瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#167

2014-03-07 21:10:38 | 考える日々
違うからひとつにしようとしてみたり、逆に排除してみたりするわけだけど、どちらの行為もいただけない。ひとつにしようとすることは一見いいようだけど、ひとつにしようというのは要するに一色に塗りつぶす行為で、塗りつぶすほうは気分がいいかもしれないが塗りつぶされるほうはいい迷惑である。排除する行為はいわずもがな。つまりはいじめである。

違うと考えるからこんな行為にでる。実のところ違うものなんてない。みんな同じものなのである。同じものが違う在りようを示しているだけ。同じであると知れば、ひとつにしようなんて考えることもなかろう。また排除することもないだろう。

違っているけど実はひとつ。こんなモノ謂いではおそらく得心いくまい。唐突すぎる。どうやって説明したものかと考えたが上手い表現が思いつかない。
光なんぞはどうだろう。違う波長が集まっているのが太陽光である。わざわざ分光したりしないで全部の波長ひっくるめて受け入れているではないか。ま、物を見るために使っているのは可視光線だし、暖をとるために赤外線だけ使うとか、確かに全部の波長を使い切っているわけではないが、それは人間の都合であって光そのものは違った波長の寄せ集めでひとつとして在るわけだ。

なんてことを考えてみたが上手く説明できているとは思われない。なんだようするに違ったものが集まって全体を成すことでひとつと言いたいのか、と解釈されそうだがそういうことでもないのだ。あなたはわたしで、わたしはあなたなのである。いや、益々わからなくなるだけか。

ようするに万物斉同で、そんなことなら荘子を読めばいいのであって、あたしのわけのわからないモノ謂いに付き合わせることはない。あたしの譫語(たわごと)より先人の書いたもの、古典を読んだほうがいいに極まっている。あたしの書いていることは蛇足もいいところ。ホント余計なことやってんなあ、と思う。
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