瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#166

2014-03-01 21:05:18 | 考える日々
まずは昨日(#165)の補足から。
今日になってコウモリの命題を思い出した。コウモリの命題とは私が勝手にそう呼んでいるだけで正確には以下のとおり。

「コウモリであるとはどのようなことか」(英:What is it like to be a bat?)は、アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが1974年に発表した哲学の論文、および同論文を収録した書籍である。

これはウィキペディアからの引用。そして私はこの本を読んだことはなく知っているのはウィキペディアで読みかじったことだけ。読みはしたのだがウィキペディアじゃよくわからん。かといって本を読んでも頭がくらくらするだけかもしれないけど。
前項で「変身」を素材に私が考えようとしていたことと重なるような気もするのだが、いかんせんコウモリの命題を理解できていないので正直なところなんともいえない。

ま、そういうことを思い出したということをちょっと御報告しておこうト。ただそれだけ。理解していないのだから考えは先へ進まないのである。
読んでいる人で考えが先へ進んだ人がいたらお知らせください。先へ進んだ人は立ち往生している人を引き上げる義務があるのですからね。noblesse oblige。こんなところで使う言葉ではないけれど、気分としてはこんな感じ。
それにしても頭のなかの連絡がわるいねえ。昨日考えているときに思いつかず今日になってコウモリの命題を思い出すとは。関連項目は芋づる式にずるずる出てこないと思考が停滞する。ま、出て来たとしてもそれを処理する能力がなくて立ち往生しているのだから根本的にどうしようもない頭なんだけど。


さて、そのどうしようもない頭で私は考えつづける。だってこの頭よりほかないのだからしようがない。あたらしいOSにしてみたりアプリをヴァージョンアップしたりするように人間の頭は便利にはできていないのだから。将来的にはそうなるのかしら。脳を直接ネットに接続出来るようになったりしてね。ネットからソフトをインストールして頭をヴァージョンアップさせたりね。この程度のアイデアのSFなら大昔に書かれているだろう。読んだことないけど。

それはさておき前項のつづきのようなことを。
意識とは何か。という問いには脳に関することで答えたくなる人が多いのじゃないかしら。だけど前項で触れたように身体意識を忘れてはいけない。どうだろう。身体意識と言った場合、普通は身体を意識するという意味になるのかしら。私がここで云う身体意識は、身体という意識体という意味である。脳だけが意識と関係しているわけではない。身体も当然関わってくる。この肉体すべてをもってして意識は在る。神は細部に宿るという言い方があるけれど、その物謂いをまねるなら意識は全身に宿るのである。脳だけではない。

私はスポーツをやらないが、スポーツをやっている人なら実感があるのではないか。あるいは武道をしている人。頭で考えるより先に身体が動く。それを反射神経の良さとして説明してもいいけれど、身体そのものが意識体だからと説明してもいいのではないか。変に聞こえるかもしれないが身体が考えて動いているという表現をしてもいい。頭が考えるのではなく、というより頭が考えているより先に身体が考え判断し行動している。そういうことではないか。考えているのは脳だけではない。身体だって考えているのだ。

脳があるから考えられるというのは思い込みである。科学による洗脳だろう。脳がなくても考えることは出来る。身体があればいい。もちろん複雑な思考は無理であるが、身体にだって考えることは可能である。脳がないバクテリアだって樹木だって考えているに違いない。
ま、こんな書き方をすると似非科学みたいで、そう言われても仕方がないのかもしれないが、こと生命に関しては今の科学の記述ではどうしても限界があるように思われるので、限界を突き抜けようと記述すれば似非科学のように読める表現になってしまうのである。私は生命を機械論的に記述するのは無理があると思っている。だって機械に意識はないもの。意識ある生命を意識のない機械と同列にして考えるのはおかしいではないか。
正直なところ、意識とは何かという問いに科学は無力だと思う。科学の対象ではないから。科学は物(ぶつ)を扱う学問だ。意識は物ではない。物ではないものを扱う学問は哲学である。生命は物であり物ではないという扱いにくい対象なのだ。科学で考えるには限界があるし哲学で考えるにも限界はある。自然とその記述はあいまいになり似非科学的にならざるを得ないのである。だから私は胡散臭くなるのを承知で書く。考えるのは脳だけではない。身体だって考えるのだト。

粘菌には脳はない。でも粘菌は迷路を解く。機械論的に説明はできるのだろうが、粘菌は考えて迷路を解いていると解釈するのが素直であろう。どういう考え方が腑に落ちるのかは人による。私は機械論的に考えてもピンとこない。一方で私の考え方に違和感を持つ人もあろう。世界観の違いである。どっちが正しいではない。そもそもどっちが正しいか結論はでない。さまざまな世界観がある。ただそれだけ。

こんなところでこの詩を引用するのも変な気はするのだが、ま、気分なので。


「わたしと小鳥とすずと」

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。


ま、そういうことだ。金子みすヾのいうように「みんなちがって、みんないい。」のだ。人それぞれに世界観が違うのはあたりまえで、そしてみんなちがってみんないいのである。違うからといって喧嘩するのは莫迦々々しいからやめましょうということだ。自分だけが正解だとほかを否定するのはおよしなさいということだ。そのさまざまな違いを愉しむのが成熟というものだ。
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