まず人に生まれることの難しさを思い
次に無常を知る
死がいつ訪れるかわからないことを記憶修習し
善のカルマをなし、悪のカルマを捨てる事を覚えるがよい
輪廻存在全体と、それぞれの世界の欠点を知り
輪廻の中の快楽にもとらわれず
戒・サマーディ・智慧の三学という飾りを身につけ
小乗の道を捨て
菩薩の道を歩み
布施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの徹底行を行じて
すべての衆生を解脱に導こうという
力強い決意を起こすのだ
一切の衆生を解脱の道へと導くには
自分が全智者にならなければならず
それも急いで達成しなければ
衆生が苦しみ続ける事を知り
速やかに覚者の境地に達するには
顕教より優れた
所作、行、ヨーガ・タントラの密教の教えもあるけれど
今生で覚者の境地に達することのできる
深甚なる無上ヨーガ・タントラの教えを請い
イニシエーションを受け、密教の戒を守るのだ
生起次第と究きょう次第という二つの行を完成したなら
大楽と空性が一体となった四身の境地に達することだろう
次に無常を知る
死がいつ訪れるかわからないことを記憶修習し
善のカルマをなし、悪のカルマを捨てる事を覚えるがよい
輪廻存在全体と、それぞれの世界の欠点を知り
輪廻の中の快楽にもとらわれず
戒・サマーディ・智慧の三学という飾りを身につけ
小乗の道を捨て
菩薩の道を歩み
布施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの徹底行を行じて
すべての衆生を解脱に導こうという
力強い決意を起こすのだ
一切の衆生を解脱の道へと導くには
自分が全智者にならなければならず
それも急いで達成しなければ
衆生が苦しみ続ける事を知り
速やかに覚者の境地に達するには
顕教より優れた
所作、行、ヨーガ・タントラの密教の教えもあるけれど
今生で覚者の境地に達することのできる
深甚なる無上ヨーガ・タントラの教えを請い
イニシエーションを受け、密教の戒を守るのだ
生起次第と究きょう次第という二つの行を完成したなら
大楽と空性が一体となった四身の境地に達することだろう
魂が三つの体による三段階の迷いから完全に脱すると、それはついに、個性を持ったまま、無限なるお方とひとつになる。
(シュリー・ユクテスワ)
これは、尊師がジェータ林にとどまっておられたときに、父を亡くした資産家に関して講演なさったものです。
彼は父が死んでから、悲嘆して歩き回り、悲しみをぬぐいさることができませんでした。尊師は彼に真理の流れに入る果報の土台があることを見て、サーヴァッティで施し物のために歩き回り、後に出家修行者を従えて家に行き、用意された座に座りました。
彼も尊師にうやうやしくあいさつして座ると、
「帰依信男よ、何か不運な出来事があったか。」
とおっしゃられました。
「はい、尊師よ。」
と申し上げると、
「友よ、大昔からの賢者は賢者たちの話を聞いて、父が逝ったときも悲しまなかったのだよ。」
このように言って、彼に懇願されたので、物語をお話しになったのです。
その昔、バーラーナシーでブラフマダッタが君臨していたころ、到達真智運命魂は資産家の家に存在するようになり、スジャータクマーラと名付けられました。
彼が青年に達したとき、祖父は逝き、彼の父は、父が死んでから、悲しみに取りつかれていました。火葬場から骸骨を持ってきて、自分自身の大庭園に粘土で作られた塔を作り、それをそこに葬り、行くときごとに花で礼遇し、思案しては悲嘆し、水浴もせず、油を注いで清めることもせず、楽しく味わうこともせず、仕事を吟味することもせずにいました。
それを見て、到達真智運命魂は、
「父はわたしのおじいさんが死んだときから、悲しみに征服されて、歩き回っている。そして、わたしを除く他の者では、父に熟知させることはできない。一つの方法を用いて、父の悲しみをなくしてあげよう。」
と、城塞の外部で、一頭の死んだ雄牛を訪れて、草と飲み水を持ってきて、その前方に据え、
「食べろ、食べろ。飲め、飲め。」
と話しかけました。来る人ごとにそれを見て、
「スジャータよ、君は気が狂ったのか。死んだ雄牛に草と水を与えているではないか。」
と話しかけても、彼は何も返答せずにいました。そこで彼の父の面前に行き、
「あなたの息子は気が狂った。死んだ雄牛に草と水を与えている。」
と話しました。
それを聞いて、資産家は父に対する悲しみは失せ、息子に対する悲しみが確立しました。彼はすばやい動作で行き、
「息子スジャータよ、君は賢者ではなかったのか。何の義理で、死んだ雄牛に草と水を与えるのか。」
と言って、二つの詩句を唱えました。
なぜかき乱されて緑の草を刈り、
「食べろ、食べろ。」
と、生命のない腐った牛に、
口を利くのか。
食べ物と飲み物によって、
死んだ牛は生き返らない。
君は愚か者と同じように、
かいのないことを無益に話す。
そこで、到達真智運命魂は二つの詩句を唱えました。
異なることなく、
頭、手足や尾がとどまっており、
耳さえも異なることなくとどまっている。
確かに牛は生き返るだろう。
おじいさんの頭と手足は、
まさに見られることもない。
粘土で作られた塔のところで泣き叫んでいる、
あなたこそが愚か者ではないのですか。
それを聞いて、到達真智運命魂の父は、
「わたしの息子は賢者だ。この世の世界と高い世界でなされるべきことをわかっている。わたしに熟知させるために、このような行為をなしたのだ。」
と思念し、
「息子よ、賢者スジャータよ、『すべての経験の構成は無常である』と、わたしはわかった。これからは悲しまないだろう。父の悲しみを取り去る息子は、あなたのようなもののことだ。」
と言って、息子を礼賛しました。
本当に、精製されたバターをまき散らした、
火災として炎を上げて燃えているわたしに、
水を注ぐように、
すべての悲哀は煩悩破壊された。
本当に、心に内在した、
わたしの不運は流れ去り、
悲しみに打ちひしがれた、
わたしの父に対する悲しみは晴らされた。
このわたしは不運が流れ去り、
悲しみを離れて、平穏となった。
青年男子よ、あなたから聞いたので、
わたしは悲しむことはなく、泣き叫ぶこともなくなった。
慈悲のある、
智慧ある者たちは、
スジャータが父を悲しみについて、
じっくり考えさせたようになすのだ。
尊師はこの教えをもたらして、種々の真理を説明し、輪廻転生談に当てはめられたのです。真理を完達したとき、資産家は真理の流れに入る果報を確立しました。
「そのときのスジャータは、まさにわたしなのである。」
仏教宇宙論が描き出しているように、宇宙は絶えず生成と死を繰り返し、その中に形成される私たちの世界もいつかは破壊され、空の状態に回帰していくのである。だから、私たち生き物は、いわばこの現象世界の中に羽を休められる久遠の足場を見いだせないまま、。空に舞い続ける蜂のようなものだ。そのことを深く瞑想しなさい。
次のステップは、その宇宙の中にいる生き物のことを考えて、無常の瞑想を深めることである。人間は高々百年も経たないうちに、ほとんどの者が死んでしまう。人間の高々百年も経たないうちに、ほとんどの者が死んでしまう。産婆に取り上げられたそのときから、人は一歩一歩死に向かって歩んでいくのである。ところが、死は確実にやってくるのに、それが明日なのか、今日なのか、それともずっと先のことなのか誰にもわからない。あなたは、「自分はまだ若い、死はまだまだ先のこと、だから死について考え込む必要なんかない」と思っているかも知れない。しかし、あなたが今このときにも死なないという保証はいったいどこにあるのかな、どこにもありはしない。『チェドゥ・ジョベイ・ツァム』にはこう書いてある。
あなたが今日にでも死んでしまわない
と、誰が知ろう
今日なすべき事は今日おこなえ
無慈悲な死神は
友達のように待ってはくれないから
ナーガールジュナの言葉。
この生は、死をもたらすたくさんの
危険に脅かされ
水泡が風に吹き飛ばされるより
もっと頼りない
息を吐いて次の息を吸い込むことができ
明朝にまた目覚めることができるとは
何という驚きでは
なかろうか
(『虹の階梯』より)
次のステップは、その宇宙の中にいる生き物のことを考えて、無常の瞑想を深めることである。人間は高々百年も経たないうちに、ほとんどの者が死んでしまう。人間の高々百年も経たないうちに、ほとんどの者が死んでしまう。産婆に取り上げられたそのときから、人は一歩一歩死に向かって歩んでいくのである。ところが、死は確実にやってくるのに、それが明日なのか、今日なのか、それともずっと先のことなのか誰にもわからない。あなたは、「自分はまだ若い、死はまだまだ先のこと、だから死について考え込む必要なんかない」と思っているかも知れない。しかし、あなたが今このときにも死なないという保証はいったいどこにあるのかな、どこにもありはしない。『チェドゥ・ジョベイ・ツァム』にはこう書いてある。
あなたが今日にでも死んでしまわない
と、誰が知ろう
今日なすべき事は今日おこなえ
無慈悲な死神は
友達のように待ってはくれないから
ナーガールジュナの言葉。
この生は、死をもたらすたくさんの
危険に脅かされ
水泡が風に吹き飛ばされるより
もっと頼りない
息を吐いて次の息を吸い込むことができ
明朝にまた目覚めることができるとは
何という驚きでは
なかろうか
(『虹の階梯』より)
この世界のあらゆるものは、互いに依存し合って存在している。何一つとしてそれだけで孤立しているものはない。だから、この現象の世界には、そのものという固定した実体を持つものなど、一つもないのである。ところが、わたしたちは言葉を使ってこの現象の世界に名前を与えようとする。あれは山であり、あれは木であり、これは私であるというように。そのこと自体はこの現象の世界に現れている、ありのままの差異をとらえようとする根元的智慧の働きの現れであると考えることができる。しかし、いったん名前が与えられると、それだけで山や木や私が、何か固定した実体を持っているように思えてくるのである。言葉を口に出して言わなくても、それが心にひらめいた瞬間、私たちは世界を固定してとらえる危険に踏み込んでしまう。でも固定した「私」なんていったいどこにあるのだろう。どこからが山で、どこで山が終わるというのだろう。言葉や観念は私たちをとらえて、ありのままの世界とは違う、こわばった世界を作り上げる力を持っている。私たちはそこで固定した「私」に執着するようになる。「私」が年老いて死んでいくことを、恐いと思うようになる。愛していたものが消えていくことを深く悲しむ。
でもそれは、ありのままの世界に素手でふれあうことができず、夢や幻影のような観念の世界にとらわれていることから起こる恐れであり、悲しみである。この幻影のベールを取り除くことができたとき、私たちの前には、常に動いてやむことのない、ありのままの世界の壮大な光景が立ち現れてくる。そこには限りない喜びがあふれている。この現象の世界が一時たりと止まることのないことを知る無常の瞑想は、あるがままに物事を見るまなざしを養う、長い修行の第一歩となるものである。
---『虹の階梯』より
八 「向煩悩滅尽多学男達よ、それでは、別の七つの不衰退の法を教え示そう。聴いて、よく作意しなさい。私は説こう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、彼ら向煩悩滅尽多学男達は覚者にお応え申し上げた。そこで、覚者は次のようにお説きになった。
「向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、帰依【きえ】を持ち、慚愧【ざんき】を持ち、良心を持ち、多学であり、発勤【はつごん】を持ち、与えられた記憶修習を持ち、智慧者である限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、そして、これら七つの不衰退の法が向煩悩滅尽多学男達に存続し、向煩悩滅尽多学男達がこれら七つの不衰退の法に従って暮らしている限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。」
【解説】
ここで気を付けてほしいのは、初めの不衰退の法よりも二番目、三番目の法の方が劣っているということである。つまり、不衰退といっても段階があるということだ。「ここまでは駄目だよ」、「でもこれは駄目だろうな」、「次はここまでは駄目だよ」という感じでどんどん落ちていくわけである。
これはまさに、修行者の修行者らしき生き方という話をトータルで言っていらっしゃるという感じがする。一番目の帰依から最後の智慧まで、すべて修行者としての土台である。
ここで、記憶修習と多学との二つがあることが面白い。やはり、私の言っているとおり、単に記憶する、学問を知っているというのではなく、記憶修習するのだということが出ている。ここでも、はっきりと多学より記憶修習の方が上ということになっている。
この七つというのは、段階である。まず帰依がなければ慚愧は起きない。慚愧の念が起きなければ良心は起きない。それらを一応クリアした段階で真理を多く入れる。多学でなければ何を努力したらいいかわからない(発勤)。そして、与えられた記憶修習をなす。ここでいう記憶修習とは、ヨーガでいえばダラーナからサマディといった一連の瞑想プロセスと一致するものなので、その結果は智慧の到達ということになる。
七 「向煩悩滅尽多学男達よ、それでは、別の七つの不衰退の法を教え示そう。聴いて、よく作意しなさい。私は説こう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、彼ら向煩悩滅尽多学男達は覚者にお応え申し上げた。そこで、覚者は次のようにお説きになった。
