智徳の轍 wisdom and mercy

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ヴェーサーリー

2005-03-28 | ☆【経典や聖者の言葉】
一一 さて、覚者はナーディカに心ゆくまでとどまられた後、長老アーナンダにこうお告げになった。
「さあ、アーナンダよ、ヴェーサーリーを訪れよう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは覚者にお応え申し上げた。そして、覚者は大きな向煩悩滅尽多学男出家教団と共に、ヴェーサーリーに入られた。そこで、覚者はヴェーサーリーのアンバパーリーの林にとどまられたのである。
一二 そのとき、覚者は向煩悩滅尽多学男たちに、次のようにお説きになった。
「向煩悩滅尽多学男たちよ、向煩悩滅尽多学男は記憶修習【きおくしゅじゅう】し正智してとどまりなさい。これは、君たちに対するわたしたちの教戒である。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、それではどのようにして、向煩悩滅尽多学男は記憶修習するのであろうか。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、ここで向煩悩滅尽多学男は、身において身を観察してとどまり、熱心に正智し記憶修習して、この世における渇望と憂いを調伏【ちょうぶく】しなさい。
 感覚において感覚を観察してとどまり、熱心に正智し記憶修習して、この世における渇望と憂いを調伏しなさい。
 心において心を観察してとどまり、熱心に正智し記憶修習して、この世における渇望と憂いを調伏しなさい。
 観念において観念を観察してとどまり、熱心に正智し記憶修習して、この世における渇望と憂いを調伏しなさい。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、このようにして、向煩悩滅尽多学男は記憶修習するのである。
一三 向煩悩滅尽多学男たちよ、それではどのようにして、向煩悩滅尽多学男は正智するのであろうか。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、ここで向煩悩滅尽多学男は、進むにも退くにも正智してなし、前を見るにも後を見るにも正智してなし、曲げるにも伸ばすにも正智してなし、正装衣や衣鉢【いはつ】を身に着けるにも正智してなし、食べるにも飲むにもかむにも味わうにも正智してなし、大便や小便をするにも正智してなし、行くにもとどまるにも座るにも眠るにも起きるにも話すにも黙っているにも正智してなす。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、このようにして、向煩悩滅尽多学男は正智するのである。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、向煩悩滅尽多学男は記憶修習し正智してとどまりなさい。これは、君たちに対するわたしたちの教戒である。」
一四 そのとき、娼婦【しょうふ】アンバパーリーは、「覚者がヴェーサーリーに到着し、ヴェーサーリーのわたしのマンゴー林にとどまられたそうだ」と伝え聞いた。そこで、娼婦アンバパーリーは、多くの威風堂々とした車を用意させ、自らも威風堂々とした車の一つに乗り、多くの威風堂々とした車を伴い、自らの園を目指して、ヴェーサーリーへと出発した。
 そして、車が通れる所までは車で進み、その後、車から降りて徒歩で進み、覚者がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、覚者を礼拝して傍らに座った。傍らに座った娼婦アンバパーリーに、覚者は説法をして、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばせられた。
 そのとき、娼婦アンバパーリーは、覚者の説法によって、教え示され、鼓舞され、感動させられ、喜ばせられて、覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、どうか明日、覚者は向煩悩滅尽多学男出家教団と共に、わたしの食事をお受けください。」
 そこで、覚者は黙ってそれに同意なさった。そして、娼婦アンバパーリーは、覚者が同意なさったのを知って、座を立って、覚者を礼拝し、右回りの礼をして去ったのである。
一五 また、ヴェーサーリーのリッチャヴィ族も、「覚者がヴェーサーリーに到着し、ヴェーサーリーのアンバパーリーの林にとどまられたそうだ」と伝え聞いた。そこで、リッチャヴィ族は、多くの威風堂々とした車を用意させ、自らも威風堂々とした車の一つに乗り、多くの威風堂々とした車を伴い、ヴェーサーリーへと出発した。
 あるリッチャヴィ族は、青く、青い色彩で、青い衣服で、青い装飾品であり、また、あるリッチャヴィ族は、黄色く、黄色い色彩で、黄色い衣服で、黄色い装飾品であり、また、あるリッチャヴィ族は、赤く、赤い色彩で、赤い衣服で、赤い装飾品であり、また、あるリッチャヴィ族は白く、白い色彩で、白い衣服で、白い装飾品である。
一六 そして、娼婦アンバパーリーは、リッチャヴィ族の若者たちに、車軸と車軸、車輪と車輪、くびきとくびきを衝突させた。リッチャヴィ族は、娼婦アンバパーリーにこう言った。
「おい、アンバパーリー。なんで、リッチャヴィ族の若者たちに、車軸と車軸、車輪と車輪、くびきとくびきを衝突させたんだ。」
「お坊ちゃま方、それは、わたしが明日、覚者を向煩悩滅尽多学男出家教団と共に、食事にご招待したからです。」
「おい、アンバパーリー。それなら、その食事を十万で譲ってくれ。」
「お坊ちゃま方、たとえヴェーサーリーに領土を付けてくださっても、このような偉大な食事は譲れません。」
 そこで、彼らリッチャヴィ族は、指をパチンと鳴らした。
「ああ、友よ、我々はつまらん女【あま】に負けちまった。ああ、友よ、我々はつまらん女に一杯食わされちまった。」
 そして、彼らリッチャヴィ族は、アンバパーリーの林へと出発したのである。
一七 そのとき、覚者は彼らリッチャヴィ族が遠くから来るのをご覧になった。ご覧になると、向煩悩滅尽多学男たちにこう告げた。
「向煩悩滅尽多学男たちよ、向煩悩滅尽多学男たちで三十三天を見ていない者は、向煩悩滅尽多学男たちよ、リッチャヴィ族の集団を見なさい。向煩悩滅尽多学男たちよ、リッチャヴィ族の集団を何度も見なさい。向煩悩滅尽多学男たちよ、リッチャヴィ族の集団を三十三天の集団であると把握しなさい。」
一八 そして、彼らリッチャヴィ族は、車が通れる所までは車で進み、その後、車から降りて徒歩で進み、覚者がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、覚者を礼拝して傍らに座った。傍らに座った彼らリッチャヴィ族に、覚者は説法をして、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばせられた。
 そのとき、彼らリッチャヴィ族は、覚者の説法によって、教え示され、鼓舞され、感動させられ、喜ばせられて、覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、どうか明日、覚者は向煩悩滅尽多学男出家教団と共に、わたしの食事をお受けください。」
「リッチャヴィ族よ、わたしは明日、娼婦アンバパーリーの食事で過ごすのです。」
 そこで、彼らリッチャヴィ族は、指をパチンと鳴らした。
「ああ、友よ、我々はつまらん女【あま】に負けちまった。ああ、友よ、我々はつまらん女に一杯食わされちまった。」
 こうして、彼らリッチャヴィ族は、覚者の説かれた教えに歓喜し、感謝して、座を立って、覚者を礼拝し、右回りの礼をして去ったのである。
一九 さて、娼婦アンバパーリーは、その夜が過ぎてから、極妙な硬い食べ物と軟らかい食べ物を、自らの園に用意させて、覚者に食事の用意ができたことをお告げした。
「尊師よ、お食事の時間です。用意が調いました。」
 そこで、覚者は朝方、内衣を着け、衣鉢を持って、向煩悩滅尽多学男出家教団と共に、その娼婦アンバパーリーの家に赴かれた。赴くと、設けられた座にお座りになった。そして、娼婦アンバパーリーは、覚者をはじめとする向煩悩滅尽多学男出家教団に、極妙な硬い食べ物と軟らかい食べ物を、自らの手で満足するまでおもてなし申し上げた。
 さて、娼婦アンバパーリーは、覚者が食事を終えて、鉢から手を離されたとき、ある低い座を取って、傍らに座った。傍らに座って、娼婦アンバパーリーは覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、わたしはこの園を、覚者をはじめとする向煩悩滅尽多学男出家教団に施すつもりです。」
 覚者はその園を受けられた。そこで、覚者は娼婦アンバパーリーに説法をして、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばせて、座を立ってお帰りになったのである。
二〇 またここで、覚者はヴェーサーリーのアンバパーリーの林にとどまり、向煩悩滅尽多学男たちに対して、この数々の法話をなさったのだ。
「戒とはこうである。サマディとはこうである。智慧とはこうである。戒に熟達させられたサマディには、大いなる果報と大いなる功徳がある。サマディに熟達させられた智慧には、大いなる果報と大いなる功徳がある。智慧に熟達させられた心は、諸々の漏から完全に離解脱する。すなわちそれは、欲漏・生存漏・見解漏・非神秘力漏からである」と。

