智徳の轍 wisdom and mercy

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神を見るには

2005-04-21 | ☆【経典や聖者の言葉】

 強烈な渇仰の心で主に泣きつくのだ。そうすれば必ず彼を見る。
 人々は妻子のために水差しいっぱいほどの涙を流す。金のためには涙の海を泳ぐ。しかし、誰が神を求めて泣くか。本当に泣いて彼に泣きつきなさい。

(ラーマクリシュナ・パラマハンサ)


三十二 布施(二)

2005-04-21 | ☆【経典や聖者の言葉】



  帰依・慚愧【ざんき】・善なる布施の法、
  これらを善き人は求める。
  これは天の道と言われ、
  これによって天界に赴く。

【解説】
 仏典には、布施というものが天へ導く道の一つとして説かれている。それには三つの布施があり、その第一が、帰依の証【あかし】としての布施である。第二が慚愧、つまり、内側に対して外側に対して、謙虚に生きることを表わすための布施。そして三番目が、「善なる布施の法」、つまり、徳を積むための布施ということである。この三つは、もちろん三つそろっていれば最高だが、その一つ、あるいは二つでも存在すればそれだけ価値があるものである。

むさぼりがあり

2005-04-20 | ☆【経典や聖者の言葉】

 四つの食物なるものがあり、それらが一切の生類の糧として、この世に生じ、この世に住せしめるのである。

 その四つの食物とは、以下の四つである。
①個体・液体の食物
②接触という食物
③表象という食物
④識別という食物

 もしこの四つの食物において、むさぼりがあり、喜びがあり、渇愛があれば、そこに識別が存在し、識別が増長する。
 それによって心の要素-形状-容姿が現われてくる。
 するとそこには、もろもろの経験の構成が増長する。
 するとそれにより、未来において迷いの生存を繰り返すことになる。そして未来において何度も生まれ、老い、死ぬことを繰り返し、不運な出来事、苦しみ、悩みを経験するであろう。

 それは、たとえば、ここに画家があって、様々な絵の具をもって、板や壁や紙や布などに、婦女の姿や男子の姿や、その他もろもろの姿を、ありのままに描き出そうとするようなものなのである。

 しかしもし、この四つの食物において、むさぼることがなく、喜ぶこともなく、渇愛することもなかったならば、そこには識別は存在せず、増長することもない。
 それによって心の要素-形状-容姿が現われてくることもない。
 するとそこには、もろもろの経験の構成が増長することもない。
 するとそれにより、未来において迷いの生存を繰り返すこともない。そして未来において何度も生まれ、老い、死ぬことを繰り返すこともなく、不運な出来事、苦しみ、悩みを経験することもないであろう。

 それは、たとえば、ここに家があり、東向きに窓があり、そこに太陽が昇ったならば、太陽の光は家の中を照らすであろう。
 しかし窓がなかったならば、太陽の光は家の壁を照らすであろう。
 しかし家自体もなく、そこに海があったならば、太陽の光は海を照らすであろう。
 しかし海もなく、大地しかなかったならば、太陽の光はその大地を照らすであろう。
 しかし大地すらそこになかったならば、太陽の光はどこも照らすことはないであろう。
 そのようなものなのである。





 増支部経典八集第四布施品 『マハーヤーナ』No.38より

2005-04-18 | ☆【経典や聖者の言葉】


 今月から、信徒の皆さんに、修行の基本となる「布施」についての経をお届けしようと思う。
 私もこれまで、布施の大切さについては説法の中で繰り返し説いてきたものであるが、その本当の意味での実践となると大変難しい。実際に、信徒の皆さんがどれだけその深い意味合いを理解し、実践できているかとなると、甚だ疑問である。しかし、在家の修行者が功徳を積むためには、何はさておき布施の実践しかない。布施なくして、修行はあり得ないと言っても過言ではない。そして、真に布施の実践をなす修行者には、多大な功徳と恩恵がもたらされるものだ。
 もちろん、出家した者もこの布施の実践に全力で取り組まなければならない。それは今月からご紹介する経典をよく読み、考え、実践していただければ、体験的にその素晴らしさがおわかりいただけることと思う。
 今回取り上げたのは、『増支部経典【ぞうしぶきょうてん】』八集の第四『布施品【ふせぼん】』と、『ジャータカ』から、アナータピンディカ長者の布施について語った『カディラ樹炭火輪廻転生談【じゅすみびりんねてんしょうだん】』の二つである。何度も繰り返し読み、皆さんの修行に役立てていただきたい。
 ところで、経典の中に『分別経【ふんべつきょう】』という経がある。この「分別」という言葉を分析すると、これは正しい分析および正しい理解ということになる。つまり、例えば、『布施分別経』という言葉があるとすると、その布施に対する正しい分析および理解の教えということになる。この分別という意味をしっかり理解していないと、『○○分別経』というタイトルが付いた経を読むとき、その意味合いを見落とすことになってしまう。
 今回取り上げた『布施品』は、その経の名として分別という言葉こそないものの、「八つの布施」の説明にあるとおり、明らかに布施に関する分別である。
 よって、今月号の『南伝大蔵経』の初めにこの言葉を記させていただいた。

三十一 布施(一)
一 ビック達よ、八つの布施がある。それでは、この八つとは何であろうか。
二 すなわちそれは、自発的に布施をすること、恐怖のために布施をすること、「私は施された」と布施をすること、「私は施されるだろう」と布施をすること、「布施は善である」と布施をすること、「私は料理をするが、彼らは料理をしない。しかし、私が料理していて、料理しない者に施さないということはすべきではない」と布施をすること、「私がこの布施をすることによって、良い評判が立つ」と布施をすること、心の装飾品・心の必需品のために布施をすることである。
三 ビック達よ、これらが八つの布施なのである。

【解説】
 これは布施の意味合い、つまり何ゆえに布施をするかということに対して説かれた法である。
 一つずつ説明をすると、第一の「自発的に布施をすること」というのは、もう既に、布施そのものが身に付いていて、考えないで布施をするというパターンである。そして第二、「恐怖のために布施をする」というのは、三悪趣【さんあくしゅ】に落ちないための布施、つまり、高い世界へ生まれ変わるための布施ということである。
 三番目の「『私は施された』と布施をする」とは、例えば法を聴聞したという場合、施されたそのお返しとして布施をするということである。あるいは、この経は、別に僧に対する布施だけを表わしているわけではないから、もっと一般的なケースとして、例えばBさんがAさんから物をもらったときに、BさんがAさんにお返しとして物を贈るといった意味合いもある。そして四番目は、将来において布施をされるだろうから、先に布施をしておく、物をあげておくということである。次の「『布施は善である』と布施をする」とは、布施は功徳になるということによって布施をするということである。
 「『私は料理をするが、彼らは料理をしない……』と布施をする」とは、特にこれは托鉢僧【たくはつそう】に対する布施を意識して書いた内容である。当時、釈迦牟尼【しゃかむに】の弟子達は料理をしてはいけないことになっていたため、だれかが供養しなければならなかった。よって、自分は料理するから供養するんだという考え方である。「『私が布施をすることによって良い評判が立つ』と布施をする」とは、例えば周りの人に「あの人は布施をする人なんだ」という良い評判を立ててもらいたいがために、つまり名誉のために布施をするということである。最後は、「心の装飾品・心の必需品のために布施をする」とあるが、これは心の豊かさを求めるための布施ということである。
 布施には、これだけのパターンがありますよという説明をしているのがこの経である。

天使経 (デーヴァドゥーダ・スッタ)