「向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、カルマの喜びを持たず、カルマを楽しまず、カルマの喜びに没頭しない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、会話の喜びを持たず、会話を楽しまず、会話の喜びに没頭しない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、睡眠の喜びを持たず、睡眠を楽しまず、睡眠の喜びに没頭しない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、交際の喜びを持たず、交際を楽しまず、交際の喜びに没頭しない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、邪悪な欲望を持たず、邪悪な欲望に支配されない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、邪悪な友人を持たず、邪悪な仲間を持たず、邪悪な親友を持たない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、現世の特定の技能によって、完成の途中でやめることがない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、そして、これら七つの不衰退の法が向煩悩滅尽多学男達に存続し、向煩悩滅尽多学男達がこれら七つの不衰退の法に従って暮らしている限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。」
【解説】
「カルマの喜びを持たず……」というのはどういうことかというと、善業の果報は喜びをもたらすのだが、それに対して喜びを持つと、そこで繋縛【けばく】が生じるのである。これは、そのことについての戒めである。
次の「会話の喜びを持たず……」とは、仏典にもよく出てくるのだが、会話は毒である、本当に必要なこと以外はしゃべらないということである。これは最も大切な要素の一つだ。
「睡眠の喜びを持たず……」とは、まさにそのとおりで、睡眠中は魔がつけ入りやすい。そして、時が無意味に過ぎていく。
「交際の喜びを持たず……」。これもまさにそのとおりで、交際をすれば、よけいな時間を使うし、「不必要なもの」も必要になってくる。よって、大衆部ができたのである。ここでいう交際には、世俗の者達との交際や法以外の話をするような僧同士の交際も入る。
「現世の特定の技能……」というのは、どういうことかというと、出家教団も僧の数が多くなった段階で、例えば裁縫をやらせるといった中でのいろいろなワークがあったわけである。そこで技術をマスターして下向【げこう】する――そのことを言っているわけである。
今のチベット仏教でも、たくさんそういう人達がいるという話である。リンポチェとかでも、技術を身につけて還俗【げんぞく】してしまうという話がある。おそらく、この時代のサキャ神賢の教団でもボツボツとあったのだろう。
五十九 七人の妻
一 あるとき、覚者はサーヴァッティーのジェータ林にあるアナータピンディカの園にとどまっておられた。そのとき、覚者は早朝、内衣【ないい】を着け、衣鉢【いはつ】を持って、アナータピンディカ長者の家に赴かれた。赴くと、設けられた座にお座りになった。
さてそのとき、アナータピンディカ長者の家では、高く大きな人々の声があった。そして、アナータピンディカ長者は、覚者がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、覚者を礼拝して、傍らに座った。傍らに座ったアナータピンディカ長者に、覚者はこうお告げになった。
「長者よ、あなたの家で、漁師が魚を獲るかのような、高く大きな人々の声があるのは、一体どうしてであろうか。」
「尊師よ、これは、大変裕福な家から来た嫁のスジャーターです。けれども、彼女は姑【しゅうとめ】の世話をせず、舅【しゅうと】の世話をせず、主人の世話をしません。そればかりではなく、覚者を尊敬せず、尊重せず、敬重せず、崇拝しないのです。」
二 そこで、覚者は嫁のスジャーターを呼ばれた。
「来なさい、スジャーターよ。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、嫁のスジャーターは覚者にお応えし、覚者がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、覚者を礼拝して、傍らに座った。傍らに座った嫁のスジャーターに、覚者はこうお告げになった。
「スジャーターよ、男にとって七人の妻がある。それでは、この七人とは何であろうか。すなわちそれは、殺人者に等しい者、盗賊に等しい者、支配者に等しい者、母に等しい者、姉妹に等しい者、友人に等しい者、奴隷に等しい者である。
スジャーターよ、これらが男にとっての七人の妻なのだ。あなたはこの中のどれであろうか。」
「尊師よ、覚者によって要約して説かれた、この教えの詳しい意味が、私には理解できません。尊師よ、どうか覚者によって要約して説かれた、この教えの詳しい意味が私に理解できるように、覚者は私に法をお説きください。」
「スジャーターよ、それならば聴いて、よく作意【さい】しなさい。私は説こう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、嫁のスジャーターは覚者にお応え申し上げた。そこで、覚者は次のようにお説きになった。
けがれた心によって、恩恵も慈悲もなく、
他人と結び付いて夫を軽蔑【けいべつ】し、
金で買われて、夫の殺害を企てる。
男にとって、このような妻は、
「殺人者である妻」といわれる。
工芸、商売、農業に従事して、
主人が妻のために得た財産を、
わずかでも彼から奪いたいとする。
男にとって、このような妻は、
「盗賊である妻」といわれる。
仕事を嫌い、怠惰で、大飯を食らい、
乱暴で、粗暴で、口汚く罵り、
勤勉な夫を尻に敷いて暮らす。
男にとって、このような妻は、
「支配者である妻」といわれる。
いつも恩恵と慈悲があり、
母が子供にするように、夫を保護し、
さらに彼が蓄えた財産を守る。
男にとって、このような妻は、
「母である妻」といわれる。
妹が姉にするように、
自分の主人を尊重し、
慚愧【ざんき】があって、亭主に従順である。
男にとって、このような妻は、
「姉妹である妻」といわれる。
友人が久しぶりに訪れた友人にするように、
またここに、夫に会っては喜ぶ。
生まれが良く、持戒者で、貞淑な妻。
男にとって、このような妻は、
「友人である妻」といわれる。
鞭【むち】打たれ脅かされても、怒らず、穏やかで、
けがれた心なく、夫に耐え、
くじけることなく、亭主に従順である。
男にとって、このような妻は、
「奴隷である妻」といわれる。
そしてここに、「殺人者」といわれ、
「盗賊、また支配者」といわれ、
破戒者で、乱暴で、敬意を払わない妻は、
その身が壊れて、地獄へ赴く。
そしてここに、「母、姉妹、友人」と、
また、「奴隷である妻」といわれ、
戒を集中継続し、長い間自制する妻は、
その身が壊れて、善趣【ぜんしゅ】へ赴く。
「スジャーターよ、これらが男にとっての七人の妻なのだ。あなたはこの中のどれであろうか。」
「尊師よ、今日以降、覚者は私のことを、主人にとって奴隷に等しい妻と思われてください。」
【解説】
この経は、既にサキャ神賢がスジャーターの特性を理解しているわけで、もともと富豪の娘であるとか、それからアナータピンディカ長者のところに嫁いできているといったカルマを見極められ、法に縁があるということを知っていらっしゃった。だから、ズバッと要点を説法なさって、その法によって帰依させたという、素晴らしい経典だと思う。
サキャ神賢が例として挙げている七人の妻については、もう説明のしようもない。信徒の皆さんには、できるだけ「母である妻」、「姉妹である妻」、「友人である妻」、「奴隷である妻」に徹していただきたい。そして、ここでのポイントは、特に後半部分である。「殺人者」「盗賊」「支配者」という前半の三つが悪業であることはすぐにわかると思うが、後半の四つのポイントを一つ一つ説明してみたい。
第一番目の「母である妻」、これは四無量心【しむりょうしん】の慈悲が背景になっている。ここでの功徳のポイントは慈悲であると言えよう。二番目の「姉妹である妻」、これは要するに慚愧、それからここでの功徳は謙虚さである。謙虚さに優れている妻を、「妹のような妻」であるというふうに表現しているわけである。次は、親和の功徳である。最後四番目はマハー・ムドラーで、まさに忍辱【にんにく】の修行を表わしていると思う。
ここでスジャーターが、スパッと第四番目の妻を表明したところがすごい。
もちろん、ここで注意しなければならないのは、現代的な女性の目から見ると、一見男尊女卑と映るかもしれないが、そうではない。
つまり、これは妻について説いているからこうなるのであって、夫について説くときは、同じことが言えるわけである。例えば、妻が支配者なる妻であったとしても、それに対して親和な態度をもって、心から接するとか。あるいは、すべて耐えるとか。つまり、「奴隷なる夫」「父親のような夫」「お兄さんのような夫」「弟のような夫」、あるいは「友人のような夫」というふうに、同じことが言えるのだということである。だから、そこのところは偏見で見てはならない。
二百二十九 蛇(一)
一 向煩悩滅尽多学男達よ、五つの黒蛇の過患【かかん】がある。それでは、この五つとは何であろうか。
二 すなわちそれは、不潔であること、悪臭があること、恐怖の対象となること、恐怖されること、仲間をだますことである。向煩悩滅尽多学男達よ、これら五つが黒蛇の過患なのである。
三 向煩悩滅尽多学男達よ、同じように、五つの女性の過患がある。それでは、この五つとは何であろうか。
四 すなわちそれは、不潔であること、悪臭があること、恐怖の対象となること、恐怖されること、仲間をだますことである。向煩悩滅尽多学男達よ、これら五つが女性の過患なのである。
二百三十 蛇(二)
一 向煩悩滅尽多学男達よ、五つの黒蛇の過患がある。それでは、この五つとは何であろうか。
二 すなわちそれは、憤激があること、恨みがあること、猛毒があること、二枚舌であること、仲間をだますことの五つである。向煩悩滅尽多学男達よ、これら五つが黒蛇の過患なのである。
三 向煩悩滅尽多学男達よ、同じように、五つの女性の過患がある。それでは、この五つとは何であろうか。
四 すなわちそれは、憤激があること、恨みがあること、猛毒があること、二枚舌であること、仲間をだますことの五つである。
五 向煩悩滅尽多学男達よ、ここで、この女性の猛毒とは、向煩悩滅尽多学男達よ、概して女性が感情的になることなのだ。向煩悩滅尽多学男達よ、ここで、この女性の二枚舌とは、向煩悩滅尽多学男達よ、概して女性が両舌をなすことなのだ。向煩悩滅尽多学男達よ、ここで、この女性が仲間をだますこととは、向煩悩滅尽多学男達よ、概して女性が不倫をすることなのだ。向煩悩滅尽多学男達よ、これら五つが女性の過患なのである。
【解説】
この経は、出家修行者に対する教えで、出家修行者が女性の迷妄にとらわれないようにということを意図して、覚者サキャ神賢がお説きになった法なのである。つまり、この時代の出家修行者にとって、最も崩れやすいパターンとしては、女性、それから在家的な幸福というものがあったのであろう。それを戒めるために作られた経典であることは間違いない。なお、この「黒蛇」というのは、龍などとの対比であろう。つまり、徳のない蛇、本当の蛇という意味で黒蛇を使ってるのだと思う。
『マハーヤーナ』No.40より
◇四集 第二十 大品
百九十七 マッリカー
一 あるとき、覚者はサーヴァッティーのジェータ林にあるアナータピンディカの園にとどまっておられた。そのとき、マッリカー王妃は、覚者がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、覚者を礼拝して傍らに座った。傍らに座って、マッリカー王妃は覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、この世に一人の女性がいて、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えて、貧乏で、持ち物は少なく、資産は少なく、権力があまりないのは、一体どのような原因とどのような条件によるのでしょうか。
尊師よ、また、この世に一人の女性がいて、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えるが、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があり、大きな権力を持つのは、一体どのような原因とどのような条件によるのでしょうか。
尊師よ、また、この世に一人の女性がいて、容姿が良く、見た目が良く、感じが良く、最も優れた華麗な容色を賦与されているが、貧乏で、持ち物は少なく、資産は少なく、権力があまりないのは、一体どのような原因とどのような条件によるのでしょうか。
尊師よ、また、この世に一人の女性がいて、容姿が良く、見た目が良く、感じが良く、最も優れた華麗な容色を賦与されていて、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があり、大きな権力を持つのは、一体どのような原因とどのような条件によるのでしょうか。」
二 「マッリカーよ、ここに一人の女性がいて、憤激があり、悩みが充満し、つまらないことを言われただけで罵【ののし】り、激怒し、傷付け、抵抗して、激怒と瞋恚【しんに】と不満を明らかにする。そして、彼女は出家修行者や祭司に対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明を施さない。さらに、嫉妬【しっと】と慢があって、他の利益・尊敬・尊重・敬重・礼拝・崇拝に対してねたみ、憤り、嫉妬を併せ持つのだ。
もし彼女がそこで死んで、女として生まれるならば、彼女はどこに生まれ変わろうとも、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えて、貧乏で、持ち物は少なく、資産は少なく、権力があまりないのである。
