瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#169

2014-03-09 06:59:32 | 考える日々
鷗外「阿部一族」を読んでいると自分の意志とは関係なく別の大きなシステムによって歯車がまわっていく感じがする。そのシステムを運命といってもいいけれど、この小説ではもっと具体的なもの、武士という規範によって個人の行動が否応なく決定されていくという抗い難い流れの存在を思う。
流れにのらないという選択肢はあるにはあるが、それは武士であることをやめるということでもある。武士であろうとすれば筋書きはこの一本道しかない。個人の意志がそうさせるのではなく、武士という存在がこの道を選ばせるのである。ま、当人は自分で選んだ道だと思っているだろうが。

抗い難い枠組みのなかにいるときは、その存在に気がつかないものである。外から見ていれば分かることでも内にいればわからない。昨今いわれるブラック企業もそういうものかもしれない。
ブラック企業という特殊な存在を例にとらずとも、日常的にそんな存在はあるだろう。数百年後から今の時代を見たとしたら、どうしてこの時代の人はこんなことをしているのだろうと訝(いぶか)しく思うことも多々あるに違いない。この時代を生きている我々にとってはそうすることがあたり前であっても、数百年後からみれば不思議に見える。生きている枠組みが違うのである。今の時代の我々から武士の行動、「阿部一族」のことの成り行きを見ればこんな悲劇な展開にならずともいいのにと思うのだが、武士という枠組みを生きていれば当然の成り行きといっていい。

いま書いていて思ったのだが、「舞姫」もそのように読めるといえば読める。豊太郎の行動は男の私から見ても酷いもので、それじゃエリスが可哀そ過ぎるではないかと思うのだが、明治のエリートの行動としては当然そうなるだろうとも思う。豊太郎の選んだことではなく明治のエリートという枠組みが選ばせた行動である。ま、明治に限らず現代でもエリートならしそうなことだけど。

エリートだけではない。誰しも枠組みのなかで生きている。役割を演じなければならないと言い換えてもいい。男は男をやらなきゃいけないし、女は女をやらなきゃいけない。やらなきゃいけない、なんて書くとジェンダーフリーを唱える人から叱られそうだけど。
性差だけでなく、親になれば親をやらなきゃきけないとか社会人になれば社会人をやらなきゃきけないとか、抗い難い枠組みにどんどん絡めとられて生きて行くことになる。自分の意志、自分の自由は那辺にあるのか。そんなものはどこにもないのじゃないかしらん。そんな気分にもなる。ま、自分勝手にやりたければ枠組みを出ればいいんだけどね。

社会に取り込まれていく過程で個人が呑み込まれていくなら、社会に取り込まれていない部分、つまり個人的な部分においては自由意志は存在する。そう考えることもできるのだが、はたしてそうだろうか。自分は間違いなく自分として在るのだろうか。社会的な自分ではなく、個人としての自分は存在しているのか。

次回、我(われ)は何処(いづこ)に。


あとからひとこと
こんなに長くなる予定でもなかったんだけどなあ。疲れたので一旦ここで切ります。

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