智徳の轍 wisdom and mercy

                  各種お問い合わせはbodhicarya@goo.jpまで。

中観による視点の教え

2008-06-02 | ☆【経典や聖者の言葉】




 心を考察し、浄化した後、個我の欠如に気づき、この重要な洞察の確信を持つとき、「我」は部分の集まりとなる。
 いまだ知られざるものを考察し、条件づけられたものと絶対なるものを識別せよ。
 経験の各形態を分析していくと、これが「これ」と呼ばれ、あれは「あれ」と呼ばれることを知る。
 
 
 いつまでも様々な形に固執して、実体を見いだそうとしても、何も見つからない。
 
 無を構成する非常に細やかな微粒子や、「これ以上分割する事のできない二元性」を、乗り越えていくとき、相互依存性の場が現われ、現象的実在と心の空想的虚構が、共に存在することを知る。
 
 
 現象的実在と空想的虚構を、共に考察すべきものとして注目し、鋭い洞察力で厳密に調べていくと、基体も根源も、何も見いだすことができない。
 
 つまり無である。
 
 現象とは、幻や夢、水に映った月、こだま、蜃気楼、二重視、陽炎のごとしである。
 幻の本質を考察していくと、現象は空であり、空は現象化する事が解る。


 これが明確な究極の存在である。
 しかし、けがれのない洞察で得られた、この認識に対する確信と幻として見る視点は、まだ、形の魅力に縛られている。
 
 概念によって取り込まれた、心地よい睡眠の中に落ち入っていくとき、概念化を離れた存在の本性は、知られることがない。
 
 
 幻に対する確信が起こり、妄想の魅惑的な形跡に集中し、それらをじっくりと思索し考察していくと、これら対象に実体は何も存在しない。
 
 その時、外的内的像の流れはとぎれることなく続くが、固執すべき心など存在しないことを知り、安らぎ、本来の自由の中に超脱する。
 このように寂静がなされる。


 この根元的超脱の状態の中で、原初の方より不生で、なにものにもさまたげられることがなく、心の流れの中に織り込まれ、主体と客体から離れている全ての事象は、一なる領域において相等しい。
 
 「ある」「ない」という断定をすることなく、表現できない意味の中に、ただ疑いの余地のない体験が横たわっている。
 
 
 超越的であり、全てに浸透している究極の存在は、あらゆる経験をも、あるがままとして、それ自らを知る霊妙なる智性、また、精神統一の無分別智によって、捉えることができる。
 禅定とは常に、空性と相互依存性の双入に他ならず、中観に熟達した指導者の確信によって、二つの道は一つとなる。
 
 
 心の対象化過程から解き放つ、この内在的無分別智を、速やかに生じさせたいならば、マントラヤーナの教えにしたがって修行せよ。
 
 中観の修行では、まず、浄化の行をした後、段階的に体験を深めていき、この究極的最頂点にたどりつくことができる。
 
 
 ある男がのどの渇きを覚えるとき、水を思考するだけでは渇きを癒すことはできず、ただ、水を飲むことによってのみ、渇きを癒すことができる。
 
 つまり、情報は経験とは異なるものである。
 単なる客観的知識である情報を求めるような、無駄な探求に時間を費やすよりは、すばやく静寂へと導く、禅定体験を深めるべきである。


分析修習の輪

2008-06-02 | ☆【経典や聖者の言葉】


 人生における過ちと不満は、自らの激しい煩悩による。
 煩悩の原因は統制されない心にあり、鋭い作意によって再び正しい状態に戻さなければならない。
 
 
 特に欲情をおこす対象を観想し、五つからなる構成体に識別せよ。
 まずは、身体より分析することからはじめよ。


 肉、血、骨、骨髄、脂肪、内蔵、四肢、感覚器官、大便、小便、寄生虫、体毛、爪など、身体の不浄なる部分を識別せよ。
 
 
 これらの部分を構成要素や感覚領域にまで分類し、類別せよ。
 次に、それらをこれ以上分割することができない微粒子にまで分解し、分析せよ。
 
 
 執着が起ころうが起こるまいが、ただ不浄なるものの集合に過ぎないものと、この身体をみよ。
 身体は汚い組織、管と汚物の塊、また、ぶくぶくした泡のごとしと念ずるべし。
 
 
 この洞察の流れが止んだとき、感覚、表象、経験の構成、識別の、それぞれの本質に対しても、細かく分解し、分析せよ。
 
 
 泡や蜃気楼、芭蕉、魔法の幻影のごとしと、対象をみるとき、それらに対する欲望は起こらないであろう。
 つまり、欲望が消え去るまで、洞察の流れを保っておくこと。
 
 
 欲望が消え去れば、その対象への考察をやめ、他の像へ次々と移り、それを試すこと。
 このようにして、誤認された知覚のすべては、実体のない構成体であると解る。
 
 
 これらの実体のない構成体に注目し、ただ瞬時に消滅するものとして、立ち起こる現象をみることが、正しい黙照といえる。
 
 
 生じたものはついには滅する。
 過去だけでなく現在と未来の世界も、必然的に消滅することに、気づくべきである。
 条件づけられた存在こそが、苦しみの原因であると知れ。
 
 
 いかなる生き物も突然に、孤独に、死ぬため、生まれてくる。
 世間のいかなる形態も、うつろいゆくことを理解したとき、存在の織りなす無常をみる。
 
 
 つまり、いかなる形態が存在しようと、黙照という心の力によって、存在の無常が感得される。
 
 
 いかなる欲望の対象が形成されようとも、稲妻の光、泡、雲のように、揺らめくものと観、その欲望が消え去るまで、この洞察の流れを保っておくこと。
 
 
 その後、この多くの部分よりなる集積に対し、苦しみの実相、あるいは、必ず次の苦しみとなるであろう快楽が、はかない刹那的状態にあることを観よ。
 人類すべての苦しみと、その基盤である心身の仕組みが、いかに大きいかを黙照せよ。
 