三 マッリカーよ、また、ここに一人の女性がいて、憤激があり、悩みが充満し、つまらないことを言われただけで罵り、激怒し、傷付け、抵抗して、激怒と瞋恚と不満を明らかにする。しかし、彼女は出家修行者や祭司に対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明を施す。さらに、嫉妬と慢がなく、他の利益・尊敬・尊重・敬重・礼拝・崇拝に対してねたまず、憤らず、嫉妬を併せ持つことがないのだ。
もし彼女がそこで死んで、女として生まれるならば、彼女はどこに生まれ変わろうとも、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えるが、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があり、大きな権力を持つのである。
四 マッリカーよ、また、ここに一人の女性がいて、憤激がなく、悩みが充満することなく、大事なことを言われても罵らず、激怒せず、傷付けず、抵抗せず、激怒と瞋恚と不満を明らかにすることはない。しかし、彼女は出家修行者や祭司に対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明を施さない。さらに、嫉妬と慢があって、他の利益・尊敬・尊重・敬重・礼拝・崇拝に対してねたみ、憤り、嫉妬を併せ持つのだ。
もし彼女がそこで死んで、女として生まれるならば、彼女はどこに生まれ変わろうとも、容姿が良く、見た目が良く、感じが良く、最も優れた華麗な容色を賦与されているが、貧乏で、持ち物は少なく、資産は少なく、権力があまりないのである。
五 マッリカーよ、また、ここに一人の女性がいて、憤激がなく、悩みが充満することなく、大事なことを言われても罵らず、激怒せず、傷付けず、抵抗せず、激怒と瞋恚と不満を明らかにすることはない。そして、彼女は出家修行者や祭司に対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明を施す。さらに、嫉妬と慢がなく、他の利益・尊敬・尊重・敬重・礼拝・崇拝に対してねたまず、憤らず、嫉妬を併せ持つことがないのだ。
もし彼女がそこで死んで、女として生まれるならば、彼女はどこに生まれ変わろうとも、容姿が良く、見た目が良く、感じが良く、最も優れた華麗な容色を賦与されていて、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があり、大きな権力を持つのである。
六 マッリカーよ、この世に一人の女性がいて、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えて、貧乏で、持ち物は少なく、資産は少なく、権力があまりないのは、このような原因とこのような条件によるのである。
マッリカーよ、また、この世に一人の女性がいて、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えるが、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があり、大きな権力を持つのは、このような原因とこのような条件によるのである。
マッリカーよ、また、この世に一人の女性がいて、容姿が良く、見た目が良く、感じが良く、最も優れた華麗な容色を賦与されているが、貧乏で、持ち物は少なく、資産は少なく、権力があまりないのは、このような原因とこのような条件によるのである。
マッリカーよ、また、この世に一人の女性がいて、容姿が良く、見た目が良く、感じが良く、最も優れた華麗な容色を賦与されていて、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があり、大きな権力を持つのは、このような原因とこのような条件によるのである。」
七 このようにお説きになったとき、マッリカー王妃は覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、私は別の生において、憤激があり、悩みが充満し、つまらないことを言われただけで罵り、激怒し、傷付け、抵抗して、激怒と瞋恚と不満を明らかにしたために、尊師よ、この私は現在、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えるのです。
尊師よ、しかし、私は別の生において、出家修行者や祭司に対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明を施したために、尊師よ、この私は現在、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があるのです。尊師よ、また、私は別の生において、嫉妬と慢がなく、他の利益・尊敬・尊重・敬重・礼拝・崇拝に対してねたまず、憤らず、嫉妬を併せ持つことがなかったために、尊師よ、この私は現在、大きな権力を持っているのです。
尊師よ、さらに、この王宮の中には、武人階級の少女も祭司階級の少女も長者の少女もおりますが、私は彼女達に対して自在に支配しているのです。
尊師よ、今日からこの私は、憤激をなくし、悩みが充満することをなくし、大事なことを言われても罵らず、激怒せず、傷付けず、抵抗せず、激怒と瞋恚と不満を明らかにいたしません。そして、出家修行者や祭司に対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明を施します。さらに、嫉妬と慢をなくし、他の利益・尊敬・尊重・敬重・礼拝・崇拝に対してねたまず、憤らず、嫉妬を併せ持つことをなくします。
素晴らしいことです、尊師よ。素晴らしいことです、尊師よ。たとえるならば、倒れたものを起こし、また覆われたものを明らかにし、また迷えるものに道を示し、また『眼ある人は物を見よ』と、暗闇【くらやみ】に灯火【ともしび】をもたらすようなものであり、このように、覚者は様々な方便によって、法をお説きくださいました。尊師よ、この私は、覚者と法と向煩悩滅尽多学男出家教団【こうぼんのうめつじんたがくなんしゅっけきょうだん】に帰依いたします。覚者は、私を帰依信女【きえしんにょ】としてお認めください。今日から一生涯、帰依いたします。」
【解説】
このマッリカーの経を読んで感じることは、覚者サキャ神賢【しんけん】の法はまさにカルマの理法であるということだ。そして、そのマッリカーも相当徳があった、やはり皇后だと考えられることである。というのは、この法を一回聴いて、自分の欠点を覚者サキャ神賢の前にさらけ出しているからだ。例えば、自分自身はそんなに美しくないということを平気で言えて、逆に自分の権力とか金とか財産、そういうものを所有していることについて、また平然と言える、とらわれのないところが見受けられるわけだ。さすがに第四天界、つまり除冷淡天【じょれいたんてん】へ転生なさった魂だと思う。
そして、これはまさに「原因」と「条件」によって結果が出てくるという説法で、もう説明のしようがない。要するに感情的な乱れが表情をつくり、布施が財をつくり、そして称賛が権力をつくるということを表わしている説法なのである。
◇四集 第二十 大品
百九十七 マッリカー
一 あるとき、覚者はサーヴァッティーのジェータ林にあるアナータピンディカの園にとどまっておられた。そのとき、マッリカー王妃は、覚者がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、覚者を礼拝して傍らに座った。傍らに座って、マッリカー王妃は覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、この世に一人の女性がいて、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えて、貧乏で、持ち物は少なく、資産は少なく、権力があまりないのは、一体どのような原因とどのような条件によるのでしょうか。
尊師よ、また、この世に一人の女性がいて、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えるが、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があり、大きな権力を持つのは、一体どのような原因とどのような条件によるのでしょうか。
尊師よ、また、この世に一人の女性がいて、容姿が良く、見た目が良く、感じが良く、最も優れた華麗な容色を賦与されているが、貧乏で、持ち物は少なく、資産は少なく、権力があまりないのは、一体どのような原因とどのような条件によるのでしょうか。
尊師よ、また、この世に一人の女性がいて、容姿が良く、見た目が良く、感じが良く、最も優れた華麗な容色を賦与されていて、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があり、大きな権力を持つのは、一体どのような原因とどのような条件によるのでしょうか。」
二 「マッリカーよ、ここに一人の女性がいて、憤激があり、悩みが充満し、つまらないことを言われただけで罵【ののし】り、激怒し、傷付け、抵抗して、激怒と瞋恚【しんに】と不満を明らかにする。そして、彼女は出家修行者や祭司に対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明を施さない。さらに、嫉妬【しっと】と慢があって、他の利益・尊敬・尊重・敬重・礼拝・崇拝に対してねたみ、憤り、嫉妬を併せ持つのだ。
もし彼女がそこで死んで、女として生まれるならば、彼女はどこに生まれ変わろうとも、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えて、貧乏で、持ち物は少なく、資産は少なく、権力があまりないのである。
三 マッリカーよ、また、ここに一人の女性がいて、憤激があり、悩みが充満し、つまらないことを言われただけで罵り、激怒し、傷付け、抵抗して、激怒と瞋恚と不満を明らかにする。しかし、彼女は出家修行者や祭司に対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明を施す。さらに、嫉妬と慢がなく、他の利益・尊敬・尊重・敬重・礼拝・崇拝に対してねたまず、憤らず、嫉妬を併せ持つことがないのだ。
もし彼女がそこで死んで、女として生まれるならば、彼女はどこに生まれ変わろうとも、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えるが、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があり、大きな権力を持つのである。
四 マッリカーよ、また、ここに一人の女性がいて、憤激がなく、悩みが充満することなく、大事なことを言われても罵らず、激怒せず、傷付けず、抵抗せず、激怒と瞋恚と不満を明らかにすることはない。しかし、彼女は出家修行者や祭司に対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明を施さない。さらに、嫉妬と慢があって、他の利益・尊敬・尊重・敬重・礼拝・崇拝に対してねたみ、憤り、嫉妬を併せ持つのだ。
もし彼女がそこで死んで、女として生まれるならば、彼女はどこに生まれ変わろうとも、容姿が良く、見た目が良く、感じが良く、最も優れた華麗な容色を賦与されているが、貧乏で、持ち物は少なく、資産は少なく、権力があまりないのである。
五 マッリカーよ、また、ここに一人の女性がいて、憤激がなく、悩みが充満することなく、大事なことを言われても罵らず、激怒せず、傷付けず、抵抗せず、激怒と瞋恚と不満を明らかにすることはない。そして、彼女は出家修行者や祭司に対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明を施す。さらに、嫉妬と慢がなく、他の利益・尊敬・尊重・敬重・礼拝・崇拝に対してねたまず、憤らず、嫉妬を併せ持つことがないのだ。
もし彼女がそこで死んで、女として生まれるならば、彼女はどこに生まれ変わろうとも、容姿が良く、見た目が良く、感じが良く、最も優れた華麗な容色を賦与されていて、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があり、大きな権力を持つのである。
六 マッリカーよ、この世に一人の女性がいて、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えて、貧乏で、持ち物は少なく、資産は少なく、権力があまりないのは、このような原因とこのような条件によるのである。
マッリカーよ、また、この世に一人の女性がいて、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えるが、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があり、大きな権力を持つのは、このような原因とこのような条件によるのである。
マッリカーよ、また、この世に一人の女性がいて、容姿が良く、見た目が良く、感じが良く、最も優れた華麗な容色を賦与されているが、貧乏で、持ち物は少なく、資産は少なく、権力があまりないのは、このような原因とこのような条件によるのである。
マッリカーよ、また、この世に一人の女性がいて、容姿が良く、見た目が良く、感じが良く、最も優れた華麗な容色を賦与されていて、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があり、大きな権力を持つのは、このような原因とこのような条件によるのである。」
七 このようにお説きになったとき、マッリカー王妃は覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、私は別の生において、憤激があり、悩みが充満し、つまらないことを言われただけで罵り、激怒し、傷付け、抵抗して、激怒と瞋恚と不満を明らかにしたために、尊師よ、この私は現在、容色が悪く、容姿が悪く、極めて邪悪に見えるのです。