2005-04-16 | ☆【経典や聖者の言葉】

       『マハーヤーナ』No.29より

 このように私は聞いた。
 あるとき、仏陀【ぶっだ】はサーヴァッティーのジェータ林にあるアナータピンディカの園にとどまっておられた。そのとき、仏陀は諸々の比丘【びく】に、こうお告げになった。
「諸々の比丘よ」と。
「仏陀よ」と、彼ら諸々の比丘は、仏陀にお答え申し上げた。そこで、仏陀は次のようにお説きになった。
「諸々の比丘よ、たとえるならば、門がある二つの家があって、そこに眼ある人がその中央に立ち、人々が家に入ったり、出たり、訪れたり、去っていくのを見るようなものである。あたかもこのように、諸々の比丘よ、私もまた清浄で常人を超えた天眼【てんげん】によって、諸々の衆生【しゅじょう】が死んで生まれ、卑しかったり貴かったり、美しかったり醜かったり、善趣【ぜんしゅ】であったり悪趣【あくしゅ】であったりするのを見て、諸々の衆生がそのカルマに従って赴くのを見るのだ。
『諸賢よ、これら諸々の衆生は、まさに身において善行を具足し、口…(中略)…心において善行を具足し、諸々の聖者をそしることなく、正見を抱き、正見のカルマを積んだ。そのため、彼らはその身が壊れ、命が終わった後、善趣である、天界に生まれた。そしてまた、諸賢よ、これら諸々の衆生は身において善行を具足し、口…(中略)…心において善行を具足し、諸々の聖者をそしることなく、正見を抱き、正見のカルマを積んだ。そのため、彼らはその身が壊れ、命が終わった後、人間界に生まれた。
 諸賢よ、これら諸々の衆生は、まさに身において悪行を具足し、口…(中略)…心において悪行を具足し、諸々の聖者をそしり、邪見を抱き、邪見のカルマを積んだ。そのため、彼らはその身が壊れ、命が終わった後、餓鬼界【がきかい】に生まれた。そしてまた、諸賢よ、これら諸々の衆生は身において悪行を具足し、口…(中略)…心において悪行を具足し、諸々の聖者をそしり、邪見を抱き、邪見のカルマを積んだ。そのため、彼らはその身が壊れ、命が終わった後、動物界に生まれた。さらにまた、諸賢よ、これら諸々の衆生は身において悪行を具足し、……彼らはその身が壊れ、命が終わった後、幸福のない所であり、悪趣であり、険しく危ない所である、地獄に生まれた』と。
 諸々の比丘よ、その彼を獄卒【ごくそつ】達は多くの腕の中に捕らえて、閻魔王【えんまおう】に示すのである。
『この者は、王よ、慈しみの心がなく、沙門【しゃもん】のようでもなく、婆羅門【ばらもん】のようでもなく、家では長者に対して恭敬する心がないのです。王よ、さあ彼に笞【むち】をお与えください。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は第一の天使について尋問し、検討し、教えとがめるのである。
『おい、男よ、お前は人間界において、第一の天使が出現したのを見なかったのか。』
 彼は次のように言った。
『王よ、一度も見ていません。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、お前は人間界において、幼い赤ん坊がただ仰向けになって、自らの糞尿【ふんにょう】にまみれて横たわっているのを見なかったのか。』
 彼は次のように言った。
『王よ、見ました。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、知ることもでき、考えることもできる、成人したお前には、このような思いが浮かばなかったのか。――私もまた実際に生という法のもとにあり、生を超越してはいないのだ。さあ、私は身口意【しんくい】において善をなそう、と。』
 彼は次のように言った。
『王よ、私はできなかったのです。王よ、私は放逸だったのです。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、放逸であったがために、お前は身口意において善行をなさなかったのだ。おい、男よ、まさにお前はお前が放逸であったように、懲らしめられるであろう。そして、実際にお前のこのような悪業は、母親がなしたことでもなく、父親がなしたことでもなく、兄弟がなしたことでもなく、姉妹がなしたことでもなく、友人がなしたことでもなく、親類がなしたことでもなく、沙門や婆羅門がなしたことでもなく、神々がなしたことでもないのだ。この悪業はお前自身がなしたことなのだ。お前自らその報いを受けるがいい』と。
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は第一の天使について尋問し、検討し、教えとがめ終わって、第二の天使について尋問し、検討し、教えとがめるのである。
『おい、男よ、お前は人間界において、第二の天使が出現したのを見なかったのか。』
 彼は次のように言った。
『王よ、一度も見ておりません。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、お前は人間界において、女や男が、生まれて八十あるいは九十あるいは百歳となり、年老いて、腰は梁【はり】のように曲がり、杖【つえ】にもたれ、体を震わせて歩き、病気がちで生気を失い、歯は抜け、髪は白くなり、あるいは髪が生えなくなり、頭は禿【は】げ、肌には皺【しわ】が寄り、染みが浮かび、手足が衰えているのを見なかったのか。』
 彼は次のように言った。
『王よ、見ました。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、知ることもでき、考えることもできる、成人したお前には、このような思いが浮かばなかったのか。――私もまた実際に老いるという法のもとにあり、老いを超越してはいないのだ。さあ、私は身口意において善をなそう、と。』
 彼は次のように言った。
『王よ、私はできなかったのです。王よ、私は放逸だったのです。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、放逸であったがために、お前は身口意において善行をなさなかったのだ。おい、男よ、まさにお前はお前が放逸であったように、懲らしめられるであろう。そして、実際にお前のこのような悪業は、母親がなしたことでもなく、父親がなしたことでもなく、兄弟がなしたことでもなく、姉妹がなしたことでもなく、友人がなしたことでもなく、親類がなしたことでもなく、沙門や婆羅門がなしたことでもなく、神々がなしたことでもないのだ。この悪業はお前自身がなしたことなのだ。お前自らその報いを受けるがいい』と。
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は第二の天使について尋問し、検討し、教えとがめ終わって、第三の天使について尋問し、検討し、教えとがめるのである。
『おい、男よ、お前は人間界において、第三の天使が出現したのを見なかったのか。』
 彼は次のように言った。
『王よ、一度も見ておりません。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、お前は人間界において、女や男が、病気になり、疾患にかかり、ひどい重病になり、自らの糞尿にまみれて横たわり、他の人々によって起こしてもらい、他の人々によって寝かせてもらうのを見なかったのか。』
 彼は次のように言った。
『王よ、見ました。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、知ることもでき、考えることもできる、成人したお前には、このような思いが浮かばなかったのか。――私もまた実際に病という法のもとにあり、病を超越してはいないのだ。さあ、私は身口意において善をなそう、と。』
 彼は次のように言った。
『王よ、私はできなかったのです。王よ、私は放逸だったのです。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、放逸であったがために、お前は身口意において善行をなさなかったのだ。おい、男よ、まさにお前はお前が放逸であったように、懲らしめられるであろう。そして、実際にお前のこのような悪業は、母親がなしたことでもなく、父親がなしたことでもなく、兄弟がなしたことでもなく、姉妹がなしたことでもなく、友人がなしたことでもなく、親類がなしたことでもなく、沙門や婆羅門がなしたことでもなく、神々がなしたことでもないのだ。この悪業はお前自身がなしたことなのだ。お前自らその報いを受けるがいい』と。
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は第三の天使について尋問し、検討し、教えとがめ終わって、第四の天使について尋問し、検討し、教えとがめるのである。
『おい、男よ、お前は人間界において、第四の天使が出現したのを見なかったのか。』
 彼は次のように言った。
『王よ、一度も見ておりません。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、お前は人間界において、諸々の王が盗賊や犯罪者を捕らえて、様々の刑罰を加えること、すなわち、杖【つえ】で打ったり、鞭【むち】で打ったり、棒で殴ったり、手を切ったり、足を切ったり、手足を切ったり、耳を切ったり、鼻を切ったり、耳と鼻を切ったり、粥鍋【かゆなべ】で煮たり、頭髪を抜き取ったり、口を切り開いたり、灯火【ともしび】の冠をつけたり、手に火をつけたり、蛇の皮を剥【は】ぐように皮膚を剥ぎ取ったり、剥いだ皮膚を髪に結んだり、カモシカのように手足を縛ってつるしたり、肉に釘を打ち込んだり、切れ切れに切断したり、アルカリ水を注いだり、鉄棒を貫き回したり、藁【わら】の敷物のように打ちつけたり、熱した油を注いだり、犬に噛【か】ませたり、生きながらにして串刺【くしざ】しにしたり、刀で頭を切ったりという、このような刑罰を見なかったのか。』
 彼は次のように言った。
『王よ、見ました。』
 閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、知ることもでき、考えることもできる、成人したお前には、このような思いが浮かばなかったのか。――本当に、諸々の悪業をなす者、彼らは現世においてすら、このような類いの様々な刑罰が加えられるのだ。ましてや来世に至っては、どうなることであろう。さあ、私は身口意において善をなそう、と。』
 彼は次のように言った。
『王よ、私はできなかったのです。王よ、私は放逸だったのです。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、放逸であったがために、お前は身口意において善行をなさなかったのだ。おい、男よ、まさにお前はお前が放逸であったように、懲らしめられるであろう。そして、実際にお前のこのような悪業は、母親がなしたことでもなく、父親がなしたことでもなく……神々がなしたことでもないのだ。この悪業はお前自身がなしたことなのだ。お前自らその報いを受けるがいい』と。