◆サンサーラの不利な点

2005-03-26 | ☆【経典や聖者の言葉】

 この後で、もしサンサーラ、輪廻の不利な点について瞑想することがなければ、衝動的にそれに引きつけられている状態から離れることはできないし、また、それを捨て去ろうという気持ちも起きてきません。このような状況からは、心の流れの中に経験も洞察も生起しません。この生起が欠けているがゆえに、サンサーラから離れるためには、サンサーラの苦しみについて瞑想しなくてはならないのです。
 これに関連して、もし魂が地獄に生まれたなら、八つの熱地獄、八つの寒冷地獄、小地獄、特別な目的の地獄に表わされているような激しい苦痛を味わわなければなりません。
 餓鬼には飢えと渇きがあります。
 動物は殺されたり、されたりします。
 人間には生・老・病・死があります。
 神々はいずれは高い世界から落ち、その意識が変化します。
 阿修羅にはケンカ、戦いが絶えません。
 これがサンサーラの六つの世界の苦しみなのです。

 これに加えて不幸・苦痛を味わう明白な苦があります。
 楽しみと見えるものは変化する苦を与えます。
 中立的なニュアンスを持つのは、すべてにいきわたる苦です。魂はこの最後の苦に絶え間なくさいなまれているので、サンサーラのどこにいようと変わらないのです。
 たとえ宇宙を征する転輪聖王になろうとも、ブラフマン、インドラになろうとも苦を乗り越えたことにはならないのです。それゆえに、サンサーラとは牢獄のようなものであり、底のない穴、燃え上がる巨大な炎であると確信し、今現在から常にできる限り、そこから解放される方法を求めなければなりません。

【解説】サンサーラとは〝循環する〟という意味で、果てしなく生・病・老・死、生、病等のサイクルを繰り返すことを意味しています。
 サンサーラを推進させ、永続させているものは、無智と十二縁起と呼ばれる仕組みです。
 誕生には四つの方法があり、それぞれ子宮、卵、熱と湿気、奇跡的な変化による誕生です。これらの誕生によって地獄・餓鬼・動物・人間・阿修羅・神々の六つの世界のどこかへ生まれ変わります。
 最初の五つは欲界にあり、神々は三界、すなわち欲界・色界・無色界にまたがっています。しかしどこに生まれようと苦からは逃れられないのです。
 それぞれの世界が、本文にあるようにそれぞれ独特の不利な点を持っています。
 三つの一般的な苦、つまり苦痛、変化、すべてにいきわたる苦の三つはすべての世界に共通しています。
 最初の苦は、病・死等の明らかな苦痛です。
 変化の苦はおいしい食物、田舎の散歩といった一見楽しいと思われるものが、胸焼けの原因になったり足のまめの原因になったりすることを示しています。
 すべてにいきわたる苦というのは、普通の人には不明確で、感じることのできない苦なのですが、空を認識している聖者はこれをはっきりと知覚することができます。これは手のひらに乗せた毛は痛くないのに、それが目に入ると非常に痛いということにたとえることができます。これは汚れた蘊を持って生まれることについてまわる苦で、この蘊がそれ自体の性質として磁石のように病・老・死を引きつけるのです。
 これらのサンサーラの不利点について瞑想することによって、サンサーラを離れる心、あるいは苦から完全に自由になりたいと願う心の状態をつくり出すことが必要です。これがヒナヤーナを修行する動機となり、この動機と空の理解とによって解放がもたらされます。
 しかし解放を妨げている障害だけではなく、全智を妨げている障害をも克服するためには、もっと先に進む必要があります。離脱する心に加えて、菩薩としての動機を培う必要があります。すべてのサンサーラの生き物が苦を経験すること、そしてあなたと同じようにその束縛から自由になり、絶対的な幸福を願っているのだということを理解して、自分と他の生き物たちの両方を解放するために仏陀になるよう努力しなくてはなりません。この動機によって空の理解に特別な力が加わり、解脱がもたらされるのです。

 もしこのサンサーラを超えた状態であるヒナヤーナの解放を達成したとしても、絶対的な幸福を得たわけではありません。ゆえになんとしてでも、この無二の解脱に到達するよう努力をしなくてはなりません。そのためには、すべての生き物は一つの例外もなく無始の過去から、優しい自分の父・母であるという確信を持ち、
「わたしは絶対に彼らを比ぶるもののない至福をもたらしてくれる、完全な解脱へと導くんだ」
と考え、正真正銘菩薩としての動機を培うことが必要です。これが七番目の準備修行、この方向に向けて努力することです。