尊師よ、しかし、私は別の生において、出家修行者や祭司に対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明を施したために、尊師よ、この私は現在、裕福で、たくさんの財産があり、たくさんの資産があるのです。尊師よ、また、私は別の生において、嫉妬と慢がなく、他の利益・尊敬・尊重・敬重・礼拝・崇拝に対してねたまず、憤らず、嫉妬を併せ持つことがなかったために、尊師よ、この私は現在、大きな権力を持っているのです。
尊師よ、さらに、この王宮の中には、武人階級の少女も祭司階級の少女も長者の少女もおりますが、私は彼女達に対して自在に支配しているのです。
尊師よ、今日からこの私は、憤激をなくし、悩みが充満することをなくし、大事なことを言われても罵らず、激怒せず、傷付けず、抵抗せず、激怒と瞋恚と不満を明らかにいたしません。そして、出家修行者や祭司に対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明を施します。さらに、嫉妬と慢をなくし、他の利益・尊敬・尊重・敬重・礼拝・崇拝に対してねたまず、憤らず、嫉妬を併せ持つことをなくします。
素晴らしいことです、尊師よ。素晴らしいことです、尊師よ。たとえるならば、倒れたものを起こし、また覆われたものを明らかにし、また迷えるものに道を示し、また『眼ある人は物を見よ』と、暗闇【くらやみ】に灯火【ともしび】をもたらすようなものであり、このように、覚者は様々な方便によって、法をお説きくださいました。尊師よ、この私は、覚者と法と向煩悩滅尽多学男出家教団【こうぼんのうめつじんたがくなんしゅっけきょうだん】に帰依いたします。覚者は、私を帰依信女【きえしんにょ】としてお認めください。今日から一生涯、帰依いたします。」
【解説】
このマッリカーの経を読んで感じることは、覚者サキャ神賢【しんけん】の法はまさにカルマの理法であるということだ。そして、そのマッリカーも相当徳があった、やはり皇后だと考えられることである。というのは、この法を一回聴いて、自分の欠点を覚者サキャ神賢の前にさらけ出しているからだ。例えば、自分自身はそんなに美しくないということを平気で言えて、逆に自分の権力とか金とか財産、そういうものを所有していることについて、また平然と言える、とらわれのないところが見受けられるわけだ。さすがに第四天界、つまり除冷淡天【じょれいたんてん】へ転生なさった魂だと思う。
そして、これはまさに「原因」と「条件」によって結果が出てくるという説法で、もう説明のしようがない。要するに感情的な乱れが表情をつくり、布施が財をつくり、そして称賛が権力をつくるということを表わしている説法なのである。
『マハーヤーナ』No.41より
◎――「布施をなした」と。
これは、覚者【かくしゃ】がジェータ林にとどまっておられたときに、アナータピンディカについてお話しになったものです。この物語は、以前に『カディラ樹炭火輪廻転生談【じゅすみびりんねてんしょうだん】』の中で詳しく述べられました。
さて、覚者はアナータピンディカに、こうお告げになったのです。
「長者よ、いにしえの賢者達は、『布施をするな』と言いながら空中にとどまって妨害した、神々の王である有能神【ゆうのうしん】を寄せ付けないで、布施をしたのです。」
このように覚者は語られ、彼の懇願によって、過去世のことをお話しになったのです。
その昔、バーラーナシーで、『神聖賦与【しんせいふよ】王』が統治していた頃、到達真智運命魂【とうたつしんちうんめいこん】は、八億の財産がある『全力』という名の長者でした。
彼は五つの戒を具足し、布施をしたいという気持ちと、布施をする喜びとを持っておりました。そこで、彼は街にある四つの門と、街の中央と、自宅の門と、六つの場所に布施堂を造らせて、布施を行ないました。そして、来る日も来る日も六十万の富を差し出し、到達真智運命魂は乞食【こじき】と全く同じ食事を取っていたのです。
かのバラリンゴの大陸の鋤【すき】を休めさせて、布施を行なうと、その布施の威神力【いしんりき】によって、有能神の世界が震動しました。そして、装飾された石でできた、神々の王である有能神の玉座からは熱が発せられたのです。
「私をこの住まいから落とそうとしているのは、一体だれだ。」
と、有能神は思案して、大長者に気付きました。
「この『全力』は、バラリンゴの大陸全体の鋤を休めさせてまでも、この上なく手広く布施をしている。おそらくこの布施によって、私を落として、自分が有能神になるに違いない。彼を破産させて、乞食にし、布施をすることがないようにしよう。」
そう考えて、財産や穀物も、油や蜂蜜【はちみつ】や糖蜜【とうみつ】などもすべて、さらに奴隷や召使いまでも消してしまったのです。
布施の監督者達がやってきて、こう告げました。
「ご主人さま、布施堂が隠されました。設置されていた場所には、何も見当たりません。」
「ここから賃金を持っていきなさい。布施を中断させてはなりません。」
と、妻を呼びにやり、こう言いました。
「お前、布施を続けなさい。」
そこで、彼女は家中をくまなく調べましたが、豆の半分さえも見当たりません。
「あなた、私達の着る物を除いては、他に何も見当たりません。家中が空っぽです。」
と言いました。また、七宝を納めた蔵の扉を開けさせても、何も見当たりません。つまり、長者と妻を除いては、他に奴隷や召使いさえも認められなかったのです。
再び、偉大なる魂は、妻にこう告げました。
「お前、布施は中断すべきではないのです。家中すべて、くまなく調べて、何かを探しなさい。」
そのとき、一人のわらを刈る者が、鎌【かま】と天秤棒【てんびんぼう】とわらを縛る荒縄を扉の中に投げ入れて、逃げ去りました。長者の妻はそれを見て、
「旦那さま、これを除いては、他に何も見当たりません。」
と、それらを取ってきて渡しました。
「お前、私は今まで本当に長いこと、わらを刈ったことがないのだが、今日はわらを刈り取って売り、それに相当する布施をすることにしよう。」
こうして、偉大なる魂は、布施を中断するのを恐れて、鎌と天秤棒と荒縄をつかんで街を出て、草原に行ってわらを刈りました。
「一把は私のにしよう。もう一把で布施をしよう。」
そして、二把のわらの束を縛って、天秤棒にかけて持っていき、街の門の所で売り、小銭を手に入れて、一把分を乞食達に与えました。それに対して、多くの乞食が、
「私にもください。私にもください。」
と言うので、もう一把の方も与えて、その日は妻と共に食べ物もなく過ごしました。このようにして、六日が過ぎたのです。
そして、七日目にわらを運ぼうとしていると、七日間食べなかった上に、元来虚弱なため、額の上に太陽の熱が当たっただけで、目がくらんでしまいました。彼は正気を取り戻すことができず、わらをまき散らして倒れてしまいました。
有能神は、彼の行動に注意を払い、吟味していました。すぐさま、彼はやってきて、空中にとどまり、第一の詩句を唱えたのです。
一 『全力』よ、かつて布施を行ない、
施すにつれて、お前には破壊の法が生じた。
もしも今後布施を行なわず、
お前が自制すれば、資産は残るだろう。
偉大なる魂は、彼の言葉を聞くと、こう尋ねました。
「あなたはどなたですか。」
「私は有能神である。」
「実に、有能神は自ら布施をし、戒を記憶実践して戒誓行【かいせいぎょう】をなし、七つの善行を実行して、有能神の位に到達しました。しかしながら、あなたは自らの支配の基である布施を妨害しています。実に邪なることをなさるものです。」
到達真智運命魂はこう言って、三つの詩句を唱えたのです。
二 千の眼ある者よ、
極めて貧しいといえども、
聖者は邪なることを
すべきではないという。
人々の王よ、
資産のために
帰依【きえ】を捨てるなら、
まさに財産はないだろう。
三 一つの車が行く所、
それゆえに次の車も行く。
『陶酔【とうすい】エキス』よ、
昔捨てられた富を増大させた。
四 もしもあるなら施そう。
ないのに何を施そうか。
このような生き物でも施そう。
布施を怠ることのないように。
有能神はそれを遮ることができずに、こう尋ねました。
「何のために布施をするのですか。」
「有能神や神聖天の位を望んで行なうのではなく、私は全智を望んで施すのです。」
有能神は彼の言葉を聞いて喜び、手で背中に触れました。するとすぐに、到達真智運命魂は、まさに十分に食べたように体全体が満たされたのです。そして、有能神の威神力によって、彼の財産はすべて分配され、元どおりになったのです。
「大長者よ、今後あなたは、来る日も来る日も百二十万の富を使って、布施をしなさい。」
有能神はこう言うと、その家の財産を無限にし、彼を見送って、自分の住まいに戻りました。
覚者はこの教えを取り上げて、この輪廻転生談に当てはめられたのです。
「そのときの長者の妻は、ラーフラの母で、『全力』は、この私なのである。」
【解説】
この中で、有能神が、『全力』が布施によって自分を落として自分が有能神になろうとしていると考えるところがある。やはり、供養値魂【くようちこん】の六神通【ろくじんつう】が完璧な六神通ではないということの証明である。サーリプッタですら完璧な他心通【たしんつう】を持っていなかったのだから、完全煩悩破壊していない有能神ならば、なおさらである。
この経には、一つ大変な示唆があると思う。その示唆とは何かというと、必ず修行には壁がある。そして、普通はそれが破れないのだが、それを破ればその後大発展するということである。
私は、『全力』はさすがに賢者だと思う。なぜならば、ここで破壊の法が生じたという有能神の言葉は正しいからである。破壊の法とは、今の自分の状態を破壊するということで、これが確実に破壊されていけば、次のフォームに変わっていくのである。だから、この破壊の法とは大いに結構なことなのだ。ところが、こだわりがあり愛著【あいじゃく】があると、それがなかなかそうは受け取れない。自分のフォーム、自分の型に執着のある人は、自分を新しいフォームに変えていくことができないのだ。
私などは、何度も何十度も何百度もぶっ壊してきている。だから、自分が壊れることは全く怖くない。
また、『全力』が有能神に語りかける言葉の中に「七つの善行」というものが出てくるが、『南伝大蔵経』の『有能神相応』という経典にその七つが挙げられているので、ここにご紹介しておこう。
三 それでは、七つの善行とは何であろうか。
四 一生涯、父母を養わなければならない。
一生涯、一族の徳の高い者に敬意を払わなければならない。
一生涯、穏やかな言葉を語らなければならない。
一生涯、両舌をなしてはならない。
一生涯、物惜しみの垢【あか】を離れた心によって、家で生活し、気前よく放棄し、けちけちせず手放すことを楽しみ、供養に応じ、布施を分け与えることを楽しまなければならない。
一生涯、真理を語らなければならない。
一生涯、憤激してはならない。もし憤激したならば、速やかに抑えなければならない。
『マハーヤーナ』No.32より
このように私は聞いた。
あるとき、仏陀【ぶっだ】はチャートゥマにあるアンマロク林にとどまっておられた。そのとき、サーリプッタとモッガラーナが率いる五百人の比丘【びく】は、仏陀にお会いするために、チャートゥマに到着した。
そして、彼ら新しい比丘は先輩の比丘とお互いにあいさつし、床座【しょうざ】を設け、衣鉢を調えて、声高に話したり、大声を出したりしていた。そこで、仏陀は長老アーナンダを呼んで、こうおっしゃった。
「アーナンダよ、漁師が魚を捕るときのように、声高に話したり、大声を出したりしているのは何だ。」
「仏陀よ、これは、サーリプッタとモッガラーナが率いる五百人の比丘が、仏陀にお会いするために、チャートゥマに到着して、彼ら新しい比丘が先輩の比丘とお互いにあいさつし、床座を設け、衣鉢を調えて、声高に話したり、大声を出したりしているのです。」
「それならば、アーナンダよ、お前は私の名前で彼ら比丘達に、『尊師は君達を呼んでいる』と言いなさい。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは仏陀にお応えし、彼ら比丘達の所を訪れた。訪れると、彼ら比丘達にこう告げた。
「尊師は君達をお呼びです。」
「かしこまりました、友よ。」
と、彼ら比丘達は長老アーナンダに応えて、仏陀がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、仏陀を礼拝して傍らに座った。傍らに座った彼ら比丘達に、仏陀はこうおっしゃった。
「比丘達よ、漁師が魚を捕るときのように、君達が声高に話したり、大声を出したりしているのは何だ!」
「仏陀よ、それは、サーリプッタとモッガラーナが率いる、私達五百人の比丘が、仏陀にお会いするために、チャートゥマに到着して、その新しい比丘が先輩の比丘とお互いにあいさつし、床座を設け、衣鉢を調えて、声高に話したり、大声を出したりしていたのです。」
「比丘達よ、行け! ここから去れ! 君達は私の前にいてはならない。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、彼ら比丘達は仏陀にお応えし、座を立ち、仏陀を礼拝し、右遶【うにょう】の礼をして、床座をたたみ、衣鉢を持って去ったのである。
そのとき、チャートゥマのシャカ族は、ある用事のために、集会堂に集まっていた。そして、チャートゥマのシャカ族は、遠くに彼ら比丘達が歩いているのを見た。それを見ると、彼ら比丘達の所に至った。至って、彼ら比丘達にこう言った。
「尊者達はどこへ行かれるのですか。」
「友よ、仏陀によって、比丘衆は行かされたのです。」
「それならば、尊者達よ、しばらく座ってお待ちなさい。おそらく、私達は仏陀のお心を喜ばせることができるでしょうから。」
「かしこまりました、友よ。」
と、彼ら比丘達はチャートゥマのシャカ族に応えた。
