瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#170

2014-03-11 04:52:48 | 考える日々
社会のなかで生きていれば社会によって規定される。個人は消失する。といって社会から離れて個人、つまり私生活レベルになったところで、結局は外面(そとづら)で生きるているわけで、ま、自己演出である。

南伸坊「本人伝説」について森村泰昌が書評を書いている。
「南伸坊は自らの顔に『本人』の似顔絵を描くことで、本人から『本人』を切り離しても、『本人』はじゅうぶん『本人』たりえることを証明してみせた。(中略)みんな自分自身の顔面上に描いた似顔絵によって『本人』になりすましているだけなのだ。」

そういえばペルソナなんていうのもあったね。ようは仮面なわけで、他者との関係性のなかで生きている以上自己は他者によって規定される。
と考えたとき、これは以前にも書いたことがあったような気がして記憶をたどっていたら愕然とした。以前とは高校生のときである。私は高校生のころから進歩していないらしい。停滞するにもほどがある。
高校のころ、夏休みの課題に論文があった。といっても論文の書き方を指導するでもなく、テーマだけ与えてあとは各自で勝手に書けという、教育機関としてそれはどうなの? という投げやりな課題の出し方をしていたが、そのとき書いた論文(といえるようなものではないけど)が今書いているような内容だったような気がする。たしか伊丹十三「自分たちよ!」(いまは文庫になっているだろう。文庫になっていればたぶん文春文庫)をネタにして書いたように思う。そのとき本から引いたキーワードは記憶違いでなければ「汝の汝」。自己は「汝の汝」として規定されるというようなことを書いたのじゃないかしらん。ほとんど本の受け売りだったような気がしないでもない。

ま、ともかく、一人で生きているわけじゃないのだから、どこまでいっても他者と関わらざるを得ずその他者によって自己は形成される。自己演出にしろそれは他者に向けてのことなのだから自分でやっていることでありながら他者がさせているともいえるわけだ。
じゃ自己はどこにあるのか。すべて周囲の環境が決定しているだけか。本当の自分はどこにいるのか。

話は逸れるけれど、本当の自分という言い方をするといわゆる自分探しというのを思い出すね。いつから自分探しなんてことをいうようになったのか知らないし、今でも云うのかどうかも知らないけれど、ともかく自分探しっていうのは滑稽以外なんでもない。「粗忽長屋」を地でいっているんだからね。つまり、探し当てた自分はたしかに本当の自分だけれど、じゃ今までそれを探していたこの自分はいったいどこの誰なんだろうってことだからね。少し考えればこんなことは誰にだってわかる簡単なことなのだが、その少し考えるをやらずにいきなり探し回るから滑稽なことをしでかすわけである。本当に粗忽者のやりそうなことだ。

そんなことはどうでもいいけど、どこまでいっても他者が規定するのかといえばそうでもあるまい。他者が規定する仮面をつけているのは自分なわけで、らっきょうの皮むきのようにむき出したら最後に何も残らないというものでもない。
では、最後に残るのはいったい誰なのか。それが自分であるといえば如何にも答えのようでもあるけれど、問いたいのはその自分とは何者かということである。

わかりにくいかもしれない。自分は自分ではないかと思う人が大半だろう。そう思っている人たちに私が問おうとしていることをどう説明したらいいのだろう。
我思うゆえに我あり。この我のことなのだが、この言い方だって実は何かを言っていることにはならない。この言い回しでは堂々巡りというか、ニワトリと卵みたいな話にすぎない。思っている我、その我をこそ問いたいのである。その我とは何か。

こうして、ああでもないこうでもないと考えている私。こいつはいったい誰なんだ。
結局、存在とは謎であり、枝雀の言い回しを借りれば、ふしぎななあ、と云うほかないのである。
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