法の鏡

2005-03-22 | ☆【経典や聖者の言葉】
五 さて、覚者はコーティ村に心ゆくまでとどまられた後、長老アーナンダにこうお告げになった。
「さあ、アーナンダよ、ナーディカを訪れよう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは覚者にお応え申し上げた。そして、覚者は大きな向煩悩滅尽多学男出家教団と共に、ナーディカに入られた。そこで、覚者はナーディカのレンガの家にとどまられたのである。
六 そのとき、長老アーナンダは、覚者がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、覚者を礼拝して傍らに座った。傍らに座って、長老アーナンダは覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、サーロという名の向煩悩滅尽多学男は、ナーディカで命を終えました。どのような趣【しゅ】に行き、どのような来世になったのでしょうか。
 尊師よ、ナンダーという名の向煩悩滅尽多学女【こうぼんのうめつじんたがくにょ】は、ナーディカで命を終えました。どのような趣に行き、どのような来世になったのでしょうか。
 尊師よ、スダッタという名の帰依信男【きえしんなん】は、ナーディカで命を終えました。どのような趣に行き、どのような来世になったのでしょうか。
 尊師よ、スジャーターという名の帰依信女【きえしんにょ】は、ナーディカで命を終えました。どのような趣に行き、どのような来世になったのでしょうか。
 尊師よ、カクダという名の帰依信男は、ナーディカで命を終えました。どのような趣に行き、どのような来世になったのでしょうか。
 尊師よ、カーリンガという名の帰依信男は、ナーディカで命を終えました。どのような趣に行き、どのような来世になったのでしょうか。
 尊師よ、ニカタという名の帰依信男は、ナーディカで命を終えました。どのような趣に行き、どのような来世になったのでしょうか。
 尊師よ、カティッサバという名の帰依信男は、ナーディカで命を終えました。どのような趣に行き、どのような来世になったのでしょうか。
 尊師よ、トゥッタという名の帰依信男は、ナーディカで命を終えました。どのような趣に行き、どのような来世になったのでしょうか。
 尊師よ、サントゥッタという名の帰依信男は、ナーディカで命を終えました。どのような趣に行き、どのような来世になったのでしょうか。
 尊師よ、バッダという名の帰依信男は、ナーディカで命を終えました。どのような趣に行き、どのような来世になったのでしょうか。
 尊師よ、スバッダという名の帰依信男は、ナーディカで命を終えました。どのような趣に行き、どのような来世になったのでしょうか。」
七 「アーナンダよ、サーロ向煩悩滅尽多学男は、諸々の漏を破壊することによって、無漏【むろ】の心の離解脱や智慧の離解脱を、現世において、自ら証智【しょうち】し現証【げんしょう】し具足【ぐそく】してとどまったのである。
 アーナンダよ、ナンダー向煩悩滅尽多学女は、五下分結【ごかぶんけつ】を完全に破壊することによって、化生者【けしょうしゃ】となり、かの所で完全煩悩破壊者となり、あの世から還らない者となったのである。
 アーナンダよ、スダッタ帰依信男は、三結【さんけつ】を完全に破壊することによって、愛著【あいじゃく】・邪悪心【じゃあくしん】・迷妄【めいもう】が減少し、一来者【いちらいしゃ】となり、もう一度だけこの世に来て、苦の終極をなすであろう。
 アーナンダよ、スジャーター帰依信女は、三結を完全に破壊することによって、預流者【よるしゃ】であり、悪趣【あくしゅ】に落ちない法があり、決定者であり、正覚【しょうかく】に到達するのである。
 アーナンダよ、カクダ帰依信男は、五下分結を完全に破壊することによって、化生者となり、かの所で完全煩悩破壊者となり、あの世から還らない者となったのである。
 アーナンダよ、カーリンガ帰依信男は、五下分結を完全に破壊することによって、化生者となり、かの所で完全煩悩破壊者となり、あの世から還らない者となったのである。
 アーナンダよ、ニカタ帰依信男は、五下分結を完全に破壊することによって、化生者となり、かの所で完全煩悩破壊者となり、あの世から還らない者となったのである。
 アーナンダよ、カティッサバ帰依信男は、五下分結を完全に破壊することによって、化生者となり、かの所で完全煩悩破壊者となり、あの世から還らない者となったのである。
 アーナンダよ、トゥッタ帰依信男は、五下分結を完全に破壊することによって、化生者となり、かの所で完全煩悩破壊者となり、あの世から還らない者となったのである。