そこで、チャートゥマのシャカ族は、仏陀がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、仏陀を礼拝して傍らに座った。傍らに座って、彼らチャートゥマのシャカ族は、仏陀にこう申し上げた。
「尊師よ、仏陀は比丘衆をお喜ばせください。尊師よ、仏陀は比丘衆をお迎えください。尊師よ、以前仏陀によって比丘衆が受け入れられたように、今再び、仏陀は比丘衆をお受け入れください。
尊師よ、ここに新入りの比丘があって、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入りました。もし彼らが、仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。尊師よ、たとえるならば、幼い種子が水を得られなかったならば、異変があり、変化があるようなもので、このように、尊師よ、新入りの比丘で、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入った者が、もし仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。尊師よ、たとえるならば、幼い子牛が母に会えなかったならば、異変があり、変化があるようなもので、このように、尊師よ、新入りの比丘で、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入った者が、もし仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。
尊師よ、仏陀は比丘衆をお喜ばせください。尊師よ、仏陀は比丘衆をお迎えください。尊師よ、以前仏陀によって比丘衆が受け入れられたように、今再び、仏陀は比丘衆をお受け入れください。」
そのとき、梵天【ぼんてん】サハンパティは、仏陀の心を他心通によって了知した。そこで、あたかも力強い人が曲げた腕を伸ばし、あるいは伸ばした腕を曲げるように、梵天界から消えて、仏陀の前に現われたのである。そして、梵天サハンパティは片肌を脱いで、仏陀に向かって合掌し、仏陀にこう申し上げた。
「尊師よ、仏陀は比丘衆をお喜ばせください。尊師よ、仏陀は比丘衆をお迎えください。尊師よ、以前仏陀によって比丘衆が受け入れられたように、今再び、仏陀は比丘衆をお受け入れください。
尊師よ、ここに新入りの比丘があって、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入りました。もし彼らが、仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。尊師よ、たとえるならば、幼い種子が水を得られなかったならば、異変があり、変化があるようなもので、このように、尊師よ、新入りの比丘で、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入った者が、もし仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。尊師よ、たとえるならば、幼い子牛が母に会えなかったならば、異変があり、変化があるようなもので、このように、尊師よ、新入りの比丘で、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入った者が、もし仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。
尊師よ、仏陀は比丘衆をお喜ばせください。尊師よ、仏陀は比丘衆をお迎えください。尊師よ、以前仏陀によって比丘衆が受け入れられたように、今再び、仏陀は比丘衆をお受け入れください。」
こうして、チャートゥマのシャカ族と梵天サハンパティは、種子のたとえと子牛のたとえによって、仏陀のお心を喜ばせることができたのである。そこで、長老マハーモッガラーナは、比丘達にこう呼びかけた。
「みんな、起きろ。衣鉢を調えろ。仏陀は、チャートゥマのシャカ族と梵天サハンパティが説いた、種子のたとえと子牛のたとえによって、お心を喜ばせられたぞ。」
「かしこまりました、友よ。」
と、彼ら比丘達は長老マハーモッガラーナに応えて、座を立ち、衣鉢を持って、仏陀がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、仏陀を礼拝して傍らに座った。傍らに座った長老サーリプッタに、仏陀はこうおっしゃった。
「サーリプッタよ、私が比丘衆を追い出したとき、あなたはどう思ったのだろうか。」
「尊師よ、仏陀が比丘衆を追い出されたとき、私は『仏陀は今、心静かに現法楽住【げんぽうらくじゅう】を実践してとどまろうとしておられる。それでは、我々も今、心静かに現法楽住を実践してとどまろう』と思いました。」
「待て、サーリプッタ。待て、サーリプッタ。サーリプッタよ、あなたは二度と、このような心を生じてはならないのだ。」
そして次に、仏陀は長老マハーモッガラーナを呼ばれた。
「モッガラーナよ、私が比丘衆を追い出したとき、あなたはどう思ったのだろうか。」
「尊師よ、仏陀が比丘衆を追い出されたとき、私は『仏陀は今、心静かに現法楽住を実践してとどまろうとしておられる。それでは今、私は長老サーリプッタと共に、比丘衆を保護しよう』と思いました。」
「素晴らしいことだ、モッガラーナよ。実に私か、あるいは、サーリプッタ、モッガラーナの二人は、比丘衆を保護しなければならないのである。」
そこで、仏陀は比丘達にお説きになった。
「比丘達よ、水に入る者には、四つの恐怖が予期されるのである。それでは、この四つとは何であろうか。すなわちそれは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことである。比丘達よ、水に入る者には、これら四つの恐怖が予期されるのである。
このように、比丘達よ、ある人がこの法と律において、在家から出家者となったとき、これら四つの恐怖が予期されるのである。それでは、この四つとは何であろうか。すなわちそれは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことである。
比丘達よ、それでは、波の恐怖とは何であろうか。
比丘達よ、ここに善男子【ぜんなんし】があって、信によって在家から出家者となった。
『私は、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩にとらえられ、苦にとらえられ、苦に征服された。それならば、私はこのすべての苦蘊【くうん】の終わりをなすことを了知したいものだ』と。
そして、このように出家した彼に、梵行を共にする者は、こう訓戒し、教誡【きょうかい】する。
『このように、あなたは進みなさい。このように、あなたは戻りなさい。このように、あなたは前を見なさい。このように、あなたは後ろを見なさい。このように、あなたは曲げなさい。このように、あなたは伸ばしなさい。このように、あなたは正装衣と衣鉢を持ちなさい。』
そこで、彼はこう思うのだ。
『我々が以前在家だったとき、他人を訓戒し、教誡していた。今彼ら梵行【ぼんぎょう】を共にする者は、我々の子供のようなものであり、我々の孫のようなものである。しかし、彼らは我々を訓戒すべきもの、教誡すべきものと考えている。』
こうして、彼は修学をやめて下向【げこう】するのだ。比丘達よ、これを、波の恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、波の恐怖とは『忿悩【ふんのう】』と同義語なのである。
比丘達よ、それでは、大ワニの恐怖とは何であろうか。
比丘達よ、ここに善男子があって、信によって在家から出家者となった。
『私は、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩にとらえられ、苦にとらえられ、苦に征服された。それならば、私はこのすべての苦蘊の終わりをなすことを了知したいものだ』と。
そして、このように出家した彼に、梵行を共にする者は、こう訓戒し、教誡する。
『あなたはこれをかみなさい、これをかんではいけません。あなたはこれを食べなさい、これを食べてはいけません。あなたはこれを味わいなさい、これを味わってはいけません。あなたはこれを飲みなさい、これを飲んではいけません。規定に従ったものをあなたはかみなさい、規定に従わないものをかんではいけません。規定に従ったものをあなたは食べなさい、規定に従わないものを食べてはいけません。規定に従ったものをあなたは味わいなさい、規定に従わないものを味わってはいけません。規定に従ったものをあなたは飲みなさい、規定に従わないものを飲んではいけません。正時にあなたはかみなさい、非時にかんではいけません。正時にあなたは食べなさい、非時に食べてはいけません。正時にあなたは味わいなさい、非時に味わってはいけません。正時にあなたは飲みなさい、非時に飲んではいけません。』
そこで、彼はこう思うのだ。
『我々が以前在家だったとき、欲しいものをかみ、欲しくないものはかまなかった。欲しいものを食べ、欲しくないものは食べなかった。欲しいものを味わい、欲しくないものは味わわなかった。欲しいものを飲み、欲しくないものは飲まなかった。規定に従ったものをかみ、また、規定に従わないものもかんだ。規定に従ったものを食べ、また、規定に従わないものも食べた。規定に従ったものを味わい、また、規定に従わないものも味わった。規定に従ったものを飲み、また、規定に従わないものも飲んだ。正時にもかみ、非時にもかんだ。正時にも食べ、非時にも食べた。正時にも味わい、非時にも味わった。正時にも飲み、非時にも飲んだ。例えば、昼の非時に、信がある長者が我々に、絶妙な硬い食べ物と軟らかい食べ物を施すとき、これではまるで、口に栓をするようなものではないか。』
こうして、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、大ワニの恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、大ワニの恐怖とは『飽食』と同義語なのである。
比丘達よ、それでは、渦の恐怖とは何であろうか。
比丘達よ、ここに善男子があって、信によって在家から出家者となった。
『私は、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩にとらえられ、苦にとらえられ、苦に征服された。それならば、私はこのすべての苦蘊の終わりをなすことを了知したいものだ』と。
そして、彼はこのように出家し、早朝に内衣を身に着け、衣鉢を持って、村や町に托鉢【たくはつ】に入る。すなわち、守護されない身によって、守護されない口によって、確立されない念によって、制御されない諸根によって、托鉢するのである。
そこで彼は、五妙欲【ごみょうよく】を満たし、具足し、楽しんでいる、長者あるいは長者の息子を見る。そこで、彼はこう思うのだ。
『我々が以前在家だったとき、五妙欲を満たし、具足し、楽しんだ。家には財産があり、そして財産を享受し、福徳を行なうことができたのだ。』
こうして、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、渦の恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、渦の恐怖とは『五妙欲』と同義語なのである。
比丘達よ、それでは、小ワニの恐怖とは何であろうか。
比丘達よ、ここに善男子があって、信によって在家から出家者となった。
『私は、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩にとらえられ、苦にとらえられ、苦に征服された。それならば、私はこのすべての苦蘊の終わりをなすことを了知したいものだ』と。
そして、彼はこのように出家し、早朝に内衣を身に着け、衣鉢を持って、村や町に托鉢に入る。すなわち、守護されない身によって、守護されない口によって、確立されない念によって、制御されない諸根によって、托鉢するのである。
そこで彼は、服装が乱れ、肌も露【あら】わな女を見る。そして、服装が乱れ、肌も露わな女を見た彼の心は、欲情によって堕落する。
すなわち、欲情によって堕落した心によって、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、小ワニの恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、小ワニの恐怖とは『女』と同義語なのである。
このように、比丘達よ、ある人がこの法と律において、在家から出家者となったとき、これら四つの恐怖が予期されるのである。」
このように仏陀はお説きになった。歓喜した比丘達は、仏陀の説かれた教えを承り、それを実践しようと心から決意した。
【解説】
この経では、出家者にとっての四つの恐怖が説かれている。そして、その四つの恐怖とは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことであるという。もう一度次の部分を見てみよう。
「比丘達よ、水に入る者には、四つの恐怖が予期されるのである。それでは、この四つとは何であろうか。すなわちそれは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことである。比丘達よ、水に入る者には、これら四つの恐怖が予期されるのである。
このように、比丘達よ、ある人がこの法と律において、在家から出家者となったとき、これら四つの恐怖が予期されるのである。それでは、この四つとは何であろうか。すなわちそれは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことである。」
そして、後の詳しい説明の後で、例えば、第一の波の恐怖について、「こうして、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、波の恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、波の恐怖とは『忿悩』と同義語なのである」と説かれている。