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は第四の天使について尋問し、検討し、教えとがめ終わって、第五の天使について尋問し、検討し、教えとがめるのである。
『おい、男よ、お前は人間界において、第五の天使が出現したのを見なかったのか。』
 彼は次のように言った。
『王よ、一度も見ておりません。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、お前は人間界において、女や男が、死んで一日あるいは二日あるいは三日もすると、水ぶくれになり、青黒くなり、膿【うみ】とただれが生じるのを見なかったのか。』
 彼は次のように言った。
『王よ、見ました。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、知ることもでき、考えることもできる、成人したお前には、このような思いが浮かばなかったのか。――私もまた実際に死という法のもとにあり、死を超越してはいないのだ。さあ、私は身口意において善をなそう、と。』
 彼は次のように言った。
『王よ、私はできなかったのです。王よ、私は放逸だったのです。』
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように言った。
『おい、男よ、放逸であったがために、お前は身口意において善行をなさなかったのだ。おい、男よ、まさにお前はお前が放逸であったように、懲らしめられるであろう。そして、実際にお前のこのような悪業は、母親がなしたことでもなく、父親がなしたことでもなく……神々がなしたことでもないのだ。この悪業はお前自身がなしたことなのだ。お前自らその報いを受けるがいい』と。
 その彼に、諸々の比丘よ、閻魔王は第五の天使について尋問し、検討し、教えとがめ終わって、沈黙したのである。
 その彼に、諸々の比丘よ、諸々の獄卒は五種連【ごしゅれん】という名の刑罰を行なうのである。まず、赤く熱した鉄の杭【くい】を手に刺し、赤く熱した鉄の杭をもう一方の手に刺し、赤く熱した鉄の杭を足に刺し、赤く熱した鉄の杭をもう一方の足に刺し、赤く熱した鉄の杭を胸の真ん中に刺す。彼はそのとき、非常に激しい苦痛を受ける。しかもその悪業が尽きない限りは、その間彼は命が終わることはないのだ。また、その彼を、諸々の比丘よ、諸々の獄卒は連れていって斧【おの】で切る。彼はそのとき、非常に激しい苦痛を受ける…(中略)…また、その彼を、諸々の比丘よ、諸々の獄卒は足を上にし、頭を下に置いて、鋭い斧でそがせる。彼はそのとき、非常に激しい苦痛を受ける…(中略)…また、その彼を、諸々の比丘よ、諸々の獄卒は車のくびきに付けて、熱く焼け燃えている地上を行ったり来たりさせる。彼はそのとき、非常に激しい苦痛を受ける…(中略)…また、その彼を、諸々の比丘よ、諸々の獄卒は熱く焼け燃えている大きな炭火の山を登ったり降りたりさせる。彼はそのとき…(中略)…また、その彼を、諸々の比丘よ、諸々の獄卒は足を上にして捕まえて、赤く熱し焼け燃えている銅の釜【かま】の中に投げ入れる。そして、彼はそこでぐつぐつ煮られる。彼はそこでぐつぐつ煮られて、上に行ったり、下に行ったり、横に行ったりする。彼はそこで非常に激しい苦痛を受ける。しかもその悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。
 また、その彼を、諸々の比丘よ、諸々の獄卒は大地獄の中に投げ入れるのである。諸々の比丘よ、そしてその大地獄は、
  四隅があり、四つの門があって、
  同じ大きさに区分され、
  鉄の壁に囲まれ、
  鉄で覆われている。
  その鉄でできた大地は
  燃え盛る炎に敷きつめられ、
  上下四方はあまねく百ヨージャナの広がりがあって、
  常に存続している。
 そして、諸々の比丘よ、その大地獄の東の壁で炎が燃え上がり、西の壁に突き当たる。西の壁で炎が燃え上がり、東の壁に突き当たる。北の壁で炎が燃え上がり、南の壁に突き当たる。南の壁で炎が燃え上がり、北の壁に突き当たる。下で炎が燃え上がり、上に突き当たる。上で炎が燃え上がり、下に突き当たる。彼はそこで非常に激しい苦痛を受ける。しかもその悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。
 諸々の比丘よ、長い時が経過する間のいつかには、その大地獄の東の門が開かれる時がある。そこで、彼はそこに向かって全速力で走っていく。全速力で走っていくために、皮も焼かれ、肌も焼かれ、肉も焼かれ、筋も焼かれ、骨も焦がされる。実際に、このような騒乱があるのだ。そして、諸々の比丘よ、ようやく彼がたどり着くと、そのとき、その門は閉ざされてしまうのである。彼はそこで非常に激しい苦痛を受ける。しかもその悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。
 諸々の比丘よ、長い時が経過する間のいつかには、その大地獄の西の門が開かれる時がある。…(中略)…北の門が開かれる時がある。…(中略)…南の門が開かれる時がある。そこで、彼は全速力で走っていく。彼は全速力で走っていくために、彼は焼かれ……その門は閉ざされてしまうのである。彼はそこで非常に激しい苦痛を受ける。しかもその悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。
 諸々の比丘よ、長い時が経過する間のいつかには、その大地獄の東の門が開かれる時がある。そこで、彼は全速力でそこに向かって走っていく……このような騒乱があるのだ。
 そして、彼はその門から出る。
 しかし、諸々の比丘よ、その大地獄にほとんど接するようにして、巨大な糞尿地獄がそろって存在している。彼はそこに落ちる。そして、諸々の比丘よ、その糞尿地獄には針の口を持つ生き物がいて、皮を破る。皮を破り終わると肌を破る。肌を破り終わると肉を破る。肉を破り終わると筋を破る。筋を破り終わると骨を破る。骨を破り終わると骨の髄を食らうのである。彼はそのとき、非常に激しい苦痛を受ける。けれども、その悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。
 そして、諸々の比丘よ、その糞尿地獄にほとんど接するようにして、巨大な熱灰【ねっかい】地獄がそろって存在している。彼はそこに落ちる。彼はそこで非常に激しい苦痛を受ける。けれども、その悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。
 そして、諸々の比丘よ、その熱灰地獄にほとんど接するようにして、一ヨージャナの高さにそびえ、指十六本分の長さのトゲを持った、熱く焼け燃えている巨大な針の木の林がそろって存在している。諸々の獄卒は、彼にそこを登ったり降りたりさせるのである。彼はそこで非常に激しい苦痛を受ける。けれども、その悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。
 そして、諸々の比丘よ、その針の木の林にほとんど接するようにして、巨大な剣の葉の林がそろって存在している。彼はそこに陥る。様々な風に吹き動かされた葉は、彼の手を破り、足を破り、手足を破り、耳を破り、鼻を破り、耳と鼻を破るのである。彼はそこで非常に激しい苦痛を受ける。けれども、その悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。
 そして、諸々の比丘よ、その剣の葉の林にほとんど接するようにして、巨大な灰河【かいが】地獄がそろって存在している。彼はそこに落ちる。彼はそこで流れを下って運ばれ、流れをさかのぼって運ばれ、流れを上下して運ばれるのである。彼はそこで非常に激しい苦痛を受ける。けれども、その悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。
 その彼を、諸々の比丘よ、諸々の獄卒は釣針を使って引き上げ、陸地に立たせて、次のように言った。
『おい、男よ、お前は何か欲しいものはあるか。』
 彼は次のように言った。
『すみません、私はお腹がすいております。』
 その彼を、諸々の比丘よ、諸々の獄卒は熱く焼け燃えていて灼熱した金鋏【かなばさみ】で口を開き、熱く焼け燃えていて灼熱【しゃくねつ】した鉄丸【てつがん】を口に投げ込むのだ。それは、彼の唇をも焼き、口をも焼き、喉【のど】をも焼き、胸をも焼き、大腸と小腸とを持ち去って、下部から出るのである。彼はそのとき、非常に激しい苦痛を受ける。けれども、その悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。
 その彼に、諸々の比丘よ、諸々の獄卒は次のように言った。
『おい、男よ、お前は何か欲しいものはあるか。』
 彼は次のように言った。
『すみません、私は喉が渇いております。』
 その彼を、諸々の比丘よ、諸々の獄卒は熱く焼け燃えていて灼熱した金鋏で口を開き、熱く焼け燃えていて熱く煮えたぎる銅を口に注ぐのだ。それは、彼の唇をも焼き、口をも焼き、喉をも焼き、胸をも焼き、大腸と小腸とを持ち去って、下部から出るのである。彼はそのとき、非常に激しい苦痛を受ける。けれども、その悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。
 その彼を、諸々の比丘よ、諸々の獄卒はもう一度大地獄に投げ入れるのである。
 昔、諸々の比丘よ、閻魔王は次のように考えたのだ。
『実際に、世間において諸々の悪業を行なう者、彼らはこのような類いの様々な刑罰を受けるのである。ああ、私は本当に、人間界に生まれたいものだ。そして、如来【にょらい】・応供【おうぐ】・等正覚者【とうしょうがくしゃ】が、その世にいらしていただきたいものだ。そこで、私はその仏陀を礼拝するだろう。そして、仏陀は私に法をお説きになるだろう。そうすれば、私はその仏陀の法を証知することができるのである』と。
 そして、諸々の比丘よ、私はこれを、他の沙門や婆羅門に聞いて語るのではないのだ。すなわち、私自らが知り、自らが見、自らが認めたもの、このようなものを単に私は説いているのである。」
 このように仏陀はお説きになった。こう説き終わってから、このとき、尊師・善逝【ぜんぜい】はさらにお説きになった。
  諸々の天使によって刺激されても、
  放逸である諸々の青年達
  彼らは長い間、憂い悲しむ。
  彼ら卑しい身分を受けた人々は。
  しかしおよそ諸々の天使によって
  ここに諸々の賢者達が
  刺激されて、ほんの少しも
  正法において放逸にならず、
  取において恐れを見て、
  生と死との生因において
  取なくして解脱【げだつ】し、
  生と死とが滅すれば、
  彼らは安穏を得て快楽がある。
  現世において勝涅槃【しょうねはん】し、
  一切の怨恨【えんこん】と恐怖を越え、
  一切の苦を超越し去る。