 アーナンダよ、サントゥッタ帰依信男は、五下分結を完全に破壊することによって、化生者となり、かの所で完全煩悩破壊者となり、あの世から還らない者となったのである。
 アーナンダよ、バッダ帰依信男は、五下分結を完全に破壊することによって、化生者となり、かの所で完全煩悩破壊者となり、あの世から還らない者となったのである。
 アーナンダよ、スバッダ帰依信男は、五下分結を完全に破壊することによって、化生者となり、かの所で完全煩悩破壊者となり、あの世から還らない者となったのである。
 アーナンダよ、五十以上の帰依信男がナーディカで命を終えて、五下分結を完全に破壊することによって、化生者となり、かの所で完全煩悩破壊者となり、あの世から還らない者となったのである。
 アーナンダよ、九十を超える帰依信男がナーディカで命を終えて、三結を完全に破壊することによって、愛著・邪悪心・迷妄が減少し、一来者となり、もう一度だけこの世に来て、苦の終極をなすであろう。
 アーナンダよ、五百余りの帰依信男がナーディカで命を終えて、三結を完全に破壊することによって、預流者であり、悪趣に落ちない法があり、決定者であり、正覚に到達するのである。
八 しかし、アーナンダよ、人間が命を終えることは、不思議なことではない。つまり、各々が命を終えたとき、真理勝者【しんりしょうしゃ】の所を訪れて、この意義を尋ねること、アーナンダよ、これはまさに真理勝者の苦悩なのである。
 アーナンダよ、ここで、法の鏡という名の法の要点を説こう。そして、聖なる多学の弟子がこれを具足し、自ら願うならば、『地獄が破壊され、動物界が破壊され、餓鬼界が破壊され、悪趣・険難処【けんなんしょ】・堕処【だしょ】が破壊され、わたしは預流者であり、悪趣に落ちない法があり、決定者であり、正覚に到達する』と、自らを明らかにすることができるのだ。
九 アーナンダよ、それでは、聖なる多学の弟子がこれを具足し、自ら願うならば、『地獄が破壊され、動物界が破壊され、餓鬼界が破壊され、悪趣・険難処・堕処が破壊され、わたしは預流者であり、悪趣に落ちない法があり、決定者であり、正覚に到達する』と、自らを明らかにすることができる、法の鏡・法の要点とは何であろうか。
 アーナンダよ、ここで聖なる多学の弟子は、覚者に対して絶対の浄信を具足する。すなわち、
『かの覚者は、供養値魂【くようちこん】・最上正覚者【さいじょうしょうかくしゃ】・智徳成就者【ちとくじょうじゅしゃ】・最上善逝【さいじょうぜんぜい】・世間解・無上士【むじょうし】・丈夫調御者【じょうぶちょうぎょしゃ】・天人師【てんにんし】・覚者・世尊【せそん】である』と。
 法に対して絶対の浄信を具足する。すなわち、
『よく説かれた覚者による法は、現実に利益をもたらし、直接的であり、すべての人に理解できるように説かれており、煩悩破壊へ導き、それぞれの識別によって理解できる』と。
 出家教団に対して絶対の浄信を具足する。すなわち、
『覚者の多学の弟子出家教団は、善に付き従い、覚者の多学の弟子出家教団は、誠実に従い、覚者の多学の弟子出家教団は、正しい体系に従い、覚者の多学の弟子出家教団は、正法にのっとり日々を送るという、すなわち、覚者の多学の弟子出家教団は、四対の人々-八つの宗教的特性を持つ人々であって、崇拝に値し、厚遇されるに値し、布施を受けるに値し、合掌されるに値し、この世の無上の福田【ふくでん】である』と。
 聖者が愛する戒を具足する。すなわちそれは、
『聖なる戒であり、道徳的に肯定されるべきものであり、悪趣に落ちない戒であり、純粋な戒であり、煩悩から解放する戒であり、識者に称賛され、煩悩に負けないための戒であり、サマディに導く』と。
 アーナンダよ、これが、聖なる多学の弟子がこれを具足し、自ら願うならば、『地獄が破壊され、動物界が破壊され、餓鬼界が破壊され、悪趣・険難処・堕処が破壊され、わたしは預流者であり、悪趣に落ちない法があり、決定者であり、正覚に到達する』と、自らを明らかにすることができる、法の鏡・法の要点なのである。」
一〇 またここで、覚者はナーディカのレンガの家にとどまり、向煩悩滅尽多学男たちに対して、この数々の法話をなさったのだ。
「戒とはこうである。サマディとはこうである。智慧とはこうである。戒に熟達させられたサマディには、大いなる果報と大いなる功徳がある。サマディに熟達させられた智慧には、大いなる果報と大いなる功徳がある。智慧に熟達させられた心は、諸々の漏から完全に離解脱する。すなわちそれは、欲漏・生存漏・見解漏・非神秘力漏からである」と。