このへんは、訳が的確でない部分があるので、解釈を加えなくてはならないだろう。おそらく、もとにしている『南伝大蔵経』自体の書き方に問題があるのだと思う。
これが意味するのは、水に入る者が水に入る前に注意しなくてはならないことなのだ。つまり、出家後に注意しなくてはならないことであって、既にのみ込まれてしまったら終わり、食べられてしまったら終わり、死んでしまう=落ちてしまうよ、という内容なのである。したがって、「恐怖におののいて、修学をやめて下向した」というのではニュアンスが違ってきてしまう。ここのところは気を付けておいていただきたい。
では、四つの恐怖について順に説明していこう。
まず、第一番目の波のたとえ。この波のたとえは何を意味しているかというと、現世的にある程度プライドを満足させていた人が出家して、自分の先輩比丘、オウムでいったらシャモンのレベルを見て馬鹿にしたり、不満を抱いたりする。あるいは、自分自身の現世的な経験と先輩出家者の状態とを比較して、自分より早くから修行している人に対して尊敬の念が持てない。それがゆえに、自己に高ぶり・驕【おご】りが起きて、例えば自分の力で対応できる以上に危険な領域で泳いでしまい、高波にのまれて死んでしまう。すなわち、出家生活から落ちて在家に戻ってしまうのだということを表わしている。
もし、自分にその要素があると思う人は、次のように考えるべきだ。
この世の経験はすべてマーヤ(幻影)である。そして、現世的なものをすべて落として出家しているわけであるから、現世的なものや経験で出家者を評価してはいけない。
現世的なものというのは、今生での教育によって、あるいは環境によって与えられた要因が大きい。しかも、死の瞬間、この世の教育や環境から脱却しなくてはならないのであるから、来世では意味がない。
しかし、内側の経験(霊的な経験)というものは、教育・環境では得られないし、次の生にもそれを持っていける。したがって、出家者にとっては現世的な経験など無意味であり、内側の経験が大切なのであって、内側の経験が進んでいる者に対しては、自分がその道を歩く以上、尊敬の念を抱かなければならないし、また、そういうふうに、自分の現世的な発想から離脱してものを見つめる訓練をすることが、解脱していく道なのである。
第二の大ワニのたとえは、飽食を表わしている。食事についての戒にも、それにはそれなりの意味があるのであるが、それを理解できない出家者がいるわけだ。しかも、戒律にそんなに触れるわけではないから、例えば、食事の戒を破ったからといって破門されるというわけではないから、戒を破りやすい。
ところが、実際に戒を破ってしまうとどうなるかというと、エネルギーが消化に全部使われてしまって、高い世界の経験ができなくなってしまう。要するに、飽食の恐怖、こういうものを理解しないで修行者の生活を続けていると、いずれ落ちてしまいますよ、ということをここでは言っているのである。
落ちる、落ちないというのは、ちょっとした隙【すき】を作るか作らないかで決まってしまうと言っていいだろう。このように、食の戒のような一見危険のない戒律でも、きちんと守らないと、煩悩【ぼんのう】というものはどんどん増大するのである。で、結局は、おいしいものをいつも食べておきたいなどという状態になって、落ちてしまうのである。
この飽食の恐怖というものは、第一に挙げられている波の恐怖と関係していると思う。なぜなら、先輩の修行者に対して尊敬の念があれば、先輩の教える戒律も守れるはずであるし、戒律の意味合いも理解できるだろうからである。
三番目の渦の恐怖は全く別問題で、これは最も危険な要素とも言えよう。五妙欲――つまり、目・耳・鼻・口・触覚から伝わってくる喜び、煩悩をシャットアウトしないと渦に巻き込まれていってしまい、あげくの果てには落ちてしまうということである。
そして、四番目が小ワニの恐怖=女となる。
一番目がアナハタ・チァクラのプライド、二番目がマニプーラ・チァクラの食、三番目がスヴァディスターナ・チァクラを中心とした感覚の貪【むさぼ】りで、これは性欲ともからんでいる。そして四番目になると、完全に性欲となっているところが面白い。これらのチァクラの引っかかりを切らないと、出家修行も続かないし、成就もできませんよ、という示唆である。で、これらの引っかかりが、形状的に波・大ワニ・渦・小ワニとして表わされているのである。波は心の高ぶりや傲慢【ごうまん】さ、大ワニのその過食、渦は感覚に巻き込まれる様子、そして小ワニというのは、動物的な状態の比喩【ひゆ】なのだろう。
さて、このように仏陀釈迦牟尼【しゃかむに】が法を説かれる前の経緯【いきさつ】も大切なところである。
「比丘達よ、漁師が魚を捕るときのように、君達が声高に話したり、大声を出したりしているのは何だ!」
「比丘達よ、行け! ここから去れ! 君達は私の前にいてはならない。」
と、釈迦牟尼自身が新しい五百人の比丘達を帰してしまわれながら、彼らを保護しようとしなかったサーリプッタを注意し、保護しようとしたモッガラーナを誉めている。
これはこういうことなのである。私もたまに、修行者としての素質がないということで、「帰れ」と言うことがあるが、それはあくまでも私の立場で言えることなのである。そのとき、弟子は何をやらなければならないかというと、「あ、これは一つの戒めである」と受け取って、その縁を切ってはいけない。なぜなら、如来の愛の目的というものは、相手を解脱させることだからだ。
ところが、ここでサーリプッタは失敗してしまった。如来が現法楽住の瞑想をされようとしているからと、自分もそれをやろうとしたわけだ。でも、それではいけない。大乗の修行をしているのだから。例えば、釈迦牟尼が「NO」と言われた場合は、その時期が来るまで自分自身が一生懸命フォローして、修行の縁を作ってあげることが必要なのである。
ここでは、七科三十七道品の小乗のプロセスの範囲で釈迦牟尼に絶賛されているサーリプッタが、まだ仏陀、如来でないということの一つの現われだと思う。サーリプッタの戸惑いを感じる経である。だが、やはりサーリプッタとマハーモッガラーナが二大弟子だったことは間違いないようだ。それが釈迦牟尼の、「実に私か、あるいは、サーリプッタ、モッガラーナの二人は、比丘衆を保護しなければならないのである」というお言葉にそれが示されている。
それでは最後に、それぞれの恐怖を超えるポイントを書いておこう。第一の忿悩については先にも触れたが、やはり謙虚さがポイントである。自分より相手の優れているところを見つめる訓練をしていくと、この忿悩がないし、反対に、自分より劣っているところを見つめてしまうと、忿悩が出てきてしまう。また、忿悩は瞋恚【しんに】・嫌悪とつながっているので、そこで心のカルマを積んでしまうということにも注意。
しかし、その道が絶対的な真理であることが確信できていれば起こらない問題であることを考えると、この忿悩が一番のくせものであると言えるかもしれない。
第二番目の飽食に対しては、ひたすら四念処の瞑想をするしかない。これはコン眠【こんみん】とつながっている。五妙欲は掉挙【じょうきょ】・欲貪【よくとん】とつながっている。性欲も同様と言えるだろう。
それらから抜け出るためには、データの入れ換えをするしかない。すなわち、教学をベースに瞑想修行をするということである。そして、それを成功させるには功徳が不可欠であるということを忘れてはならない。功徳が私達の修行を進めるエネルギーとなるのだから。したがって、功徳のない人、足りない人は、まず功徳を積めるように心がけるべきなのである。
このように私は聞いた。
あるとき、仏陀【ぶっだ】はチャートゥマにあるアンマロク林にとどまっておられた。そのとき、サーリプッタとモッガラーナが率いる五百人の比丘【びく】は、仏陀にお会いするために、チャートゥマに到着した。
そして、彼ら新しい比丘は先輩の比丘とお互いにあいさつし、床座【しょうざ】を設け、衣鉢を調えて、声高に話したり、大声を出したりしていた。そこで、仏陀は長老アーナンダを呼んで、こうおっしゃった。
「アーナンダよ、漁師が魚を捕るときのように、声高に話したり、大声を出したりしているのは何だ。」
「仏陀よ、これは、サーリプッタとモッガラーナが率いる五百人の比丘が、仏陀にお会いするために、チャートゥマに到着して、彼ら新しい比丘が先輩の比丘とお互いにあいさつし、床座を設け、衣鉢を調えて、声高に話したり、大声を出したりしているのです。」
「それならば、アーナンダよ、お前は私の名前で彼ら比丘達に、『尊師は君達を呼んでいる』と言いなさい。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは仏陀にお応えし、彼ら比丘達の所を訪れた。訪れると、彼ら比丘達にこう告げた。
「尊師は君達をお呼びです。」
「かしこまりました、友よ。」
と、彼ら比丘達は長老アーナンダに応えて、仏陀がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、仏陀を礼拝して傍らに座った。傍らに座った彼ら比丘達に、仏陀はこうおっしゃった。
「比丘達よ、漁師が魚を捕るときのように、君達が声高に話したり、大声を出したりしているのは何だ!」
「仏陀よ、それは、サーリプッタとモッガラーナが率いる、私達五百人の比丘が、仏陀にお会いするために、チャートゥマに到着して、その新しい比丘が先輩の比丘とお互いにあいさつし、床座を設け、衣鉢を調えて、声高に話したり、大声を出したりしていたのです。」
「比丘達よ、行け! ここから去れ! 君達は私の前にいてはならない。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、彼ら比丘達は仏陀にお応えし、座を立ち、仏陀を礼拝し、右遶【うにょう】の礼をして、床座をたたみ、衣鉢を持って去ったのである。
そのとき、チャートゥマのシャカ族は、ある用事のために、集会堂に集まっていた。そして、チャートゥマのシャカ族は、遠くに彼ら比丘達が歩いているのを見た。それを見ると、彼ら比丘達の所に至った。至って、彼ら比丘達にこう言った。
「尊者達はどこへ行かれるのですか。」
「友よ、仏陀によって、比丘衆は行かされたのです。」
「それならば、尊者達よ、しばらく座ってお待ちなさい。おそらく、私達は仏陀のお心を喜ばせることができるでしょうから。」
「かしこまりました、友よ。」
と、彼ら比丘達はチャートゥマのシャカ族に応えた。
そこで、チャートゥマのシャカ族は、仏陀がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、仏陀を礼拝して傍らに座った。傍らに座って、彼らチャートゥマのシャカ族は、仏陀にこう申し上げた。
「尊師よ、仏陀は比丘衆をお喜ばせください。尊師よ、仏陀は比丘衆をお迎えください。尊師よ、以前仏陀によって比丘衆が受け入れられたように、今再び、仏陀は比丘衆をお受け入れください。
尊師よ、ここに新入りの比丘があって、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入りました。もし彼らが、仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。尊師よ、たとえるならば、幼い種子が水を得られなかったならば、異変があり、変化があるようなもので、このように、尊師よ、新入りの比丘で、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入った者が、もし仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。尊師よ、たとえるならば、幼い子牛が母に会えなかったならば、異変があり、変化があるようなもので、このように、尊師よ、新入りの比丘で、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入った者が、もし仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。
尊師よ、仏陀は比丘衆をお喜ばせください。尊師よ、仏陀は比丘衆をお迎えください。尊師よ、以前仏陀によって比丘衆が受け入れられたように、今再び、仏陀は比丘衆をお受け入れください。」
そのとき、梵天【ぼんてん】サハンパティは、仏陀の心を他心通によって了知した。そこで、あたかも力強い人が曲げた腕を伸ばし、あるいは伸ばした腕を曲げるように、梵天界から消えて、仏陀の前に現われたのである。そして、梵天サハンパティは片肌を脱いで、仏陀に向かって合掌し、仏陀にこう申し上げた。
「尊師よ、仏陀は比丘衆をお喜ばせください。尊師よ、仏陀は比丘衆をお迎えください。尊師よ、以前仏陀によって比丘衆が受け入れられたように、今再び、仏陀は比丘衆をお受け入れください。
尊師よ、ここに新入りの比丘があって、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入りました。もし彼らが、仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。尊師よ、たとえるならば、幼い種子が水を得られなかったならば、異変があり、変化があるようなもので、このように、尊師よ、新入りの比丘で、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入った者が、もし仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。尊師よ、たとえるならば、幼い子牛が母に会えなかったならば、異変があり、変化があるようなもので、このように、尊師よ、新入りの比丘で、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入った者が、もし仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。
