瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

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お彼岸など

2014-03-15 21:36:20 | 随想
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)

今日(3月15日)は陰暦では如月の十五日。西行の云う、まさに望月のころ。もっとも満月は二日後の17日だけどね。
西行は望みどおり二月十六日に入寂したそうだが、さてそのとき花は咲いていたのかしら。この時期、桜はまだ早い。ま、今年は今日が如月の望月のころなわけだけど、去年は3月26日が如月の十五日だったからね。それだったら桜は咲いている。暦くらい調べれば分かるから西行の亡くなったとき桜が咲く時期かどうかも分かるだろう。西行の研究書にはそれくらいのことは書いてありそうだ。そのうち読む機会もあるだろう。

現在は3月下旬に桜が咲くけど、ちょいと前は4月上旬ではなかったか。私が学生だったころ、というのは20年くらい前のことだが、校内の桜は4月に入って満開になっていたように記憶する。満開の時期が早くなっているのも地球温暖化のせい? だったら西行の生きていた時代、如月の望月のころに花は咲いたのかしらね。西行がそう歌っているんだから咲いたんだろうけど。

ま、それはともかく、私はとくに死にたい季節というのはないねえ。そもそもこんなふうに死にたいというのもない。死というものを特別なことだとは思っていないせいだろうね。人生の幕引きだと考えればそれなりに演出もしたくなるだろうけど、私はそんなふうにも考えないし。存在は在りつづけるわけで、その在りようがちょいと変わるくらいにしか考えていないもの。生と死は地続きだからその境目も特別視はしないのよね。

まだまだ寒いけど暖かい日も増えてきた。暑さ寒さも彼岸まで。お彼岸はすぐそこ。
私は日ごろからふわふわしたことばかり考えているから、お彼岸に限らず彼岸と此岸を思い、さっさと此岸を離れたいと願ったりもする。生と死は地続きだと云っておきながら此岸を離れたいと願うのは矛盾するけれど、いいのよ、そんなこと。あたしの云うことは支離滅裂で矛盾だらけなの。いちいち本気にして読んでたら疲れちゃうだけだから、お気をつけあそばせ。

芥川を再読しはじめた。そのついでに今昔物語も読み始めた。あの時代、死体はそのへんに平気にころがっていたりする。死体は穢れてるからといってほったらかしだったりもする。今の感覚からすれば滅茶苦茶である。しかし死が身近であるぶん生に対する意識もいまと随分違ったろう。現代は死を病院に隔離してしまっているから死がそのへんにころがっている時代の生とは在りようは違って当然だろう。
歴史を知ることで現在を相対化して視るのもいいが、古典文学でその時代をなまなましく感じるのもいい。今を生きていると、この現在の在り方だけが普遍的在り方のように錯覚するが、この在り方も在り方のひとつに過ぎず普遍的でも絶対的でもなんでもない。いずれ在り方は変化するに決まっている。そして変わらないものもまた在るのである。不易流行。古典を読むとそれがわかってくる。この歳になってようやくそれがわかってきた。血の巡りがわるいね。残りの人生、古典をせいぜい読むとしましょうか。
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