瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

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#168

2014-03-08 06:55:37 | 考える日々
ちょくちょく鷗外を素材にしているとなんだか鷗外好きのようだけれど、別にそういうことでもなくたんに今読んでいるから素材として引っぱってくるだけ。じゃ、なんで鷗外を読み直しているかといえば貸してくれる人があったから。じつに消極的な理由であって自発的に読み返しているわけではない。自ら読もうと思うならまだ読んでいない「澀江抽齋」を読む。
さて、このような態度を他(ひと)はどう思うのだろう。読みたいものがあるならそっちから読んだらよかろう。そう考えるのが一般ではないか。自分の意志、というと大袈裟だけど、多くの人は自分の決断(これまた大袈裟か)を優先させるのだろう。自主性や積極性が評価されることもあって、消極的な理由で選ぶというのは好ましくないと思う人が多いような気がする。現実は消極的な理由でそうすることも多々あるわけだが理想を言えば積極的に選び取っていきたいと考えるだろう。そのほうが自分で切り拓いていく実感があるしね。

だけど私は積極的に消極的理由を選ぶことがある。変な言い回しになってしまったけれど、自分で選択できる場面でもあえて選択しないでおくということである。場の流れに任せる。鷗外の作品ならほかに読みたいものがあっても場が再読を促すように動いているならその流れに任せるということである。選択を場にあずけているといえば消極的なわけだが、選択をしないという選択をしているといえば積極的ともいえる。ま、どちらでもかまわないけれどね。

どうにも私のモノ謂いは大袈裟になるけれど、この態度はようするに世界観というか人生観というか、「これ(というのは存在のこと)」をどう観るかによるのである。「これ」のことはさっぱりわからん。それに尽きる。だから自分で選択できる場面でもあえて選択することを放棄することもある。わからないのだからお任せするしかない。好きにしてくれ。誰の? それもわからないけれど、ともかく私はすべてを自分の決断だけでは処理しない。

すべてを自分の決断で行動していく。そういう人は自分次第でどうにかなると考えているのだろう。仮にどうにもならなくても、そのほうが後悔しないで済むと考えるからかもしれない。それはそれでひとつの考え方である。私には、すべては自分でどうにでもなるという考え方は過信にも傲慢にもみえる。一方で大きなものに抗っている勇ましい人にもみえる。当人は大きなものに抗っているつもりはないだろうけど。

私は抗わないのだ。なぜなら信用しているから。誰を? さあ、誰でしょう。それはやはりわからないけれど、ただこんな思いがあるだけ。必要なときに必要なことが起きる。いいことも、わるいことも、あとから考えれば絶妙のタイミングで起きている。それが実感。私は運命論者なのかもしれない。一般的にどういうものを運命論というのか知らないが、言葉を使い分けるなら、運命は幅があり、宿命には幅がないといったところか。だから私の云う運命論はすべてが決まっているわけではなく、大枠というか大きな流れが決まっているということである。わからないなりに「これ」について考え、「これ」をわかろうとすると私の場合はこんなふうになる。

鷗外の「阿部一族」を足がかりにちょっと頭に浮かんだことを書こうと思ったその前置きだったのだが、なぜかこんなに長くなってしまった。
では次回、「阿部一族」からはじまる我(われ)という謎。
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