智性が澄めば教えに信が生ずる

2005-03-21 | ☆【経典や聖者の言葉】


身内に対しては愛情を水のように注ぎ
敵に対しては憎しみを炎のように燃やす
善悪の見境がつかない愚かさは真っ暗な闇
故郷を捨てること、それが菩薩の実践である


悪い故郷を捨て去れば煩悩は次第に消え去っていく
怠けず励む者の功徳は自ずと増えていく
智性が澄めば教えに信が生ずる
「静謐な場所」に安らぐ心、それが菩薩の実践である

かりそめ

2005-03-20 | ☆【経典や聖者の言葉】

 神の御名を唱え、彼の栄光をうたい、よい仲間と交わり、時々神の信者やサドゥーたちを訪れなさい。心は、日夜世俗のこと、つまり世間のつとめや責任に没頭していたのでは神を思うことはできない。時々ひとけを離れたところに行って神を思うことが最も必要である。最初は、ひとけを離れたところで瞑想を実習するのでなければ、心を神に集中することは非常に難しい。若木の周りには垣を作ってやらなければならないだろう。そうでないと家畜に踏み荒らされてしまうから。
 瞑想をするためには、自分の内部に閉じこもるか、あるいは隔離された一隅か森の中かに退くべきである。そして常に実在するものとしないものとを識別しなければならない。神のみが実在、永遠なる実体であって、他はすべて非実在、つまりかりそめのものである。このように識別することによって、人はかりそめの対象を心から振り落とすべきである。


              (ラーマクリシュナ・パラマハンサ)

自他共に輪廻の海から救われるために

2005-03-20 | ☆【経典や聖者の言葉】

【三十七の菩薩の実践】

ナモー ローケーシュヴァラーヤ


優れた師であり、救済者である観自在菩薩に、常に三門で恭しく礼拝いたします。観自在菩薩は「一切の法則は去ることも、来ることもない」とごらんになりつつ、しかも輪廻する衆生のために一心に励んでいらっしゃるのです。
一時的な幸せと究極的な幸せを生じる源である諸々のブッダは、正しい法則を完成することでブッダとなり得ました。それは法則を実践することの内容を知り、それを実際に行なったからなのです。これより菩薩の実践について述べることといたします。


大きな船のような有暇具足をそなえた有意義で得難い生を受けた今生で
自他共に輪廻の海から救われるために
昼夜を問わず怠けずに真理を聞き、考え、瞑想すること
それが菩薩の実践である


