発見記録

フランスの歴史と文学

フランソワ・コペ『仏陀のツバメ』

2006-01-14 05:55:22 | インポート

仏陀のツバメ L'hirondelle du Buddha→原文        
                           フランソワ・コペ    

     ーエドモン・ド・ゲルルに

その教えで世界に慰めを与えると
仏陀は深い密林にこもり
今はただ涅槃だけを思い、
天に向かい両手を掲げ、瞑想のため腰を下ろした
尊い姿勢をそのままに
果てしない夢に精神を没入させ
仏陀は法悦と孤独の裡に生きた
やがて神々しい「虚無」に吸い込まれるまで。
過ぎ行く時にすっかり痩せ細り、萎え
硬くなった苦行者の体はぴくりとも動かない
もう真昼の太陽に暖められもせず
感覚を失った胸まで蔓(つた)が這い上った
瞼はとろんと下がり どこを見るともつかず
目には石の固さが具わったよう。
飢えに衰え亡くなっても不思議はなかった
だが仏陀を愛する小鳥たち
花咲く枝に歌う鳥たちは
生気のない唇に果物を運んできた
そうして久しい以前から
釈尊仏陀は、絶対の静安に生きていた。

さてこうして数限りない年月のあいだ
月は白、太陽は黄金に森を染め
釈尊の額を交互に照らした
不動の夢に没入した仏陀の思念は
一瞬でも逸らされることがなかったが
変わらず天に伸ばした右の手
灰色の花崗岩のようなその手に
ある日一羽のツバメが止まり、巣を作った。

山超え海超え、冬ごとに寒い「北」から戻り
不感無覚の夢想者の手のひらに
いつも暖かな安らぎの場を得ていたこの無心で律儀な渡り鳥に
仏陀の法悦はわずかでも乱される様子がなかった。
ツバメはしかし、最後には来なくなった。

そして渡りで命を守る鳥の
戻る時をはるかに過ぎ
ヒマラヤが雪に覆われ
希望がすべて失われた時、仏陀は
ゆっくりと顔をそむけた。
虚ろな手のひらを見た。そして神のごとき隠者の目
はるか以前から地上の何物も見ず
無限の輝きに眩まされ
天の凝視に疲れ果てた目
睫毛は焼け瞼は血に染まった目に
突然二粒の熱い涙が溢れた。
そして虚無への愛と消滅の望みゆえ
つねに心は空のまま
生を逃れ生から何も望まなかった者は
一羽のツバメの死に、子供のように泣いた。

アルフォンス・アレの作品で時々言及される詩人コペ(1842?1908)、フランシスク・サルセーの場合と同じで、アレが持ち上げているのかおちょくっているのかよくわからない。この詩はちょっとコントのような味わいがある。

ツバメをcette confiante et fidèle exiléeと呼んだところ、「毎年そこに来れば仏陀の手があることを疑わない無心さ」なのだがあまり長くなるのを避け「この無心で律儀な渡り鳥」とした。なるべく読み過ごしていただきたい。

献辞のエドモン・ド・ゲルルGuerle, Edmond Gabriel Héguin de (1829-1894) は経済学者らしいが、Google頼みでは限界がある。こういうおざなりの注は当人も楽しくないし無意味だと思う。

ロジェ=ポル・ドロワ『虚無の信仰 西欧はなぜ仏教を怖れたか』(島田裕美・田桐正彦訳 トランスビュー 2002)の内容を十分消化していれば何かコメントがつけられたかもしれない。19世紀に西欧での仏教研究が進むが、絶対の虚無の信仰として理解された仏教は、経典の翻訳が進むにつれかえって「恐怖」を引き起こす。ただ世紀末、「ペシミズムの時代」には著者の「新仏教」と呼ぶ傾向が現れる。仏陀像も変化を辿る。

コペの詩も(ニーチェやショーペンハウアーほどの思想史的重みはないかもしれないが)こういう文脈で読めばさらに面白いのかも。