わたしの寿命は熟した

2005-04-13 | ☆【経典や聖者の言葉】
四六 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはヴェーサーリーのゴータマカ神殿にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ神殿は楽しい。ゴータマカ神殿は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはヴェーサーリーのサッタンバ神殿にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ神殿は楽しい。ゴータマカ神殿は楽しい。サッタンバ神殿は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはヴェーサーリーのバフプッタ神殿にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ神殿は楽しい。ゴータマカ神殿は楽しい。サッタンバ神殿は楽しい。バフプッタ神殿は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはヴェーサーリーのサーランダダ神殿にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ神殿は楽しい。ゴータマカ神殿は楽しい。サッタンバ神殿は楽しい。バフプッタ神殿は楽しい。サーランダダ神殿は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
四七 アーナンダよ、今日、チャーパーラ神殿において、このわたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ神殿は楽しい。ゴータマカ神殿は楽しい。サッタンバ神殿は楽しい。バフプッタ神殿は楽しい。サーランダダ神殿は楽しい。チャーパーラ神殿は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
四八 アーナンダよ、わたしは前もって、このように宣言したではないか。
『愛しいもの、喜ばしいものといえども、すべては別のものであり、離別するものであり、変化するものである』と。
 アーナンダよ、どうしてここでそれが得られようか。それは、生まれ、成長し、集積し、崩壊する法であって、『ああ、それが崩壊しませんように』という、その道理は存在しないのだ。アーナンダよ、しかし、それは真理勝者によって、見切りをつけられ、放棄され、解脱し、捨断【しゃだん】され、拒絶されたものであり、寿命の構成要素は解放されたのである。真理勝者は、明白に言葉を語った。
『程なくして、真理勝者の完全煩悩破壊があるだろう。今から三カ月過ぎた後、真理勝者は完全煩悩破壊するであろう』と。
 真理勝者が、生命のために、この言葉を取り消すという、その道理は存在しないのである。
 さあ、アーナンダよ、大林にある重閣講堂【じゅうかくこうどう】を訪れよう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは覚者にお応え申し上げた。
四九 そして、覚者は長老アーナンダと共に、大林にある重閣講堂に赴かれたのである。赴くと、長老アーナンダにこうお告げになった。
「アーナンダよ、行きなさい。ヴェーサーリーの近くにとどまっている向煩悩滅尽多学男たちすべてを、奉仕堂に集めなさい。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは尊師にお応えし、ヴェーサーリーの近くにとどまっている向煩悩滅尽多学男たちすべてを、奉仕堂に集め、覚者がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、覚者を礼拝して、傍らに立った。傍らに立って、長老アーナンダは覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、向煩悩滅尽多学男出家教団が集まりました。尊師よ、今や覚者がちょうどよいとお考えになる時でございます。」
五〇 そこで、覚者は奉仕堂に赴かれた。赴くと、設けられた座にお座りになった。座られてから、覚者は向煩悩滅尽多学男たちに、こうお告げになった。
「向煩悩滅尽多学男たちよ、わたしは法を証智して、君たちに教え示した。したがって、君たちはよく学んで、実践し、修習し、真面目に行ないなさい。それは、神聖行を長続きさせ、久しくとどまらせるためにあり、多くの人々の利益のため、多くの人々の幸福のため、この世への慈悲のため、神々と人々の福利と利益と幸福のためにあるのだ。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、それでは、わたしが証智して君たちに教え示し、君たちがよく学んで、実践し、修習し、真面目に行なうべき法、また、神聖行を長続きさせ、久しくとどまらせるためにあり、多くの人々の利益のため、多くの人々の幸福のため、この世への慈悲のため、神々と人々の福利と利益と幸福のためにあるという法、その法とは何であろうか。
 すなわちそれは、四つの記憶修習述【きおくしゅじゅうじゅつ】・二正断二正勤【にしょうだんにしょうごん】・四つの如意の基礎・五つの潜在性・五つの能力・七つの覚醒段階【かくせいだんかい】・聖なる八段階の道のことである。
 向煩悩滅尽多学男たちよ、これらが、わたしが証智して君たちに教え示し、君たちがよく学んで、実践し、修習し、真面目に行なうべき法なのであり、また、神聖行を長続きさせ、久しくとどまらせるためにあり、多くの人々の利益のため、多くの人々の幸福のため、この世への慈悲のため、神々と人々の福利と利益と幸福のためにあるという法なのである。」
五一 また、覚者は向煩悩滅尽多学男たちに、こうお告げになった。
「さあ、向煩悩滅尽多学男たちよ、わたしは今、君たちに告げよう。諸々の構成要素は滅亡の法である。不放逸【ふほういつ】によって目的を達成しなさい。程なくして、真理勝者の完全煩悩破壊があるだろう。今から三カ月過ぎた後、真理勝者は完全煩悩破壊するであろう。」
 このように覚者はお説きになった。そして、このように説いた後、世間解【せけんげ】である尊師は、さらに次のようにお説きになった。