「彼」だけが

2005-03-20 | ☆【経典や聖者の言葉】

 それがお前たちカルカッタの連中の唯一の道楽なのだ--説教をして、他人を教化しようとする! 誰一人、反省して自分が教えを受けようとする者はいない。他人を教えるというお前たちはいったい何者なのだ。
 宇宙の主でいらっしゃる「彼」が、あらゆる者にお教えになるのだ。
 この宇宙をおつくりになった「彼」だけが、太陽と月を作り、人と獣と他のすべての生き物をおつくりになった「彼」だけが、われわれをお教えになるのだ。彼らに生命を維持する方法を教え、子供たちに親を与えてその親たちに彼らを育てる愛をお授けになった「彼」だけが、われわれをお教えになるのだ。主は実に様々のことをしておいでになる--「彼」が、ご自分を拝む方法を人々にお教えにならないなどということがあろうか。もし彼らが教えを必要とするなら、そのときには「彼」が教師におなりになるだろう。「彼」はわれわれの、内なる導き手でいらっしゃる。
 仮に土の像を拝むことに何かの間違いがあるとしても、それによって神だけが呼び求められていることを「彼」がお知りにならないかね? 「彼」は拝まれているという、そのことだけでお喜びになるであろう。なぜそのことでお前が頭を痛めなければならないのか。お前は自分の叡智と信仰を求めて努力したほうがよい。

 お前は、土の像を拝むということを言っていた。たとえ神像は土でできていても、そのような種類の礼拝が必要なのである。神ご自身が礼拝の様々の形を与えてくださったのである。宇宙の主である「彼」が、叡智の様々の段階にある様々の人のために、これらすべての形を用意してくださったのである。
 母親は様々の子供の胃袋に合うように、様々の料理を作るだろう。五人の子供がいるとする。ここに一尾の魚があれば、彼女はそれで様々の料理を作る。ピラフとか、漬物とかフライとかいうように、彼らの好みと消化力に合わせて。--私の言うことがわかるか。

              (ラーマクリシュナ・パラマハンサ)

どちらの面からでも

2005-03-20 | ☆【経典や聖者の言葉】

 どちらの面からでも、信仰を持っていれば十分だ。お前は形のない神を信じている、それで結構だよ。しかし、たとえ一瞬の間でも、これだけが本当で他は全部嘘だ、などと考えてはいけない。形のある神も形のない神と全く同じように本物だ、ということを覚えておいで。ただしお前自身の信念は固く守るようにしなさい。


              (ラーマクリシュナ・パラマハンサ)

神の御名を一度聞くだけで

2005-03-20 | ☆【経典や聖者の言葉】

 神の御名を一度聞くだけで涙が流れ、髪が逆立つようになったら、もう自分はサンディヤーのような勤行はしないでもよいと思ってよろしい。
 そうなったときにはじめて、人は儀式を捨てる権利を得た、というよりむしろ、儀式のほうがおのずから去ってしまうのだ。
 そのときには、神の御名を唱えさえすれば、またはただオームを唱えるだけでも、十分であろう。


              (ラーマクリシュナ・パラマハンサ)

コーティ村にて

2005-03-18 | ☆【経典や聖者の言葉】
◇第二誦品

一 そこで、覚者は長老アーナンダにこうお告げになった。
「さあ、アーナンダよ、コーティ村を訪れよう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは覚者にお応え申し上げた。そして、覚者は大きな向煩悩滅尽多学男出家教団【こうぼんのうめつじんたがくなんしゅっけきょうだん】と共に、コーティ村に入られた。そこで、覚者はコーティ村にとどまられたのである。
二 そのとき、覚者は向煩悩滅尽多学男たちに、次のようにお説きになった。
「向煩悩滅尽多学男たちよ、四つの絶対的真理に覚醒することなく、洞察しなかったために、わたしも君たちも、このように長い間流転輪廻【るてんりんね】したのである。それでは、四つとは何であろうか。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、苦の絶対的真理に覚醒することなく、洞察しなかったために、わたしも君たちも、このように長い間流転輪廻した。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、苦の生起の絶対的真理に覚醒することなく、洞察しなかったために、わたしも君たちも、このように長い間流転輪廻した。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、苦の滅尽の絶対的真理に覚醒することなく、洞察しなかったために、わたしも君たちも、このように長い間流転輪廻した。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、苦の滅尽に至る方法の絶対的真理に覚醒することなく、洞察しなかったために、わたしも君たちも、このように長い間流転輪廻したのである。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、それゆえに、苦の絶対的真理に覚醒し、洞察した。苦の生起の絶対的真理に覚醒し、洞察した。苦の滅尽の絶対的真理に覚醒し、洞察した。苦の滅尽に至る方法の絶対的真理に覚醒し、洞察した。そこで、生存渇愛は断滅され、生存に導くものは破壊され、今や再生することはないのである。」
 このように覚者はお説きになった。そして、このように説いた後、世間解【せけんげ】である尊師は、さらに次のようにお説きになった。

  四つの絶対的真理を、
  如実に見ることがなく、
  久しく様々な所に生まれ、
  輪廻した。
  既にこれらを見たならば、
  生存に導くものを除き去り、
  苦の根本を断じ、
  今や再生することはないのだ。

