ドガとアレヴィ家の人たちが絶交にまで至るのは、ドレフュス事件を通してだった。
パナマ事件が政財界を揺さぶる中、1892年にはエドゥアール・ドリュモンが日刊紙La Libre Paroleで反ユダヤ主義を煽り出す。フランスの道徳的衰退を憂うドガのような人に、すべてをユダヤ人のせいにするドリュモンの論調は、わかりやすく説得的だった。
新聞に連載されるアレクサンドル・デュマの歴史小説を愛したドガは、同じ調子でドリュモンの記事に熱中し、無批判に受け容れた(目の悪いドガは、食事中、女中のゾエにそれらを読み上げさせるのだった)
ユダヤ系のリュドヴィックへの気遣いから、さすがにアレヴィ家では言葉を謹んでいたが、若いダニエルとの会話では遠慮のない意見を述べた。
兄のエリ・アレヴィはユルム街の高等師範学校に在学、そこはドレフュス擁護運動の一つの中心だった。学校の図書館司書リュシアン・エールLucien Herrのおかげで、ダニエルたちは真犯人がエステラジーであること、ピカール中佐の左遷などをいち早く知り得た。
1897年11月、アレヴィ家で過ごした最後の晩、議論をよそにドガは堅く口を閉ざしていた。軍の伝統と美徳を信じるドガには、自分たちの知的な理論立てintellectual theorizingは軍を侮辱するものと思えただろう。ダニエルはそんなふうに感じる。夕食の後、ドガはいなくなった。翌日ルイーズ宛に届いた手紙で交際は絶たれる。
フランス語 intellectuel が「インテリ、知識人」の意味を持つようになるのは19世紀末のことだという。しかもそれは「社会に対して講釈をたれる文人」の侮蔑的ニュアンスを含んでいた。この語を、反ドレフュス派はドレフュス派に投げつける。(ブランショ『問われる知識人』安原伸一郎訳 月曜社 訳者解説 この本からブリュンテイェールの言葉を―「たとえ有名であろうと、小説家(ゾラ)が軍の正義〔軍事裁判〕に関わる問題に口を差し挟むことは、ロマン主義の起源の問題について憲兵大佐が介入するのと同じように、私には場違いなことに思われた」)
ドガの批評家ぎらいを思わずにいられない。アントナン・プルーストがLa Revue Blancheに寄せたマネ回想にドガが示した反応は典型で、特に「・・・プルーストはすべて混同している!やれやれ、文人ときたら!いつでも口出しをしたがる!私たちは自分のことは自分で十分正しい評価ができるんだ」 ‘’Proust confuses the whole thing ! Oh, litterary people ! Always meddling ! We do ourselves justice so adequately. ‘’(イタリックは原文)
ドガとの交遊は、完全に途絶えるわけではない。ダニエルはその後も病気のドガを見舞い、1908年にリュドヴィックが亡くなるとドガはアレヴィ家を訪れる。
透徹した知性の代表のように見られるポール・ヴァレリーが、偽書捏造発覚のあと自殺したアンリ少佐の記念碑設立のため、迷った末にではあるが出資する。(ブランショ、前掲書・訳注22) ドレフュス事件は、文字通りフランスの国論を二分した。ドガとダニエルに似た友情の亀裂は、少なからぬ人が体験したに違いない。