  わたしの寿命は熟した。
  わたしの生涯はもうわずか。
  君たちを捨断して行こう。
  わたしは自己を帰依処【きえしょ】となした。
  不放逸に記憶修習して、
  善き戒を持て、向煩悩滅尽多学男たちよ。
  思惟【しい】によって、よくサマディに入り、
  自らの心を保護せよ。
  この法と律において、
  不放逸にとどまる者は、
  出生の輪廻【りんね】を捨断して、
  苦の終極をなすであろう。

そこでも、わたしはこう告げたのだ

2005-04-13 | ☆【経典や聖者の言葉】
四一 アーナンダよ、あるとき、このわたしはラージャガハのギッジャクータ山にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ラージャガハは楽しい。ギッジャクータ山は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
四二 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはラージャガハのニグローダ樹の園にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ラージャガハは楽しい。ギッジャクータ山は楽しい。ニグローダ樹の園は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはラージャガハの盗賊の絶壁にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ラージャガハは楽しい。ギッジャクータ山は楽しい。ニグローダ樹の園は楽しい。盗賊の絶壁は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはラージャガハのヴェーダーラの山腹にある七葉洞窟【しちようどうくつ】にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ラージャガハは楽しい。ギッジャクータ山は楽しい。ニグローダ樹の園は楽しい。盗賊の絶壁は楽しい。ヴェーダーラの山腹にある七葉洞窟は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはラージャガハの聖者飲みの山腹にある黒石にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ラージャガハは楽しい。ギッジャクータ山は楽しい。ニグローダ樹の園は楽しい。盗賊の絶壁は楽しい。ヴェーダーラの山腹にある七葉洞窟は楽しい。聖者飲みの山腹にある黒石は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはラージャガハの寒林にある蛇の酔いどれの傾斜にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ラージャガハは楽しい。ギッジャクータ山は楽しい。ニグローダ樹の園は楽しい。盗賊の絶壁は楽しい。ヴェーダーラの山腹にある七葉洞窟は楽しい。聖者飲みの山腹にある黒石は楽しい。寒林にある蛇の酔いどれの傾斜は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはラージャガハの温泉の園にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ラージャガハは楽しい。ギッジャクータ山は楽しい。ニグローダ樹の園は楽しい。盗賊の絶壁は楽しい。ヴェーダーラの山腹にある七葉洞窟は楽しい。聖者飲みの山腹にある黒石は楽しい。寒林にある蛇の酔いどれの傾斜は楽しい。温泉の園は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはラージャガハの竹林にあるリス飼養所にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ラージャガハは楽しい。ギッジャクータ山は楽しい。ニグローダ樹の園は楽しい。盗賊の絶壁は楽しい。ヴェーダーラの山腹にある七葉洞窟は楽しい。聖者飲みの山腹にある黒石は楽しい。寒林にある蛇の酔いどれの傾斜は楽しい。温泉の園は楽しい。竹林にあるリス飼養所は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはラージャガハのジーヴァカのマンゴー林にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ラージャガハは楽しい。ギッジャクータ山は楽しい。ニグローダ樹の園は楽しい。盗賊の絶壁は楽しい。ヴェーダーラの山腹にある七葉洞窟は楽しい。聖者飲みの山腹にある黒石は楽しい。寒林にある蛇の酔いどれの傾斜は楽しい。温泉の園は楽しい。竹林にあるリス飼養所は楽しい。ジーヴァカのマンゴー林は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはラージャガハのマッダクッチにあるミガダーヤにとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
四三 『アーナンダよ、ラージャガハは楽しい。ギッジャクータ山は楽しい。ニグローダ樹の園は楽しい。盗賊の絶壁は楽しい。ヴェーダーラの山腹にある七葉洞窟は楽しい。聖者飲みの山腹にある黒石は楽しい。寒林にある蛇の酔いどれの傾斜は楽しい。温泉の園は楽しい。竹林にあるリス飼養所は楽しい。ジーヴァカのマンゴー林は楽しい。マッダクッチにあるミガダーヤは楽しい。
四四 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。
四五 アーナンダよ、またあるとき、このわたしはヴェーサーリーのウデーナ神殿にとどまっていた。アーナンダよ、そこでも、わたしはこう告げたのだ。
『アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ神殿は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。
 アーナンダよ、このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。

対象の識別

2005-04-12 | ☆【経典や聖者の言葉】
 そうだ。対象の識別だ。考えてもみよ。――金や、美しい肉体の内部に何があるか。
 識別をすれば、美しい異性の肉体さえ、骨や脂やその他の不愉快なものでできているのがわかるだろう。なぜ、神を捨ててそんなものに注意を向けなければならないのだ? なぜそれらのために、神を忘れなければならないのか。