四 またここで、覚者はコーティ村にとどまり、向煩悩滅尽多学男たちに対して、この数々の法話をなさったのだ。
「戒とはこうである。サマディとはこうである。智慧【ちえ】とはこうである。戒に熟達させられたサマディには、大いなる果報と大いなる功徳がある。サマディに熟達させられた智慧には、大いなる果報と大いなる功徳がある。智慧に熟達させられた心は、諸々の漏【ろ】から完全に離解脱【りげだつ】する。すなわちそれは、欲漏【よくろ】・生存漏【せいぞんろ】・見解漏【けんかいろ】・非神秘力漏【ひしんぴりょくろ】からである」と。

私の胸の蓮華の台座に

2005-03-17 | ☆【経典や聖者の言葉】

 やんごとなき根本のグル
 私の胸の蓮華の台座に座りたまえ

 限りないやさしさで私を見守り
 身口意の達成を与えたまえ
 
 優れたグルの姿と振る舞いに
 一瞬たりとよこしまな考えを抱くまい

 曇りないまなざしに敬いをこめるゆえ
 グルの祝福の力が、私の力に宿りますように

 どのような生存に再生しようと、この上なく優れたグルと
 離れることなく、真理の誉れを享受して
 土台と道の達成を成し遂げて
 ヴァジラダラの位を速やかに得ることができますように








広大な浄土に現われる

2005-03-17 | ☆【経典や聖者の言葉】
 いかなる偏りからも自由な広大な浄土に現われる
 偉大なる完全なる絶対なるシヴァ大神
 水に映る月の戯れのような報身、ヴァイローチャナ真理勝者
 未来仏マイトレーヤの化身であるグル麻原
 あなた方に祈る、祝福とイニシエーションを与えられんことを

 密教行者すべての理想であるティローパ
 ヴァジラ乗の成就者の王ナーローパ
 マルパと詩聖ミラレーパ
 あなた方に祈る、解脱の道を示したまえと

 南のジャンブ州の珠玉パドマサンバヴァ
 その真実の息子たち、王、高臣、友
 大海のごとき心の宝庫の象徴を解き放ったロンチェン・ラプジャム
 ダーキニー界の宝庫を託されたジグメ・リンバ
 あなた方に祈る、成就と解脱を与えたまわんことを

 智慧に満ちた成就者サーリプッタ
 神通第一マハー・モッガッラーナ
 偉大な天眼を持つアヌルッダ
 あなた方に祈る、心の本然の姿を示したまえと

 とりわけ、奥深い光り輝く仏部の
 大いなる真理勝者サキャ神賢
 比類なきやさしさにあふれた根本のグル
 あなた方に祈る、のびのびと二利を達成せんことを


人に生まれながら

2005-03-17 | ☆【経典や聖者の言葉】

 この生において、幸運な生に恵まれた利を生かさないなら
 将来の生で、解脱の基礎を得ることは難しい

 善趣に生まれながら、集積した功徳を浪費しつくすなら
 死んで後、悪趣に生まれ不幸な生存をさまよい続けることだろう

 善と不善の何たるかも知らず、覚者の法則の声を聞くこともなく
 精神の導師にめぐり合うこともない、たとえようもない不幸に出会う

 六道とそこに生きるおびただしい生き物の数を考えてみるならば、
 いかに人に生を得ることの稀有であるかを知る

 人に生まれながら、覚者の法則を知らず不善にふける者たちを見るにつけ
 法則を行なう者の、真昼の空の星の数ほど微々たるを知る

 グルよ、私の心を覚者の法則に向かわせたまえ
 偏智の聖者たちよ、私が過てる劣った道に迷い出ることのないように
 それら聖者たちと異なることのない根本のグルよ、私を見守りたまえ


◆カルマと因果の法則

2005-03-16 | ☆【経典や聖者の言葉】


 この後、カルマ、因果の法則に照らして、何をなし、何をなしてはいけないかをはっきり知ることが必要となります。どのような生き物であっても自分のなしたことの果は必ず自分に返ります。さらに、十の悪業をなすならば、不運な転生と呼ばれる状況のもとに転生することになります。三つの毒のうちのどれを使ってその要素がなされたか、どれくらいの頻度でなされたか、その対象はだれか、その程度は重いか、中位か、小さいかによって、地獄に生まれ変わるか、餓鬼に生まれ変わるか、動物に生まれ変わるかが決まります。もしこの三つのうちに生まれ変わるなら、計り知れない苦しみを味わわなければなりません。反対になした善行の程度、大きな善行か中位の善行か、小さな善行かによって、無色界・色界、あるいは欲界の天界のうちのどこに生まれ変わるかが決まります。ゆえに常に自分のなす行為を、身・口・意の三つの門を通してチェックすることが大切となります。