尊師よ、仏陀は比丘衆をお喜ばせください。尊師よ、仏陀は比丘衆をお迎えください。尊師よ、以前仏陀によって比丘衆が受け入れられたように、今再び、仏陀は比丘衆をお受け入れください。」
こうして、チャートゥマのシャカ族と梵天サハンパティは、種子のたとえと子牛のたとえによって、仏陀のお心を喜ばせることができたのである。そこで、長老マハーモッガラーナは、比丘達にこう呼びかけた。
「みんな、起きろ。衣鉢を調えろ。仏陀は、チャートゥマのシャカ族と梵天サハンパティが説いた、種子のたとえと子牛のたとえによって、お心を喜ばせられたぞ。」
「かしこまりました、友よ。」
と、彼ら比丘達は長老マハーモッガラーナに応えて、座を立ち、衣鉢を持って、仏陀がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、仏陀を礼拝して傍らに座った。傍らに座った長老サーリプッタに、仏陀はこうおっしゃった。
「サーリプッタよ、私が比丘衆を追い出したとき、あなたはどう思ったのだろうか。」
「尊師よ、仏陀が比丘衆を追い出されたとき、私は『仏陀は今、心静かに現法楽住【げんぽうらくじゅう】を実践してとどまろうとしておられる。それでは、我々も今、心静かに現法楽住を実践してとどまろう』と思いました。」
「待て、サーリプッタ。待て、サーリプッタ。サーリプッタよ、あなたは二度と、このような心を生じてはならないのだ。」
そして次に、仏陀は長老マハーモッガラーナを呼ばれた。
「モッガラーナよ、私が比丘衆を追い出したとき、あなたはどう思ったのだろうか。」
「尊師よ、仏陀が比丘衆を追い出されたとき、私は『仏陀は今、心静かに現法楽住を実践してとどまろうとしておられる。それでは今、私は長老サーリプッタと共に、比丘衆を保護しよう』と思いました。」
「素晴らしいことだ、モッガラーナよ。実に私か、あるいは、サーリプッタ、モッガラーナの二人は、比丘衆を保護しなければならないのである。」
そこで、仏陀は比丘達にお説きになった。
「比丘達よ、水に入る者には、四つの恐怖が予期されるのである。それでは、この四つとは何であろうか。すなわちそれは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことである。比丘達よ、水に入る者には、これら四つの恐怖が予期されるのである。
このように、比丘達よ、ある人がこの法と律において、在家から出家者となったとき、これら四つの恐怖が予期されるのである。それでは、この四つとは何であろうか。すなわちそれは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことである。
比丘達よ、それでは、波の恐怖とは何であろうか。
比丘達よ、ここに善男子【ぜんなんし】があって、信によって在家から出家者となった。
『私は、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩にとらえられ、苦にとらえられ、苦に征服された。それならば、私はこのすべての苦蘊【くうん】の終わりをなすことを了知したいものだ』と。
そして、このように出家した彼に、梵行を共にする者は、こう訓戒し、教誡【きょうかい】する。
『このように、あなたは進みなさい。このように、あなたは戻りなさい。このように、あなたは前を見なさい。このように、あなたは後ろを見なさい。このように、あなたは曲げなさい。このように、あなたは伸ばしなさい。このように、あなたは正装衣と衣鉢を持ちなさい。』
そこで、彼はこう思うのだ。
『我々が以前在家だったとき、他人を訓戒し、教誡していた。今彼ら梵行【ぼんぎょう】を共にする者は、我々の子供のようなものであり、我々の孫のようなものである。しかし、彼らは我々を訓戒すべきもの、教誡すべきものと考えている。』
こうして、彼は修学をやめて下向【げこう】するのだ。比丘達よ、これを、波の恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、波の恐怖とは『忿悩【ふんのう】』と同義語なのである。
比丘達よ、それでは、大ワニの恐怖とは何であろうか。
比丘達よ、ここに善男子があって、信によって在家から出家者となった。
『私は、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩にとらえられ、苦にとらえられ、苦に征服された。それならば、私はこのすべての苦蘊の終わりをなすことを了知したいものだ』と。
そして、このように出家した彼に、梵行を共にする者は、こう訓戒し、教誡する。
『あなたはこれをかみなさい、これをかんではいけません。あなたはこれを食べなさい、これを食べてはいけません。あなたはこれを味わいなさい、これを味わってはいけません。あなたはこれを飲みなさい、これを飲んではいけません。規定に従ったものをあなたはかみなさい、規定に従わないものをかんではいけません。規定に従ったものをあなたは食べなさい、規定に従わないものを食べてはいけません。規定に従ったものをあなたは味わいなさい、規定に従わないものを味わってはいけません。規定に従ったものをあなたは飲みなさい、規定に従わないものを飲んではいけません。正時にあなたはかみなさい、非時にかんではいけません。正時にあなたは食べなさい、非時に食べてはいけません。正時にあなたは味わいなさい、非時に味わってはいけません。正時にあなたは飲みなさい、非時に飲んではいけません。』
そこで、彼はこう思うのだ。
『我々が以前在家だったとき、欲しいものをかみ、欲しくないものはかまなかった。欲しいものを食べ、欲しくないものは食べなかった。欲しいものを味わい、欲しくないものは味わわなかった。欲しいものを飲み、欲しくないものは飲まなかった。規定に従ったものをかみ、また、規定に従わないものもかんだ。規定に従ったものを食べ、また、規定に従わないものも食べた。規定に従ったものを味わい、また、規定に従わないものも味わった。規定に従ったものを飲み、また、規定に従わないものも飲んだ。正時にもかみ、非時にもかんだ。正時にも食べ、非時にも食べた。正時にも味わい、非時にも味わった。正時にも飲み、非時にも飲んだ。例えば、昼の非時に、信がある長者が我々に、絶妙な硬い食べ物と軟らかい食べ物を施すとき、これではまるで、口に栓をするようなものではないか。』
こうして、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、大ワニの恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、大ワニの恐怖とは『飽食』と同義語なのである。
比丘達よ、それでは、渦の恐怖とは何であろうか。
比丘達よ、ここに善男子があって、信によって在家から出家者となった。
『私は、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩にとらえられ、苦にとらえられ、苦に征服された。それならば、私はこのすべての苦蘊の終わりをなすことを了知したいものだ』と。
そして、彼はこのように出家し、早朝に内衣を身に着け、衣鉢を持って、村や町に托鉢【たくはつ】に入る。すなわち、守護されない身によって、守護されない口によって、確立されない念によって、制御されない諸根によって、托鉢するのである。
そこで彼は、五妙欲【ごみょうよく】を満たし、具足し、楽しんでいる、長者あるいは長者の息子を見る。そこで、彼はこう思うのだ。
『我々が以前在家だったとき、五妙欲を満たし、具足し、楽しんだ。家には財産があり、そして財産を享受し、福徳を行なうことができたのだ。』
こうして、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、渦の恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、渦の恐怖とは『五妙欲』と同義語なのである。
比丘達よ、それでは、小ワニの恐怖とは何であろうか。
比丘達よ、ここに善男子があって、信によって在家から出家者となった。
『私は、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩にとらえられ、苦にとらえられ、苦に征服された。それならば、私はこのすべての苦蘊の終わりをなすことを了知したいものだ』と。
そして、彼はこのように出家し、早朝に内衣を身に着け、衣鉢を持って、村や町に托鉢に入る。すなわち、守護されない身によって、守護されない口によって、確立されない念によって、制御されない諸根によって、托鉢するのである。
そこで彼は、服装が乱れ、肌も露【あら】わな女を見る。そして、服装が乱れ、肌も露わな女を見た彼の心は、欲情によって堕落する。
すなわち、欲情によって堕落した心によって、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、小ワニの恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、小ワニの恐怖とは『女』と同義語なのである。
このように、比丘達よ、ある人がこの法と律において、在家から出家者となったとき、これら四つの恐怖が予期されるのである。」
このように仏陀はお説きになった。歓喜した比丘達は、仏陀の説かれた教えを承り、それを実践しようと心から決意した。
【解説】
この経では、出家者にとっての四つの恐怖が説かれている。そして、その四つの恐怖とは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことであるという。もう一度次の部分を見てみよう。
「比丘達よ、水に入る者には、四つの恐怖が予期されるのである。それでは、この四つとは何であろうか。すなわちそれは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことである。比丘達よ、水に入る者には、これら四つの恐怖が予期されるのである。
このように、比丘達よ、ある人がこの法と律において、在家から出家者となったとき、これら四つの恐怖が予期されるのである。それでは、この四つとは何であろうか。すなわちそれは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことである。」
そして、後の詳しい説明の後で、例えば、第一の波の恐怖について、「こうして、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、波の恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、波の恐怖とは『忿悩』と同義語なのである」と説かれている。
このへんは、訳が的確でない部分があるので、解釈を加えなくてはならないだろう。おそらく、もとにしている『南伝大蔵経』自体の書き方に問題があるのだと思う。
これが意味するのは、水に入る者が水に入る前に注意しなくてはならないことなのだ。つまり、出家後に注意しなくてはならないことであって、既にのみ込まれてしまったら終わり、食べられてしまったら終わり、死んでしまう=落ちてしまうよ、という内容なのである。したがって、「恐怖におののいて、修学をやめて下向した」というのではニュアンスが違ってきてしまう。ここのところは気を付けておいていただきたい。
では、四つの恐怖について順に説明していこう。
まず、第一番目の波のたとえ。この波のたとえは何を意味しているかというと、現世的にある程度プライドを満足させていた人が出家して、自分の先輩比丘、オウムでいったらシャモンのレベルを見て馬鹿にしたり、不満を抱いたりする。あるいは、自分自身の現世的な経験と先輩出家者の状態とを比較して、自分より早くから修行している人に対して尊敬の念が持てない。それがゆえに、自己に高ぶり・驕【おご】りが起きて、例えば自分の力で対応できる以上に危険な領域で泳いでしまい、高波にのまれて死んでしまう。すなわち、出家生活から落ちて在家に戻ってしまうのだということを表わしている。
もし、自分にその要素があると思う人は、次のように考えるべきだ。
この世の経験はすべてマーヤ(幻影)である。そして、現世的なものをすべて落として出家しているわけであるから、現世的なものや経験で出家者を評価してはいけない。
現世的なものというのは、今生での教育によって、あるいは環境によって与えられた要因が大きい。しかも、死の瞬間、この世の教育や環境から脱却しなくてはならないのであるから、来世では意味がない。
しかし、内側の経験(霊的な経験)というものは、教育・環境では得られないし、次の生にもそれを持っていける。したがって、出家者にとっては現世的な経験など無意味であり、内側の経験が大切なのであって、内側の経験が進んでいる者に対しては、自分がその道を歩く以上、尊敬の念を抱かなければならないし、また、そういうふうに、自分の現世的な発想から離脱してものを見つめる訓練をすることが、解脱していく道なのである。
第二の大ワニのたとえは、飽食を表わしている。食事についての戒にも、それにはそれなりの意味があるのであるが、それを理解できない出家者がいるわけだ。しかも、戒律にそんなに触れるわけではないから、例えば、食事の戒を破ったからといって破門されるというわけではないから、戒を破りやすい。
ところが、実際に戒を破ってしまうとどうなるかというと、エネルギーが消化に全部使われてしまって、高い世界の経験ができなくなってしまう。要するに、飽食の恐怖、こういうものを理解しないで修行者の生活を続けていると、いずれ落ちてしまいますよ、ということをここでは言っているのである。
落ちる、落ちないというのは、ちょっとした隙【すき】を作るか作らないかで決まってしまうと言っていいだろう。このように、食の戒のような一見危険のない戒律でも、きちんと守らないと、煩悩【ぼんのう】というものはどんどん増大するのである。で、結局は、おいしいものをいつも食べておきたいなどという状態になって、落ちてしまうのである。