 
 心身は本質的な欠陥を有するが故に、複雑に絡み合う苦しみの堕落から逃れられる可能性は、針一本の隙間さえもない。
 
 
 故に、心身は苦しみの源、不浄なる道、燃え盛る激苦地獄、共食いの島であるといわれる。
 これが消え去るまで、この洞察にできる限りとどまるよう。
 
 
 苦しみを捉える最後の洞察としては、「我」をあらしめていると思うものに対しても、はかない塊として、この集積を分析し、自己を空性なるものとして捉えよ。
 
 
 滝や雨が降るように、また、空き家のように観て、それが消え去るまで、この確信の状態にとどまれ。
 
 
 この認識が薄らぐ時には、先のように段階的に試みよ。
 前の修行を忘れてしまったときには、一つの対象について様々な分析をするように。
 
 
 何度も繰り返しこの意味を考察するために、時には他者の心身構造を観、時には自身の心身構造を調べ、時にはすべての条件づけられた存在を考察せよ。
 
 
 このようにして、すべての執着は滅する。
 要するに、全ての思考を捨て去り、多、無常、苦しみ、空性の考察という、この四つの分析修習の輪を、常に転ずるべし。
 
 
 多少、分析らしきことが巧みになっても、様々な対象をハッキリと知るまでは、猛威を振るう草原の炎のごとく、絶え間ない分析修習の完成に努めること。
 
 
 あらゆる前生の間に、ゆがめられ、ハッキリとせず、散漫としたこの「我」は、白昼夢と誤解の傾向によって作られた。
 この妄想は落ちつきによって、再び元に戻されなければならない。
 
 
 散漫な気が衰え、はからいが静まり、いかなる煩悩も心の中に起こることのない時、心の静寂の中でくつろぐ。
 
 
 精神活動が再発したら、前のような分析を続けよ。
 常に対象を明確に思い起こし、曇りなく知る認識力を保ち続けよ。
 
 
 忘れやすくなり、煩悩が起こるときこそ、敵に対する剣として、分析を試みよ。
 
 
 暗闇の中に射し込む光のように、注意深い考察の修行は、有害な欲情の痕跡さえ、跡形もなく滅しさる。
 
 
 不完全性を理解し、条件づけられた存在の真相を、深く観るほどに、絶対的な安らぎと、遥か彼方まで透き通るほどの清浄さを、知ることであろう。
 
 
 自他の心身や、条件づけられた存在の、多、無常、苦しみ、空性を、絶え間なき反復を通して、認識せよ。
 
 
 労することなく、心は完全な理解力によって満たされる。
 視覚は幻であると知れば、欲望の源は静められる。
 
 
 欲望という破壊者より解き放たれ、心は静まり、晴れやかとなる。
 自己を制した清らかさに触れるとき、平和な静寂のサマディが成し遂げられる。
 
 
 サマディは鋭い洞察力を呼び起こす。
 これは三乗に共通する、道の入り口である。


 相互依存性として起こり、幻のごとくすべての事象は、本来、不生。
 本質は空。
 実体的基盤は何も存在しない。
 それは、一もしくは多などという、相対性から離れている。
 
 
 如来蔵である、相対性のない絶対的領域。
 それを悟るならば、生と死の返際を越えて、大いなる無住処煩悩破壊に到達する。


 最上なる清浄と至福は、大いなる無為と呼ばれる。
 それは大いなる我の特性であり、無上のパーラミター、奥深き核心である。
 
 
 マハーヨーガ、アヌヨーガ、アティヨーガの、タントラにおいて、先天的に備わる大楽の境地は、自然に生ずる智慧によって開かれる。
 ここにいたりて、全ての教えがきわまる。
 
 
 ブッダの具現であるグルの導きにしたがい、ゾクチェンの自然なる解脱の伝統において、大乗の顕教と密教の両方に、共通する前行として修行する。
 
 
 この妙観察なる最勝道により、条件付けの当惑から退くことができる。最初に分析の功徳によって、欲情反応はもはや起こらなくなる。
 次に、心身の空性を確信することにより、三界に対する全ての欲望は滅せられる。
 
 
 徐々に、全ての迷いの痕跡は、空性の静寂の中に消え去り、なにものをも望むことなく、「我」や「我がもの」という全ての執着から、遠く離れ去る。


 なにものにも固執することなく、慈悲を抱き、恐れることなく、法界の大空を飛ぶ鳥のごとく、人生を飛翔する仏子は、法雲地へとたどりつく。


 尊い伝統の教えでは、止観の前行である、心の分析浄化は、三乗の道において極めて重要なものである、と説かれている。
 
 
 心の分析浄化の考察を、繰り返すほどに、煩悩は小さくなり、ほんの僅かな欲望にも、気づくことができるようになる。
 
 
 徹底的考察は平静さを容易にする。
 火によって練金された黄金が、柔らかく順応性に富むように、欲望から解き放たれた心も、そのようなものとなる。

 
 ブッダ曰く、大乗の教えをまとめた詩じゅの吟唱は、八万四千の法門を悟ることに等しい。
 この教えの意味をよく反復していくと、百千万の経典も要訣は皆同じであることに気づく。
 それゆえ行者は、修行に専念することにより、奥深く広大な智慧の蔵を、労することなく手に入れ、速やかに解脱へと導かれていく。
 
 
 この論釈の善と、解放がもたらす甘露の力を持って、末法の世で苦しむ一切の生命体が、安らぎの境地に達せられますように。