【解説】因果の法則の基本は、幸福は善業あるいは〝白い〟カルマの結果であり、苦しみは悪業〝黒い〟カルマの結果であるということです。さらにその人のなしたことはその人にだけ返ります。つまり、もしあなたが人を殺すなら、その果はあなたの両親でも子供でもなく、あなた自身に返るということです。ゆえに、もし自分、そして他人を利することを望むなら、残酷な行ないをやめ、親切な行ないをなすようにしなくてはなりません。
 十の悪業は三つの身の悪業、四つの口の悪業、三つの心の悪業に分けられます。身の悪業とは、殺生、自分に与えられないものを取ること、すなわち盗み、姦通、強姦といったような正しくない性行為を行なうことです。四つの口の業とは嘘、人を仲たがいさせる言葉を話すこと、悪口、あるいは粗暴な言葉を話すこと、無駄話、うわさ話をすることです。心の悪業とは他人に属するものをむやみに欲しいと思うこと、邪悪な思いを持つこと、そして例えば因果の法を信じないといった誤った信念、考えを持つことです。
 並の十の善行とは十の悪業をなさないことです。しかし十の特別な善行とは、他の命を救うこと、寛大であること(布施をなすこと)、戒を守り、そして他にも同じようになすことを勧めること、誤解を生まないように真実を話すこと、ケンカの仲裁をし、敵を仲直りさせること、優しく、静かに話すこと、教えや祈りのように意味あることを話すこと、欲を持たず、満足を知ること、他に対して善い思いを持ち、正しい宗教を信じ、その教えに確信を持つことです。
 もし、他の命を救い、殺生を行なわないなら命は長くなります。反対に、繰り返して殺生をなすなら命は短くなり、病が続きます。人に施し、盗みをなさないならば豊かになります。しかし、盗みを行なうならば貧しくなり、盗みに遭います。身を清く保ち、邪淫をなさないならば快い容姿を持ち、結婚生活・友人関係はうまくいきます。しかし反対に邪淫を行なうならば醜くなり、結婚生活はうまくいかず、夫または妻に裏切られます。
 真実を語り、嘘をつかないことによって、他の人はあなたの言うことを信じます。しかし、いつも嘘をつくなら、だれもあなたの言うことを信じないでしょう。仲たがいさせるような言葉を避け、人を仲良くさせるなら、いつも友人と親しくつきあうことができるでしょう。反対に仲たがいさせるなら、敵を作り、妬まれ、友人関係は貧しいものになるでしょう。快い言葉を話し、悪口を言わないなら、他の人もあなたに優しい言葉を話してくれるでしょう。しかし、常に他人の悪口を言うならば、自分も悪口を言われ、粗暴な言葉で話しかけられます。意味のある言葉だけを語り、うわさ話をしないなら、自分も意味のある言葉を聞きます。一方無駄話をするならば、自分もたわいのないことしか耳にしません。
 満ち足りることを知り、他人のものを欲しがらないなら、何にも不自由することはないでしょう。しかし隣人のものを常に欲しがっているような人は、乞食になり、常に満たされることがなくなります。他に対して善き思いを持ち、悪しき思いを持たないならば、人々に親切にされ、尊敬されます。一方悪しき思いを持つことによって人に疑われ、害されることになります。正しい、正確な見方をすることによって智性、智慧は増し、頭はいつもさえています。しかし誤った見方に執着するならば、心は狭くなり、智性は働かず、疑いに満たされます。
 カルマの果は本文にあったように様々に分かれます。別の分け方として、行為の動機となる誤った考えによって分ける方法があります。もし強いプライドと慢によって行動するなら神として生まれ変わります。嫉妬から行動するなら阿修羅となり、欲望なら人間、心の狭さなら動物、物惜しみによって餓鬼、怒りによって地獄にそれぞれ生まれ変わります。ゆえに欲六界の転生から解放され、究極的な目的である解脱を達成するためには、誤った考えを取り除き、善行を行なうよう努力することが必要です。

彼らの死んだ様子を考え

2005-03-16 | ☆【経典や聖者の言葉】

 今まで何人の友人や親族が亡くなったかを数え、彼らの死んだ様子を考え、その死体が焼き場に持っていかれ、ついには骨だけになってしまったことを考えます。そして自分も同様のことを免れ得ないのだということを考えて、死刑執行人の手に引き渡された人が持つような恐怖の状態に自分を持っていきます。心を散漫にして逃げてはいけません、この世に完全に興味がなくなったとき、完全にこの状態に心を没入させて瞑想します。これが五番目の準備修行、死と無常の瞑想です。

【解説】これらの瞑想はあなたの気を滅入らせるのが目的ではありません。もし瞑想の結果、悲観的になって苦しみ、「自分は死ぬ。そしてそれをどうすることもできない」と考えるなら、この瞑想は苦しみの原因となるだけです。死の瞑想の目的は、あなたに法の実践をさせ、カルマの法則を考えるようにし、未来の転生を左右するためには何をなしたらいいかを教えることにあるのです。戦いの場に入っていく勇者を鼓舞するように、あなたを鼓舞することが目的なのです。ミラレーパが言っています。「わたしは死を恐れて山に入った。しかし自らの心のダルマカーヤの本質を知った今、もう死が来ても怖くはない」と。