この飽食の恐怖というものは、第一に挙げられている波の恐怖と関係していると思う。なぜなら、先輩の修行者に対して尊敬の念があれば、先輩の教える戒律も守れるはずであるし、戒律の意味合いも理解できるだろうからである。
三番目の渦の恐怖は全く別問題で、これは最も危険な要素とも言えよう。五妙欲――つまり、目・耳・鼻・口・触覚から伝わってくる喜び、煩悩をシャットアウトしないと渦に巻き込まれていってしまい、あげくの果てには落ちてしまうということである。
そして、四番目が小ワニの恐怖=女となる。
一番目がアナハタ・チァクラのプライド、二番目がマニプーラ・チァクラの食、三番目がスヴァディスターナ・チァクラを中心とした感覚の貪【むさぼ】りで、これは性欲ともからんでいる。そして四番目になると、完全に性欲となっているところが面白い。これらのチァクラの引っかかりを切らないと、出家修行も続かないし、成就もできませんよ、という示唆である。で、これらの引っかかりが、形状的に波・大ワニ・渦・小ワニとして表わされているのである。波は心の高ぶりや傲慢【ごうまん】さ、大ワニのその過食、渦は感覚に巻き込まれる様子、そして小ワニというのは、動物的な状態の比喩【ひゆ】なのだろう。
さて、このように仏陀釈迦牟尼【しゃかむに】が法を説かれる前の経緯【いきさつ】も大切なところである。
「比丘達よ、漁師が魚を捕るときのように、君達が声高に話したり、大声を出したりしているのは何だ!」
「比丘達よ、行け! ここから去れ! 君達は私の前にいてはならない。」
と、釈迦牟尼自身が新しい五百人の比丘達を帰してしまわれながら、彼らを保護しようとしなかったサーリプッタを注意し、保護しようとしたモッガラーナを誉めている。
これはこういうことなのである。私もたまに、修行者としての素質がないということで、「帰れ」と言うことがあるが、それはあくまでも私の立場で言えることなのである。そのとき、弟子は何をやらなければならないかというと、「あ、これは一つの戒めである」と受け取って、その縁を切ってはいけない。なぜなら、如来の愛の目的というものは、相手を解脱させることだからだ。
ところが、ここでサーリプッタは失敗してしまった。如来が現法楽住の瞑想をされようとしているからと、自分もそれをやろうとしたわけだ。でも、それではいけない。大乗の修行をしているのだから。例えば、釈迦牟尼が「NO」と言われた場合は、その時期が来るまで自分自身が一生懸命フォローして、修行の縁を作ってあげることが必要なのである。
ここでは、七科三十七道品の小乗のプロセスの範囲で釈迦牟尼に絶賛されているサーリプッタが、まだ仏陀、如来でないということの一つの現われだと思う。サーリプッタの戸惑いを感じる経である。だが、やはりサーリプッタとマハーモッガラーナが二大弟子だったことは間違いないようだ。それが釈迦牟尼の、「実に私か、あるいは、サーリプッタ、モッガラーナの二人は、比丘衆を保護しなければならないのである」というお言葉にそれが示されている。
それでは最後に、それぞれの恐怖を超えるポイントを書いておこう。第一の忿悩については先にも触れたが、やはり謙虚さがポイントである。自分より相手の優れているところを見つめる訓練をしていくと、この忿悩がないし、反対に、自分より劣っているところを見つめてしまうと、忿悩が出てきてしまう。また、忿悩は瞋恚【しんに】・嫌悪とつながっているので、そこで心のカルマを積んでしまうということにも注意。
しかし、その道が絶対的な真理であることが確信できていれば起こらない問題であることを考えると、この忿悩が一番のくせものであると言えるかもしれない。
第二番目の飽食に対しては、ひたすら四念処の瞑想をするしかない。これはコン眠【こんみん】とつながっている。五妙欲は掉挙【じょうきょ】・欲貪【よくとん】とつながっている。性欲も同様と言えるだろう。
それらから抜け出るためには、データの入れ換えをするしかない。すなわち、教学をベースに瞑想修行をするということである。そして、それを成功させるには功徳が不可欠であるということを忘れてはならない。功徳が私達の修行を進めるエネルギーとなるのだから。したがって、功徳のない人、足りない人は、まず功徳を積めるように心がけるべきなのである。
一 バドゥムッタラという名の勝者、一切の法における究竟者であるグルは、今から十万カルパの昔に出現なさいました。
二 そのとき、私はハンサヴァティーのある良家にいて、他人の女中でしたが、賢く、戒によって自分を制御していました。
三 仏陀パドゥムッタラの第一弟子であるスジャータは、精舎を出て托鉢【たくはつ】に行きました。
四 そのとき、水汲【みずく】み女の私は水瓶【みずがめ】を持って行きすがら、その方を見て清らかな信心を持ち、自らの手によってスープを施しました。
五 その方はそれを受け取って、そこに座って召し上がってくださいました。その後、その方を家に導いて、食事を施したのです。
六 それにより私の主人は満足し、私を自分の義妹【いもうと】にしてくださいました。そして、義母【はは】と共にお伺いして、等覚者に礼拝をいたしました。
七 そのとき、そのお方は法を説く比丘尼を賞賛され、その第一の位に置かれました。それを聞いて、私はうれしくなりました。
八 善逝、世界のグルをサンガと共にお招きして、大いなる布施を施して、その地位を願い求めました。
九 それにより善逝は、厚みのある、よく響く声でこうおっしゃいました。
「私への奉仕を楽しみ、サンガにも食を施す、
一〇 正法の聴聞に専心し、徳の至る意がある、賢い者よ、喜びなさい。誓願の果を得ることだろう。
一一 今から十万カルパの後に、オッカーカ族の生まれで、ゴータマという名の師が、この世に出現するだろう。
一二 お前は彼の法の中において、法によってつくられた後継ぎの子であって、ダンマディンナーという名の、師の弟子の尼となるだろう。」
一三 それを聞いてうれしくなって、一生涯、偉大なる牟尼、指導者に、優しい心で必需品を奉仕いたしました。
一四 その善をなしたカルマと思願によって、人の身を捨てて、私は三十三天に行きました。
一五 この賢なるカルパにおいては、バラモンの末裔であって、大いなる名声がある、カッサパという名の、論者の中で最も優れた方が出現なさいました。
一六 そのとき、大聖の従者は、バーラーナシーで最高の城にあった人間の主、カーシ王キキーという名の者でした。
一七 私は彼の六女であって、スダンマーとして知られていました。そして、最高の勝者の法を聴いて、出家を希望したのです。
一八 私達の父が許さなかったので、そのとき私達は家で二万年の間勤精進して、
一九 幼い娘としては梵行を行じ、幸福に暮らしていた七人の王女としては、仏陀へのおもてなしを楽しみ、喜んだのです。
二〇 その七人とは、サマニー、サマナグッター、ビックニー、ビッカダーイカー、ダンマー、およびスダンマーと、第七はサンガダーイカーでした。
二一 それは今生では、ケーマー、ウッパラヴァンナーと、パターチャーラーと、クンダラー、ゴータミーと、私、そして第七はヴィサーカーです。
二二 その善をなしたカルマと思願によって、人の身を捨てて、私は三十三天に行きました。
二三 そして今、最後の有では、最高の城ラージャガハの裕福な長者の家に生まれました。その家は裕福で一切の欲がかないました。
二四 容姿と徳とを具え、年頃を迎えたとき、他家に嫁いで幸福に暮らしました。
二五 世間の帰依処のみもとに伺って、説法を聴き、善き覚慧【かくえ】がある私の夫は不還果を体得いたしました。
二六 そのとき、私は許しを得て非家者となり、間もなく阿羅漢の位に到達いたしました。
二七 そのとき、あの優婆塞【うばそく】が私のもとに来て、甚だ深遠で微妙な質問をしました。私はそのすべてに答えたのです。
二八 勝者はその徳に満足なさり、私を法を説く比丘尼の第一の位に置いてくださいました。そして、
「それほどの者は、他に見ない。
二九 法を与えられた者【ダンマディンナー】のように賢明である。比丘達よ、このように記憶しなさい。」
とおっしゃいました。私はグルの身に余る哀れみによって賢者となったのです。
三〇 私は師に帰依し、仏陀の教えを実践し、重荷を捨てて有に導く煩悩をすべて取り除いたのです。
三一 その意義のために、私は在家から出家者となりました。生存の束縛を滅尽する、その意義を、私は体得いたしました。
三二 私は神足と天耳界において自在となり、他心通を知り、師の教えを順守する者となりました。
三三 宿命を知り、天眼は清浄となり、一切の漏を捨てて、清浄でけがれなき者となったのです。
三四 私の諸々の煩悩は焼き尽くされ、有はすべて断じられ、一切の漏は尽き果てて、もはやこの世に転生することはありません。
三五 実に私はよく至れる者です。我が最勝なる仏陀のみもとで、三明は体得され、仏陀の教えは実践されるのです。
三六 四無礙解と、またこれら八解脱と、六通を現証して、仏陀の教えを実践いたします。
――このように、ダンマディンナー比丘尼は、これらの詩句を唱えたのである。
一 バドゥムッタラという名の勝者、一切の法における究竟者であるグルは、今から十万カルパの昔に出現なさいました。
二 そのとき、私はハンサヴァティーの、ある家に生まれ、その最上の方のみもとを訪れて、帰依いたしました。
三 そして、四諦に関連した、微妙で、蜜【みつ】のような、心の寂静と安楽をもたらす、その方の法を聞いたのです。
四 あるとき、勇者、最も優れた方は、粗衣【そい】の比丘尼として、第一の位に置いて、称賛なさいました。
五 比丘尼の徳を聞いて、多くの喜びが生じて、可能な限り仏陀に帰依して、
六 その牟尼に頂礼して、その地位を願い求めました。そのとき、等覚者、グルは、その地位を得ることを喜ばれ、こうおっしゃいました。
七 「今から十万カルパの後に、オッカーカ族の生まれで、ゴータマという名の師が、この世に出現するだろう。
八 お前は法の中において、法によってつくられた後継ぎの子供であって、キサーゴータミーという名の師の弟子の尼となるだろう。」
九 そのとき、それを聞いてうれしくなって、一生涯、勝者、教え導く方に、優しい心で必需品を奉仕いたしました。
一〇 その善をなしたカルマと思願によって、人の身を捨てて、私は三十三天に行きました。
一一 この賢なるカルパにおいては、バラモンの末裔であって、大いなる名声がある、カッサパという名の、論者の中で最も優れた者が出現なさいました。
一二 そのとき、大聖の従者は、最高の城バーラーナシーのカーシ王キキーという名の者でした。
一三 私は彼の第五女であって、ダンマーという名で知られていました。そして、勝者の法を聞いて、出家を希望したのです。
一四 私達の父が許さなかったので、そのとき私達は家の中で二万年の間勤精進して、
一五 幼い娘としては梵行を行じ、幸福に暮らしていた七人の王女としては、仏陀へのおもてなしを楽しみ、喜んだのです。
一六 その七人とは、サマニー、サマナグッター、ビックニー、ビッカダーイカー、ダンマー、およびスダンマーと、第七はサンガダーイカーでした。
一七 それは今生では、ケーマー、ウッパラヴァンナーと、パターチャーラーと、クンダラー、私とダンマディンナーと、第七はヴィサーカーのことです。
一八 その善をなしたカルマと思願によって、人の身を捨てて、私は三十三天に行きました。
一九 そして今、最後の有では、私は困窮した、財産がなく、裕福ではない、商人の家に生まれ、財産がある家に嫁いだのです。
二〇 夫を除いて、残りの人は私を無産者と見ました。そして、子供を産んだときに、すべての人に親切にされました。
二一 その幼く賢い子供は、幸福の中で暮らし、あたかも自らの命のように私に愛されたとき、子供はあの世に行ったのです。
二二 憂いに悩み、言葉も哀れに、目には涙を浮かべ、泣きっ面をして、しかばねを抱いて、私は嘆きながら歩きました。
二三 そのとき、ある人によって同情されて、最上の医者のもとを訪れて、「子供が生き返る薬をお与えください」と言ったのです、友よ。
二四 「死者のない家にあるカラシの実を、そこから持ってきなさい。」
と、教え導く方便に熟達した勝者はおっしゃいました。
二五 それからサーヴァッティーに行きましたが、このような家が見つからなかったので、それではどこでカラシの実を手に入れるのだろうと思い、私は念を得たのです。
二六 しかばねを捨てて、世界のグルのみもとを訪れると、遠くに私を見て、妙なるお声でおっしゃいました。
二七 「生滅を見ることなく百年生きるよりも、一日生きて生滅を見た方がよい。
二八 それは村落の法ではなく、集落の法ではなく、また一家の法でもなく、無常であることは、天を含む一切の世界の法なのだ。」
二九 これらの詩句を聞くや否や、法眼は清められ、法を了知して、それから出家者となりました。
三〇 こうして出家し、勝者の教えに励むうち、程なくして阿羅漢の位を体得いたしました。
三一 私は神足と天耳界において自在となり、他心を知り、師の教えを順守する者となりました。
三二 宿命を知り、天眼は清浄となり、一切の漏を捨てて、清浄でけがれなき者となったのです。
三三 私は師に帰依し、仏陀の教えを実践し、重荷を捨て、有に導く煩悩をすべて取り除いたのです。
三四 その意義のために、私は在家から出家者となりました。生存の束縛を滅尽する、その意義を、私は体得いたしました。
三五 義・法・詞、また、弁における私の智慧は、最勝なる仏陀のみもとで、無垢【むく】、清浄となりました。
三六 ゴミたまりや墓場や道端から、ボロを持ってきて、正装を作って、粗衣を着ました。
三七 勝者は粗衣をまとうその徳に満足なさり、教え導く方は会衆の中で、その第一の位に置いてくださいました。
三八 私の諸々の煩悩は焼き尽くされ、有はすべて断じられ、もはやこの世に転生することはありません。
三九 実に私はよく至れる者です。我が最勝なる仏陀のみもとで、三明は体得され、仏陀の教えは実践されるのです。
四〇 四無礙解と、またこれら八解脱と、六通を現証して、仏陀の教えを実践いたします。
――このように、長老キサーゴータミー比丘尼は、これらの詩句を唱えたのである。