限つきのウソ(もっとも、その期限は明示されないのだが)を創出し、そのウソを通じて何かをする存在である。最も大きく見た場合は──宇宙全体と言わないまでも銀河系くらいのスケールになればすでに──その「何か」のひとつひとつに、これといった意味は何もないことになろう。つまり、ただのデタラメである。もとがウソなんだから、そのウソに基づいて何かをやれば、それは(究極的には)デタラメであるしかない。

ウソはウソなのだが、この種のウソはひとつの顕著な、重大な特徴を持っているように思われる。それは、この種のウソは「共有することができる」何かだということである。もう少し正確に言えば「共有している」と思う、思わせられることによってその先に社会の存在が暗示されるようなウソである。我々はこの種のウソを除いて他人との間に何かを共有するということはないし、できない。この種のウソだけが社会の存在を暗示する、つまり人間が社会的存在であることの最も基本的な根拠である。わかりやすく言えばそれが、昔からしきりに言われてきたように、「ウソで固めた世の中」ということの含意である。



ウソだウソだというのはまた、ウソでない何かが存在して、それに反するからウソだということである。その何かとは、この場合はほかでもない物理のことである。哲学者やある種の宗教家は通常そういう考え方をしないだろうし、そういう書き方もしないだろうが、わたしはもとがサイエンスの人なので、それを基準に置くのが一番わかりがいいということである。

いわゆる「科学的な世界観」というのは、ここでいう意味のウソを含まない(排除した)形で構築される、この宇宙に関するひとつの体系的な理解のことである。その理解が絶対の真であるかどうかはさておいて(それは読者の好きに判断すればよろしい)「ウソ」をすっかり拭い去ってみると現れてくる、きわめて整然としたこの世界の成り立ち(の部分)があるわけである。

「ウソ」が拭い去られてしまっているので、もともと「ウソ」がかかわらざるを得ないようなこと、たとえば我々がその(意志が介在する)判断や行為を「どうすべきか」、つまりそれらがどう正当化されるかといった問題に対しては、この世界観は(そのウソをもともと排除してしまっているので)当然役に立たない。また、主観的な現れや行為を基準に置いた世界観からは「負のウソ」としか言いようのないものを作り出してしまう。けれども一方で「ウソ」をかかわらせる必要のない(部分)現象──つまり物質として括られた対象とその振る舞い──の分析、予測、計画(設計)といったことになれば、科学や科学に基づく種々の工学的手法は無敵の威力を発揮する。現にさんざん発揮してきているわけである。

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謎の雑文

2012年02月28日 | チラシの裏
わたしのような、複雑性の研究に携わった人間がとりわけ関心を持つ(持ちたがる)現象の特徴をわかりやすく言えば、系(システム)を構成する要素にも、要素どうしの(静的または動的な)関係にも見ることのできない系全体の(静的または動的な)特徴が生じるというような現象である。つまり後者を帰結する原因になりそうな特徴が前者のどこにも見当たらない、あたかも系全体が系全体としてその特徴をもつ、もしくは生み出したかのように見えるので、それを創発(emergence)とか創発的特性(emergent property)と呼ぶわけである。

もちろん、それはそう呼ばれているだけで、実際に無から有が生み出されているわけではない。少なくとも物理として眺められた系において無から有が生じることはありえない。ましてや乱数(ノイズのことだが、これも実際には計算機上で生成されている)以外の不明要素は一切排除した上で行われる、単なる数理モデルの計算機実験において無から有が生じることはありえない。

けれども現実に──計算機実験においてすら──いかにもそのように振る舞うと見える系があるのは事実である。いったい何が起きているのかというと、現実的な系は大なり小なり非線形性を帯びているので、系全体はその特徴に関する非線形フィルタの効果を持つわけである。系全体の特徴はその非線形フィルタの繰り返し適用の結果として「次第に(時には急速に)浮かび上がってくる」のだが、浮かび上がってきたところの特徴を要素や要素間関係の特徴に還元しにくい場合があるわけである。いわゆるカオスの逆で、結果の上に要素や要素間関係の微細な特徴が幾重にも折り重なって紛れ込んでいるところをイメージしてもらえばわかりやすい。まだしも性質のよい系の場合は、全体系を安定解の近傍で──安定解が存在すること自体が「性質のよさ」のひとつである──線形近似し、固有値解析によって原因をつきとめることができる場合もある、けれどもそうやって求めてみると目で見てもわからないような、要素における極微の特徴に由来していることがわかったりする。



極端な場合は要素の特徴の正反対というか、要素の特徴を「裏切る」ような特徴が系全体としては現れるといった場合もある。人々の生活風景の中へ入って行くと誰もが表情穏やかで親切で、ともすれば知的で繊細な美的感受性さえ持っている、(貧しいけれど)絵に描いたように平和で幸福な風景しか見つけることができない、にもかかわらず、社会全体として見ると異常に犯罪率が高かったり自殺率が高かったり、国家の指導者は言ってることもやってることも人のごとくであったり、総合的に見ればちっともいい社会ではない、というかもう冗談じゃない、というような社会があったりする。どうしてそのようなことが起こるのか。

そうした現象が人間の集団では「むしろ小さな、閉じられた」集団においてよく起こる、ということもこのモデルである程度説明できる。進化生物学ではよく知られている事実で、数理モデルでも再現されることだが、「ごく狭い、外界に対してほぼ閉じられている」といっていい環境(ニッチ)では、いわゆる「珍種」が発生しやすいわけである。集団サイズが小さいために、全体系のいわば「伝達関数」たる非線形フィルタは多峰性の特性を帯びやすくなり(強調されうる特徴の種類がケタ違いに増える)、通常の環境ではたちまち淘汰されてしまうような形質が生き延びてしまう可能性が高くなる。さらに、やはり集団サイズが小さいことによって、特異かつ強度に排他的な形質がたまたま淘汰を免れると、あっという間に集団全体が不可逆的に支配されてしまって抜け出せなくなる──キーボードのQWERTY配列のように──といったことも起こりやすくなる。いわゆるひとつの「ガラパゴス」である。

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