瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#171

2014-03-14 04:53:37 | 考える日々
ちょいと前に選択をしないという選択をすると書いたけど、そういえばこういう言い方を何かで読んだなあ、と記憶をたどってみて思い出した。食べないを食べるって言い方だったと思う。これは断食とは何をしているのかって話。この断食の話はインド関係の本で読んでいたときにでてきたので、さすがは0(ゼロ)を発見した国らしい発想だと感心した。

でも0という行為をすることは誰もがしていることでもある。意識的にすることは少ないかもしれないけれど、その言葉を口にしないとか行動を起こさないとか、無意識であたりまえにしていることだろう。
当然のことだが0という行為は表現されない行為なのだから、他者から見ればわかりにくい。というかわからない場合がほとんどである。だから他者を理解しようとするときに、その表現されている部分だけを見て理解しようとするから、その理解は誤解になる。自分では時には0という行為をするくせに他者もそうしていることを忘れているのである。

ま、人間に限らず、あたりまえだけど物事はわかりにくいのである。表現されていることは目立つから注意もいくし分かりやすかったりもするのだが、表現されないことは、「無い」ことになってしまって気付かない。しかし表現されていないだけで「無い」わけではないのだ。まどろっこしいモノ謂いになるが、表現しないという表現をしていることでそれはたしかに「在る」のだ。

光と闇という言い方をすれば、光ばかり見ていても物事はわからないわけで闇にも目を凝らす必要がある。だけど、どうかしら。闇に目を凝らすのはしんどいからね。光のあたっているところだけを見ているほうが楽で分かりやすいからそっちばかり見てやしないか。自戒を込めてそういうのだが、わかりやすいことだけ知ってわかった気になっているのじゃないかしらん。表現されていないことに気づくのには注意力が要るし、なにが表現されないでいるのかを考えるには想像力も要る。面倒くさいのよ、見えないものを見ようとするのは。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」

この文脈で引用するのはちょっと違う気もするのだが、ともかくも大切なことは簡単には見えないってことである。物事はわかりにくいのだから、わかりやすい部分だけでわかろうとすると誤るってことである。「心で見」るとサン=テグジュペリは云っているが(そういえば何からの引用か、まだ書いていなかった。有名すぎて今さら書くまでもないような気もするけど「星の王子さま」からである)、ようするに想像力をはたらかせるってことだろう。

私は世事に疎いからただの印象でしかないのだが、世の中なんだかわかりやすいことばかり氾濫してないか。わかりやすいことは考えなくていいし想像しなくていいし楽チンだものね。でもそれじゃ誤るのよ。難解であることがいいとは云わないが、わかりにくくてあたりまえなのだから難解を避けるようなことをしてはいけないだろう。わからなかったら、わかるまで考えつづければいいのだから、安易にわかった気になろうとしないことだ。わかりやすいことは思考を経ていない分、危険でもあるのだから。
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