アーナンダの罪

2005-04-12 | ☆【経典や聖者の言葉】
三三 アーナンダよ、八離解脱【はちりげだつ】がある。それでは、八つとは何であろうか。
 形状-容姿を有する者が、形状-容姿を見る。これが第一離解脱である。
 内に形状-容姿の認知がない者が、外に形状-容姿を見る。これが第二離解脱である。
 美しさに対して没頭している。これが第三離解脱である。
 完全に形状-容姿の認知を超越し、嫌悪の認知を全滅し、様々な認知を作意【さい】しないことから、『空間は無辺である』という空間無辺境【くうかんむへんきょう】を具足【ぐそく】してとどまる。これが第四離解脱である。
 完全に空間無辺境を超越し、『識別は無辺である』という識別無辺境【しきべつむへんきょう】を具足してとどまる。これが第五離解脱である。
 完全に識別無辺境を超越し、『何ものもあることはない』という無所有境【むしょゆうきょう】を具足してとどまる。これが第六離解脱である。
 完全に無所有境を超越し、非認知非非認知境【ひにんちひひにんちきょう】を具足してとどまる。これが第七離解脱である。
 完全に非認知非非認知境を超越し、認知経験滅尽【にんちけいけんめつじん】を具足してとどまる。これが第八離解脱である。
 アーナンダよ、これらが八離解脱なのである。
三四 アーナンダよ、あるとき、このわたしはウルヴェーラーのネーランジャラー河のほとりにある、アジャパーラ・ニグローダ樹にとどまっていた。
 アーナンダよ、そのとき、悪しき破滅天はわたしの所を訪れたのだ。訪れると、傍らに立った。アーナンダよ、傍らに立った悪しき破滅天は、わたしにこう言った。
『尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです』と。
三五 アーナンダよ、このように言われたとき、わたしは悪しき破滅天にこう言ったのだ。
『悪しき者よ、わたしの多学の弟子である向煩悩滅尽多学男たちが、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう。
 悪しき者よ、わたしの女の多学の弟子である向煩悩滅尽多学女たちが、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう。
 悪しき者よ、わたしの多学の弟子である帰依信男たちが、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう。
 悪しき者よ、わたしの女の多学の弟子である帰依信女たちが、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう。
 悪しき者よ、わたしのこの神聖行が豊かになり、繁栄し、広大になり、多くの人々に広まり、人々によく知られるようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう』と。
三六 アーナンダよ、今日またチャーパーラ神殿において、悪しき破滅天はわたしの所を訪れたのだ。訪れると、傍らに立った。アーナンダよ、傍らに立った悪しき破滅天は、わたしにこう言った。
『尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです。かつて覚者は、この言葉をお説きになりました。
「悪しき者よ、わたしの多学の弟子である向煩悩滅尽多学男たちが、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう」と。
 尊師よ、しかし、今や覚者の多学の弟子である向煩悩滅尽多学男たちは、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すのです。
 尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです。かつて覚者は、この言葉をお説きになりました。
「悪しき者よ、わたしの女の多学の弟子である向煩悩滅尽多学女たちが、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう」と。
 尊師よ、しかし、今や覚者の女の多学の弟子である向煩悩滅尽多学女たちは、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すのです。
 尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです。かつて覚者は、この言葉をお説きになりました。
「悪しき者よ、わたしの多学の弟子である帰依信男たちが、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう」と。
 尊師よ、しかし、今や覚者の多学の弟子である帰依信男たちは、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すのです。
 尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです。かつて覚者は、この言葉をお説きになりました。
「悪しき者よ、わたしの女の多学の弟子である帰依信女たちが、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう」と。
 尊師よ、しかし、今や覚者の女の多学の弟子である帰依信女たちは、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すのです。
 尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです。かつて覚者は、この言葉をお説きになりました。
「悪しき者よ、わたしのこの神聖行が豊かになり、繁栄し、広大になり、多くの人々に広まり、人々によく知られるようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう」と。
 尊師よ、しかし、今や覚者の神聖行は豊かになり、繁栄し、広大になり、多くの人々に広まり、人々によく知られております。
 尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです』と。
三七 アーナンダよ、このように言われたとき、わたしは悪しき破滅天にこう言ったのだ。
『悪しき者よ、あなたは静まるがよい。程なくして、真理勝者の完全煩悩破壊があるだろう。今から三カ月過ぎた後、真理勝者は完全煩悩破壊するであろう』と。
 アーナンダよ、今日チャーパーラ神殿において、真理勝者は記憶修習し正智して、寿命の構成要素を捨てたのである。」
三八 このようにお説きになったとき、長老アーナンダは覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために。」
「やめよ、アーナンダよ。今、真理勝者に祈願してはならない。アーナンダよ、今は真理勝者に祈願する時ではない。」
三九 再び、長老アーナンダは覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために。」
「やめよ、アーナンダよ。今、真理勝者に祈願してはならない。アーナンダよ、今は真理勝者に祈願する時ではない。」
 三たび、長老アーナンダは覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために。」
「アーナンダよ、お前は真理勝者の覚醒【かくせい】を信じるであろうか。」
「はい、尊師よ。」
「アーナンダよ、それならば、なぜお前は真理勝者を三回も押しとどめるんだ?」
四〇 「尊師よ、わたしはそれを覚者に相対してお伺いし、相対してお受けいたしました。
『アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである』と。」
「アーナンダよ、お前は信じるであろうか。」
「はい、尊師よ。」
「アーナンダよ、それならば、これはお前の罪である。これはお前の過失である。このように、真理勝者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、お前は洞察できず、真理勝者に祈願することはなかったのだ。
『尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために』と。
 アーナンダよ、もしお前が真理勝者に祈願するならば、二回までは、真理勝者はその言葉を拒むが、三回目は受け入れるであろう。アーナンダよ、したがって、これはお前の罪である。これはお前の過失である。

唯一の実体

2005-04-12 | ☆【経典や聖者の言葉】
 唯一の、永遠にして、はじめも終わりもない、完全なる絶対なる神の叡智が存在する。
 そのほかには、真実なる実体は一つもない。

 この世に存在する雑多のものがらは、感覚器官という限定的付加条件によって、かの唯一なる完全なる絶対なる神の叡智から、顕現したものに他ならない。


八勝境

2005-04-11 | ☆【経典や聖者の言葉】
二四 アーナンダよ、八勝境【はっしょうきょう】がある。それでは、八つとは何であろうか。
二五 ある人が、内に形状-容姿の認知があり、外に形状-容姿が好み・嫌悪することを少し見る。それらに打ち勝ち、『わたしは知り、わたしは見る』という、このような認知を持つ者がいる。これが第一勝境である。
二六 ある人が、内に形状-容姿の認知があり、外に形状-容姿が好み・嫌悪することを無量に見る。それらに打ち勝ち、『わたしは知り、わたしは見る』という、このような認知を持つ者がいる。これが第二勝境である。
二七 ある人が、内に形状-容姿の認知がなく、外に形状-容姿が好み・嫌悪することを少し見る。それらに打ち勝ち、『わたしは知り、わたしは見る』という、このような認知を持つ者がいる。これが第三勝境である。
二八 ある人が、内に形状-容姿の認知がなく、外に形状-容姿が好み・嫌悪することを無量に見る。それらに打ち勝ち、『わたしは知り、わたしは見る』という、このような認知を持つ者がいる。これが第四勝境である。
二九 ある人が、内に形状-容姿の認知がなく、外に形状-容姿が青く、青い色彩で、青く現われ、青く輝くことを見る。たとえるならば、ウンマーの花が、青く、青い色彩で、青く現われ、青く輝くようなもので、またたとえるならば、両面が滑らかなバーラーナシー産の衣服が、青く、青い色彩で、青く現われ、青く輝くようなものである。このように、ある人が、内に形状-容姿の認知がなく、外に形状-容姿が青く、青い色彩で、青く現われ、青く輝くことを見る。それらに打ち勝ち、『わたしは知り、わたしは見る』という、このような認知を持つ者がいる。これが第五勝境である。
三〇 ある人が、内に形状-容姿の認知がなく、外に形状-容姿が黄色く、黄色い色彩で、黄色く現われ、黄色く輝くことを見る。たとえるならば、カニカーラの花が、黄色く、黄色い色彩で、黄色く現われ、黄色く輝くようなもので、またたとえるならば、両面が滑らかなバーラーナシー産の衣服が、黄色く、黄色い色彩で、黄色く現われ、黄色く輝くようなものである。このように、ある人が、内に形状-容姿の認知がなく、外に形状-容姿が黄色く、黄色い色彩で、黄色く現われ、黄色く輝くことを見る。それらに打ち勝ち、『わたしは知り、わたしは見る』という、このような認知を持つ者がいる。これが第六勝境である。
三一 ある人が、内に形状-容姿の認知がなく、外に形状-容姿が赤く、赤い色彩で、赤く現われ、赤く輝くことを見る。たとえるならば、バンドゥジーヴァカの花が、赤く、赤い色彩で、赤く現われ、赤く輝くようなもので、またたとえるならば、両面が滑らかなバーラーナシー産の衣服が、赤く、赤い色彩で、赤く現われ、赤く輝くようなものである。このように、ある人が、内に形状-容姿の認知がなく、外に形状-容姿が赤く、赤い色彩で、赤く現われ、赤く輝くことを見る。それらに打ち勝ち、『わたしは知り、わたしは見る』という、このような認知を持つ者がいる。これが第七勝境である。
三二 ある人が、内に形状-容姿の認知がなく、外に形状-容姿が白く、白い色彩で、白く現われ、白く輝くことを見る。たとえるならば、治療の星が、白く、白い色彩で、白く現われ、白く輝くようなもので、またたとえるならば、両面が滑らかなバーラーナシー産の衣服が、白く、白い色彩で、白く現われ、白く輝くようなものである。このように、ある人が、内に形状-容姿の認知がなく、外に形状-容姿が白く、白い色彩で、白く現われ、白く輝くことを見る。それらに打ち勝ち、『わたしは知り、わたしは見る』という、このような認知を持つ者がいる。これが第八勝境である。
 アーナンダよ、これらが八勝境なのである。

八つの集団

2005-04-10 | ☆【経典や聖者の言葉】
二一 アーナンダよ、八つの集団がある。それでは、八つとは何であろうか。
 すなわちそれは、武人集団・祭司集団・長者集団・出家修行者集団・四大王天【しだいおうてん】集団・三十三天集団・破滅天集団・神聖天集団のことである。
二二 アーナンダよ、わたしは数百の武人集団を訪れ、そこでわたしと共に、かつて集まり、かつて語り、かつて会話がなされたことを証智する。そのとき、彼らの色彩はすべてわたしの色彩であり、彼らの声はすべてわたしの声であった。そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばせた。しかし、彼らはそれを説いているわたしを知らなかったのである。
『この説いているお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばして、姿を消した。しかし、彼らは姿を消したわたしを知らなかったのである。
『この姿を消したお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
二三 アーナンダよ、また、わたしは数百の祭司集団を訪れ、そこでわたしと共に、かつて集まり、かつて語り、かつて会話がなされたことを証智する。そのとき、彼らの色彩はすべてわたしの色彩であり、彼らの声はすべてわたしの声であった。そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばせた。しかし、彼らはそれを説いているわたしを知らなかったのである。
『この説いているお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばして、姿を消した。しかし、彼らは姿を消したわたしを知らなかったのである。
『この姿を消したお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 アーナンダよ、また、わたしは数百の長者集団を訪れ、そこでわたしと共に、かつて集まり、かつて語り、かつて会話がなされたことを証智する。そのとき、彼らの色彩はすべてわたしの色彩であり、彼らの声はすべてわたしの声であった。そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばせた。しかし、彼らはそれを説いているわたしを知らなかったのである。
『この説いているお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばして、姿を消した。しかし、彼らは姿を消したわたしを知らなかったのである。
『この姿を消したお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 アーナンダよ、また、わたしは数百の出家修行者集団を訪れ、そこでわたしと共に、かつて集まり、かつて語り、かつて会話がなされたことを証智する。そのとき、彼らの色彩はすべてわたしの色彩であり、彼らの声はすべてわたしの声であった。そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばせた。しかし、彼らはそれを説いているわたしを知らなかったのである。
『この説いているお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばして、姿を消した。しかし、彼らは姿を消したわたしを知らなかったのである。
『この姿を消したお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 アーナンダよ、また、わたしは数百の四大王天集団を訪れ、そこでわたしと共に、かつて集まり、かつて語り、かつて会話がなされたことを証智する。そのとき、彼らの色彩はすべてわたしの色彩であり、彼らの声はすべてわたしの声であった。そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばせた。しかし、彼らはそれを説いているわたしを知らなかったのである。
『この説いているお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばして、姿を消した。しかし、彼らは姿を消したわたしを知らなかったのである。
『この姿を消したお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 アーナンダよ、また、わたしは数百の三十三天集団を訪れ、そこでわたしと共に、かつて集まり、かつて語り、かつて会話がなされたことを証智する。そのとき、彼らの色彩はすべてわたしの色彩であり、彼らの声はすべてわたしの声であった。そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばせた。しかし、彼らはそれを説いているわたしを知らなかったのである。
『この説いているお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばして、姿を消した。しかし、彼らは姿を消したわたしを知らなかったのである。
『この姿を消したお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 アーナンダよ、また、わたしは数百の破滅天集団を訪れ、そこでわたしと共に、かつて集まり、かつて語り、かつて会話がなされたことを証智する。そのとき、彼らの色彩はすべてわたしの色彩であり、彼らの声はすべてわたしの声であった。そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばせた。しかし、彼らはそれを説いているわたしを知らなかったのである。
『この説いているお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばして、姿を消した。しかし、彼らは姿を消したわたしを知らなかったのである。
『この姿を消したお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 アーナンダよ、また、わたしは数百の神聖天集団を訪れ、そこでわたしと共に、かつて集まり、かつて語り、かつて会話がなされたことを証智する。そのとき、彼らの色彩はすべてわたしの色彩であり、彼らの声はすべてわたしの声であった。そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばせた。しかし、彼らはそれを説いているわたしを知らなかったのである。
『この説いているお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 そして、法話によって、教え示し、鼓舞し、感動させ、喜ばして、姿を消した。しかし、彼らは姿を消したわたしを知らなかったのである。
『この姿を消したお方は、だれだろうか。神だろうか、人間だろうか』と。
 アーナンダよ、これらが八つの集団なのである。

大いなる地震の出現

2005-04-09 | ☆【経典や聖者の言葉】

一一 そして、長老アーナンダには、このような思いが生じた。
「ああ、不思議なことだ、友よ。ああ、驚くべきことだ、友よ。この地震は実に大きく、この地震は実に巨大で、人々は恐怖し、身の毛がよだつ思いがし、そして、神の太鼓は破裂した。大いなる地震の出現には、どのような原因とどのような条件があるのだろうか。」
一二 そこで、長老アーナンダは覚者がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、覚者を礼拝して傍らに座った。傍らに座って、長老アーナンダは覚者にこう申し上げた。
「不思議なことです、尊師よ。驚くべきことです、尊師よ。尊師よ、この地震は実に大きく、この地震は実に巨大で、尊師よ、人々は恐怖し、身の毛がよだつ思いがし、そして、神の太鼓は破裂しました。尊師よ、大いなる地震の出現には、どのような原因とどのような条件があるのでしょうか。」
一三 「アーナンダよ、大いなる地震の出現には、実に八つの原因と八つの条件があるのだ。それでは、八つとは何であろうか。
 アーナンダよ、この大地は水に立脚し、水は風に立脚し、風は空間に存在する。アーナンダよ、大風が吹くとき、大風が吹くことによって水は震動し、水が震動することによって地は震動する。これが、大いなる地震の出現における、第一の原因であり、第一の条件なのである。
一四 次にまた、アーナンダよ、如意を持ち、人の心を統御する力がある出家修行者や祭司、あるいは、大いなる如意と大いなる威神力【いしんりき】がある神がいて、わずかな地の認知を修習し、無量の水の認知を修習した。彼はこの地を動かし、揺らし、震わし、震動させる。これが、大いなる地震の出現における、第二の原因であり、第二の条件なのである。
一五 次にまた、アーナンダよ、到達真智運命魂【とうたつしんちうんめいこん】が、除冷淡天【じょれいたんてん】からその身を没して、記憶修習し正智して母胎に入るとき、この地は動き、揺れ、震動する。これが、大いなる地震の出現における、第三の原因であり、第三の条件なのである。
一六 次にまた、アーナンダよ、到達真智運命魂が、記憶修習し正智して母胎から出るとき、この地は動き、揺れ、震え、震動する。これが、大いなる地震の出現における、第四の原因であり、第四の条件なのである。
一七 次にまた、アーナンダよ、真理勝者が無上の最上正覚を現正覚【げんしょうかく】するとき、この地は動き、揺れ、震え、震動する。これが、大いなる地震の出現における、第五の原因であり、第五の条件なのである。
一八 次にまた、アーナンダよ、真理勝者が無上の法輪【ほうりん】を転がすとき、この地は動き、揺れ、震え、震動する。これが、大いなる地震の出現における、第六の原因であり、第六の条件なのである。
一九 次にまた、アーナンダよ、真理勝者が記憶修習し正智して、寿命の構成要素を捨てるとき、この地は動き、揺れ、震え、震動する。これが、大いなる地震の出現における、第七の原因であり、第七の条件なのである。
二〇 次にまた、アーナンダよ、真理勝者が存在の繋縛【けばく】がない煩悩破壊界において、完全煩悩破壊するとき、この地は動き、揺れ、震え、震動する。これが、大いなる地震の出現における、第八の原因であり、第八の条件なのである。
 アーナンダよ、大いなる地震の出現には、実にこれらの八つの原因と八つの条件があるのだ。

一カルパ余りでも

2005-04-09 | ☆【経典や聖者の言葉】
◇第三誦品

一 そこで、覚者【かくしゃ】は朝方、内衣を着け、衣鉢【いはつ】を持って、ヴェーサーリーに托鉢【たくはつ】に入られた。そして、ヴェーサーリーで托鉢をし、食べ終わって托鉢から戻り、長老アーナンダにこうお告げになった。
「アーナンダよ、坐具【ざぐ】を持ちなさい。昼の休息に、チャーパーラ神殿を訪れよう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは覚者に応え、坐具を持って、覚者の後ろにしっかりとお従いした。
二 そして、覚者はチャーパーラ神殿に赴かれた。赴くと、設けられた座にお座りになった。長老アーナンダも、覚者を礼拝して傍らに座った。傍らに座った長老アーナンダに、覚者はこうおっしゃった。
「アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ神殿は楽しい。ゴータマカ神殿は楽しい。サッタンバ神殿は楽しい。バフプッタ神殿は楽しい。サーランダダ神殿は楽しい。チャーパーラ神殿は楽しい。
三 アーナンダよ、四つの如意【にょい】の基礎を修習【しゅじゅう】し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者【しんりしょうしゃ】は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである。」
四 このように、覚者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、長老アーナンダは洞察できず、覚者に祈願することはなかった。
「尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝【さいじょうぜんぜい】は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために」と。
 それは、破滅天【はめつてん】が心にまとわり付いていたからである。
五 再び、覚者は長老アーナンダに、こうお告げになった。
「アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ神殿は楽しい。ゴータマカ神殿は楽しい。サッタンバ神殿は楽しい。バフプッタ神殿は楽しい。サーランダダ神殿は楽しい。チャーパーラ神殿は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである。」
 このように、覚者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、長老アーナンダは洞察できず、覚者に祈願することはなかった。
「尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために」と。
 それは、破滅天が心にまとわりついていたからである。
 三たび、覚者は長老アーナンダに、こうお告げになった。
「アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ神殿は楽しい。ゴータマカ神殿は楽しい。サッタンバ神殿は楽しい。バフプッタ神殿は楽しい。サーランダダ神殿は楽しい。チャーパーラ神殿は楽しい。
 アーナンダよ、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した者は、もし望むならば、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのだ。
 アーナンダよ、真理勝者は、四つの如意の基礎を修習し、真面目に行ない、進めることを行ない、骨子を行ない、経験し、吟味し、よく着手した。アーナンダよ、したがって、もし望むならば、真理勝者は、一カルパでも、一カルパ余りでもとどまることができるのである。」
 このように、覚者によって大いなる前兆がなされ、大いなる光輝がなされたとき、長老アーナンダは洞察できず、覚者に祈願することはなかった。
「尊師よ、覚者は一カルパおとどまりください。最上善逝は一カルパおとどまりください。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、この世への慈悲のために、神々と人々の福利と利益と幸福のために」と。
 それは、破滅天が心にまとわりついていたからである。
六 そこで、覚者は長老アーナンダに、こうお告げになった。
「行きなさい、アーナンダよ。今やあなたがちょうどよいと考える時です。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは覚者にお応えし、座を立って、覚者を礼拝し、右回りの礼をして、ある近くの樹下に座った。
七 長老アーナンダが去ってから間もなくして、悪しき破滅天は覚者がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、傍らに立った。傍らに立った悪しき破滅天は、覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊【かんぜんぼんのうはかい】なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです。かつて覚者は、この言葉をお説きになりました。
『悪しき者よ、わたしの多学の弟子である向煩悩滅尽多学男【こうぼんのうめつじんたがくなん】たちが、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏【ごうぶく】して、奇跡を伴った法を教え示すようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう』と。
八 尊師よ、しかし、今や覚者の多学の弟子である向煩悩滅尽多学男たちは、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すのです。
 尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです。かつて覚者は、この言葉をお説きになりました。
『悪しき者よ、わたしの女の多学の弟子である向煩悩滅尽多学女【こうぼんのうめつじんたがくにょ】たちが、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう』と。
 尊師よ、しかし、今や覚者の女の多学の弟子である向煩悩滅尽多学女たちは、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すのです。
 尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです。かつて覚者は、この言葉をお説きになりました。
『悪しき者よ、わたしの多学の弟子である帰依信男【きえしんなん】たちが、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう』と。
 尊師よ、しかし、今や覚者の多学の弟子である帰依信男たちは、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すのです。
 尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです。かつて覚者は、この言葉をお説きになりました。
『悪しき者よ、わたしの女の多学の弟子である帰依信女【きえしんにょ】たちが、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう』と。
 尊師よ、しかし、今や覚者の女の多学の弟子である帰依信女たちは、聡明で、熟達して、恐れなき者となり、多学であり、法を記憶実践する者であり、真理の法にのっとり法の実践を行ない、正法にのっとり日々を送り、真理を背景として日々を送り、自らの師に学んで、説き示し、教え示し、明言し、確立し、開き示し、分別し、明らかにし、他との論争が生じたならば、法に従って大いに降伏して、奇跡を伴った法を教え示すのです。
 尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです。かつて覚者は、この言葉をお説きになりました。
『悪しき者よ、わたしのこの神聖行【しんせいぎょう】が豊かになり、繁栄し、広大になり、多くの人々に広まり、人々によく知られるようなことがない限りは、わたしは完全煩悩破壊しないであろう』と。
 尊師よ、しかし、今や覚者の神聖行は豊かになり、繁栄し、広大になり、多くの人々に広まり、人々によく知られております。
 尊師よ、覚者は今、完全煩悩破壊なさいませ。最上善逝は完全煩悩破壊なさいませ。尊師よ、今こそ覚者が完全煩悩破壊する時なのです。」
九 このように言われたとき、覚者は悪しき破滅天にこうおっしゃった。
「悪しき者よ、あなたは静まるがよい。程なくして、真理勝者の完全煩悩破壊があるだろう。今から三カ月過ぎた後、真理勝者は完全煩悩破壊するであろう。」
一〇 そこで、覚者はチャーパーラ神殿において、記憶修習し正智して、寿命の構成要素を捨てられたのである。そして、覚者が寿命の構成要素を捨てられたとき、大いなる地震があった。人々は恐怖し、身の毛がよだつ思いがし、そして、神の太鼓は破裂した。そこで、覚者はこの意義を知り、そのとき、この狂喜句【きょうきく】を唱えられたのである。

  量り、また量れない起源、
  生存の構成要素を神賢【しんけん】は捨てた。
  内側で楽しみ、サマディに入り、
  鎧【よろい】のような自らの生を破壊した。

十の能力

2005-04-05 | ☆【経典や聖者の言葉】

 私はすでに十の能力を具足し、何のおそるるところもなく、牛王として衆生の中で獅子吼し、法則の車輪を回して、衆生を済度するのである。
 かくのごとく、私によって法則はよく説かれ、明らかに開顕され、あますところなく説示されたのである。
 かくのごとく、私によってよく説かれ、明らかに開顕され、余すところなく説示された法則は、良家の子にとって、信によって出家し、精進して行ずるに値する。
 たとえその身の皮膚や筋肉や骨はしぼみ、血や肉は枯渇しても、なおその気力の存在する限りは、人間の力量、気力、努力を掻き立てて行ずるに値するものである。
 それはなぜであろうか。かわいそうに、怠惰なる者は、依然として苦しみに住し、悪不善のことに没入し、その失う利は、はなはだ大きい。それに反して、精進なる者は、幸いなるかな、よく楽に住し、悪不善のことを離れ、その得るところの利は、はなはだ大きいのである。
 劣ったものによって最高のものは得られない。最高のものによって最高のものは得られるのである。汝らの師は、汝らの面前において、この聖なる修行を最高のものと言っている。では、まだ得ていないものを得、達していないものに達し、証していないものを証するがために、精進するがよい。
 そのように、この我らの出家はむなしからず、実り多く、報いは少なくないものである。だから、たとえそれによって、我らが与えられるもの、衣服・飲食・臥具・薬品等の資具は卑しいものであろうとも、それらは、まことは、我らにとって大利あり、大果あるものであろう。
 汝らはまさにこのように学ぶがよい。
 もしも自分のためになると認めるならば、それは精進に値するものである。
 もしも他人のためになると認めるならば、それは精進に値するものである。
 もしも自他のためになると認めるならば、それは精進に値するものなのである。


(相応部経典)